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笑倍繁盛チャンネル、望月まもるです。 本日もよろしくお願いします。
器の大きさって何ですかね? 何でも聞いてくれるとかさ、全てを許してくれるとかさ、困った時に助けてくれるとかね、
まあ確かにね、そうかもしれませんけども、本当に器が大きいのかなというふうにも思うわけですよ。
なんかね、世間的な器の大きさっていうね、ここにはですね、何かね、自己犠牲しいるようなニュアンスも含まれてるなとも思うのよね。
でね、あのー、
何だろうな、本当にそうかどうかっていうのは表と裏がね、あるかなと。 だからこの表面ではですね、なかなか行動とかだけでは分かり得ない部分もあるんじゃないかななんていうふうにも思うわけですよ。
例えばね、 相手の無理難題とか嫌だなって思うような要求があったとしてもですね、はいいいですよっていうですね、受け入れると。
これ自己犠牲なんだけどさ、懐が深いとか言われちゃったりとかしがちでしょ。
これ自己の境界線がない人に多いことなんですよね。 それとかさ、嫌われたくないとかね、いい人に思われたいとかさ、
こういう利己的な理由がこういうふうに指してたりもするわけよ。
ノーっていうことでダメです、嫌ですっていうことで相手に嫌われたくないとか、見捨てられたくないとかっていうのをこの臆病なわけだよね。
で、あとね、周囲からね、いい人だとか、度量がある人だって思われた演出とかね。
だから自分の意思でさ、決定を下すことに伴う責任ってのはね、これあるわけなんですけども、そっから逃れてですね、
相手に身を任せることで自分の気持ちを安定させようとすると、相手がいないとこれ安定させられないということなんですね。
これは何かこう、自分軸があんのかとも思うわけですよ。もしかするとこれ芸豪じゃないの?っていうふうにも思うわけよね。
で、だからどうなの?器大きいのか?なんていうふうにも思うのよ、こういう場合はね。
で、お次、何を言われても怒んないとか悲しまないとかね、一瞬器が大きくびれるかもしれないんだけども、感情をね、ちゃんと処理できてない可能性もあるわけですね。
単純にね、感じないように自分を薪させてるというね、こういう場合だって多くあるわけですね。
これ心理学では抑圧とか乖離とかっていうふうに呼ぶんですけども、心をシャットアウトしてですね、
痛みを感じないように神経を遮断してるっていう状態ですね。
一見同時ないように見えるけども、限界が来ると壊れちゃうんだよね。
だからこの、だから器が大きいっていうふうに何か誤認されてるのはね、なんか反論もしないで傷ついた顔も見せない、ある意味便利な存在。
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だから器が大きいなんていうふうに間違えられちゃってる可能性があるよね。
でもこの人たちはね、やっぱり心がね、どんどんどんどんね、全くね、動かなくなっちゃうのよ。
自分の気持ちや感情を抑え続けてたらね、そりゃそうだってことなんですね。
だからお次はですね、誰かの悩みとか問題をですね、全てですね、自分ごとを背負い込んじゃうと、解決してあげる、救ってあげる、みたいなね。
こういう感じは一見こう、慈愛に満ちた行動には見えるんだけども、でも実はですね、アドラーさんが言うですね、その本人の課題ですね、これを横取りしてですね、その人自らが成長する機会を奪っちゃうんですね。
つまり成長泥棒みたいなですね、こういう感じになっちゃうわけですね。
で、これはもう行き過ぎるとですね、私がいないとこの人ダメだみたいなね、こういう感覚になってね、支配になっちゃって相手の自立をね、阻害しちゃうんですよ。
でね、こういったものはね、なんで器の大きさだっていうふうにね、間違えられてきたのかと言うとですね、これ簡単なんですけども、そういう人はね、都合いいからなんですね。
で、このなんかこう、ほら、昔の村社会だとかさ、国とかね、そういう組織をね、維持するにはですね、個人の感情を抑制しろとね、で、他者のために尽くせと、この自己犠牲を美徳として推奨しないとですね、成立しなかった側面があったわけですね。
で、まあ儒教においてもですね、目上の人とか集団の輪をね、たっ飛ぶ姿勢がですね、これが特目とされてたわけですね。
だから個人は二の次っていうですね、こういう背景があったわけですね。
まあこれはこれでいい面もあるんだけども、自分を殺し続けるのは少しね、わけが変わってくるわけですよね。
だからね、我々がね、あのね、イメージしてるですね、器の大きい人っていうのはですね、社会が円滑に回るために作り上げられた、なんかそういうね、理想像っていうふうに作られた偶像なのかもしれないかなと思うわけですね。
で、先ほど言ってたこのアドラーさんのね、課題の分離っていうことなんですけども、まあ彼は大臣関係におけるあらゆるトラブルの根源というのはですね、他者の課題に土足で踏み込むこととか、あるいはですね、自分の課題に土足で踏み込ませることだよというふうに言ったわけですね。
で、だからそれは感情とさ、課題をね、ごっちゃごちゃにさせないですね、知性ということなわけですね。
アドラー心理学に基づいたらですね、誰がその選択の結果を引き受けるんですかと、そういう基準でですね、課題を切り分けるんですね。
例えばですね、私が誰かに対して怒っているとしましょうか。
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でも、怒りっていう感情をどう処理するかっていうのは、私の課題なんですね。
リスナーであるあなたの課題じゃないわけですね。
ましてや、誰かに対してって、その誰かの課題でもないわけですよ。
だから器が大きいって言われる人は、この境界線っていうのがですね、実は非常に明確なんですよ。
相手が怒っているのは相手の価値観だとか、今までの生き癖だとか、自分の今いる境地であるとか、そういったものに原因があるんだ。
だって、例えば心が未熟だったらさ、なんかちょっとしたことでも怒っちゃうからね。
だからそれはそれで置いとこうと、それは相手の課題だからと。
私は私の最善を尽くせばいいのよねっていう、こう冷静に判断できるわけですね。
で、これでこうなっていればさ、別に無駄に傷つくこともさ、考えすぎたりもしなくていいし、相手変えようとしなくてもいいわけですよね。
だって自分ととしては別の存在なんだっていうのが当たり前なわけですから。
事実ですからね。これをちゃんと実践しているということですね。
しかもこの知性っていうのはさ、分離するとこれをね、線を引くっていうことだけではないんですよね。
だってアドラさんは課題の分離って言うんだけど、でも心の成長っていうことでは共通の課題っていうところに最終的に行きますよというふうに説いてますからね。
だから器が大きいって言われる人の知性っていうのはですね、これは私の課題、これはあなたの課題っていうふうにですね。
冷静に線引きすることだけじゃなくて、ここは私たちが協力して解決すべき共通の課題だよねとか、これは私とあなたにしかできない課題だよねっていうふうにちゃんと判断ができるとこういうことになってくるわけですね。
だから器が大きいっていうのもですね、いろんな側面ありますよ。他にもいろんな側面ありますけども。
でもですね、何でも聞いてくれる全てを許してくれる、困った時に助けてくれる、都合がいい人みたいな、そういうことだけではないんじゃないのかなっていうふうには思います。
ということで本日も最後まで聞いていただき誠にありがとうございます。また明日お会いしましょう。それではバイバイ。