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#1529 宗教は補助輪
2026-03-10 11:27

#1529 宗教は補助輪

#1529 宗教は補助輪

人類の歴史を振り返ると、宗教は常に私たちの中心にありました。死への恐怖を和らげ、社会のルールを守るための大きな支えとなってきたのは事実です。しかし、その光が強い分、落とされた影もまた非常に深いものでした。

特に…

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笑倍繁盛チャンネルの望月まもるです。本日もよろしくお願いいたします。今日は極端なお話をしようと思います。
人類の歴史を振り返ると、宗教は常に我々の中心にありました。
宗教は道を記したり、生きるための良いマニュアルにはなっていると思うんです。
死への恐怖を和らげたり、社会ルールを守るための大きな支えになってきているのも事実なんですよ。
ところが、光が強い分、落とされた影も非常に深いかなというふうにも感じるわけですね。
特にキリスト教に代表されるような一神教の考え方は、世界を味方かそれ以外かという二つの色に塗り分けちゃうわけですね。
これ二言論ですね。言ってしまえば、自分たちは救われる正しい存在であって、それ以外は救われ未熟な存在みたいな、あるいは排除すべき異端とか、こういう線引きをしちゃうわけでしょう。
この境界線というのが歴史の中で、例えば十字軍とか植民地支配とか、争いの根拠になったわけじゃないですか。
神の名の下で多くの血が流される原因になってきたわけですね。
優生学とか奴隷とか戦争とか、こういったことは神の名の下で行われてきたのも事実なんですね。
現代でも教会とか、教会で働く聖職者による犯罪とか組織的な隠蔽とか、次々と明るみに出てますよね。
信仰宗教なんかもそうだけど、神の代理人とかいう絶対的な権威を隠れ身にして弱者を傷つけたりとか、組織の保身ですね。
これは人様の事情ですからね。
そのためにいろいろと起こしたりとか問題があったりとかしても、それを闇に葬る報道を読むと、その都度、宗教の限界とか終焉とか、そういうものを僕は感じたりするんですよね。
こうした姿を見るにつけて、私は個人的に宗教がなければ世界はもっと平和だったのかもしれないよ、なんていうことも片側から思うわけですよね。
祈りっていう名の依存、奪われる自立心、宗教の罪ですよね。
人間から自分で考えて行動する力を奪っちゃったら、これ罪になっちゃうわけですよ。
全員とは言いませんよ。
祈りだとか願いだとかっていうのもすごく大事な行為。
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特に日本人は祈りとか願いの力が強いと言われてますからね。
だけども祈りさえすれば救われるとか、神様が何とかしてくれるとかね。
もしこういうふうな考えを持っていた場合、一見すると救いのように見えても裏を返せば自分は何も努力しなくてもいいとか、
こういう無責任さを生んでしまっちゃったりだとか、あるいは何かあったら神様を恨むみたいなね、
そういうことが生まれちゃうんじゃないのということなんですよ。
本来困難に直面したときっていうのは自分の知恵を絞って必死に汗を流して立ち向かって、
それで人は精神的に成長するわけですよ。
ところが宗教の解決策っていうのは時に自分のことを神様に丸投げ状態になっちゃうんですね。
こういう人たちは成長を止めちゃうなというふうに思うわけですよ。
だから現実の苦しみから目をそらして自分の人生の責任を何かに預けちゃうっていう依存ですけどね。
逆に人間が目覚めるのを妨げちゃっていたいかと、それも大きな壁なんじゃないかというふうに思うわけです。
そうは言ってもさ、人生の苦しい時期にあったときに何らかの心の拠り所が必要になると、こういうこともあるでしょうと。
でもそれは自転車の補助輪のようなものなんだよね。
一人でバランスが取れない時期は倒れないための支えとして役に立つじゃない。
ところが補助輪はあくまでもいつか外して走るためのものなのよ。
だから成熟しても、大人として成熟してもずっと補助輪に頼り続けていたら成熟できないんですよね。
いつまでも自分の力で風切って走る喜びっていうのを知ることできないんですよ。
精神的な成熟っていうのは外から与えられた正解とか驚異ですね。
これを卒業して自分ナイズする、自分の良心に従って生きる自分自身の軸ですね。
これを確立することなんですね。
この軸なんていうのは普通あって当たり前なんですけども、これがない場合もあるわけですね。
これがオリジナリティとか個性とかアイデンティティとか自分の型とかっていうふうにもつながるわけですよ。
特定の組織や誰かが決めたルールに依存するのをやめて、不条理な現実、もともと不条理なんですから、
不条理な現実を自分の足で歩むと、歩み抜くと、これ孤独ですから、
この孤独を引き受けてこそ人は初めて家畜ではなくて自立した一人の人間になれるんじゃないかなというふうに思うわけです。
この自分の足で立つ自立を果たした先には深い世界が広がっているんですよ。
ヒントになるのが東洋的な仏教古神道の視点なんですね。
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押しつけがましくなかったりするんですよね、この辺ね。
教えって言いながらも、やってもいいし、やらなくてもいいよみたいな。
ずっと辛いのはお前だしね、みたいな感じがあるからね。
なかなかハードですね、みたいなところがあるんですね。
これは本来、私という殻を破ると、自我ですね。
これを破って世界と一つになるっていう、この宇宙の命の一部であるということを自覚して、
そこと調和してその一つになるということを目指すものだったんですね。
ところが、これもまた宗派という人間のエゴによって歪められてきた側面があるわけですよ。
例えば、怒り。怒りっていうのは何かというと、
ブッダは、怒りは自分を焼き尽くす毒だと、例外なく手放すべきものだと説いたんですね。
ところが、後世の宗派ですね、日本の宗派の中でも大義のためだったら怒ってもいいとかね、
こういう解釈を作っちゃったりするわけですよね。
で、これは組織の勢力を広げたり、敵を攻撃したりするために都合よく作り変えられた理屈じゃないのっていうふうに思うわけ。
自分たちは正しい、大義があるっていう看板を掲げた瞬間に、境界線生まれて争い始まっちゃうじゃん。
これが、おいブッダの教えは、ういって思うわけですよ。
これはね、自他の境界線を溶かそうとするからね、本来の教えとは真逆なんですね。
これもね、どっかのタイミングで起こったね、人のご都合だなと思うわけですよ。
ブッダの本位をね、自分たちのために曲げた解釈だと、人様のための解釈だというふうに感じるわけですね。
だからね、僕ちょっとね、やっぱ中国のチベットは行くのはハードだけど、
今ですね、ネパールとかだとやっぱりチベット仏教の色とかね、まだね、濃く残ってたりするので、ちょっと行ってみたいななんて思ってるんですよね。
その話はさておき。
我々がたどり着くべき本当の目的地ってのはですね、自立のさらに先だったりするんですよね。
私は自立してるとか、私は人のためにね、尽くしてる利他精神があるとか、こういううちはですね、まだ私という意識が残ってるわけですよ。
これはまだね、言ってみれば自分と他人を分けて考えてる二元論の世界とも言えるわけですね。
だからこそ仏教や古神道で説かれてる自分をなくすとか、自他の境界線を溶かすと、こういう視点こそがですね、本質的な境地だとも言えるわけですね。
自分というフィルターを通さないでありのままの世界を感じるとね、するとですね、やっぱ守るべきプライドとか、攻撃すべき敵なんかもね、存在しないわけですよね。
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なぜならね、自分と世界を分ける壁がもうないもんね。
この状態こそが本当の意味の解放であり自由だというふうに言えるんじゃないかなと思うわけですね。
なので、自分をなくすということは決して自分が消えてなくなることではないんですね。
それはね、脳が作り出した私というですね、小さいフレームから抜け出して、宇宙の大きな流れの一部として、ただそこにあると、いるというだけなんですね。
この境地に立てば宗教がこれまで繰り返してきた醜い争いとか、組織の隠蔽とか、教義の解釈違いとか、こういう問題はですね、
全て自分を守りたいという小さいエゴが生み出した幻ね、幻影に過ぎなかったことがわかるわけですよ。
境地に至っていれば大義義憤という言葉でですね、怒りを正当化する必要もないんです。
なので、よりどころに頼る時期を過ぎてですね、自分の足で立つ自立を経てですね、最後には自分という意識さえも溶けていく、溶かしていく。
この流れはですね、やっぱり人がたどり着く究極の精神的成長なんじゃないかなというふうに感じるわけですね。
なので、ある一線から先は宗教の看板も特定の神様も、難しい王教も不要になるということなんですね。
ただ静かに世界と自分が一つであるというこの本質を知ると、だから宗教という複雑な仕組みを全て脱ぎ捨てた先にこそですね、
我々がですね本当に求めていた平安が待ってるんじゃないかななんていうふうに感じるわけです。
ということで本日はですね、若干難しかった?若干スピ入ってた?これスピでもないんですよところが。
でもスピリチャルティーっていうのはもともと精神的なね、というね、そちらの側面の意味ですからね。
精神性のお話をするということはですね、目に見えないところのお話ですからなかなかね、雲を掴むようなところもあるかもしれませんが、
でもですね、なんかそれこそ自分の中で想像力を働かせるとですね、なんか見えないところに階段が見えてくるぞみたいなことがですね、起こるんじゃないかななんていうふうにも感じます。
ということで本日も最後まで聞いていただき誠にありがとうございます。また明日お会いしましょう。それではバイバイ。
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