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こんにちは。言葉とアートで人の心を導き、英語指導メンタリスト、そしてライトワーカーアーティストのはじめ先生です。
このチャンネルでは、心の在り方を整えることによって、英語力や人生を劇的に好転させる秘訣についてお伝えしています。
今日のテーマは、AIで作ったアートは手描きの作品よりも価値が低いのか、というお話です。
僕はフェイスブックグループにいろいろ入っているのですが、ある絵が好きな人が集まるコミュニティに入っているのです。
その中で今、ちょっと物議を醸している話題があります。
そのコミュニティでは、絵を描くのが好きな人が自分の描いた作品をアップロードして、お互いにコメントをし合うみたいな感じのコミュニティなんですけれども、
どうやら最近そこに、AIで作った絵がだいぶ投稿されるようになったと。
それに対して、それをよく思っていない人たちというのもいっているみたいで、
管理人は何をやっているんだ、AIで作った作品をこんなにどんどん勝手に投稿させて、何とかしろみたいな感じになって、
それにいろんな人が反応していて、私も同感です。
AIで描いた作品なんてつまらないとか、100%AIで描いた作品には人間的な温かみがないとか、
AIというものが大量のデータをもとに何かを生成しているということは、
AIを活用して作ったものは本当にオリジナルの作品とは言えないのではないかという意見であるとか、
ある人が投稿した作品に対して、この作品の元ネタはたぶんこんなところじゃないかという画像まで持ってきて、
これで二次創作物的なものではないかというような言葉を言っていて、本当にいろんな議論が出ているんですね。
AIで作った作品ならば、AIで作ったということを明示しろとか、いろんなことを言われているんですけれども、
この辺の議論、皆さんどう思うでしょうかね。
これ、やっぱりAIというものに対してどのくらい親和性があるかによって、
どっちの立場に立つかというのはすごく変わってくるかなというふうには思うんですけれども、
ちょっと僕の考えをいくつかの論点に分けて話したいと思います。
まず一つ目の論点として、AIというツールを使って手描きではなく描いた絵に価値はないのかというようなお話なんですけれども、
これってすごい昔に写真が発明されたときに、絵というものの存在価値みたいなものがすごく揺らいだじきがあるんですよね。
それまでの写真が出る前の絵画というものは、
本当に記録のためであったり、肖像画であったり、いかにリアルにその時の情景を残しておくかみたいな役割で、
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記録的な役割もすごく大きかったわけですね。
ところが写真ができてしまっても、すごくありありと、超絶リアルに真実を映すような形でできてしまったときに、
絵画のそれまでの画像というものは一気に崩されて、存在価値が危うくなってきてしまったわけですよね。
そこで登場してきたのが、いわゆる印象派の画家たちということになるわけですけれども、
モネとかセザンヌであるとかルノアールであるとかね。
そのリアリティから少しはみ出して、ただ単に形を正確に映し取るとか、
前に見えているそのままのことを描くのではなく、もっともっと人間の心の中にある心象風景というか、
リアルに描かないことによって、よりその印象が強まるというんですかね。
絵画としてのその味というものを追求していって、今に至るわけですよね。
じゃあそれは写真はアートにならないのかというと、これもまた全く違う話で、
写真というのもやっぱりいかにどの瞬間を切り取るか、どんな構図で撮るか、どんな人物を撮るか、
その人物とその撮り手の関係性とか、そういったものがものすごく複雑に絡んでくるアートとして普通に成立しているわけですよね。
当初写真というのはアートになるかどうかということでいうと、そこまでなかったかもしれないんですが、
結局その後々ですね、それが発展していったということになるわけです。
自分の手で描かなければそれはアートではない。
これもですね、結構近代の芸術運動の中で、その概念も実は破壊し尽くされているわけですね。
例えば一番有名なところだと、マルセル・ジュシャンというアーティストがいるんですけれども、
その人の作品ですね、泉というタイトルのアート作品がありますが、
それは一体どんなものかというと、トイレの消便器をそのまま置いただけという、
消便器にサインをしただけというものでした。
この辺がまあいわゆるよくわからないアートの走りだと思うんですけど、
マルセル・ジュシャンは純粋にそのトイレの消便器の形がこれ綺麗な形してるなぁと思ったっていうことと、
それから消便器というところから泉というイメージの連想ですね。
それを全く違う形で提示することによって、普段ただの消便器としてしか見ていないものが見方を変えると、
実はこれ美しい形で、しかも泉というタイトルをつけたら、意外とそう見えてこないみたいなところもね。
要するに人の認知、常識、思い込み、そういったものを破壊するという、
ある種の挑戦的なアートだったりしたわけです。
こういうふうに全く既製品を出すだけのアートというのをレディメイドと言うんですけれども、
これもね、いわゆるダダイズムという芸術運動の中で、
これまでの常識的なアートを破壊しようというような運動があって、
そこでもそういうふうに成立しているアートの一ジャンルだったりするわけですし、
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それから手を使って描かないという点では、有名なアンディ・ウォーホルという、
シルクスクリーンの版画家がいますけれども、
皆さんご存知ですかね、マリリン・モンローの顔とかね、
様々な色の色彩でポスターにしている、そんな絵があると思うんですけど、
実は絵じゃなくてね、写真をコピーして、それを陰影を白と黒とかに分けていって、
シルクスクリーンという印刷の技術を使って、何層かの絵を重ねて版画にしたものなんですよね。
だからあれは別に描いてないんですよね。
一定ものじゃなくて大量生産するということによって、
アートを商品化したというところがアンディ・ウォーホルの最大の功績だと言われていて、
ポップアートの走りなんていうふうに言われておりますけれども、
アンディ・ウォーホルは実際にマリリン・モンローの写真に関しては描いていないわけですね。
ただ印刷技術を使ってマリリン・モンローの絵を刷ったということなんですが、
これが何でアートの価値があるのかということですね。
しかも何でマリリン・モンローを選んだのかという、
ここを皆さんは考えたことがあるでしょうかということなんですけど、
おそらくマリリン・モンローというのは何というのかな、
ある種のセックスシンボルとして、
世の中で消費される女性のシンボルだったわけですね。
この消費されるという前提で自分を売っているマリリン・モンローを
まさに商品化して売ってしまったという、
ここが非常に皮肉に満ちているところもあるというか、
それを通じて消費文化そのものをちょっと揶揄しているというところもあったりするんですね。
同じようなキャンベルスープの、ただのスープ缶のやつを
何でアンディ・ウォーホルがわざわざ版画にして出しているかというのも
同じようなメッセージがそこにあるわけなんです。
だから個人的にはAIという道具を使って作ったから、
それがアートではないというのはおかしな話だと思いますし、
どこかからのデータの寄生集めで作ったアート、
それはダメだと言うけれども、そんなことを言ったらですね、
アートの世界なんか、本当にいろんな人がいろんなものにインスパイアされて、
影響をしまくったり影響を与えまくったりして、
誰が誰の作品なのかわからない時代もあるわけですよね。
有名なピカソだってね、いわゆるキュビズムという時代には
ブラックという人もいるんですけど、
ブラックの絵なんか、ピカソの絵なんか、どっちだかどっち、
全然わからないような時代もあるわけです。
それをアートの世界ではオマージュって言うんだけど、
だからオマージュなら別にいいじゃんとかって思うんですよね。
元ネタはこれですとか言うけど、
元ネタと同じものを全くコピーして、
私が書きましたっていうのがあったら問題があるけど、
何かにインスパイアされて、それでまた別の創作にするんだったら、
僕は全然問題がないと思うんですよね。
そしてAIの作品がいろいろ批判を受けるその理由として、
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制作してるのはお前じゃないっていうね、
そういう異論調があるんですけど、
これはやっぱりね、創作ってどの段階から創作なのかって話です。
AI時代において人間の創作物というのは何かっていうところの議論になると思うんだけど、
結局プロンプトなんですよね。
プロンプトっていうのはAIを使うようになってから、
AIに対する支持みたいな意味がありますけれども、
もともとは促すとかですね、刺激を与えるとか、
息を吹き込むみたいな意味合いがある単語で、
結局それって自分の思いを吹き込むみたいな感じの意味合いで今使われてますけど、
まさにそれですよね。
いわゆる創作、クリエイションの原点って何かって言ったら、
まず自分がこういうものを作ろうと発案するところ、
そこが一番大事なわけです。
それを言語化して、それを何らかの形で創作に向けるんだけど、
それを昔は手で書くしかなかった。
そんな時代が終わってですね、
AIに任せれば自分の思いをイメージにすることができるようになった。
音楽もそうですよね。
SNOWとか使えば音楽が作れなくても自分のイメージを、
大体こういうイメージでとかやれば音楽が作れるようになってきたと。
これはプログラミングとかもそうです。
プログラミングの知識がなくても、
大体こういうプログラムを作ってと言えば今できるようになってきていたり、
文章が苦手な人も大体こんな感じで文章を作りたいんだけどと言えばやれるようになってきたわけですね。
だけどこういうプログラムが作りたいとか、こういう文が作りたいとかっていう、
ゼロから1のところはやっぱり人間がやらないとしょうがないわけですね。
そのゼロから1のところがどれだけ創造性が豊かにあって、
他の人と違うものが作れるか。
これがめちゃめちゃ大事な気がするんですよね。
実際に自分もAIを相当使いながら、
AIでアート作品も今まで何作か作ったんですけれども、
個人的にはAIで絵画作品を作っている時と、
手で絵を描いている時と全く同じではないんですよ、もちろんね。
手で描いている時というのはその行為そのものがペタペタやっていること自体が楽しい。
それは泥遊びが楽しいみたいな感じの、非常に触覚的な感覚的なものがあるんですけど、
AIでアートを作っている時も創作の楽しみってあるのかといったらやっぱりありますもんね。
皆さんもそうじゃないですかね。
このスタイフ界隈では音楽をAIで作った人もいると思いますけど、
それだって何か創作の楽しみがある。
逆に今まで絵が描けないと思っていた人、
そういうツールを入れることによって、もともとあるひらめきとか感性みたいなもので勝負できるようになったという点では、
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非常に民主化されたということになるんじゃないのかなと思うんですよね。
実際、僕がアートを作っている時っていうのは、
AIでアートを作っている時にはオーケストラの指揮者をやっているような感じがします。
だからそのAIを使ったアートは、音楽もそうなんだけど、指揮者に似ていると思うんですよね。
自分で作曲をするわけではなく、
あるいは自分で演奏もするわけではないんだけれども、
自分の中にこんな音楽にしたいという明確なビジョンやイメージがあって、
それを指揮するということを通じて、
ここはもうちょっと、例えばコントローバースはもっと大きく、朗々と鳴らしてほしい。
この例えば大声はもっともっと繊細にならしてほしいとかですね。
アートだったら、これはもっと全体的にザラッとした質感が欲しいであるとか、
あるいはここはもうちょっと冷たい色が欲しいであるとか、
そういうディレクションですかね、指示を与える。
それがすごい大事になってくると思うんですよね。
要するに職人的な経験というものがAIによって保管されてくると、
一番どこで勝負が分かれてくるかというと、
やっぱりゼロから1の発想だと思うんですよね。
人と違う発想がどれだけできるか、
どれだけオリジナリティのある発想をすることができるかというところがポイントになってくる。
だから発想が貧困な人がAIを使っても、
貧困な発想から生まれたようなものしか生まれてこない。
これは当たり前ですよね。
誰でもある程度の水準のものはできるようになってきたけれども、
それだけに本当にオリジナルなものというのは、
よりこれから評価というものは高まっていくのではないかなと思いますし、
そもそもAIと手描きのアートというものの壁も、
僕の中ではないですね、個人的にはね。
前にAIアートリミックスなんて言って、
自分の絵画作品をAIに読み込ませて、
また違ったテイストで楽しむなんてこともやってますから、
そういう意味でね、
AIで描いた絵だからダメだ、みたいな硬直化した考えでなくてもいいんじゃないのかな、
というふうに僕は思ったんですが、皆さんいかが感じられたでしょうかね。
気が付くと14分も結構喋りましたけれどもね。
ちょっと好きなジャンルなんで熱中しちゃいましたね。
というわけでね、今日のお話いかがだったでしょうか。
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OK, that's it for today. Thank you for listening.
And have a great day.