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No.16「鑑賞」のはなし
2026-03-28 54:41

No.16「鑑賞」のはなし

No.16 鑑賞のはなし

文化施設に飾ってある裸婦の銅像と
ムチムチプリンプリンロリロリの萌え萌えアニメで町おこし
いわゆる「アニメツーリズム」と一体何が違うんですか?
なにをもって、裸を芸術とするのでしょう?

言葉につまってしまった宮澤が
そもそも「鑑賞」ってなんだろう?
ということから考えます

社会に芸術を接着する
まさに「ボンド」な問いは
もしかしたら「文化行政」や「文化政策」に大いに関係がありそうですね

批評⇒社会的意義⇒経済
ではなく
経済⇒社会的意義⇒批評

芸術作品に触れ、文化に変えていく順序の逆転現象はこの現代社会の「ある一面」を端的に表しているように思えます。

そんな話。
ぜひ一緒に考えましょう。

#アニメツーリズム #観光 #鑑賞 #感性 #品位
#芸術 #芸術と社会
---
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00:00
名古屋演劇鑑賞会は、1954年に、
名古屋を演劇文化都市にしようという思いから誕生しました。
以来、72年、名古屋の地で数多くの舞台を見続けてきました。
私たちは、親しみを込めて、「名演」と呼んでいます。
今、社会は目まぐるしく変化しています。
スマートフォンひとつで、映画も音楽も楽しめ、情報はあふれ、
人と直接会わなくても暮らせる時代です。
便利になった一方で、誰かと同じ空間で同じ時間を過ごす体験は、
ますます貴重なものになっています。
演劇は、その数少ない場のひとつです。
同じ客席で、息深いを感じながら、笑い、考え、心を揺さぶられる。
そして、終演後に感想を語り合う。
その時間は、デジタルでは決して変わりがききません。
名演は、長い歴史を持つ鑑賞会ですが、完成された組織ではありません。
これからも、参加する一人一人と共に作っていく場です。
演劇をきっかけに、世代を超えて語り合い、
社会のことも身近な悩みも安心して話せる。
そんな大切な公共の場を育てていきたいと考えています。
共に芝居を見て、語り合い、より豊かな毎日を送りませんか。
ただいま、会員募集中です。
一般社団法人 名古屋演劇館紹介
一般社団法人 名古屋演劇館紹介はですね、
次回の例会は、6月1日月曜日と6月2日の
劇団全身座の参賞代優・説教節よりという例会が決まっているようです。
03:00
能にあらず、歌舞伎にもあらず、それは説教節ということです。
劇団全身座の一つのロングラン作品というか、
代表作の一つだと思いますけれども、
全身座の皆さんの独特のセリフ術というか、
特有の全身座でしかできない芝居ってやっぱりありますよね。
それの一本だと思います。
これは楽しみですね。
名古屋演劇館紹介の方からもCM出稿していただいてますので、
ぜひですね、というわけではないですが、
ぜひ名古屋演劇館紹介の会員になりまして、
3人以上のサークルを作って入会いたしましてから、
名古屋で参賞代優を楽しみましょうということでございます。
というわけで参りましょう。
芸術法人シアターボンドのラジオNo.16 鑑賞の話
この配信は20年以上民間劇場で働き、
劇場が閉館したのをきっかけに、
劇場のことなら何でもプロデュースする会社に転職した私が、
そもそも論であれこれ考えて話すラジオです。
そもそも芸術法人という法人格がないのっておかしくね。
というわけで勝手に作ってみました。
芸術法人シアターボンド。
この空想が現実になるその日まで、
法人代表宮沢の配信ラジオをどなたさまもよろしくご引きに。
この番組は、
鶴岡市民劇場、
藤枝市民劇場、
一般社団法人名古屋演劇館紹介、
加藤圭一事務所、
東京演劇アンサンブルの提供でお送りいたします。
加藤圭一事務所、2026年の公演ラインナップは、
フラワーリングチェリー、夢見るチェリー、
4月15日から23日、
下北沢温田劇場にて、
チケット発売は3月の1日、
続いてジンゲーム、6月の11日から14日、
木の国屋サザンシアター高島屋、
その後、6月から7月、
演劇館小団体、静岡県ブロック、東北ブロック、
06:05
6月27日、京都不律、不眠ホール、アルピー、
7月の20日、岩田市民文化会館、カタリア、
7月の25、26日は、コープシアター大阪、
東京公演チケット発売は5月の10日です。
その後、ダブルゲーム、12月の10日から20日、
下北沢温田劇場にて、チケット発売予定は
10月の25日を予定しており、各公演の詳しい内容は、
加藤健一事務所のホームページ、もしくは各種SNSにて、
今年も加藤健一事務所から目が離せない。
ここからのお時間は、鑑賞についてというお話にさせていただきますが、
先ほどもちょっと言いましたけれどもですね、
私ちょっと最近ショックなことがありましてですね、
同じ話に2回しちゃいますけど勘弁してくださいね、すみません。
ある立場の、ある方からですね、
まちおこし、というか地域おこし、まちづくりというお話の中で、
あるアニメをベースにまちおこしをしていきたいというね、
そのアニメとのコラボレーションを考えており、
そのアニメの聖地、
そのアニメの中にこの地域が出てくるから、
聖地巡礼というような、
アニメファンが実際にそのアニメに取り上げられている地方を観光する、
みたいなことが今や観光協会の中でも当たり前になっている今、
アニメツーリズムなんてことも言いますけれども、
そういうアニメとのコラボレーションの中でまちおこし、
村おこしをしていきたいというふうに自分は考えているんだが、
このアニメどうかねということで、
提案を、というか話を伺ったところですね、
それはいいんじゃないですかって初めは思ったんですけども、
そのアニメを調べてみたところですね、
09:00
なんじゃこりゃーっていうね、
性を売り物にして、
明らかにこのセクシュアリティに関してちょっと危なそうなというか、
炎上リスクがあるようなアニメだと。
一応そのアニメのメインはエロ目的じゃないアニメなんですけれども、
でも明らかに記号化されたというか、
言い方がなかなか難しいんですけども、
そういう目的の人が楽しむやつだよね、これはっていうような、
エッチなことが目的で見るような内容というか、
絵がそういう絵なんですよね。
で、私はね、基本的にはそういうアニメの中で、
かなり若いというか幼児に近いような女の子で露出がとてもあって、
しかも胸が大きいみたいなこのセクシュアリティの記号みたいのが強調されている、
性的消費を目的とするようなアニメに関しては
非常に嫌いな人間でございます。
アニメは好きです。
でも萌え系アニメは嫌いですというような立場でございます。
だからアニメオタクではあります。
しかもそれこそ中学校ぐらいの頃は本当にいろんなアニメが好きで、
少女漫画も読みましたし、アニメも見ておりました。
だから私が中学校ぐらいの当時は、
まだ自分がアニメオタクですっていうこと自体が
社会の中で受け入れられていないような時代でございます。
しかも宮崎努事件、懐かしいですね。
懐かしがんじゃいけない。
宮崎努なんていう気持ち悪い容疑者とか犯人がおりまして、
しかもロリーターみたいなアニメのビデオが山積みで
自宅にあってみたいな事件がちょうど起こってぐらいの時期でございます。
なので本当に気持ち悪かったですし、
なぜアニメでそんなにちっちゃい女の子を性的な対象として
描かなければいけないのかということに対しては、
本当に行き通りを感じているというか、
アニメだから許されると思ったら大間違いだし、
絵を描くっていうことはそれなりの表現であるべきだし、
自由に何でも自由に描いてもいいんだけども、
12:01
でも動く絵がそれだけ性的指向品だけになり下がるというか、
アニメ好きだからこそとても許せないというかね。
もっともっと感動とか社会的なメッセージだとか世界観だとか、
もっともっと広がりのある表現のはずなのに、
なぜそこばっかりを描くのかということに対して、
とても反感を感じている人間の一人でございますから、
ちょっとモエモエムチムチプリンプリン系アニメには、
過剰なほどのアレルギーがあるのかもしれないですので、
そういうバイアスがかかっているかもしれないんですけど、
そんな宮沢から見てこれはアウトだろうというアニメだったものですから、
これはリスクとやりたいことを比べ合わせてみたときに、
釣り合いませんよというふうに言ったわけです。
炎上、今は一番企業も自治体も一番恐れるのは、
市民からのクレームとともにSNS上で炎上してしまうということが、
かなりのリスクになります。
それによって予算がカットされたり、
それから売れるものが売れなくなってしまったり、
ということがかなりの板出になりますから、
なるべくそういうのを、いろんなところが回避する、
リスクヘッジするところが当たり前になっております。
そういう意味でも法令遵守、コンプライアンスという面では、
少しでも炎上するリスクがあるものに関しては、
排除する方向にすらなっている今の状況なので、
炎上リスクとそれからやりたいことにおける望まれる集客みたいなものと
釣り合わないと思いますよっていうことを言ったところですね。
そのわかるけれども、コンプライアンスそれから炎上のリスクわかるけれども、
文化施設に置いてあるラフ、裸の女の人の銅像、
あれは結局どうなんだと、性的なそういうものを、
ことさらに公共の場で女の裸の銅像を置いているにもかかわらず、
15:02
一応建前上はそういう性的な表現ではないというラベルが張ってある、
一応そういう別の青春群像劇みたいなことを歌っているものが、
そういう公的な場から排除されてしまうのは、
それこそ釣り合わないんじゃないか、同じじゃないかというわけですよ。
それを聞いて、私としてはちげだろバカ野郎って言いたかったんですけども、
でも、じゃあそこで私の中に明確な、いやそうじゃないんですよと、
これはこうで、ラフ像というかその芸術はこうで、
コマーシャリズムというかその推し勝つというかね、
そういうエロ目的のアニメとは全然違うんですよということを、
自分の言葉でわかりやすく理解をできるように発言したかったんですけども、
うってね、あまりにもびっくりしてというか、
そんなこと言う人いるんだっていうことが先に来てしまって、
明確な言葉を持ってなかったっていうのが逆にまた宮沢の中でショックでですね、
これはちゃんと語らなければいけないと。
で、語るためにはちゃんといろんなことを勉強しなければならないと。
改めて課題をいただいたというような気持ちで今はおり、
これはもうぜひね、自分でこうやって一人で配信してるんだったら、
その配信のテーマにしなければということで話しております。
ただね、今日それが明確に答えられる状況には今ないわけです。
なので、この配信を聞いている皆さんとですね、
一緒に考えたいっていうかね、あなたと一緒に考えたいっていうような思考でございますので、
この配信を聞いて、うん、なるほどって思った方はですね、
ぜひこれをきっかけに、宮沢くんそうじゃないよと、
これはこうだと思うから違うんだと。
裸のラフ像と萌え萌えアニメは違うんだよってことを明確に言葉にしてくださる方が、
もしいらっしゃいましたら、コメントないし、メッセージなどなど、
あと引用リポストなどなどでですね、広めていただきたいと思います。
じゃあ、宮沢ね、何を考えたかっていうとですね、
まず最初にですね、
裸のね、ラフ像ね、芸術側の方、
18:01
じゃあ例えば、ラフ像、銅像じゃなくても、油絵のね、
アフロディーテとかね、それからビーナスの誕生とかね、ミロのビーナスとか、
結構西洋絵画、西洋美術などなどでですね、
女の裸がベベーンと描かれてたり、表現されたりしてるものってありますよね。
たくさんあります。
で、あとほら印象派などもね、結構女の人のドキツイ裸がババーンと描かれていますよね。
これって、これはエロ目的じゃないはずだよなと。
エロじゃないよねっていうところをまず考えたわけです。
じゃあ何なのって言ったときに、
じゃあそれとね、その芸術的なそういう女性の裸っていうのと、
それからそのエロのね、エロ漫画の女性の裸っていうの、
何が違うのかっていうことをずっと考えたときにですね、
今日のテーマである干渉っていう言葉が浮かんだんです。
明らかに公共ホールや、それから公共の空間の中に置かれている女性の裸像っていうのはですね、
文脈がありますよね。
この美術的なそういう文脈というか、
うまくまだ説明できないんですけども、
美術史という、もう有史以前から人間が何度も何度もずっといろんな人から人につながって、
表現をつないでいる芸術の歴史っていうのがあって、
それがもうずっとこうつながっている先にですね、
ラフ像があるというか、女性の裸の表現があると。
で、しかもそれを見ている人はエロ目的ではなくて、
じゃあ例えば美とは何かとかね、
その美しいって何だろうって言ったときに、
その女性の裸を見ると。
だからエッチな気持ちにならないわけですよね。
これでも個人的なことなのかな、いやでもそんなことない。
そんなことはない。
愛度の差というかね、見る側の距離感の違いみたいなことなんじゃないかと思うんですよね。
例えばじゃあミロのビーナスを見てエロいなって思ったとして、
21:01
でもそれはエロチシズムとは何かとかね、
美とエロチシズムはどういうふうな関係なのかっていうことを、
ミロのビーナスから問われているというか、
問いかけにつながっているような気がするんですよね。
だからエロいなと思ったときに、
おや待てよ、エロって何だっていう。
じゃあ男である宮沢がこのミロのビーナスを見たときに、
エロいとはどういうことだってね、考えるようにできていると思うんですよ。
じゃあ今まで世界の芸術家たちはエロをどういうふうに表現してきたか
っていうことにつながり、そしてそれを文脈に接続して解釈していってると思うんですよね。
だから直上的に右表ってなって、右表って、
違う違う違う、まあ右表でいいのか。
力上してね、何かこうそういう感じになるっていうんじゃなくて、
ちょっと距離を持っているというか、その表現に触れることで、
自分の中に美しいとかエロいとかっていうのを非常に客観的に見ると、
干渉するというような態度だと思うんですよね。
かたやエロ漫画とかね、それはもう私は男の子なのであえて言いますけれども、
エッチなビデオとかね、まあポルノですよね。
そういうものは干渉ではないんですよね。
消費だと思うんですよ。
別に男の子だからってことじゃないですけども、女性だってそうだと思いますけども。
そういう目的があって、何かそういうものに触れて、
それをまあ何とかするみたいな。
これ大丈夫?コンプライアンス的に大丈夫かな?あんまりいいや。
そういう商品としてこの世に存在して、それを解消して終わり。
だからそのすぐに反応して、それでもうはい終わり。
だから別に文脈みたいなものはなくて、
有史以来人間はどういうふうな表現としてエロチシズムを描いてきたのだろうか。
というような思考みたいなものね。考えみたいなものじゃなくて、
純粋な生物反応としてそれに触れて、それで消費して終わり。
はい終わりっていう態度なんだと思うんですよ。
24:04
まあそういう分別がない、いわゆる中二病というか、
私も中二病だった時代ありますから、今もちょっとそうですけども。
何でもかんでもエロに見えてしまうという時期もあります。
正直なところあります。ありました。
そういう時期はですね、印象派の例えばルノアールのラフ像なんて見ると、
干渉じゃなくて消費。なんか恥ずかしいな今日。
今日は恥ずかしいな。そういう話なの今日。まあいいや。
干渉じゃなくて消費で済ませていたというような時期もありましたけれども、
やっぱりそれは違うんですよ。態度としてね。
さっきの話に戻りますけど、公共空間においてあるラフ像と、
それから萌え萌えブリンブリンアニメの推しの聖地巡礼、何が違うって言ったら、
やっぱり干渉と消費なんじゃないか。その差なんじゃないかというふうに思ったんですね。
これはね、見る側の態度の問題なので、一概にそれを縛ることができないというか、
固定化することができないものなんですよね。
じゃあそれがどういうふうに決まっていくかというと、
本当にもうね、見る人たちの教養というか、品格と教養に任されている部分なんだと思うんですよ。
だからどんどんどんどん干渉とか教養品格みたいのが劣化していけばするほど、
その公共空間におけるラフ像というものが消費材、エロ漫画と一緒っていうふうに見られてしまうからこそ、
ある立場のある人がそういうことを言うっていうことはつまり、
芸術の、しかも干渉するっていう態度自身の危機なんじゃないかと、こういうふうに思ったわけです。
これはやばいぞと。それがね、中学校の宮沢和彦、中学生のね、中学2年生の時の宮沢和彦だったら、
あの裸の像とエロ漫画と何が違うの?ってなってたと思う。
それはね、頭の98%ぐらいがエロしか考えてなかったから、もうね、干渉するところの騒ぎじゃないんですよ。
27:01
なかったんですよ。木の股を見ても興奮するぐらいのバカみたいな中2だったので、
何でもエロいなと思ってた中2だったので、何でも消費の宮沢和彦だったものが、
芸術に触れることによって、待てよっていうね、その干渉の態度みたいなものを、
芸術に触れる、何度も何度も触れることによって、徐々に徐々にその面白さ、その素晴らしさみたいなものを
自分の中で構築してきた、作ってきた、みたいなところがあるんだと思うんですよね。
今度は逆に、大学生になった宮沢和彦はどうしたかというと、あまりにエロいものばっかり見すぎてですね、
エロいものすら干渉になっていくっていうね、逆の逆転現象が起こってね、
もうなんか、エロい表現の専門家みたいな感じになっていったという、まあまあそれは余計な話ですけれども、
干渉の態度と、それから摂取ね、摂取とか、それから消費みたいなものの態度っていうのは全然違うよな、
ということが、まあこの今回の話の気づきの一つだなというふうに思ったわけですね。
で、この干渉と摂取というね、この2つの態度を掘っていくとですね、
これね、意外と使えるというか、他のね、概念にもね、活かしていけるなというふうに思ったんですよね。
で、私全職ではですね、演劇干渉会、干渉団体、演劇干渉団体の人たちとですね、
もう日常的にというかね、お芝居を作る作らないに関わらずというかね、
いろんなそのお話を聞いたり、それからお話したりっていうね、関係性を築かせていただきました。
干渉する者とそれからそれを見てもらう立場というふうにね、
干渉する人たちが何を思っているかとかね、作る側はどういうふうな思いでこの芝居を作ったのかみたいなことを
うまく説明したり、うまく考えてもらったり、それによって一つの作品が干渉に頼るというか
干渉していただけるようなお芝居作りとか、それから言葉を考えるみたいなね。
そういう間に淡いに立つ立場だったっていうことがやっぱり一つの大きな私にとっての影響がありましてですね。
30:10
やっぱりそれを考えたときに、干渉と消費っていうのはやっぱり明らかに違うよなっていうことが
今回のね、エロかエロじゃないかね。ローランドかそれ以外かじゃないじゃないじゃなくてね。
エロじゃない。いやいやちょっと落ち着け。宮沢和彦落ち着け。
干渉か消費かっていうことを20年以上ずっとこうやって考えてきたからこそ改めて
銅像、公共空間に立っているラフ像と、それから聖地巡礼のエロアニメとは明らかに態度が違うんだよってことが気づけたんじゃないかと思ったわけですよ。
じゃあなんでね、干渉するという態度、干渉ということ自身がかなり弱々しくなってきているのか。
公共空間に立っているラフ像すら消費であるというふうにある立場の方が言わしめるほど干渉ということが弱くなってきているのか。
ということをね、より深掘りしたいというふうに思うわけでございます。
さっき短くもね斎藤さんが言ってくれましたけれども、いいじゃないとね。
お客さんが来るんだったらまあまあいいんじゃないっていうね。
つまりはね、消費材として消費行為が大きな経済の一つの潤滑油になるというか、消費そのものが経済になるわけですから。
消費社会なわけですから、どんどんどんどん消費をして、消費のために供給して、どんどんどんどん数字を上げていくみたいなね。
これがやっぱり消費社会のあるべき姿なわけですよね。
だからラフ像はあんまり消費材としては推しみたいなものはないですよ。
あのさ、美術館に置いてあるさ、あの銅像めっちゃ推してんだよねみたいな人ってあんまりいないと思うんですよね。
まあそういうふうに見ようと思えば見られますし、もう好きすぎてずっとその銅像を見るために何度も何度も美術館に通っちゃうみたいな人ももしかしたらいるかもしれないし。
消費材としても圧倒的な表現力があるわけだから、そこは多分否定しきれないんだと思うんですよね。
33:02
でも消費じゃなくて干渉だよね。もともとは干渉するためのものだよねっていうところはね、やっぱりはっきり持っていたいですし、なんでそこまで干渉じゃなくて消費ばっかりになるんだろうなっていうことなんですよね。
徐々に徐々に今日の今日現在の宮沢の結論に近づいてきておりますけれども、なんかね干渉ってね、やっぱこう難しいことなんだろうなと今の社会の中でね思うわけなんですよ。
だからこそ演劇干渉会ね、干渉会って演劇干渉団体って名乗ってるところに人が集まらないというのは、つまりは干渉という態度自体が社会の中で取りづらくなってきている、難しくなってきているからなんじゃないかとも仮説が立つわけですよね。
お誘いの輪が広がらないとかね、私はもう周りにお友達がいないからとかね、ちゃんと声かけたんだけどみたいなね、そういう現場現場での運動そのもののね、その取り組みの強さ弱さみたいなことはちょっと別の次元として考えた場合に、
干渉そのものが衰退してるからとも言えるんじゃないかと思うわけです。
つまりはその干渉というのは何かって言った時に、さっきも言いましたけれども、文脈に接続することとか、その表現の解釈をするだとかね、それから面白かったつまらなかったの先に、この劇団は何を考えてこの芝居を作ったんだろうか。
その考え方に対して自分はこういうふうに思うっていうことを、時間をかけて自分の言葉にしていく。
またそのお芝居を見てすぐにね、バババって頭がワーって働いて、それで自分の言葉でね、ああなるほどこの劇団もこういうふうに考えていて、ここはできてきたけどここができていなくて、でもそのやろうと思ったところには自分は同意できるみたいなことをバババって言えるような人ってなかなかいないと思うんですよね。
それよりも、何だったんだろうこの芝居って。何かね、何か引っかかる。何だか分かんないんだけど、ちょっと引っかかりがある。
結末がちょっとよく分からなかったんだけど、でもずっと気になるみたいなことを、私はこの配信ではお土産の多いお芝居ってね、ずっと言ってますけれども、距離を取ってるわけですよね。
36:09
一旦そこで、ん?って思って、でも分かんない、ダメって言って全否定とかね、じゃなくて、何だかよく分かんなかったし、面白いのかつまんないのかも分かんなかったけれど、でも一旦距離を置いて時間をかけて、自分でちょっと話してみたくなる。
人にね、伝えてみたくなるっていうことこそが感傷。つまりは、言葉とか感情とか意味みたいなものを自分の力で生成していく行為が感傷なんじゃないかと思ったわけです。
だからさっきのミロのビーナスの話で言えば、エロいなって言って、それで体が反応して消費するっていうんじゃなくて、エロとはなんだとか、このビーナスって言うけど、ビーナスっていうのは美しい女神、美しい美の象徴と言われますけど、これが美の象徴なんだ。
ミロのビーナスで、しかも腕があれないから、あの腕はどうなってたんだろうなから始まって、美ってなんだろうみたいなことを問いかけられている存在なので、それはもう明らかに感傷なんですよね。
肩や消費とか摂取っていうのは、文脈を問わないで、誰が作ったんだか、いつ作ったんだか、なんだかよくわかんないけど、心地いいとか不快だとかで判断して、すぐに反応して、すぐに捨てちゃう。
面白い、つまんない、好き、嫌い、即座に飲み込んで、もしくは即座に排除して終わり、みたいなね、そういう態度ですよ。だから、刺激を処理する行為ですよ。ある一定の刺激がバーンってきて、それに対して良かったとか、この刺激強すぎたとか、はい終わりっていうようなね。
感傷が意味を生成、意味とか言葉を生成して、自分なりに考えていく行為なのに対して、消費とか摂取っていうのは、刺激に対して反応する行為ですよ。
つまりはですね、どっちがね、人間的に優れているのかってあえて言いますけれども、とてもね、摂取とか刺激とか消費っていうのは原始的であって、
まずその原始的な刺激とか反応みたいのがあってから、その先にね、言葉で整理するというか、一回距離を置いて、自分で言葉で解釈していく。
39:15
これは何なんだろうとか、なぜこうなってるんだろうとか、自分はどういう風にこれと関わってるんだろうとかいうね、思考の空間みたいなものがね、そこに広がる。
こっちの方がね、やっぱり優れてると言いたいわけです。
消費社会だからね、そんなどっちが優れてるとかどっちが優れてないとかね、それは人によるよねっていうことじゃなくて、やっぱり人間である以上はですね、刺激だけで終わりたくない。
刺激を受けて、じゃあその刺激から何を自分が作れるか、作り出せるかっていうことが、やっぱり大事なんだろうなっていうふうに思うわけでございます。
なんかね、この鑑賞に関してはですね、やっぱり鑑賞会の人たちの顔がね、ものすごいいっぱい浮かぶので、ちょっとね、これ真面目にちょっと考えないとダメだなっていうね、ことがあったので、いろいろとね、調べに調べてしまったんですけれども、
多分全部をね、今日話そうとすると何時間もかかってしまうので、もう一つだけ話したいことが、もう一つね、別の視点からこのね、鑑賞と消費に対して考えたいと思うんですけど、これで最後ですけれども、
じゃあね、この鑑賞と消費でね、一番決定的にね、違うというか、鑑賞にはあるんだけれども消費にはないものっていうのがあるんですよ。
それは何?と言った時に、鑑賞にはある、消費にはない、ね、言った時に何だろうと思ったんですよね。
そしたらね、これだと思ったのが、批評なんじゃないかと思ったんですよ。つまりはね、刺激があるものがバーンってきて、でワーって反応してファッってなくなっちゃうものは、これはですね、みたいなふうに解説する必要がないんですよね。
もう同化しちゃってるから、その瞬間でバーンってなって、シュッて消えていくものですから、もう書いて字もね、その通り、消えて、費やして消えるものが消費なわけですから、摂取してパッて消えていくものが消費なんですよね。
42:11
だからそこに、これはですね、とか、前世紀ではこういうものが、とか言って言う距離感がないので、思考するこの間、余白みたいなのがないわけですよね。
でも感傷はそうじゃなくて、まだこの作品に、とか、この芸術行為に対して、価値のあるものなのかないものなのか、まだ決まってない未知のものに触れるわけですよね。
何これって多分思うし、全然よくわからないっていうふうになる。で、そこにですね、キュレーターの学芸員の人とか、それから演劇だったら演劇評論家とか、あとは大学のアカデミアの人たちだとか、あとはもう芸術家本人だとかね、いろんな方々が必死で言葉にするわけですよね。
この文脈で、こういう演劇には、まず芸能と言われるような、晴れとけで言えば晴れの部分ね、日常生活にはない特別な表現というのがあって、それではもう裸になって踊ったりだとかね。
男、男なんだっけ、愛知県の稲沢と、それからあそこの岡山県の最大寺でありますよね、裸祭りかね、男たちがもうふんどし一丁でワーってなるみたいな、そういう日々の鬱憤をバーっと一気に晴らすみたいな、そういう芸能があって、それからどんどんどんどん変遷していって、
この物語は決して遠い日常、非日常のドラマではなくあなたのことを言っていますみたいなドラマが作られていって、それで初めそれを見た時には何が起こったんだか、何を言ってるんだかちょっとよくわからないんだけれどもって言った時に批評がね、あるわけですよね。
それで、この作品の新しさはとかね、この作品の重要性はとか、こういう文脈でこの作品はとかってね、いうふうに、えー、価値の、なんていうかな、価値をこう、えー、言葉にしてくださる人もいるし、その価値をみんなで共有していくみたいなことがあるわけですよ。
45:00
ね。価値を社会に流通させていくというか、その社会におけるその芸術表現の価値を名文化する、まあ最近の流行りの言葉で言う言語化する人みたいなのがいて、その言語化されたものに触れて、なるほど確かにそう言われてみればその通りだなとか。
えー、それはもう専門家に限らず一緒にご覧になった、えー、会員さんのね、お仲間、同じサークルの人たちが、これこれこういうふうに私は思ったんだとかっていうのを、に、なるほど、私はそうは思わなかったけど、そうやって見る人もいるんだなとか。
そこら辺のやり取りというのは明らかに批評的なやり取りであって、刺激がバーンってきて消費するのとは全然次元が違いますよね。
だから、まず批評があって、で、社会的な意義みたいのがこうできてきて、で、社会的な意義があって、あ、あの人をこう見て、この人は見て、で、なんか面白いらしいよって言って、えー、集客につながっていって、で、それが結果的に経済を循環していくと。
だから批評、それから社会の意味付け、そして経済みたいなサイクルがね、あったはずなんですよね。ところがですね、今どうなってるかっていうと、これがね、逆転してるんじゃないかと思ったんですよね。
つまり批評があって、社会的意義があることにつながって、それが経済活動につながっていくんじゃなくて、まず経済があって、ね、これどうなの?売れるの?売れないの?集客できるの?できないの?っていうところがまずあってできますと。
なるほど、じゃあそれを採用しようって言って、で、社会に受けるのかってことですよね。まず売れるらしいよっていうのを持ってきて、で、あ、社会的にも価値があったねって言って、で、後付けで正当化が始まると。
だから、そもそも、その干渉だったら、批評、社会的意義、そして経済だったものが、今のサイクルは逆転していて、経済、社会的意義、批評、レビューみたいになってるってことなんですよね。
これはね、優識自体なんですよ。ね。つまり、経済が先にあるから、もう価値が決まっているものしか、社会的意義につながらない。で、社会的意義につながるものに関しては、批評で正当、レビューで正当化する。ね。
48:10
これね、一番最初の話に戻りますけれども、ミロのビーナスをはじめとする、芸術的なラフ像っていうのは、批評があって、社会的意義があって、経済ですよ。ね。
まず、このミロのビーナスというのは?っていう言語化があって、で、社会的に見て、これはこういう意義があります。で、そのミロのビーナスがある美術館にお客さんが集まってチケットが売れる。これが鑑賞のサイクルですけども、
モエモエプリンプリンブリンブリンのね、ロリアニメをまちづくりにしたい。まちづくりの起爆剤にしたいっていうのは、つまり、なんぼ儲かんねんから始まってますよね。どれだけのお客さんくんねん。ね。
なんか来るらしい。円盤100万枚売れるらしいっすよ。あ、そうかそうか。じゃあ、じゃあ受け入れたるか。あー、思った通り受けたわ。なんで、なんで関西弁なってんだ。すいません、関西の方。バカにしているわけではございません。失礼いたしました。
売れるのか。売れる。じゃあ意味があるよね。社会的意義があるよね。うん。じゃあ、えー、効果測定としての批評。なんか今までそういうのはなかったけど、そういうのが来てお客さんがいっぱい集まってよかったです。ね。これがまあレビューですよ。つまり経済社会的意義批評になってるわけですよね。
なのでですね。価値の発見みたいなことはもうできなくなってきてる。だから未知の、まだ誰もこの芸術作品、芸術表現が、まだ誰もその価値判断をしていない。ね。
ただ、芸術家が芸術的直感に基づいて表現したものに対して、誰もまだいいのか悪いのかがわからないみたいなものに対しては、誰も反応しないんですよね。刺激がわからなすぎてないから。それよりも、もう価値が確定している、いわゆる価値覚のものしか、もうこの世には存在しなくなっていくんですよね。
つまり経済が先にあるってことは、もう値打ちがあるものしか、今まさに値打ちのあるものしか存在しえなくなっていく。っていうね、大問題が今起こってるんじゃないかなって思います。
51:06
だからそのアニメツーリズムね、言うのも結局価値があるものが先に立っていて、経済効果だけで判断して、で、大切な社会的意義や批評みたいなものがないから、みんながいいんじゃない?ってなってるんじゃないか。
やっぱり演劇というね、一回生というか、その場でパンって表現されてシュッて消えていくものに対して干渉の目を持とうとしている、我々とあえて言いますけれども、演劇を干渉することが好きな我々としてはですね、
やっぱりね、受け入れられないかもしれないけど、批評をしていかなきゃダメだなって。
それはあらゆるものに対してね。まず批評があって、で、自分の中でその表現はどういう意味合いがあるのか、どういう社会的に意義があるのかっていうことを自分なりに自分の言葉にしていった先に経済があるんだよっていうことを逆回しでやり続けないと、
本当にね、ただ上積みだけを取る、売れたものだけを取る、結果だけを取る文化行政になっていきやしないかという危惧があるとともに、今日の結論としてはですね、
ミロのビーナスないし、公共空間に置いてあるラフ像というのは干渉なんですよ。態度が違うんですよ。その態度を失ってしまってはもうちょっと終わりですよ。
っていうようなことがまずは、今日現在では言えるようになったかなっていうようなことでございます。皆さんはどうお考えになりますでしょうか。そうは言うても宮沢くんさっていうことをぜひお聞かせください。
というわけで、今日は終わりにさせていただきます。
今宵のお話はいかがでしたか。干渉と消費、これは全然違うよっていうことが今日現在の私の結論ですが、異論反論賛成反対いつでもお待ちしております。
劇場は人間、そして人間とは思って話し合って考えて忘れてまた思う生き物。劇場とくっつく、劇場にくっつける、劇場でくっつく、これからも社会と劇場をくっつけるボンドの時間を続けます。
54:01
芸術法人シアターボンドのラジオお相手は法人代表の宮沢でした。また次の配信でお耳にかかります。おやすみなさい。
54:41

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