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御馳走の話 中谷浮一郎
1 正月の御馳走
正月の御馳走というと、いつでも思い出す話がある。 それは、小林勲くんが、ロハン先生から聞いた話である。
だいぶ前のことであるが、ある正月に小林くんが、ロハン先生のお宅を訪ねた時の話である。
たぶん、こぶまき、かずのこ、ごまめという、昔ながらの品々が、膳の上に並んでいたのであろう。
それをつまみながら、例によって、無遠慮な男のことであるから、 正月の御馳走といえば、どうしてこう、まずいものばかりなんでしょうね。
と聞いたというのである。 そしたら先生が、
そうじゃないよ。これが、昔は御馳走だったんだよ。 と言われたそうである。
この話を聞いてすぐ頭に浮かんだのは、私たちが子供時代に食べていた、食い物のことである。 北陸の片田舎のことであるから、普段はずいぶん貧しいものを食っていた。
それで、黒いこぶまき、黄色いかずのこ、紅を塗った半ぺん、輪切りにしたみかんなどが、 重箱の中にいっぱい並んでいるのは、いかにもきれいであった。
母がその重箱を持ってきて、みなの前でふたをとった途端に、 ああ、きれいだな、
と子供心に思ったことを、今頃になって思い出した。 正月の料理は、あれでなかなかよくできているので、
昆布には、要素とカリウムがあり、 ごまめにはカルシウムとリンがある。
みかんはビタミンCの補給源で、半ぺんは魚肉タンパク質の良質の保存食品である。 などと、この頃よく言われる。
一方、社会学や民族学風な説明では、 日本の田舎における嫁の立場が論ぜられる。
せめてお正月くらいは、少し体を楽にさせるために、 ああいう保存食品の形式が生まれ出たので、非常に賢明な風習であるという、 流儀の議論がそれである。
いずれも真相をそれぞれに捉えた論であるが、 ロハン先生のさりげない一言。
あれが昔は御馳走だったんだよ。 というのも、なんとなく心にしみる言葉である。
もっともこれは、一昔前の日本、特に田舎での庶民の生活を味わったものでないと、 そう深い感じは受けないかもしれない。
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コブマキにしてもカズノコにしても、あれでなかなかうまいものであるが、 現在の都市生活者にとっては、まず御馳走の部類には入らない。
なんといっても、生きたイセエビの刺身、タイの牛を、 ウナギのカバ焼きなどというものと比べては、一段下に置かれても仕方がない。
両方とも品質の水準を同じとしての話である。 古くなって少し匂いのついたタイと、一級品のカズノコと比べれば別の話になる。
それで思い出したが、現在御馳走と言われているものは、 ほとんど全部生鮮食品であって、しかも極めて鮮度の高いものである。
エビの刺身、ウナギ、スッポンなどがその極端な例で、 みな生きているものを料理しなければならない。
これはずいぶん贅沢な話である。 こういう材料を生かしたまま運び、客の注文があって初めて料理するというのは、大変な人手を要する話である。
生き物相手の場合は、手を開けて待つ時間が多く、 それももちろん人手の中に計算しなければならない。
要するに御馳走の度は、それに要する人手の量に比例するものらしい。 昔の正月の御馳走は、材料は保存食品であったが、料理に少しばかり手をかけた。
それで御馳走であったわけであるが、 現在の都市生活での鮮度の高い材料による料理に比べたら、人手の量は問題にならない。
アメリカの食い物がまずいという話は、もう今では誰でも知っている。 ほとんど全食品が缶詰と冷凍または冷蔵による保存食品になっている。
そして大量生産によって人手をうんと省いてあるので、元の材料は上等であるが、御馳走にはならないのである。
もっとも、まずいというのは少し贅沢な話であって、 タンパク質の味に過ぎなくても、国民の大多数の人間が毎日肉を食えるということは良いことである。