1. グッドバイブス ミッドナイト楽座
  2. 020 人生から罪悪感を追い出し..
2022-09-02 42:00

020 人生から罪悪感を追い出してみる

今日は私たちが抱く恐れや不安のひとつ「罪悪感」について話しています。番組でお知らせした「いまここで閃いて動く 〜 Jazzin’ Work!」のお申し込みはこちら→ https://goodvibes20220902.peatix.com

00:00
グッドバイブス ミッドナイト楽座 by 倉園佳三
こんばんは ただいま9月2日金曜日の3時48分ですね
今日は あの例のエフタさんとやらせていただいている1ヶ月執筆講座の書き始めの日なんですよね
講義はもうすでに終わっているんですが9月1日から書き始めてくださいと
まさかね私の今までの経験だとこの初日に原稿が来るはずがないだろうと高く送っていたんですが
目が覚めたらもう一つ届いてましたね結構早い時間に
その後も続々と3本今日原稿が投稿されたんですね
まあこれは素晴らしいことなんですけどもね
一日そのことをちょっと心の片隅に置きながらね
そっか今日から構成始まるぞと
できればこの3本を今日中に終わらせられたら最高だなみたいなね
まあでもこういう予想は私はあまり信じていなくて
皆さんにもね最低でも2,3日はお待ちくださいとお伝えしてあって
場合によって混雑した場合がねもう少しかかる時もありますと
そのぐらいの余裕を持っておかないと
とてもじゃないけど多分ね1日に3本なんてのは無理だろうなと思っていたんですけどね
でもできたらやりたいなぁとか思いながら
結果としてお一方最初のお一方だけ終わりました
これがどのぐらいその書き上げもう一方のその佐々木さんとやってる書き上げ塾
これは本を一冊書くというねそういう結構まあガチなガチな講座でして半年かけてやりますからね
これとやっぱりその1ヶ月そしてまあ1000字2000字ぐらいのブログをやりたいという方とは
ちょっとマインドがね少し異なるだろうなという
これもまあ私の勝手な思い込みなんですが
まあ要はねどのぐらい本気と言ったら変ですけどどのぐらいまで行けばいいかなみたいなね
ちょっと私の中でこうそこのなんつーのかな頃合いがまだ読み切れていなくてね
まあ最初の原稿を見せていただいてそこで感じたままに動いてみようかなと
そんな風に思っていたんですけども
なんとねまたこれが面白い流れでして
前回お話しした私と他の人とねそしてこの世界の流れを信頼するという
なんというのかな最初の原稿としてはいろんな意味で
まあ細かくどこがっていうのはこうあえて申し上げませんけども
私にとってすごくこういい感じのね
本当に何かをこう測ったり決めたりするのに最適な作品が届きましてね
こういうことがやっぱあるんですね流れなんですまさにこれがね
そのとても素晴らしい内容でしたし
そのとても書き慣れている方なんじゃないかなというね
03:01
書き上げ軸と違ってその直接対面でお目にかかっていないので
その方がどんな個性を持っているかとかいうことを知らずに構成をするんですけどもね
これが一つの今回の教室の私にとっての一つの楽しみなんですが
それがたまたまなんていうのかな偶然にも書き慣れていて
なかなかいい感じの内容でそれを見ていたらですね
もうこれ普通にやろうと書き上げ軸と何の差もつける必要ないし
僕が何かをセーブする必要もない気を使う必要もないと
もともとねその制度さんが憎くて僕が外出しているわけじゃなくて
その真逆ですからね一緒にその可能性をもっと見ていきましょうよと
広げていきましょうよというコラボレーションなんでね
これはもういつものモードだというので
もう本域っていうんですかねフルパワーで入れさせていただきました
そしたらやっぱり結構時間がかかってこの時間という感じですね
あと今日は昼間は私の家から歩いて30分のところにある美容院に行きましてね
そこもここの南大沢に引っ越してきて
なかなかやっぱりこういうね地方に行くといい美容院っていうのはなかなかめぐりあえないんですけど
たまたまねなんとなくこじゃれたお店だなと思って
勇気を振り絞って4年ぐらい前から入ってみた
そしたらなんと青山で美容師さんされてた方がね
奥さんと一緒に独立して
そのなんとなくふるさとが南大沢だった
南大沢ってかね多摩境なんですね地域で言うと
うちの隣町みたいな感じ
まあでもこの辺が多摩ニュータウンのあたりのね
この辺に生まれ育った方で
地元に帰って自分のお店をやりたいっていうんで始めたお店
でまあなかなか腕も良くてですね
3年ぐらいその行き始めて1年ぐらいの時に
2人でねそのオーナーさんとお二人で
ちょっとものすごい短いバージョン髪の毛ですよ
短いバージョンやってみませんかみたいな僕が提案をしてね
いいんですかじゃあバッサリ行っちゃいますよ
ってベリーショートにした時があって
それがなんか僕はもう痛く気に入りましてね
なんか自分の年齢と合ってるなっていう感じがして
よっしゃもうこれをなんか私の髪型にしようつんで
それ以降その時の写真を知人に撮ってもらいまして
必ずiphoneにそれを入れて
美容院に行く時は複製してね
一番手前に写真を持ってきて
必ずそれを見せてこれでお願いしますっていう風にやってたんですね
それがもう2年ぐらい続いてたのかな
ところがなぜか知らないけども
同じ人が切るのにその一発目の形にならないんですよ
で僕はそのたんびにねちょっとフラストレーションをためてね
いやいやもうちょっと短いですよ
だいたいこう長めに触れるんですよ
06:00
なんかこう私から言わせるとなんかビビってませんみたいな
この前バッサリ言ってくれたじゃないですか
あれあれあのあなたを出してくださいみたいな
そうは言わないんだけど心の中ではそういう叫びが
もうずーっとその切ってもらってる間中ね
ああなんかもうここで終わりにしてる
いやいや絶対それ長いってみたいなそんな感じ
それでシャンプーした後もね
もうそこから普通はセットで終わりなんだけど
もう一回切ってもらうみたいな
僕はなんかねこういわゆるこう手に職を持ってるね
デザイナーさんとかその美容師さんとか
そういう方とのお付き合いというのはね
なんかやっぱりこう一発でこう阿吽の呼吸みたいな感じで
こういう感じでお願いします上がってきます
素晴らしいOKですっていうのがやっぱり理想なんですよ
だからなんかねできればこうそんな時点で
口を出したくないっていうのがありましてね
これは私の勝手な美意識というかね
正しさなんですが
そのやりとりがねなんかやっぱり
毎回毎回こう嫌でね
でも行っていくと必ずそうなるんですよ
なぜかねだからこの2年間ぐらいは
そんなやりとりを重ねながら
で結果その最初の形にならないんですよ
なってないんですよ全然違うんですよ
どっかが違うんです
で昨日じゃないやおとといかこのポッドキャストでね
たまたま自分と他の人とこの世界を信頼するという話をね
自分でしたっていうそれを
ポッドキャストでこう聞きながら歩いてたんですよ
プレイバックしながらね
ああそっかと俺なんか信頼が足りてなかったなって感じがね
その時ファッと思い浮かんで
写真見せるのやめようと思ったんですよ
写真を見せるというのは
なんかやっぱ保険かけてますよね
口で伝わらなかったらやばいなと
でこの人が私のその
数ヶ月前の髪型を覚えてなかったらやばいな
みたいなのがあって
多分これ恐れや不安なんですね
で写真を見せていたから
これをやめてみようと思ったんですよ
それで今回初めてね
その最初のバチッと決まった髪型以降
前にしてようやく写真を見せずに
一言前のバッサリしたあれでお願いしますって言ったんですね
したらなんかちょっといつもと違う感じの
彼が見えた感じがしてね
で切ってもらったら
見事に同じになったんですよ
2年間追い求めた
あの髪型がついに再現されたんですね
そこで僕は本当に学びましたね
なるほどと
これは僕の恐れや不安で余計なことをしていたんだなと
彼は自分で切っているので
お客さんの頭は直接見ているんだけど
それを写真で見たことはないんですよ
おそらく
だからそれを見せられると
多分別のイメージを持ってしまうんだろうなと
その写真から受ける印象ね
もともと写真というのは
現実を正確に捉えているわけではありませんから
角度とかね
ある一場面を切り取っている
09:00
二次元に切り取っているだけなんで
彼はそれを見ると長めに触れるんだな
というのに気づいたんですよ
だから僕の保険というか防御ですね
自分の思い通りにならなかったら困るんで
それを防ぐための準備みたいなものを
写真としていつも提示してたんだけども
これが余計なことだったっていうね
これに気づきましてね
これを手放した瞬間に
私が望むものが手に入ったっていうね
まあ見事な実例というか
を味わってきたんですけどね
ということは恐らく今日はね
恐れや不安の話をした方がいいんだろうなというね
恐れや不安というのは
基本的にはほぼ100%原因は過去にあると
考えて大丈夫だと思います
一点未来の不安のように見えるもの
例えば今日の私の話もまさにそうなんですよ
美容院に行く道すがら
今日もまた何かやりとりがあったらやだなと
そしてそのやりとりの結果
思い通りの髪型にならなかったら困るなと
やりとりしたくないなみたいな
未来の不安を抱えてますよね
どうしてそれが浮かぶのかっていうと
一つは何度もその2年間ね
何度お願いしても
同じ髪型にしてくれなかったという
過去の経験記憶なんですよ
これを僕は恐れとして持ってるわけですね
そしてそれが未来に再現されたら嫌だなと
またその目にあったら嫌だなと
しかもその再現したいものも
実はその持った前の過去にあるでしょ
過去にあった
過去にその得た成功体験を再現したいと思ってるんですね
過去に得た成功体験を再現しようと思い
うまくいかなかった過去っていうね
ダブル過去
これによってまたこの目に合うんじゃないかという
未来の不安が湧き起こるというね
だから簡単に言うと
過去がなければ
未来の不安というのは持てないんですよ
自分が一度も味わったことがない
ひどい目について
未来の不安を抱くことはおそらくないはずです
なんだかそれに近い経験から
これは嫌だな
これは避けたいな
こうならないようにしたい
失敗とかねミスとか
誰かに何か嫌なことを言われたとか
そういうものが過去の記憶経験が
未来の不安を作っていると考えると
多くの恐れや不安は過去にあるんですね
そしてこの過去にある恐れや不安の中で
一番僕らが気をつけなければいけないというかな
厄介だなと私が個人的に思うものの
一つが罪悪感なんですね
これについてね
今日はちょっと掘り下げてみようかなと思います
罪悪感もいくつかあるんですが
自分に痛く罪悪感っていうのに
特化しましょう
本当は罪悪感から解放されるためには
必ず自分が痛く罪悪感と
12:00
自分が人に見る罪というかね
こちらの罪悪感と両方に手を当てないと
実はうまくいかないんだけども
アプローチの順番として
やっぱり人の言動を罪と見ないとかね
そういうのは難しいっていうか
ものすごい抵抗感があるんですよね
それは無理でしょうと
そもそも無理すぎてやる気にもならないみたいなね
そんなことしちゃダメでしょみたいなね
様々な抵抗が自分の中から湧き上がるのでね
僕はやっぱり最初にまず
やりやすい方は自分の罪悪感に向き合って
これをできるだけ手放していくというのが
おすすめなんですね
これ最初にやっぱりこうやっておく方がいいのは
罪悪感とは何かという一つの認識ですね
よくこの話をすると聞き合いに出すのが
自分があなたが5歳の子供だったとします
という話なんですね
両親がちょっと30分ほど家を開けると
買い物かなんかでね
だから留守番しててくれないかなと
最近ではこの話をすると
もうそういうのはありえないらしいんですけどね
子供を30分一人で置いておくみたいなね
昭和生まれの私の世代だったら
そんなのしょっちゅうだったはずなんで
この辺もどこかでそろそろ改定していかなくちゃいけないんですけどね
そうだったとしましょう
出ていく前に両親が
冷蔵庫の中にあなたの大好きなジュースが入ってるの知ってるよねと
でもそれ高いところにあるから
手が届かないから危ないからね
帰ってきたら必ずあげるから
一人でいるときは冷蔵庫を開けちゃダメよ
ジュースを飲んじゃダメよと言われたと
子供は分かったって言って素直に
そんなことはしないよって言って
じゃあ行ってくるからねって言った5分後ぐらいに
もうジュースが飲みたくなってしまいましたと
台かなんかを探してきてね
今時の冷蔵庫は扉が上の方にありますから
それをバンと開いて
瓶に入ったオレンジジュースを取ろうとした瞬間に
ガチャンと床にぶちまけて割ってしまった
絨毯もビショビショ
この瞬間にまず僕は
自分のやったことを罪と思うわけですね
そして20分ぐらいかな
すると両親が帰ってきますわね
その時に恐らく怒られるだろうなと思う
これが罰ですね
これが罪と罰
ジュースをぶちまけ終わってますから
今僕がそのことに思いを馳せている状態
現在の私から見ると
罪は過去にありますね
あらゆる罪の意識というのは過去にあるんです
15:00
これが過去につながるんですけどね
彼は何を怖がっているかというと
20分後に両親が帰ってきて怒られるという
この罰を怖がっているんですね
過去に罪を見て
未来に自分に与えられるであろう罰を怖がると
これが罪悪感の正体ですね
ここが一つ重要なポイント
しかも面白いことにって言っちゃいけないんだけど
私5歳の子供はね
実は親が帰ってくる前に罰を受けているんです
それは何かというと
自分を責めてますよね
なんで開けちゃったんだろうと
なんで言いつけを守れなかったんだ
それさえやっとけばこんな目に合わずに済んだのに
とか思いながら
小さいながらも目についたタオルを取ってきて
一生懸命拭こうとするんでしょうね
本当は床を拭いてはいけないタオルだったりして
それでまた怒られたりするんだけど
要は
お父さんお母さんに怒られる前に
自分に責めるという罰を与えていると
これが私たちが自分に抱く罪悪感の正体ですね
だから
例えば未来に不安なことが起きたときは
これを一回思い起こすといいんですよ
この不安はなんだろうと
この不安が自分に対する罰に思えるような
罪を俺は過去に見ているのかな
みたいなね
あまり一生懸命作らなかった会社の資料
みたいなのがあったとするじゃないですか
ギリギリで間に合わせで適当にやってしまった
これを日曜日にやって
明日の会議嫌だなと思っているこの未来への不安ですね
これは間違いなく未来の会議で
出来損ないみたいな資料を出して
突っ込まれるという罰を恐れているわけです
罪はどこにあるかというと
着手が遅れて締め切りギリギリにいい加減に
まとめてしまった資料という過去の罪ですね
そっか未来の不安っていうのは
そういう類のやつもあるんだなって
これ一つ認識として持っておくと
自分が何を怖がっているのかというのがよく分かりますよね
未来が怖くなった時は
過去にそれが罰に思えるような罪悪感が
どこかにあるかなって言って探しに行くわけですね
これが一つ
だから罪悪感というのは時間軸を持っているということですね
過去に罪があり未来に罰がある
そしてその未来の罰を怖がりながら
その罰が来る前にその罪を犯した自分を責めているというね
しかもその未来の罰はないこともあるんですよ
お母さんお父さんが帰ってきて
あらあらが大変ねごめんねやっぱりちゃんと前にあげておけばよかったね
って言って怒らないっていう可能性もありますよね
なんかこの間この話を偶然
18:01
その保育室さんの前でしたらね
さすがプロだけあってそれはどう考えても良心が良くないですよ
みたいなことを言ってくれたんですけどね
やっぱりちゃんとジュースは出してね
これを飲みなさいと言って出かけるべきでしたねみたいなね
そういうことが分かっていらっしゃる良心であれば
そこで子供を責めたりはしない
つまりその子供の心の中にあるんですよ
会議もねその資料がなんかパッと通ってしまうことだってあるんで
ひどい目に遭わない可能性もある
でも僕らはその罪と見てしまう
自分がやっていることを罪と見てしまうことによって
恐ろしい罰が待ち受けているんじゃないかという恐怖を抱くわけですね
あるかないかどうでもいいんです
そしてその罰があろうとなかろうと
その間ずっと自分を責めていますから
結局は同じことをやっているということですね
罰を受けているのと同じだということです
ここからが重要なんですが
その罪悪感を持つと僕らはどうなるかということなんですね
一つは今お話ししたように自分を責めますからね
人というのは誰に責められようと弱くなるんですよ
これが他人であろうと自分であろうと
何やってんだお前何やってんだ駄目じゃん
というふうなことを罰せを浴びせられているときに
いつもの自分の強さを発揮できる人はまずいない
しかもこれは他の人だったら
例えば責められて僕が落ち込む
すみませんすみませんはいはい
だんだんうなだれていく様子を見ていると
このぐらいにしてあげようという冗長釈量というか
無罪方面でいいよという
情けみたいなのがかけられるんですよ
他の人が自分を見ている場合だったらね
そうじゃない冷徹な人もいるかもしれないんだけど
大抵はもういいよという気持ちになっちゃうんですね
これが僕が本性愛だという一つの根拠なんですけどね
それは置いておいて
ところがこれが自分でやる場合はないんですよ
一切この冗長釈量の余地がないというかね
言い訳を許さないんですね
なぜかというと全部自分で知っているからなんですよ
そのジュースを飲みたいと思った欲望が湧いた瞬間
それも知っているし
大丈夫だろうと鷹をくくってドアを開けてしまった
自分のその浅はかさみたいなのも知っているんで
許す余地というのが見つからないんですね
だから人から責められるよりも
自分で自分自身を責める方がきついことをするんですよ
どこまでもやってしまうんですね
特に人が誰かを責めるときって
さすがにその人のために2時間も3時間も
使いたくないじゃないですか
だから霧のいいところで切り上げるんですよ
もう分かったらいいよ
帰っていいよって
だけど自分ってずっと自分の中にいますから
下手すると何日も何日もやることができる
21:00
こんなものを自分で受けていたら当然だけど
エネルギーは失うし消耗するし
元気がなくなるし自信もなくなりますよね
ひどいことを言うんですよ
過去のところまで全部振り返って
お前昔からそうだったの?
そういうところでいつも逃げてたじゃないか
頑張らなかったじゃん
みたいなことを平気で自分に言えるんですよ
これをやるとものすごく弱くなる
面白いことに
その罪悪感を感じるときっていうのは
僕ら何かをやらかしてるんですね
さっきの子供でいうと瓶を床にぶちまけてますからね
これが子供じゃなくて大人だとしたら
当然だけどそこをきれいに掃除しなきゃならないんですよ
これは会社だろうとプライベートだろうと
変わりはなくてね
何かやらかしたっていうときは
何かをしなきゃいけないときなんですよ
ミスを補うとかね
迷惑かけた何かを自分で処理するとかね
そんなときにその一番
自分が本当は動かなきゃいけないときに
罪悪感を持って自分を責めている
その弱い状態になるっていうのは
自分の選択であるはずなんですね
だからまずはこれが一つです
やらかしてしまい罪悪感を抱くそして弱くなる
そうするとそのとき本当はリカバーしなければならないことが
事に取り組めなくなる
動けなくなるその力を失うってことですね
どう考えてもいい結果にはならないと思います
そしてそれから
この罪悪感がもたらすもののもう一つはね
僕らはキャパシティみたいなのがあるんですよ
どのくらい自分で罪悪感を背負えるかっていうね
この罪悪感は自分で作り出しますからね
これは罪だこれはひどいことしてしまったっていう風にね
だからある意味再現なく増やすことができるわけです
これを持てるキャパシティっていうか量っていうのが
なんか僕の中ではあるような気がするんですよね
決まっているような気がする
範囲であればそれを見ないふりをするというかね
全部一個一個見ていたら辛いしね
それを見れば見るほど自分で自分を責めてしまうんで
隠すみたいな感じなのかな
心の中にしまい込んでおくとこれができるんですよ
キャパシティの要領分だけね
ところがそれにも限界があって
溢れてしまう時があるんですよ
もうこれ以上は隠しきれない
これ以上は自分の心に抱えきれないってなった時に
僕らはその罪悪感を人にぶつけようとするんですね
さっきの子供の例で言えばね
例えばお母さんから怒られながら
最初はキャパシティの中に自分の罪悪感を溜め込んでいくんだけど
それが何度も何度も例えば続いたりね
24:01
その説教がすごく長くなったりすると
もうこれ以上抱えきれない
ポロッと溢れる罪悪感が出てきてしまう
その時にそっちだって
ジュースを用意しておかなかったのが悪いんじゃないか
っていう風に言いたくなるんですね
こういうのってありますよね
例えば上司にコピドク怒られてると
最初はおとなしくしおらしく聞いてると
そのうちにお前そんなんじゃもう
社会人としてこれからやっていけねえぞ
みたいなことをパンと言われた瞬間に
罪悪感がポロッとその許容範囲を超えて
そこまで輸出がないじゃないですか
みたいなことをね
口に出すか出さないかは別にして
急に逆切れみたいな現象も多分そうだと思うんだよね
あれ不思議ですよね
逆切れってやっぱこうなんていうのかな
その瞬間人が変わったようにやっぱりなるっていうのを
僕ら目撃してるはずなんだけど
この時なぜ人が変わったようになるかというと
それまでずっと心の
自分の心の中にその罪悪感を受け取り続けていたんだけど
もう無理だってなって
それをお前に渡すっていう風なことをやってるわけですね
これをやると必ず人間関係ってのは
罪悪感のキャッチボールになるわけです
今自分の立場で話してますが
向こうも同じですからね
相手も同じメカニズムで生きてますから
2人のやり取りの中で罪悪感が発生して
それを自分の中で抱えきれないってなった時に
キャッチボールが始まるんですよ
お前に渡す
いやいやいやいや
これは俺は受けたくない
お前に渡すっていうね
これが第2の僕は弊害だと思ってるんですね
コミュニケーションが全くうまくいかない
そして問題の本質が全くわからなくなりますね
これをやると
何をどう2人でどう解決すればいいのかではなくて
この罪悪感をどちらに渡すかっていう
このやり取りになってしまうんですね
だからいい機会なんでね
自分でやってる時はちょっと嫌かもしれないんだけど
誰かが揉めてる話を横で聞いている時に
今どんな罪悪感を2人で投げ合ってるかなっていうのを
観察するのはとても勉強になりますね
これもちょっと当事者に対しては
失礼かもしれないんだけど
でも一つの学びとしてですよ
何で揉めてるんだろうではなくてね
何で議論してるんだろうじゃなくて
この2人は今どんな罪悪感を投げ合っているのか
っていう風に見るわけです
これはとても役に立ちます
自分がそのポロッとこぼれてしまった時に
俺今この罪悪感をこの人に投げようとしてるってことに気付けるんでね
もしくは相手がそれを自分に投げかけようとしてるってこともわかるでしょう
どちらにしてもこれはいいことはないっていうね
さっきの自分を責めて弱くなると並んで
僕が罪悪感を手放した方がいいと強く思う理由の一つですね
ここからいつものようにね
じゃあどうすればいいかって話になっていくんだけど
まずはその罪と罰はなんだっていうね
これはもともとこの世界この宇宙にあったものかっていうね
27:03
自然界を眺めながらね地球上でもいいですよ
罪と罰というのは
僕らが生まれる前からこの世界に存在してたんだろうかっていうね
僕はないと思ってます
これは人が作ったものだと間違いなくね
目的は単純ですよ
やっぱり僕らは恐れや不安を抱くとおかしな行動をするってね
私は本性は愛だと言ってますが
その私がね写真のようなものを防御として用意してね
それをオーナーに見せて
なんでお前俺の言った通りに切らないんだって言って
ちょっと切れてるっていうね
これはおかしな行動ですよね
その程度だったらいいんだけど
これがまあまあ色々社会に迷惑をかけたりね
人を傷つけたりする
そういうものをうまくコントロールしてね
そういう行動をさせないようにするという
このために罪と罰というのが多分できたんだと思うんですね
このコントロール法のポイントは恐怖なんですよ
罰の恐怖を感じる
まずね
多分小さなところから感じさせていくんでしょうね
子供が怒られるとかね
昔で言うと
僕らの時代だったらそこにビンタが来るとかって痛いですからね
嫌ですから怖いですから
この目に会いたくないなと言って
自分の行動を修正していくと
これが罪と罰のメカニズムですね
だから恐怖を持って人をコントロールする
多分仕組みであるはずなんですよ
これは多分太古の昔から今まで何も変わっていないと思います
僕らはこれによって正しい行動をするようになるという風に
教えられてきているので
結構頼りにしてるわけですね
自分に対して罪悪感を抱くのも
自分を今占める自分を責めることによって
より良い人間になろうとしているわけですよ
ところが結果はどうかというと
先ほど言ったようにね
弱くなる一方だし
それをなんと人にぶつけてしまうというね
そういう副反応がそこにある
だから僕はこの人が作った仕組みを
自分に適用するかどうかを
自分で選択していいと今思っているわけです
これも以前の放送で言いましたが
社会の仕組み云々の話ではありません
法律を無くして罪と罰をこの世界から
撤廃しようなんて考えはこれっぽちも持ってません
それはまだまだ無理な相談です
なぜならば私たちは恐れや不安を抱くと
おかしな行動をするからです
でも世の中の仕組みにしなくてもね
自分自身にそれを適用するのかどうかは
決めていいんですよ
例えばこういう問いですよね
私は罪と罰のメカニズムがなければ
自分の過ちを改めないのか
自分がしたミスを修正しないのか
という問いかけです
僕はこれは何度もやってきました
前にこの性悪説に
抵抗抗いたいという話をした時にね
性悪説であれば当然だけど
罪と罰でがんちがらめに
30:01
縛っておかなきゃダメですよ
とんでもないことが起こります
この世界が多分破綻します
じゃあ俺はどうなんだってなった時に
僕はそれが嫌だったんですね
何かあったら叩かれる
何かあったら怒られる
そういう恐怖で俺をコントロールしないでくれと
そんなものは必要ない
ちゃんとゆっくり普通に
冷静に優しく話してくださいと
ケイ君ジュースを飲んではいけないんだよ
1回は2回やってしまうかもしれない
そのためにそれを伝えてくださいと
やってはいけないんだよ
そしたらきっと僕はやらなくなるでしょう
子供の頃は仕方ないかもしれないけど
この成人した今となっては
もう言わんがらですよ
言うまでもない
それはやめてほしいと
例えば神さんが言う
私の周りの仕事を一緒にしている人が
倉園さんのそれはちょっととても困る
言う
その時に罰がなければ
私はそれを繰り返すのかってことなんですね
それは全く必要ないなと
僕は自分自身に断言できるんですよ
だから罪と罰のメカニズムは
一切私は自分の中に入れたくないなと思うわけです
この問いはとても有効だと思っています
何か罪悪感を感じそうになった時に
これを罪とみなして
何か自分に罰を与えないと
俺はこの行動を改めないのかって
たったこれだけです
その時にいやいやいやそんなものは要らないと
もうすでにこれは良くないことだと分かっていると
そして誰かに迷惑をかけたことも分かる
もしかしたらひどく傷つけたかもしれない
これを私は今から修正すると
それは謝罪であるかもしれないし
私の行動を改めることかもしれないし
もう一度何かを作り直すことかもしれない
それを全く罪の意識も罰もなく
多分実行できると
この瞬間に少なくとも自分自身で
自分に罪と罰を背負わせる必要は
多分ゼロになるはずなんですよ
これが私が言うところの
自分を許すということですね
許すというのは
罪を見過ごすということではないんですね
これを罪だとまず見て
まあ多めに見てやろうと
これは許すではないんですよ
なんていうのかな
御者みたいなものね
罪だと分かっているけど
まあいいよ今回多めに見てやるよっていう
前提にまだ罪がありますから
これだと罪悪感を手放すことはできないんですね
そもそもそうではなくて
罪と罰というのは
人が作った恐怖で人をコントロールする仕組み
つまりなくていいものなんですよ
これはないものだということです
私が生きる上で
これを採用しないと決めたら
これなしに生きられるということ
しかもこの罪と罰というのは
自分の中にね
一つの正しさの基準みたいなのがあって
それに基づいて裁きを下しね
33:02
これはこのぐらい悪いことなんで
このぐらい自分を責めなきゃいけない
っていう罰を下しているわけです
これ全部頭でやってるんですね
何か現実に証拠を集めて
裁判のようにね
これとこれを犯したので
何条違反で懲役何年とか
やってるわけじゃないんですよ
ただただ頭の中でね
子供がジュースをこぼした時に
お母さんにこのぐらい怒られる
もしくはこんなに悪い子だっつって
自分を責めなきゃいけない
つって頭の中でやってるだけなんですね
判断最低を下してるだけなんです
これは心象なんですよ
現実か心象かで言えば心象なんですね
その心象本当は存在しないもの
頭の中で作り出したものを見て
怯えてる
罰の怖さに怯えてるということは
これはある種夢を見ているのと
何も変わらないわけですね
現実にはその自分がやらかしたことが
罪だと言って
何か私に叫びかけてくるようなことはないわけ
だからこれは頭で作り出した心象
それを見て怯えているということは
夢を見ているということ
ゆるすというのは
ここから目覚めるってことなんですよ
そんなものはなかったな
なくてよかったんだなって言って
パッと
そっかそっか
これを頭で作り出さなくていいんだって言って
目覚めるんですよ
その目覚めるために
ゆるすという言葉でね
この罪と罰はなかったということを
自分に気づかせてあげるということです
とは言ってもね
長年の間この仕組みを自分に適用し
いろんな人からも適用されて
僕らは生きてきてますから
一朝一夕的に
簡単に
じゃあもう罪と罰なくてOK
みたいにはならない
ものすごく時間がかかります
私もまだまだトライ中です
けれども結果として
この罪悪感を持たない方が
驚くほど結果は良くなると
僕は思ってますね
例えばコミュニケーションが大きく変わります
私が神さんと討論をします
神さんは私のこと
私の行動やったこと
罪だと見ています
だから当然だけど
私にその罪悪感を投げてきます
もし僕がその罪悪感を持つことが
怖いなと思っていたら
それを多分キャッチボールのように投げ返すでしょう
いやいやいや
それはお前も悪いじゃんみたいなね
ここでおそらく議論は平行線をたどり
お互いに嫌な気持ちになったまま
別の部屋に行き
その日を過ごすみたいなことになる
でも僕が一切の罪悪感を抱かなければ
その言葉を素直に聞けるんですね
なるほど
彼女は今これが嫌だと言ってるんだなと
そしてそれは僕の行動から生まれたんだなと
なぜそう聞けるかというと
そこに罰を見ないからです
そうではなくて
これは修正できるんだなと
修正できる間違いだなって
見ることができれば
何かができるんですね
そこに罪と罰の概念がなければ
悔しさみたいなのも持たずに済むんですよ
そうすると
何を言われても
まずは相手の言い分をじっくりと聞くことができます
36:00
罪悪感を持っていると
途中までしか聞けないんです
これ以上聞いたら
俺のところに罪が来ちゃうよって言うんで
すぐに反論して投げ返そうとします
僕の中にはないって
そんなものはない
使わないから
もういらないんで
いくら投げられても
僕の中に入った瞬間に
それは罪から間違いに変わる
そしてできることを僕はやるっていう
この感じになるんですよね
こうすると
おそらくあらゆるコミュニケーションは
いい方向に向かっていくでしょう
そして僕が罪悪感を投げなければ
相手も安心するんですね
安心して言いたいことを言える
言いたいことを言い
それを僕が罪と受け止めなければ
その2人のやり取りの中から
罪と罰というものが消えていくんです
なのでこのトライはね
本当に私自身もやっていて
いいことづくめ
これをやり始めて
より悪事に手を染める
みたいなことは絶対にならないので
本当にお勧めします
だから要はとにかくね
何かやらかして
罪悪感を抱きそうになった時は
まずは自分を許すと言うんですね
いや許すと
この許すというのは
罪と罰は存在しない
そもそもさっき言いましたけど
罪は全て過去にあるんですね
過去という時間は今ないんですよ
このあたりの話は
過去をどれだけ大事に思っているか
っていう意味でも
大きく変わってくるんでね
またちょっと別の機会に
過去とは何かっていう話は
したいと思うんだけど
いずれにしても
存在しないことは確かなんですよね
だからそもそもないんです
このないという感覚が大事
許すというのはね
罪を許すのではなくて
罪と罰は存在しないと
少なくとも私の世界には存在しないと
いうふうな認識のし直しですね
つまり目を覚ますということです
その罪と罰の夢から
目を覚ますために
最後に許すという夢を見ると
そんな感じに捉えておくといいと思います
だからもう一つね
僕らが苦手な
人に迷惑をかけてるんじゃないか
っていう罪悪感ね
例えば誰かに何かを手伝ってもらっていると
もしくはミスをリカバーしてもらっていると
この時の罪悪感ってのは
かなり強力ですよね
ここでね
昨日も言ったあるキーワードを使うんです
罪悪感が例えば闇だとしたらね
闇のようなものですよね
自分を苦しめる
これをかき消す光があるんです
反対語があるんですよ
反対の概念がある
それが前回のポッドキャストでも
お話しした感謝ですね
感謝が罪悪感の真逆にあると考えてください
そして感謝を持った瞬間に
罪悪感は消える
とてもシンプルな仕組みです
申し訳ないな
こんな迷惑かけてんだ
大変なことやってもらってんだ
って思う代わりに
ありがとうって言うんですね
いてくれてよかった
ありがとう
あなたがいてくれて助かりました
ありがとうっていうね
この感謝の方だけに心を向ける
その瞬間におそらく
罪悪感はスッといなくなります
39:01
そしてその感謝を使いながら
今自分がやるべきことに専念するということですね
これができれば
おそらく僕らはいつしか
自分に対する
自分に向く罪悪感というのからは
逃れられるんじゃないかと思っています
この次にじゃあ
人がやったことはどうなんだっていうね
この疑問がまだ残るわけですね
ここにはさすがに
罪は残しておかなきゃまずいでしょ
っていうこの感じね
ここが第2の次のステップというかね
ここが完成ステップの完成フェーズなんですけど
この話はまた日を改めてね
どこか別の機会でしたいと思います
まずは自分自身に
いつも背負わせている罪悪感っていうのね
これをできるだけ手放していくという
よかったらやってみてください
前々からお伝えしている
ジャジンワークというね
やりたいことを一つ決めて
それを予定計画を作らずに
日々のひらめきの中で
じゃあ今はこれをやるときだって言って
本当に実行できるのかっていうね
ある種の実験でもあるんですが
私はそれを一応実践しているので
そのやり方をお伝えしながら
皆さんにトライしていただくというね
そういう練習トレーニング実験の場なんですが
これを明日の19時夜からやります
ちょっと早いのかな19時だとね
なかなかちょっと僕が思うほど
人が集まらないんですけど
何人か必ず来ていただいてるんで
小規模でも続けていこうと思ってるんですよね
2週間で1セットなんで
これを繰り返し繰り返しやると
リピート価格半額ぐらいにしようと思ってまして
一度やってみて
2週間やったんだけど
これもうちょっと続けたいなと
というのも翌週のカーモクに
レビューのズームミーティングやるんですよ
これがすごくいい
ここが分かんない
これじゃここがうまくいかなかったってやつをね
その場でリアルタイムに解決していくというね
そしてまた来週トライするって
これを続けるのは
なんか僕は一つの
面白い試みかなと思ってますんで
人が来ようとこまいと
もうゼロでも続けるつもりでいますんで
よかったら明日ちょっと覗きに来てみてください
ちょっとね時間が早いなっていう意見が
多いようでしたら
8時10時1時間後ろにずらすかな
この次からな
そんな感じもちょっと考えてます
そんな感じで今日は
また暑くなりましたね
前回寒くなりましたがとか言ったんだけど
どちらにしても罪悪感を持たない
素敵な1日にしてください
ありがとうございます
42:00

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