長嶋茂雄さん、ありがとうございました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
サマリー
長嶋茂雄さんの死去を悼むエピソードでは、彼のプロ野球における功績や影響力について述べられています。特に、長嶋さんの背番号や成績、さらには野球が彼の人生にどれほど重要であったかが取り上げられています。
長嶋茂雄の訃報
はい、zaboでございます。 ミドル巨人くん ぶらんにゅ〜でございま〜す。
この番組、ミドル巨人くん ぶらんにゅ〜は、巨人おじさんzaboが巨人を語る番組でございます。
Radiotalkをキーステーションに各種ポットキャストに配信しております。
6月3日、3本目の収録を22時8分に収録しております。
残念ながら、6月3日の巨人対チバロッテの交流戦の初戦は、雨で中止となってしまいました。
はい、チバロッテ、千葉県ですね。
千葉県のご出身で、巨人軍加えてNPB、プロ野球ですね。
日本の国内のプロ野球、こちらの方に多大な貢献をされていらっしゃいました。
長嶋茂雄さん、長嶋衆心栄養監督さんがですね、この6月3日、6時39分に肺炎のため都内の病院で亡くなるという不法がですね、
本日のお昼前ぐらいに入ってきました。
この話題を取り扱うかどうか大変迷ったんですけれども、長嶋さんの言葉にも、野球が人生のすべてであるみたいな言葉をよく言われて思い出しまして、
僕にとって野球は人生のすべてではないのですけれども、それに近い存在がポッドキャットなのかもしれないなと思って、長嶋さんの話も触れておいたほうがいいかなと思って、おしゃべりを始めました。
長嶋のプロ野球キャリア
長嶋茂雄さんね、千葉県にお生まれになって、桜高校卒業後ですよ、六大学の立教大学へ進学されて、大人気を博します、大活躍をされるわけでございますね。
当時の六大学といえば、プロ野球よりも人気の高いコンテンツだったって聞いてるんですね。
僕、当時のこと知らないですよ。聞いた話によりますと、そういう風に聞いてて。
確か、南海半球巨人が争奪戦を繰り広げたんじゃなかったかな。半球だったっけな。とにかく複数球団が争奪戦をしたそうです。
ドラフトのない時代です。なんやがんやって巨人に入団という形になりました。
卒業1年目からスタメン出場。対戦相手はコクテクス・ワールドワーズでした。
後に400勝する金田正一というハウスポピッチャーが開幕投手。
長嶋さんは4打席連続3進だったんじゃなかったかな。
それも全て空振りだったんじゃなかったかな。ちょっと潤覚えというか聞きかじったことをですね。
うっすらぼんやり思い出しながら喋ってます。
で、その3進のシーンの写真をですね、今回のサムネイルに使わせてもらってますね。
長嶋さんはその入団1年目からの初戦はそのような3進で幕開けをするわけですけれども、
蓋を開けてみれば1年目から新事業。それからタイトルも何個も取ったのかな。
で、おなじみテンライン試合でさよならホームランなどなど数え切れない記録にも記憶にも残るそんな名プレーヤーでございました。
勝負強い打撃と見せる守備。長嶋さん曰くですよ。
ショートへの平凡なゴロが一番サードの見せ場だなんていう言葉も言ってらっしゃったことをよく覚えております。
当時多球団にはない花と花のあるエンターテイナーであったことは皆さんご存知かと思います。
監督就任後もですね、巨人で初めて再会になってみたかと思えば、
翌年はペナントダッシュしてみたりですとか、あるいはガルベスが大暴れしたときは出席した翌日に丸坊主球場に入ってみたりでとか、
いろんなパフォーマンスで僕らを楽しませてくれた長嶋修行さんでございました。
昭和を彩ったスーパースターというのもだいぶ減ってきましたよね。
ニストラヒバリさん、力道山さん、長嶋修行さん、手塚治虫さん、昭和を代表する有名人だと思います。
巨星オスといった感じがあるんですよね。
さっきも言いましたように6月3日の6時39分に亡くなったと言いました。
長嶋さんはずっと3にまつわる背番号がおなじみでございましてね。
この6と3、それから6時39分の639、全部3の倍数ですね。
亡くなったのも89歳ですか。下人桁が9ですね。
背番号の歴史も言ってみましょうか。
1958年から1974年、現役の時は背番号が3番。
引退後、1975年から90番を背負いまして青年監督を務めます。
1980年まで勤められますね。
13年の間、スポーツキャスターですとか、野球開設ですとか、あるいはタレント活動なども経ましてですね、
1993年に背番号を33を付けて、教授に帰ってきてくれました。
Jリーグが開幕して、なかなか野球人気を低下してた頃だったと記憶してますよ。
長島さんの力を借りてという、また球団、あるいはリーグ、あるいはNPB全体の期待を背負いながら、
背番号を33を付けて帰ってきてくださいました。
そして2000年に入団することになる広島東洋カープからFA宣言をした江藤選手。
彼がずっと背番号33に愛着を持っていたということもあって、
古くからの背番号3番を2000年から新たに再度付け始めるといった形で、
2001年までこの背番号を3を付け、巨人の監督として活躍してくれました。
退団後は終身名誉監督として、その後もOBとして、
巨人の野球の戦いに携わってくれたというような監督さんというか、
そのような野球人でいらっしゃったと思います。
2013年5月5日子供の日には国民栄誉賞を授与されまして、
これね、僕が持っているプロ野球カードを唯一レアモンと言っていいでしょう。
松井秀樹さんとね、2ショットで写ってるカードの写真も小さくしてね、
サムネイルに登録させてもらっております。
国民栄賞ね、プレゼンテーターは当時首相だった安倍晋三さんでございました。
安倍晋三さんもお亡くなりになっていますね。
長島修行選手時代の通算記録をひも解いてみたので読ませてもらいましょうか。
通算アンダーが2471アンダー、本類だが444本、当類が190当類、経験数が205通算打率が3割5輪、
OPSは9位の919でございます。
すごい数字だと思います。
加えまして、オールスター、1500打数があって打率が3割1分3輪、7本類だ。
日本シリーズが265打数あって、3割4分3輪25本と大舞台で強い選手でございました。
監督就任後も1982試合でタクトを振りまして、
長嶋の影響と遺産
1034勝889敗59分けで通算勝率が5割3分8輪、
Aクラス12回、Bクラス3回、セリーグ優勝5回、日本一は2回といったような監督さんでいらっしゃいました。
とにもかくにも非常に明るい太陽のような存在だと言われ続けました。
こんなことを言ってはあれですけど、年老いた私の父も長島さんに憧れて野球を始め、
就職後は野球を見ながら、あるいはラジオで野球を聴きながら酒屋を経営しまして、
私3兄弟がいますけれども、男3人兄弟加えて母、じいちゃん、ばあちゃん、この辺をしっかり生活させるように稼いでくれた父でございますね。
父は健在です。父は健在なんですけどもね。
父が働き者であったのも長島さんの影響の一端もあったんじゃないかと僕はそのように思うんです。
今は非常に大谷翔平さんを父は応援しています。
そういえば今朝長島さんの不法があった直後もですね、大谷さんが長島さんとの通知写真をインスタに掲載するというようなこともありました。
これ僕インスタオンタイムぐらいで見たんじゃないかな。すぐ確認しましたね。確認というか目に入ってきましたね。
あと本日シーズン23号を放ったんでしょ。これまた三絡みですね。
呆れるほど酸にまつわるエピソードの多い長島さんかと思っております。
フリーで喋っておると結構ツラツラと出てきます。12分ではもう語るに足りないんですよね。
でもでも今11分45秒ちょうどいいペースでお喋りできたんじゃないかなというふうに思っております。
ミドル巨人くんブランニュ、ザボ、ツイート長島茂雄会でした。ありがとうございました。
12:01
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