00:02
こんにちは、ハタラクボクラです。この番組は、毎回違う働く人をゲストにお招きして、働くことについてのお話を時に広く、時に深く聞いていくことで、働くって何だろう?を考える番組です。
今回のゲストは、Ireneさんにお越しいただきました。Ireneさん、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
早速なんですが、Ireneさんは今は何のお仕事をされているんでしたっけ?
今はNPOの職員をしているんですけれども、中間支援というカテゴリーのNPOですね。職員をしています。
はい、ありがとうございます。というわけで、ハタラクボクラ市場初のNPO職員のカテゴリーですね。
お越しいただいたので、貴重な回になるんじゃないかなと思うんですが、今お話にあったこの中間支援というお話ですね。
NPOもおそらくいろんな種類があるんだと思うんですけど、この中間支援とは、というかこのNPOの種類とはとか、その辺りってどんな感じなんですか?
はい、ありがとうございます。NPOっていうのは略さないで言うと特定非営利活動法人って言うんですけども、その非営利の特定の非営利活動をしている法人のことを言うんですね。
その特定というのが23だったかな、21だったかな、ちょっと音忘れしちゃったんですけど、ぐらい決まっているものがありまして、
例えば医療福祉とか青少年の教育とか災害支援とか街づくりとかこういう種類がいくつかあるんですけれども、その中でいう中間支援というカテゴリーで、
中間支援というのはどういうことかというと、そのあまたあるですね、活動している非営利活動団体さんの支援をしている団体さんになります。
うちで言うと、うちは日本ファンドレイジング協会という団体になるんですけれども、そのいろんなNPOさんの活動資金を調達する人のことをファンドレイザーと呼ぶんですが、
そのファンドレイザーさんを育成する、育てる事業ですね、っていうのをメインの事業として行っているので、中間支援の活動ということになります。
ありがとうございます。中間支援という言葉があまり聞き馴染みがないんですけど、つまりはNPOを支援するNPOってことなんですね。
そうですね。はい、その通りです。
面白い。NPOっていうとどうしても非営利法人ということもあって、社会課題を解決するみたいなところに注目されるがちなんですけど、支援するNPOもあるんだというところで、
この後ですね、アイリンさんがなぜそこに入っていったのかという話を聞けることを非常に楽しみにしておりますので、よろしくお願いします。
03:03
はい、お願いします。
ではですね、早速なんですけれども、ここから本題の方に入っていきたいかなと思います。
この番組、毎回冒頭ですね、2つの質問をさせていただいておりますと、1つがあなたの職歴、キャリアのヒストリーを教えてくださいということで、
これまでどんな仕事をしてきたのか、その辺の歴を教えてくださいと。
もう1つが、あなたの住んだところのヒストリーですね。
働き始めてからで構わないので、どういったところに住んできましたかというようなお話を聞かせていただければと思っております。
毎回言ってるんですけれども、プライバシーの時代なので、言える範囲で構いません。
言えないことは言わなくても構わないですし、全然ぼかしていただいても構わないので、
公開できるご自身の探し加減でお答えいただければと思います。
では早速なんですけれども、1つ目の質問ですね。
あなたのキャリアのヒストリーを教えてくださいというところで、これまでどんなお仕事をされてきたか教えていただいてもよろしいでしょうか。
ありがとうございます。私は性格が若干飽きっぽいのか、いろんなところを転々としているんですけれども、今4つ目の段階になっています。
大学卒業後最初に入った会社は、マイクロソフトというITのアメリカの会社ですね。そこに営業として新卒で入りました。
新卒でなかなか入る人が少ない会社なので、部署でも新卒で入ってきたのは私一人という感じで、周りは営業職だったんですけど、周りはもう他の会社で営業成績トップみたいなのを経て転職してマイクロソフトに入ってくるというような方々ばかりの中で、私は名刺の渡し方もわからないという感じで、
やり合いをスタートさせました。私はすごいチャレンジングな環境に身を置きたいという気持ちがあって、就職活動の中で内定いただいた会社の中で最もチャレンジができそうだなって思ったのがマイクロソフトだったんですけれども、ちょっと私にとってはチャレンジが大きすぎたのか、日々なんて私は役に立たないんだろうっていうですね、自己肯定感が毎日下がりまくる。
周りの人と自分やっぱり比べちゃってたのでね、当時は。そういった毎日を過ごしながら4年ほど働いていました。役に立てないなっていう気持ちももちろんあったんですけど、それ以外にもですね、このOSって世の中どう良くなるんだろうってちょっと思っちゃったんですよね。
ちょうど世の中はですね、当時、私の年齢がバレそうですけど、Windows Vistaが出たシートだったんですけど、なかなかそのWindows VistaというOSが難しいOSでして、世の中XPでもう5年間来ていて、もう世の中XPで満足してるよみたいなところに、VistaっていいOSなんですよって言って売らなきゃいけないんですけど、お客さんたちはですね、XPでいいよって言ってるところに、
06:24
Vistaを食い込ませていくみたいなのが、すごいなかなか苦しいというかハードルも高いし、相手が満足してるならXPでいいんじゃないみたいな気持ちになっちゃったりして、世の中をどう良くなるのかっていうところがあんまり私にとってはイメージができなかったんですよね。
そんな日々の仕事をこなしているときに、キャリアンカーという研修をMSで受ける機会があって、キャリアンカーって受けたことあります?
初耳ですね。
初耳です。すごい面白い研修。自分の価値観とかがわかるものなんで、今インターネットでキャリアンカーってやるといろんな診断ツール出てくるんで、よかったら試してみてほしいんですけど、仕事をする上、キャリアを歩んで積み上げていく上で、自分が大切にしたい価値観が笑われる診断になるんですね。
それで大受けたところ、私は1番がチャレンジ精神で、2番が社会貢献だったんです。その結果をもってキャリアカウンセラーとカウンセリングをするんです。
あなたはチャレンジが高いらしいと、でも私は今すごいチャレンジに苦しんでいると、なかなかできない、発揮できないっていう話をしていたら、キャリアカウンセラーさん、最後わかりましたと。
あなたはチャレンジが1番じゃありません。あなたの1番は社会貢献です。
だから社会貢献できる仕事に就くと、あなたは非常にやりがいを感じられるし、自分の生活というか自分の価値観を大切にした仕事ができますよというふうに言われて、そうだったのかみたいな。私は社会貢献が大事だったのかって初めて知ったんです。
社会貢献の仕事をしたいなと。社会貢献の仕事をするCSRの部署とかもあったので、そういうところに移動ができないかなっていうのを色々模索してたんですけども、なかなか機会がないまま4年ほどが経ち、女性は30歳までにキャリアの方向性をある程度決めたいみたいなのが当時はあったんですよね。
このまま自分に合わない営業をやっていてもしょうがないなと思って思い切って仕事を辞め、実は青年海外協力隊に行こうと思ったんですよ。
今日のキャリアの方向性をガラッと変えるために青年海外協力隊に行こうと思った矢先に、2011年3月ですね東日本大震災が、ちょうど仕事を辞めた直後で毎日暇だし、一応青年海外協力隊に行くために勉強を始めたもののそんな忙しかったわけでもなかった。
09:08
毎日テレビを見ながら、なんでこんなに人がたくさん死んでるんだろうって、こんなに簡単に死んでいいんだっけっていうような毎日を過ごしていました。
たまたま友人に消防士の方とか自衛隊の方がいて、その方々ってやっぱり現地に入ってすぐに試合に入ったりとかしてるのをSNSで眺めたりして、
この人たちはその人の命を救うスキルや技術を持って素晴らしいことができるのに、私は車の免許を持ってないから現地に行くことも叶わないし、何の役にも立たないなと思って。
でもこんな何のスキルも資格も持ってない私でも、現地の役に立てる日が来たら必ず現地に行って何かしようって思っていたら、ボランティアの募集をたまたまTwitterか何かで見つけたんですね。
2つ目のキャリアが始まるんですけども、そこで被災地で活動している団体を見つけて、宮城県の石巻市というところにボランティアに入りました。
最初は1週間だけボランティアをするつもりだったんですけど、なかなか1週間では復興が見えないなっていうのがよく分かり、もうちょっと延長することにしました。
もう1週間と言っているうちに気づいたら1年が経ち、さすがにここで直近を食いつぶすわけにもいかないんじゃないかと思い、どうしたもんかというふうに相談したら、スタッフにしてあげるよと言われまして、
そこからは月給ゼロ円のボランティアを卒業し、月給15万円のスタッフになりました。
マイクロソフトのときのお給料と比べると、マイクロソフトのときはボーナスとかもらえてたので、それと比べると3分の1から4分の1ぐらいですかね、
それぐらいの給料になって、なかなかのキャリアチェンジだなと思ったんですけど、目の前にやらなきゃいけないことがいっぱいあるので、日々それをこなしているうちに気づけば4年が経ちました。
後半、私がメインでやっていた仕事は、仮設絆新聞という、石巻市内の仮設住宅全庫に新聞を定期的に作って、それをお配りするという活動なんですね。
その新聞を作るのもボランティアだし、その新聞を配るというのもボランティアさんがやるんですけども、私はその新聞の編集長に任せてもらって、
どんな、自分で取材にも行ったし、取材をするボランティアさんのコーディネートというのもさせてもらったし、その作った新聞をボランティアさんたちに配りやすいように配ってもらって、自分も時々配りに行ったりするという活動をしていました。
12:10
仮設住宅って、抽選でどこに入るかが決まるんですよ。
もともとのご近所さんと近くの同じ団地に入れるとは限らないので、どうしても仮設住宅に入ると孤立しがちの方が多くて、神戸の阪神淡路大震災の時にも孤独死というのがたくさん起きたんですよね。
仮設住宅での孤独死が200件以上かな、復興小居住宅での孤独死も1000件以上出るんですけども、そこに新聞を届けに行って、ボランティアは結構おしゃべりするんですよ、うちの新聞は。
長い時だと2時間3時間してくるんですけど、それを通して住民さんの孤立防止だったりとか、心のケアだったりとか、住民さんもやっぱり心の内をお話しして、すごく心が軽くなるということもするので、そんな活動を4年ほど続けていました。
そうしている間に結婚したんですね。夫が東京に住んでもして、私は石巻と東京を毎月往復しながら、石巻の方が多かったですけど、毎月2、3日は東京に行きみたいな生活をしていたところで、震災から丁度丸5年という節目もあって、所属していた団体が石巻での活動を撤退するということになりました。
霧もいいし、私も結婚したし、私も東京に帰るかなと、新聞の終了とともに東京に帰るかなと思ってたんですけども、そしたらボランティアさんたちがこの活動を続けたいというふうに言ってくれたんですね。
住民さんたちから、新聞を読んでいる住民さんたちから、続けてほしいと言われるのは想像してたんですよ。これまでもずっと言われてたし、この新聞、今まで総監からずっと撮ってあるとか言う人もたくさんいたし、絆新聞のボランティアさんが来てくれること、心の支えみたいな感じで言ってくれている、私たちの活動をすごく愛してくれている人たちがたくさんいたので、住民さんがそういうのはちょっと想像してたんですけども、
ボランティアさんの実は結構やりがいにもなって、そのボランティアさんたちは後半の方はやっぱり地元のボランティアさんたちが増えてきていて、その地元のボランティアさんたちが新聞を手渡しする中でありがとうって言われるのが自分のやりがいだったとか、新聞の記事を書いてそれの反響が来るのがすごく嬉しかったというような声をいただいて、
そういうふうに言ってくれるんだったら、もうちょっと続けられないかなと思って考えてあげるんですね。団体を立ち上げるという熱談をしまして、これが3つ目のキャリアですね。石巻復興絆新聞社という任意団体を立ち上げて、私は代表人と編集長という形になりました。
15:08
自分の食い口を稼がないといけないので、助成金の申請書もたくさん書いて、助成金を取って自分にお給料を出しながら、ボランティアさんのコーディネートをしながら全国のボランティアさんに毎年何百人行ってきてもらって、その人たちと一緒に活動を続けてきました。
そうしているうちに子どもが生まれ、子どもを連れて石巻と東京を往復するという日々が始まりました。立ち上げたときに決めていたのは、仮設住宅がなくなるまで、最後の一人が仮設住宅を出るまでこの活動を続けようというふうに思いました。
仮設住宅に住んでいる方々は、なかなかご自身で家を再建するのが難しい、生活再建が難しい。仮設住宅に住んでいる人もみんな一様ではなくて、どんどん再建して出ていく人も多いんですよね。
だから後半になってくると、はぬけになっていく仮設住宅で取り残され感、置いてきぼり感を抱えている方々が多くなっていくんです。
そういう方々に、やっぱり最後まで、絆新聞で今日最後までお付き合いしますよ、絆新聞にまで捨てられたよ、みたいなふうに思われないように、最後までやろうというふうに決めていまして、その最後というのが2020年の1月、最後の一人が仮設住宅を出るということになりました。
ちょうどその時、まだ子供が生まれて半年ぐらいだったのかな。
次の4月で子供を保育園に入れようと、やっぱりちょっとパパと離れ離れもかわいそうなので、当時パパは東京に住んでいたので、パパの住んでいるところの保育園に入れることにして、絆新聞の活動は終了にしてもよかったんですけども、
ボランティアさんたちも細々とでも続けたいよね。ここまで頑張ったよねっていうのは本当に頑張ったねなんだけども、でもこれからも細々とでも続けられたらいいよねっていう話は出ていて、細々とっていうラインがどの辺かなっていうのを考えたところ、3ヶ月に1回ぐらいなんじゃないかということになり、
今は3ヶ月に1回、完全にボランティアとして人件費が出ない形でね、スタッフっていうのはみんなボランティアさんになってもらって、という形で実は今も続けています。もう4年ぐらい経ちますね。
その絆新聞の代表をボランティアとして続けながら、また別のところで自分の食い口稼がないといけないかなと思って、4つ目の職場を探しました。
それが今の日本ファンドレイジング協会になります。これまでバリバリの直接支援の現場をやってきたんですね。9年やってきて、すごいやりがいがあったけれども、自分が一番苦労したのはなんだったっけって思ったときに資金調達なんですよね。
18:19
助成金の申請書を書くのも、5日ぐらい徹夜して書いて、出して結果が来るまですごい祈りたい思いをして、もちろん助成金だけじゃやっていけないところもあるので、寄付をお願いしたり、クラウドファンディングもやったし、会員制度を立ち上げて会員になってくださいっていうのもやったんですけども、毎回すごい苦労をしました。
最初の頃はすごい申し訳ない。寄付をいただいたりするところに対して申し訳ないってずっと思ってたんですけども、ある日、会員になってくださった方が、支援する喜びをありがとうっていうお手紙をくださったんですね。
そのお手紙をいただいたときに、申し訳ないとか思ってる場合じゃないと思って。
この人たちは私が石巻で被災地の最前線で活動している。
自分はそこに一緒に活動できないけれども、その方結構お年だったので一緒に活動できないけれども、自分の代わりに活動してくれてありがとう、そこに関わらせてくれてありがとう、寄付という形で関わらせてくれてありがとうっていうそういう思いなんだなって思ったときに、
この人たちはかけがえのない仲間だし、ここに対してはいい活動で恩返ししなくちゃなというふうに思うようになりました。
それが団体立ち上げて2年目のときだったんですけども、2年目以降は、もちろん寄付いただくと申し訳ないなとか情けないなとか、ちょっとそういう気持ちもなくはなかったけども、
でもそれだけじゃない、やっぱり本当にありがたいな、いい活動しなきゃなという責任感とか喜びを持って活動することができたなというふうに思っていて、
その資金調達の分野で何か期待ができないかなというふうに思って、日本ハンドレージング協会に就職することになりました。
今はハンドレージャーの育成事業を担当していて、全国のNPOさんで資金調達に苦労している人たちが多いので、その人たちに資金調達の方法を講座という形でお伝えをしていたり、そういう事業をしています。
転職するときは、直接支援の現場から中間支援の現場に行って、すごいやりがいなくならないかなって心配だったんですけど、全然なくならなくてよかったなと。
世の中が良くなっているという日々を感じられるので、マイクロソフトにいてこのNOSってどう良くなるんだろうと思っていた時から比べると、この講座を開催して皆さんに受講していただいて、それぞれの現場でハンドレージングを頑張ってもらっていい活動がこのまま継続できたら、世の中絶対良くなるって毎日思って仕事をしています。
21:17
長くなりましたが、私のキャリアヒストリーでした。
ありがとうございます。
番組史上、最も熱く語っていただいたキャリアヒストリーなんですけど、皆さん夏エモヤ持たれてるんですよ。
食べ過ぎですよね。
全然大丈夫です。ありがとうございます。
元々はマイクロソフトということで全く違う畑ですよね。
Windows Vistaっていう懐かしい言葉もあって、確かにVistaって何とも言えないOSでしたよね。
分かる人からすると、XPでいいじゃないと、その後7、Windows 10に駆逐されていくVistaみたいな、何とも言えないところにいるソフトを取り扱いながら、何が言いたいかというと苦しかっただろうなというのがありありで分かるというか。
ありがとうございます。
MOGさんならその苦しさを分かってくれるかなと思って今ちょっと詳しく話してみました。
そうですね。これ全然聞いてる人を意識してないんですけれども、Vistaは苦しかっただろうなというのをすごいよく。
そうなんですよ。IT詳しい人は、Vistaか、じゃあ苦しかったねって言ってくれるんで。
僕なんかもIT出身で好きですけど、分かりますね。
あえて言えば、そのVistaがあったことによって自分のキャリアの方向性とかやりたいことに気づけたというか、社会貢献なんだっていうのに気づけたのかもしれないっていうことなんですよね、おそらく。
そうですね、まさに。当時はすごい苦しかったですけど、今となってはそれにまだ20代前半、中盤くらいで気づけたのはラッキーとしか言いようがないと思います。
そうですよね。ただ、その中でもすごいなと思うのは、このキャリアのジャンプですよね。
NPOにひょんなきっかけから入ると、もともとは専念会が協力されているお話もありましたけれども、このキャリアのジャンプ加減、そしてお給料のジャンプ加減もあっただろうなという中で、やりきれているというか、やりがいを持ってやれているっていうお話を聞く中で、
本当に自分に向いたもの、本当にやりたいことを見つけられるといったキャリアなんだなというのは、もう生きながらひしひしと感じておりました。ありがとうございます。
だいぶそれぞれのポイントですね、詳しく語っていただいたところもあるので、これから僕はそれぞれ気になるところをピックアップしてですね、深く聞いていければと思うのでよろしくお願いします。
もう一つ質問なんですけれども、これは軽くでかまいませんが、住んだところのヒストリーですが、働き始めてからどんな移動が、想像はもうついているんですけれども。
24:08
生まれたのは、育ったのは横浜のとある町になります。大学を卒業するまでずっと横浜に実家に住んでいました。その後、社会人の4年間は東京にちょっとだけ住み、その後一旦実家に戻ったときに震災が起き、震災の翌月から宮城県一種の爆死ですね。
最初はテント暮らしから始まり、ボランティアが住むところがないので、大学のグラウンドにテントを張ってボランティア寝泊まりするんですが、そのテント暮らしから始まり、泥かきをした居酒屋さんにみんなで雑魚寝の生活から始まり、途中からは自分の団体を持ってからは一軒家を借りて、そこにボランティアさんたちが寝泊まりできるように整備をして暮らしていました。
そこで石巻で9年暮らして、その後はコロナとともに2020年の4月から、コロナとともに東京での夫と子どもとの生活が始まりましたが、ずっと引きこもりだったんですよね。
在宅勤務になっちゃう。私も夫も在宅勤務になっちゃったんで、ずっと引きこもりの生活をしていて、これは遠距離住んでる意味ないなと思ったので、2年前にもう1回横浜に引っ越して、そして実家の近くのマンションに。
ありがとうございます。石巻9年っていうのがその、エントから始まって居酒屋一軒家っていうそのトランジションのところすごい気になるなと思いながらですね。
東京はコロナ、誰も外にいないみたいな不思議な東京もありきつ、今は横浜にいる感じなんですね。
ありがとうございます。大体僕の回ですね、今日インタビューは僕ですけれども、ちょっと仕事の話に一生懸命になりすぎて暮らしの話が聞けないっていうですね、毎回なってしまうんですが、触れられれば触れていきたいなと思いますし、特にボランティアのところはやっぱりその生活とかなり直結するのかなと思ったりはするので、ちょっとそのあたりで聞かせていただきたいなと思います。よろしくお願いします。
というわけで、ここから実際ピックアップして聞いていきたいなと思うんですけど、まず少し気になったのは、社会貢献がしたい自分を発見されるわけですけれども、その前はマイクロソフトを選んでるじゃないですか。
チャレンジングな環境ってお話もありましたけれども、チャレンジングな環境という定義もいろいろな定義の仕方があるのかな、いろんな会社がある中でいろんなチャレンジングさがある。
その中でマイクロソフトのチャレンジングさには何に惹かれてそのマイクロソフトを選んだんだと思いますか。
27:08
何に惹かれたか。
そうですね。なので、チャレンジングな環境って人によっていろいろあると思うんですけど、外資でかつITで大きいところですよね、マイクロソフトというと。
これはなぜマイクロソフトだったのか、ご主人にとって。
そうですね。面接が非常にユニークというか衝撃的だったんですけど、人事面接なんですね。
言われたのは、この面接で明らかにしたいことは2つあります。
1つ目は、アイリーンさんがマイクロソフトに向いているかどうか。
向いていないか判断した場合は、アイリーンさんがどんなに優秀な人でも残念ながら脅しています。
向いていた場合に、どの部署に行くのがいいかというのを判断する。その30分に目立つ。
ご質問は?って言われたんです。
この選考についての質問ですって聞いたら、いえ、何でも働きがいでも何でもいいですよって言われて。
最初に質問を聞くんやと思って。
面接で死亡動機をお願いしますとか、自己紹介をお願いしますとか言われて、
なんやかんや聞かれて、最後にご質問ありますかって言われて、最後にするもんじゃないですか。
これで質問しないとやる気ないみたいな感じかなと思ったので、
ポスターに質問をしたんですよね。
したら答えが返ってくるんです。
答えが返ってきて、他に質問は?って言われて。
え、他に?と思って。
じゃあ今の答えに関連してみたいな感じで質問を重ねてみたりするんですけど、
そうするとまた返ってきて、永遠他に質問は?って聞くんです。
だから私も負けられないと思って。
25分間質問しまくったんですよ、ずっと。
延々質問して。
最後に、時間もなくなりましたので、最後にこちらから一つだけ質問させていただきます。
マイクロソフトがアイリーンさんを採用しなかった場合に起こるデメリットについて教えてください。
ないわと思って。
私採用しなくても特にデメリットないわと思いながら、しどろもどろに伝えたんですけど、
なかなかすごいその面接がマイクロソフトに続行になっちゃったというか、
こんな会話できる人いるんや。
30:01
すごいこんなところにいたら鍛えられそうだなっていうふうに思ったっていうのが。
ありがとうございます。
外資にありがちとは言いませんけど、ユニークな面接。
GoogleとかAppleとか漏れ聞く話は結構ありますけど、
マイクロソフトの新卒の面接に関してもそんな感じなんですね。
すごい僕も衝撃を受けながら。
でもそれをやられると確かに続行になっちゃう気持ちはすごいわかるなと思って。
それこそその面接通ったらすごい嬉しいですよね。
そうですよね。
こんな人に一応認めてもらえたのかと思ったら嬉しかったっていうね。
2回目3回目の面接も質問いっぱい用意してきました。
ちなみにその質問は役に立ったんですか?用意していた質問は。
用意していた質問は、でもね2回目は結構向こうからも質問が来ました。
やっぱりそうですよね。
2回目の面接の質問が衝撃的だったのは覚えてるのが2つあって、
1つはご飯食べるのが早いですかって聞かれたんですよ。
早いっていうのがいいのか遅いっていうのがいいのかどっちがいいんだろうって一瞬で計算をしながら。
一応早い方だということで答えたんですけど、
そしたらそうですかって言われて何の答えも返ってこなかったんで、
すみません今の質問はご飯を食べる時間もないぐらい忙しいっていうことであってますか?みたいな感じ。
はいそうですって言われました。
そういうこともありますね。
それは衝撃的ですね。ありがとうございます。
確かに。じゃあもうその面接の時点で続行になってしまったということもあり、
マイクロソフトの内定が出たと。
もうここに行こうって感じだったんですね。
ありがとうございます。
そこからVistaというですね、何とも言えない悪くないけれども何とも言えないOSに出会ってしまい、
社会貢献の道に行かれるということになるかなと思うんですが、
そのあたりですね、社会貢献のお話に関しては後半戦聞いていけたらと思っておりますので、
まず一旦前半戦ここまでとなります。
なので引き続き後半もよろしくお願いします。
ありがとうございました。