サマリー
このエピソードでは、結婚記念日である銀婚式を迎えたことについて語っており、家族での食事や出産の思い出を振り返っています。南インド料理店の訪問や自宅出産の体験を通じて、家庭の絆や記憶に残る出来事を思い出しながら、時の流れを感じる内容です。また、夫婦の銀婚式を振り返り、子育てや仕事の変化、平和な家庭生活についても言及しています。銀婚式を迎えることへの期待や、将来的な金婚式についての感想も述べられています。
銀婚式の祝い
はい、こんにちは。はまの雑話、第48回ですね。今日は、2025年7月25日、金曜日です。
えっと、今日はですね、まあタイトルでわかると思うんですけれども、昨日ですね、7月24日がですね、
えっと、結婚記念日でして、まあ式とかやってないので、まあ入籍記念日ですかね。
席を入れた日なんですが、つまとですね。で、結婚したのが2000年ですね、経ったんで、ちょうど25年、
銀婚式というやつなんですよね。まあ2000年なんで、何年経ったかがとても覚えやすいんですけれども、
西暦の下二桁が何年経ったかかと、いうことになってまして、はい。で、まあ銀婚式ということでですね、
まあお祝い、お祝いって言っても、なんかやるわけじゃなくて、ただまあ飲みに行きたいみたいな感じでですね、
家族で勝手に銀婚式お祝い月間ということでですね、ここのところ外食多めで、夜、まあみんなで、息子はまだ飲めないので、
娘と夫婦は飲んで、息子はジュースを飲んで、外食なんていうことを何回かやってたんですけれども、
一応昨日がですね、記念日、結婚記念日ということで、館内にあるですね、南インド料理のお店、ボーディセナですかね、ここに私と妻と2人でディナーに行ってきました。
まあ美味しかったですね、南インドの料理、そんなにあの、まあそんなにインド料理たくさん食べたことあるわけじゃないので、あれですが、
あんまり日本に、日本人にっていうかな、合わせてるっていう感じではなくて、多分南インドの本物の南インド料理に近いのかなっていう感じの、かなりスパイスが効いてるし、
しっかりしたインド料理でしたね。まあね、記念日っていうと、例えば高級フランス料理とかね、そういう感じのところが多い、まあわかりませんけれど、多いような印象があるんですけれども、
まあ妻の希望でですね、南インド料理にしようということで、そんなに高くないんでですね、南インド料理でも食べてきました。
まあその後バーに行って、ちょっと飲んだりして、なんかアメリカの70年代、80年代のロックがかかるバーでしたね。
まあ知ってる曲はちょっと、ちょっと私が聴いてたよりも前っていう感じなので、知ってるなーっていう曲は少なかったですけれども、まあ人の名前はね、
例えば、イーグルスがかかったりとか、皆さん知ってるかどうかわかりませんが、イーグルスとか、あとレッドチェッペリンとかね、あとジェームスブラウンもかかってましたね。
その辺は、あの名前は80年代中頃に洋楽を聴いてたので、知ってるなーっていう、そういう曲がずっとかかってるような、そういうバーだったんです。楽しかったですね。
まあですね、銀行式ということで、まああんまり覚えてないんですけれども、25年間ですね、ちょっと振り返ろうかなーなんて思っております。
家族の食事と出産の振り返り
なんかですね、私、長期記憶に問題があるんじゃないかと思うぐらい覚えてなくてですね、例えば飲みに行って、なんか子供の頃こういうの見た、こんなアニメ見ましたとか、見てましたとか、こういう特撮見てました、
その時の、この絵画こうでみたいな話をよく聞くんですけれども、私は見てたはずなんだけど、あんまり覚えてないんですよね。
まあそれで、なんか決定的に困ったことはないんですけれども、なんか記憶に問題があるんじゃないかと、ちょっと時々思うんですけどね。
まあそんな問題があっても覚えてるようなことを、ちょっと振り返りたいと思います。
で、まあ結婚したのがですね、えっと、25年前の7月24日なんですけれども、最初はですね、私が住んでいた、まあ横浜市内のアパートですね、2Kだったと思いますが、
まあそこそこ広かったんですね。まあ2人で住んでも別に大丈夫ぐらいのところで、まあ親さんもOKですっていうことだったので、そこに住んだんですね。
ただですね、そこがですね、妻の職場が遠かったんですね。で、かなり電車に乗らなきゃいけなくてですね、まあ大変だと、なんか電車に酔ったりしてですね、
なんかちょっと乱暴な運転で有名な電車なんで、関東の方わかるかもしれませんが、そういう電車だったんで、結構酔ったりしてですね、
苦しそうだったので、じゃあまあ職場、まあうち、私の職場に近いということでそこに住んでたんですけれども、
まあちょうど間ぐらいに引っ越しますかということでですね、住み始めて8ヶ月ぐらいはそのアパートに着きましたね。
で、それぐらいに、8ヶ月後ぐらいに今のマンション、今住んでいるマンションに引っ越してきたと、感じですね。
ちょうど間になったのはいいんですが、ちょうどですね、まあ私の職場の方がかなり田舎の方にあったっていうこともあってですね、
2人とも1時間半かかるという、まあ間とはいってもかなり、まあ、通勤はしにくいようなね、環境ではあったんですが、まあそれは平等でしょうということで、
2人とも1時間半かかるとこに引っ越して、今もずっとそのマンションに住んでいるというんですね。
で、まあ次は何ですかね、長女の誕生ぐらいですかね、2003年だったですね。
長女ももう25歳で2ですかね、になりますんで、でですね、自宅出産だったんですね。
まあ妻の希望で自宅出産したいということで、まあ助産師さんに来てもらって、ずっといつも家で診察してもらって、
で、お産の時ももちろん来てもらって、もし何かあったらその助産師さんが提携する病院に連絡してと、そういうような体制だったと思うんですけれども、
で、まあ腎痛が来てからですね、まあ普通だったら病院にね入って、そこでみたいな感じだと思うんですけれども、まあそれが自然なのかわからないですけれども、
歩いた方がいいっていう、そういう助産師さんのそういう考えだったのが、よく覚えてないんですけれども、まあ腎痛が来てもね、最初はその
まだ開いてないという、赤ちゃんが出れるような状態じゃないよっていうんで、まあしばらくもうちょっと運動ですね、歩いててもいいよっていうことだったので、
腎痛来てからも外をですね、夏でしたけれども、うろうろしてたのを覚えてますね。
で、まあ腎痛来てるんで、まあ痛いんですよね、妻はね。で、ちょっと苦しみながらというか痛いなっていう感じで歩いてたら、警察に呼び止められてですね、
パトカーに乗った警察の方に呼び止められて、大丈夫ですか、なんかどこまで乗せていきましょうかとか言われたのを覚えてますね。まあ家の近所だったんで、ああ大丈夫ですって言ったんですけれども。
で、その夜にですね、まあお昼にうろうろしてて、夜10時頃、10時半頃だったかな、生まれたんですけれども、
子供たちの成長
新生児過死だったんですね。つまりすぐに泣かなかったんですよね。で、まあみんなでもう名前をその時決めてたので、みんなで名前を呼んでですね、
私と妻と、あと妻の母親、入りの母ですね、私のが来てたかな、みんなで名前を呼んで、
で、まあ泣いて、で、まあ新生児過死だったんでちょっと心配だったんですけれども、まあその後、まあ今22年経ちますけれども、特になんか問題はなくですね、
まあ良かったと、結果的には良かったなという感じなんですけども、そんな感じで生まれたんですね。この家で今の住んでいるマンションで生まれたんですよね。
で、次は長男の誕生ですかね。息子が2005年ですね。だから息子は今年で20歳か、ちょうど20歳ですね。
で、まあその時の新生児過死の問題もあったりして、ちょっと同じ受産者さんに一応相談したんですけれども、ちょっと自宅出産は怖いかもね、
ということも言われてですね、じゃあまあ今回は普通に病院で産めましょうと、東京の方の病院で産みました。
で、もうすごい安産だったですね。ちょっと、ちょっと撥水してたのかな。で、タクシーでビューッと東京の病院まで行きまして、
なんかその畳の敷いてある、一部に畳が敷いてある広いなんか部屋を当てがわれましてですね、ここで、まあ立ち会いですよね。家族みんなで
出産を見守るみたいなことができたんですよね。で、まあ上の子が泣き出しましてですね、まあ怖いですよね。痛いので妻が痛がるので怖かったんでしょうね、泣き出して。
まだ2歳ぐらいだったと思うので。で、まあ怖いならじゃあ見ないとくって言ったらですね、泣きながら見るって言って見て、みんなでまあ
息子が出てくるのを見てたっていうのをもう言ってますね。
まあそれももう20年前なんですね。なんとも、ついこの間のような感じがしますけれども。
家庭と子育ての振り返り
で、そこからはまああれですね、まあ子育てですよね。まあ保育園も小学校もあっていろいろあったんですが、まあまあそれは
どこのご家庭にもあるようなことだと思うので、まあいくつになっても子供は大変だみたいなとは言いますが、まあかわいいし、とても楽しいんですけれども大変なこともあるという
ことですかね。で、次はなんだろうな、まあいろいろあったんですが、あの
大きなあれといえば2013年ですかね、もうそれから娘が生まれたから10年も経ってますが、私が会社を辞めたんですね。
ちょっと理由がありまして、まあ会社を辞めてしばらくは主婦っていう感じで、まあ何もせずに家のことをしてたんですね。
で、まあ何もせずにとはいえ、まあ暇なので、暇なのでというか、うん、時間があるのでPTA出たりね、そんなことをしたりしてたんですが、
そうですね、その後まあ細々とって感じでフリーランスで仕事を受けるようになって、それどれからかな、数年してからだと思いますが、で今に至るという感じなんですね。
他何かあったかなぁ、そうですね、妻はその間ずっと忙しい感じで働いてくれてますし、私は主婦で子供たちがまあ小学生だったのがもう今は大学生になってっていう感じですよね。
でですね、えっと夫婦喧嘩っていうのは目立ったのをやったことないんですよね。
まあちょっと私が、まあ大体私がなんですけど短期ですぐイライラしてしまうので、まあちょっと喋らないとかね、喋らないというのは私がですよ、私が口を聞かなくなってちょっと寝室で閉じこもってみたいなことは少しあるんですけども、
妻はですね、なんかイライラするというのがわからないというか、全くイライラしないらしいんですよね、ちょっと珍しい、そんな人聞いたことないんですけれども、私には信じられないんですが私はすぐイライラしてしまうので。
で、だから私がそのイライラしても喧嘩にならないですよね、なんかそうですかっていう感じで、まあ私がイライラを収まるのを待って、でそのまま自然消滅みたいな、イライラか自然消滅みたいな、そういう感じで喧嘩にならないので、
全くまあ平和というか、そういう面ではですね、ストレスがないというか、私にとってはですね、妻もイライラしないって言ってるんだから大丈夫なんだと思うんですが、
で、まあ私は理系なんですが、妻は文系でですね、で普通、これもまたよく言うというか、まあよく聞くというか、なんか男は理屈っぽくて、理屈ばっかり言ってみたいな、女性の気持ちに寄り添わないみたいなね、そういうのをまあステレオタイプとして聞きますけれども、
これもなくてですね、妻は大学の教員なんですね、なのでまあ、ちゃんと論理的に話す、まあ研究したりするにはね、論理的に考えて、論理的に話せないとダメな発表とかもね、できませんから、そういうのに慣れてるんでしょうね、別に普通に理屈でお互いに話していても、別にぶつかるようなこともあんまりないですし、理屈ばっかり言って全くっていうようなことには特にならない、ね。
で、娘も息子もなんかそれを引き継いだのか、そんなもの遺伝しないとは思うんですけれども、結構理屈を言ってきますね、うん、なんか選挙の時なんかもね、結構理屈を言って、みんなで、まあ激論になるっていうことじゃないんですけれども、少しそれぞれの考え方をいろいろ言ってみたりして、うん、なかなか面白いですよね、でもね、私にとってはとても楽しいですね、そんな家ですね。
まあまあ、子供ももう二人とも大学生になりまして、まあいろいろありましたけど、まあ今は楽になって、こんなポッドキャスト撮ったりとか、ポッドキャスト関連のイベントにいろいろ行ってですね、私は遊んでばっかりで、っていう感じなんですけれども、まあ幸せな25年間だったなと思いますね、いろいろありましたし、まあ会社辞めたりもしましたけれども、楽しく子供たちもよく育ってくれたと思うし、まあこの調子で、この後もいろいろあると思うんですが、
ずっと続いていけばいいなと、本当に思っております。次は何なんですかね、なんかいろいろあると思うんですけど、まあ有名なのは金婚式ですかね、しかし金婚式だと50年なので、まだ今から25年先という、まあちょっと気の遠くなるような先ですが、まあでも結婚してから25年すぐだったので、また金婚式もすぐに来るのかもしれませんね、まあなんか病気したりね、そういうことがあればあれですけど、
そうでなければ、まあ楽しく金婚式を迎えられたらいいなぁなんて思ってる、ちょっと気の早い感じの感想ですが、そんなような銀婚式です。はい、ということで、まあ非常にざっとですけど、子供のことと子供が生まれたことと、それからちょっと仕事のことと、あとは妻との喧嘩しないみたいな話ですかね、そんなことを振り返った回でした。はい、それでは最後まで聞いていただきありがとうございました。
13:32
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