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グッドバイブス ミッドナイト楽座 by 倉園佳三
こんばんは、ただいま11月16日水曜日の午前1時32分です。 午後ではなくて午前ですね。
今日は結構早めなんですよ。というのも、おとといね月曜日かな 収録の時に確か4時ぐらい、午前4時からね始めたんですけども
40何回? 49回か今日で。 48回目にして初めてね眠いなっていう感覚が襲ってきまして
やっぱりこう普段でもねやっぱり3時4時ぐらいに仕事が終わってそこから クールダウンの時間を1時間ぐらい設けてまあ寝るという感じなんでね
さすがに4時から何か動くっていうのはあんまないなかったんでね なんか多分あのこのポッドキャストをね
やるという新しいことをやるというある種の一つのねなんかこう引き締まった感じによって 目を覚まして何とか喋っていたんでしょうけども
体がなんとなくこのポッドキャストを撮るということに多分慣れてきたんですね 心なのかなどっちなのかわかんないんですけど
こういうのが面白いんですよねなんかそのついつい前回まで この3時4時でも撮れていたのにね
何故か知らないけどこの48回目にこの4時がきついというこれが来るっていうね だからやっぱりこう
僕らがその頭で考えてねもうこのこの仕事だったら30時いけるみたいなこの読みっていうのはね いろんな要素によっては崩れてくるんですよね
私も今回まざまざとそれを感じましたね だから
多分だけどもこれから先はあんまり遅くならない方がいいんだろうなっていう気がしています というのも
確かいつだっけな先週の土曜日日曜日かなそうそうかき上げ塾の第6期の最後の講義の時に 久しぶりに佐々木さんとね対面で会いまして最近はもう月に1回このかき上げ
塾でしかね佐々木さんとはあのお目にかかれなくなってしまったんですがそこでね やっぱりこうポロッとねなんかその意図せずね佐々木さんポッドキャストってやっぱ大変ですね
つい声をかけてしまったんですよね佐々木さんも700回ぐらいやってるんだよね 私なんてまだ50人も見た見たないんですけどもいやー佐々木さんポッドキャスターきついね
みたいな話をして 話すことなくなるしどうしてますかみたいな話をねちょっとしたんですけどね
ポッドキャスト仲間みたいな感じで ネタなんかもないですよみたいな感じでひょうひょうとしていてね
あーこの人はすげーなやっぱりっていうそんな感じだったんですけどね そういう一つのさすがにねもう50話近くなってくると何話すかなーっていうのを
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自然にはねなんかできないような感じになってきてそういうちょっと重圧みたいなのもあるんでしょうね それがなかったこの
以前は2時でも3時でも4時でもね平気で喋れてたんですけども こういうことをやっぱ微調整しながらね私はこれをチューニングと呼んでるんですけどね
自分の体調とか心の具合 心のありようかなそしてこのその一つの仕事に対するなんていうのかな
自分の感覚感触とかね飽き具合みたいなのもあると思うんですよね 最初はもう楽しくて楽しくてね何もかもが新鮮なんでこの音質がどうだろうとか
とかね bgm がどうだろうかとかいろんなことを工夫したりとかして でまぁそれがこうまとまってきてね
だんだんこういい感じになってくると まあいわゆるこう新しい刺激というのがなくなってくるんですよね
ここに僕らは結構騙されやすくて 新しい刺激がなくなると飽きてきた感じがするんですよね
でそうするとやっぱりこの体もそれに合わせてね いわゆるこうなんだろうな普通のことをやるような
こう感じになっていく だから当然だけども夜遅くなると眠くなって今からやりたくないなぁみたいな感じになって
いくわけですねここをなんとかじゃあどういうふうにすれば そこがちょっと蘇ってくるんだろうかとかね
うまく話せるんだろうかみたいなことをチューニングしながらやっていくと長続き するんじゃないかなと私はねあのブログとかいろんなことを続けながら
編み出してきたんですけどねであの先週の金曜日かな だから前々回になるんですよ46回47回か
あのちょっとねこの話は本当に不人気なんですって言ってね かなりこうエクスキューズを何度も挟みながらブログで書いてもセミナーやってもこの話題は
本当ダメなんですよねって言って話した許すというテーマがね なんとですね初めてあの不人気じゃなかったっていうかね
あの他の外に比べて勝るとも劣らないというかねまさにね むしろたくさん聞いていただいたんじゃないかっていうぐらい
大丈夫な感じでしてちょっと私はこれほっとしたんですよね 許すいけるじゃんみたいな感じでねどうもねこの話をねあの使えないとなると私は
もう手足をもがれたような感じになってしまうんですねこのグッドファイブスっていうのはね もちろんここ抜きでそのなんつーかなこう局所局所例えばこういう時不安な時どうするみたいな話は
できなくはないんですけどね やっぱゴールがちょっとこうなんていうのかなもうちょっと私の中ではね広くてね
自分と他の人とこの世界を信頼しながらそこのそことつながりながらね つながりを通り日も取り戻しながら生きていくみたいなそんな感じなんで
そのためにやっぱり許すということが必要だよねってここを使いたいんですよねどうしてもね これが使えないと
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なんかその途中のちょっとしたこうね 何だ枝枝葉の話にこう終始しなくちゃいけなくて
どうにもこう気持ち悪かったんですけどねあのポッドキャストいけるじゃんみたいな感じで ちょっと手応えをねいただきましたこれもあの皆さんのおかげです
まあねその聞いていただいたのと納得いただいたかその何かこうね 役に立ったかっていうのはまた別の話ですからねあのが最後まで聞いたけどなんだこの話
はみたいなこともありますからね そうポッドキャストを流しておけば自動的に流れますんでね
そこらへんは本当のことはわからないんですけども まああの実際もっともっと人気のないあの番組というかね
会話ありましたから それに比べたらまあいいんじゃないかなしかも許すとねタイトルに僕入れましたからねこれも
前迷ったんですよねこの許すという言葉を表に出さずに何とかこう聞いてもらうみたいな インチキな作戦も考えたんですけどいやいやここはやっぱ許すとタイトルに入れて
どのぐらい聞いていただけるかっていうのね自らそのちゃんとこう認識しなきゃダメだと思って 正々堂々と入れたんですよね
それからもう一つこれもあまりあの今までその人気のあるコンテンツではなかった 体が自分ではないっていう話をね2つしたんですけどもね
これもなんと結構なあの回数聞いていただきまして なんかちょっと何ですかねやっぱりこの
直接私がこう喋るということで文字で書いたりね まあセミナーというのはもともとその切っていただかないとどんな話かわからないんでね
タイトルで引きがないみたいな世界はあると思うんだけど なんかこのポッドキャストというメディアだったらいろんなことがいけるのかなぁというねこれ
もわかんないですよ私の想像心象なのかもしれない でもなんとなくこの数字がねそんな風に物語ってくれているんじゃないかなと
まあやってよかったなという感じなんですけどねだからなおさら大事な話をやっぱりこの 朝の午前4時からするっていうのはもうやめようかなと思ってね
わかんないまた明日明後日どうなるかはわからないんですが しばらくはちょっと早めの時間に取ろうという感じでねいますそして今日はですね
そうきたんであればってもそうきたっていうのも変ですけども そんな風に聞いていただけるんであればさらにこの話を突き詰めようかなと思いまして
要はその許すの反対は何かつったらねまあこれは怒りなんですよね 怒りを抱くから許さなきゃいけないっていうそういう構造になっていく
だからその許すことができるためには逆から攻めるてもあるんですねこの怒りを手放す っていうね
ただこれをよくこれも少しね誤解されるポイントなんですけどそのグッドバイブスはその 怒りを制御するとか怒りを抑えるとかね
怒ってはいけないのであるみたいなそういうことを私は言ってはいないんですね そもそもこれは前回以前どこかでねお話ししたと思うんですけど怒りという
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その用語が入っている回だと思うんですよねそこでお話ししましたけど 基本的にはこれは恐れや不安
最初に体の反応からきますからね 危ないっていうこの恐れや不安の体の反応これはどうにもならない
アンコントローラブルなんですよ 僕らの意思ではどうにもできないまあなんかものすごい山にこもってね
それこそあの修行僧のように修行をすればねそこもなんとなく 克服できなくはない感じもするんだけどね
さすがに私たちはこの日常で生きていてそんなことをする時間もね 労力も多分気持ちも起こらないでしょうから
そこは置いておこうっていうのがやっぱり私のモットーなんですよね だからバンと体になんていうのかな危険を身の危険を感じ
そしてそこから怒りが込み上げてきてねもうどうにもならんってなった時はこれはもう 解放しなきゃダメだっていうのが私の考えなんですよ
解放するっていうのはそのままぶつけるってことですね まあその怒り現代社会ではそう簡単に相手に怒りをぶつけられる
ケースもねないので家に帰って悶々としてしまうっていうそれも仕方ないだろうっていうね ここで無理やりただ単に怒りに向き合って怒りを抑えようとかね
怒りを抑圧しようっていうのはよほど心にとって良くない だからあの特にねそのグッドバイブスの取り組みをやっていただいている方からね
どうしてもその怒りが手放さなくてまた怒ってしまったんですって言って 罪悪感を抱かれているってこの感覚が僕の中ではね最も申し訳ないなって気がするんですね
だってグッドバイブスの話を知らなければ怒って終わりなのに こんな話を聞いてしまったがために怒った自分を責めなきゃいけないっていうね
余計にね苦しいことになるのでそういうふうにはあの僕もお勧めしていないし
怒ることが起こることが悪いとかね起こることがダメだとかね そういうことでは全くないっていうねここは本当に誤解のないようにねお伝えしておきたいなと思います
ただ最初のこのねこの話の最初の問いはね わかりやすく言えば世の中から怒りは減っているか増えているかっていうこの問いなんですよね
まあ自分が子供の頃私で言うと昭和37年から60年間経ちました その社会を見ていてね世の中を見ていて果たして私の周りから怒りは減っているか増えて
いるかっていうことなんですよ 僕は明らかに減っていると思います
なぜか例えば教育の現場から大罰が消えましたよね おそらくどなに散らすみたいなことも今は許されないんじゃないかなって気がするんですよ
これは何だろうとにかく怒り良くないよねっていうたったこれだけの理由だと思うんですよ 子供を怖がらせるなみたいなね
それからあの ここの業界はなかなか難しいだろうと思っていた
いわゆるスポーツ界ってやつね いろんなその柔道レスリング空手とかねいろんな分野ボクシングもあったかな
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ここでもなかなかそういうのご法度になりましたよね なんか怒りで抑えつけるかない指導指導するのにその怒られまくるみたいなことを
やめようよっていう流れはこの数年で随分と増えましたよね で同時にあのパワハラという言葉が生まれてからはね
なかなかその一番 密室的なねこの職場会社という組織の中でね何でも許されそうな感じだったんだ
けどもここでもやっぱダメだよねっていう感じになってますよね それからあの私はね若い頃からいわゆるテレビの討論番組っていうのが割と好きで
ね なんかまあその何だろうないろんな人がいろんな考えを話し合い
いろんな考えがこうぶつかり合うみたいなそういう番組が割と好きだったんだけども かつてはですねここで怒鳴り合いをやってたんですよね
でそれがまたエンターテインメントだったっていうね ところが今同じような番組をやっても誰も怒らなくなりましたよね
なんか司会者の人は何とか怒らせようとしているみたいな取り組みは今でもなんか ちょっとこう
垣間見えるんだけど誰も乗らないっていうね おそらくなんかここで怒っても何の得にもならみたいな感じでコメンテーターの方々
というかねその大学の教授の人たちとかね 政治家とかそういう人たちがそういう風になったんじゃないかなと思うんですね
あと国会のいわゆる野党がその与党をどらりつけるみたいなね 避難しまくるみたいなのもなんとなく最近もうそういうのやめようよみたいな流れにちょっと
なりつつありますよね もうまたかよみたいなねだから僕らはね多分間違いないけど怒りのない世界っていうのを
望んでるはずなんですよね ここがなんか僕はこの怒りというものにアプローチするときのなんか最初の段階なのかなって
気がするんですねファーストステップっていうかね そもそも自分の周りにまあ半径5メートルでいいと思うんだけど
怒りが溢れている方がいいのかとねで自分にしてもその日々怒っている方がいいのか それとも怒らずに過ごしたいのかっていうねこの両方
簡単に言うと怒られたいのか怒りたいのかっていうね 多分だけどもこれを好んで望んでる人はいないと思うんですよね
でそうであるならばあのこれはですねえっと 誰が怒るかっていう話ではないと僕は思っているのねそうではなくてこの自分が
住んでいるこの世界から怒りをなくしたいのであれば まず自分の中の怒りをどうするかっていうのを考えないわけにはいかないと思うん
ですよね とにかく俺の周りに怒りはない方がいいと言いながら
いやでも俺は怒っていいんだよっていうのは何かおかしな話ですよね これはあるかないかっていうそういうものだと思うんですよ
しかもその他の人がね自分以外の人がえっと怒るかどうかっていうのを僕が決める ことはできないしコントロールすることもできないんですよね
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だからその唯一できる そのなんとかできる自分ここに向き合って私の怒りをどうするんだっていうねこれは
悪くないテーマじゃないかなと思うわけですねこの辺から始めていきたいわけですよ でそうなるとやっぱり最初のテーマはねやっぱり怒りとは何か
私がこの怒るねなんとなく自然に外の外的な要因に 刺激されて私の中から自然に怒りというものが自分の意思とかね
意図とか選択とか関係なく発せられている 条件反射のようなものというふうに捉えがちなんだけど
本当にそうかっていうねここに私は随分とその疑いの目を向けてきたんですね なぜならば私は何かあるとすぐにこの怒りという手段をね
使っていたからなんですよ 最後の最後にね普段は怒らないんですよ本当に怒らないんだけども
優しいクラザの方だったんだけどもこれは前回お話したねまさに偽りの自分が現れた時に この偽りの自分がある目的を持ってこの怒りという手段を使うというね
ここを自分で一生懸命この正体をね見極めたいと思いながらまあいろんな本も読んだり しましたけどもね
やってきたその結論から言うとやっぱりねまず怒りっていうのはね攻撃の手段なんですよね なんかこうなかなかさっきも言いましたけどこの現代社会ではこの怒りを表に出す
ということが難しいんだけども 攻撃と攻撃的な考えっていうのは私はこれイコールだと思っていてね
実際に行動に出るかどうか別としてこれ心の問題なので バカ野郎と言わなくても心の中でバカ野郎って言いたいっていうこの思いこれが
攻撃的な考えって言うんだけどもこれを持つということは やっぱりその行動に表すか表すかないか別にして私の心の中に攻撃を望む自分が
いるということですよね でこの攻撃の目的はあのこの番組でも何回かお話ししましたけど
自分の身を守るためと決まっているんですね 僕らは何の理由もなく他の人を攻撃することはないこれは間違いないと思います
理由があるんですよそれは自分の身を守るためですね だからこの前に必ずその自分が何かの危険を感じているってことですよねそして恐れや
不安を抱き 自分の身を守らなければいけないどうすればいい
防御しなきゃいけない攻撃は最大の防御なりだから攻撃をする 私たちにとっての攻撃の攻撃の方法具体的な方法というのは起こるということですよね
だからまずはこれが一つ目私たちの怒りの正体それは攻撃である どういう攻撃かというと何のための攻撃かというと自分の身を守るための攻撃である
ということですね ただこれを私がぶつける相手はやはり私と同じ人なんですね
でそうするとここにねちょっと困ったことが起きるわけこの防御法攻撃という防御法には 私がそれを繰り出すと必ず相手が傷ついてしまうという代償がつくんですね
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これは本来の自分はこれをやらないんですよ 平安な本来の自分その形のない傷つかない自分というのは人を傷つけるということがないわけ
ですねつまり自分も傷つかないので人に人に攻撃して相手を傷つけるという概念がない わけですよ不思議なものでね
やっぱりこれは体が自分だと感じている偽りの自分が自分が傷つきそうだからそれを守る ためにまず最初に相手を傷つけようっていうこれが攻撃
怒りの正体なんだけども 本来の自分とは違うこの感覚これはね困るんですよね
相手が傷ついてしまうということを僕らはへへって笑ってみていられない存在なんですよ ここが厄介なんですよね
もしこれがなければね多分僕らはね怒ったりその攻撃したりしてもね平気でいられると思うんですよ そこがそうでないというこのねじれ現象ね
本来の自分はこれをやらないだからこの本来の自分に反しているこの攻撃をして相手が 傷ついてしまうというこれはものすごくやっぱ辛いっていうね
そういう高代償が伴うんですねなんとなくこれは起こったことがある人ならばわかると思います やっぱりこう気持ちいいわけではないんですよねそこでここが重要なんですね
ここから怒りの第二のポイント自分の攻撃 この怒りがね正当であるある理由っていうのを作り出さなきゃいけないんですよ
起こる直前にねでもこれは本当に0コマ何秒ぐらいでバババッとやるんで普段僕らは気づいてないんだけど
だいたい僕がね自分を見ていてどんなことをやっているのかなっていうのを一生懸命細かく細かく見ていくとね
まずはそのおおよそ3つぐらいのことをやってるんですね一つはまずね 私は間違いなくこの人によって被害を受けたっていうねこの認識ね
これは重要ですよねその次にここはかなりちょっと無理やりなんだけども その責任つまり私が被害を受けた責任は100%相手にあって
私には基本的に少しも日はないっていうねこの前提これが2番目 そして3番目にだから私の怒りは正当であるというねこの結論
まあとても単純な流れなんだけど私はこの人によって被害を受けた そして日は相手にある
だから私がこの怒りをぶつける攻撃するのは正当であるっていうね この流れを作り出すこれがないと多分怒れないんですよね
相手の責任が50私が50ってこれで怒れる人はまずいないと思うんですよ で9010でもなかなかきつい
10は俺が悪いかなと思っていたらそう簡単に怒れないですね なんか不機嫌ぐらいなられるんだけどバカ野郎とは言えないんですよね
そこまで怒るということはやっぱこの0100っていう世界を作ったっていうことなんですよね これがねあの以前お話ししたその私たちが体にまず身の危険
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身の危険を感じ体がバッと反応し 胸が重いとかね胃が痛いとかいろんな嫌なこの異変が起こるわけね体にね
そこからこのままじゃまずいとっとこの異変を取り除かなきゃいけない 自分を守らなきゃいけないって言ってストーリーを作り出すってお話をしましたよね
このストーリーってどんなストーリーかって言ったらまさに今のようなストーリーなんですね 被害を受けた相手が100パー悪い
だから私の怒りは正当だっていうこういうストーリーをまあいろんなバリエーションを組み合わせながらね 過去の経験とかを持ち寄りながらこの間にね
そのいや以前にもこういうひどいことを受けた時もね 本当に私は苦しかったみたいなことが演出が加わっていくんだけど基本的にはこの3段階
ですよね これをまさにこの私はストーリーと呼んでいてこれを作り出しているんですよ
でここからえっと怒っていいというね許しが自分にバンと出て ドンとこう
バカするんだけどもそもそもこの3つの流れがね やっぱり頭の中で作っているんだっていうことが
えっとわかっなんかこう自覚できるかできないかは大きいですよね そしてえっともうこの番組まさに許すの時にお話したんだけども
ここに僕らはこの3つだけじゃなくてね 罪と罰の構造を仕組みをここに取り入れるんですね
もともとだって初めてあなたが怒られたのはいつですかって聞かれたら多分だけど ものすごく小さな時に自分が何かいたずらかそれか危ないことをして
その親で親の役をしている人たちですよねその人たちに 最初にこらって怒られたはずなんですよ
でこれはまさに罪と罰の仕組みですよね だから僕らが受ける怒りというもののほとんどはえっと
罰として受けてきたはずなんですよ そして僕らはこれをなるほどとこの攻撃というのはね
罪に対する罰な罰なんだなっていうことを覚えてこれをさっきのこの3つのね ストーリーの中にうまいこと組み込んでいくわけ
これが入ると5段階ぐらいになるんですね まずは最初は同じ私は間違いなくこの人によって被害を受けた
その責任は2番その責任は100%相手にあって私には隙はないっていうね でこの次なんですよこの人の行動は罪だと
だから総合の罰を受けなければならないっていうね でこの被害者の私にはこの人を処罰する権利がある
つまり私の怒りは正当であるっていうねこの5段階ぐらいになってくるわけ 罪と罰の仕組みがここに盛り込まれるとね
だから面白いことにこの罪と罰のね罪と罰の仕組みにまあ価値というかね効果が あると僕らがその認める度合い
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これに応じてねこれに比例して攻撃が正当化されるっていう世界を見ることになるんですよ ね12345っていうねこの人の行動は罪だと
総合の罰を受けなければならないってこの罪と罰があるとこの認める度合いに応じて 攻撃はより正当化されるってこと
そしてこれもこの番組でお話ししましたけど僕らの目や耳この近くはね 心に従って見たいものを見るようにできてるんですね
なんか見て見たものを僕らは心で判断すると思いがちなんだけどこれは逆端ですよ まず心の中にある思いがあってそれが正しいというねこの私の心の中にあるこの
心象というかね心で作った像が正しいということを証明するために僕らの近く というのは主に使われるんですよ
つまりまあ最初にこう心の中にねこいつは罪だと罰を与えなきゃいけないって言って こう心が決めますわねでそれそれその心に従って目や耳はどれだけこいつが悪いんだ
っていうことを探しに行くんですよ 証拠集めにね行ってこいって言って僕らは目や耳に命令をする心がね
そしてそれにふさわしいものだけを集めてくるここが厄介なんですよね ここにこのこの時点で僕らはもう現実を見ることができなくなっている
心に従い知覚が動き 自分の心にこうだと決めたものその証拠だけを集めてくるっていうね
これがまあでもこれが怒りの世界に組み込まれているわけですね 上手いこと組み込まれてるんですよ
さらにでここで僕らはねえっともう一つのちょっと葛藤を持つことになるんですね さっきのゼロ100なんですよ
ちょっとでも現実を見るとなかなかゼロ100って世界は起こらない 特に僕らの半径5メートルの日常の世界でこのゼロ100が大きく起こることは多分マレなんですよね
ものすごくマレというか僕はまだ見たことがない どれだけ僕が激怒したケースであってもやっぱり少しは僕にも問題があったと
思わざるを得ない でも攻撃したいんですよ守らなきゃいけないから
でもその時にねそもそもさっき言ったように攻撃すれば相手が傷ついてしまうっていうね この第一の葛藤がある
この次に第二の葛藤本当にゼロ100かっていうね この感覚っていうのはその僕ら持ってるわけですね
なぜならば偽りの自分が現れたとしても本来の自分っていうのは常に残ってるからなんですよ
この偽りの自分に対する本来の自分は常に傷つかない自分 ここは全く間違わないんですよ
現実しか見ていないからね本来の自分というのは心象を作り出す必要がない イリュージョンを作り出す必要がないんですよ
なぜならば自分の身を守る必要がないからね このさっきのストーリーみたいなものを全く作る必要がなく
そして自覚にしても偽りの自分は心が決めたことに応じて見たいものを見に行くんだけども この本来の自分というのはそんなことをする必要がない
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ありのままに現実を見ることができるんですね その自分が微かにいるんですよ
そうすると本当にゼロ100かっていう問いかけが必ず来るんですね でも攻撃したい
だから本当にゼロ100なんだっていうことを作らなきゃいけないんです心の中に
これがですねえっと 本当に残念なことに相手は自分とは違う
もう言うならば生まれながらの極悪人なんだっていうこの感覚なんですよ だからこいつは極悪人なんだから苦しんで当然だと
だからこいつが苦しむ姿を見てそもそも僕が心を痛める必要なんかなかったんだ っていうふうに自分に言い聞かせるんですね
ここで完成するんですよよっしゃ行っていけってね こいつが傷ついてもこいつは極悪人なんだからそもそも罪を犯してるし
俺を傷つけてるしで生まれながらの極悪人なんだからね 行ってもいいんだよっていうこの感覚
まあなかなかねここまでねえっと細かくその一瞬にして怒るときにね 僕らがその心の中で今やってる今やってるっていうのはなかなか自覚できないんだけども
よーく後からその怒った自分っていう心をね 解き明かしていくとおそらくここまでやってるんですね
でもこうするとまんまとその攻撃することができるんだけどもね 必ずこれもう一つ副反応が起こるんですよ
今さっき怒った人を極悪人にしましたよね生まれながらの極悪人にしちゃいましたよね っていうことはこの判断をすればするほど自分の周りに生まれながらの極悪人が増えていくんですよ
これが以前に言ったこの世界を良いものと悪いものに分断したっていうことなんですよね そうしないと怒れないから仕方ないんですよ
怒るためにはやっぱり悪いものを作り出さないといけない だからこれは前にもお話ししましたけども子供であれば一番大切なお母さんでさえこの悪いものにしてしまうのね
そしてお母さんなんかいらないお父さんなんかいらないって言って追い出そうとするっていうね これはまあ僕ら大人になっても何も変わらずこれをやってるわけです
こんな流れで自分の身の回りに極悪人が増えていくっていうね だからやっぱり怒りという攻撃は僕らにとって本当は手放した方がいいものであるはずなんですね
でこんな風に見ていくとですね 怒りは決してなんていうのかな条件反射のようなものではないってことがわかるわけですね
僕らはもうほんと一瞬にしてこの今言ったようなねプロセス1から5番 そしてこの後にね
0-100にするためにこいつは生まれながらの極悪人みたいなことをやる この6ステップぐらいかなこれを一瞬にしてスパッてやる
しかもこの罪と罰というこの仕組みは相当習慣になってますから この罰を与えていいっていう感覚の中でね
一瞬にしてこのストーリーがパッと出来上がってくるんだけども そのためになんとなくその全く自分の意思がここに働いてない感じがしてしまうんですよね
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外の刺激によって私はそうなそうさせられているっていうかね 怒らされているっていうねよくあるよくその上司とかが俺を怒らすなよとかって言うじゃないですか
怒らすなよって感じにやっぱなってるんだけどもでもとてもそれじゃあ怒れないんですよね 多分その場合はきっと逃げたりするんですよ
怖いっつってね嘘ではなくてやばいこれ自分自分の身を守るための攻撃なんだっつってね 向かっていく場合にはやっぱりこの123456みたいなことが必要になっていくわけです
これがわかるとなんだこれは自分の意思と選択じゃんっていうことに気づけるんですよ ここが実は
なんていうのかな両面持ってるんですねこの話が受け入れがたいっていう場合はこれは自己責任って ことが言葉が浮かんでくるからなんですよ
なんだ怒りっていうのは俺が悪いんだねじゃあねみたいな怒るのは俺が悪いんだねみたいな そんなゴールのためにそんな目的のために私はこの話をしているんではなくて
そしてさっきも最初に言いましたけど怒って何が悪いんだっていう立場にもともと立っています そうではなくてこの世界から私の半径少なくとも私の半径5メートルの世界から
怒りがなくなった方が私は幸せだと思う 私も私も自身も怒りたくないし怒られるのもとても嫌だと思う
だからこの5メートルからなくしたい そのために私のこの怒りをどうすれば手放せるかって考えることは全然おかしくないと思う
そこにもし条件反射のように自分の意思と関わらず怒らざるを得ない 怒らされるのであればもうどこにも救いがないんですよ
これはもう運に任せるしかない あ今回大丈夫だった怒らなかったみたいな話になっちゃう
そうじゃなくてなんとかならんかっていう風にね僕が模索したところ なんだこれ意思と選択でなんとかなるかもしれないという風に
まあ気づいたというかねたどり着いたわけです これを救いとして使いたいんですよ私はね
だから怒ったからといって自分を責めてはいけないと言ってるわけ 自己責任だとかね私が悪いんだって話なんかどうでもいいんですよ
そんなことを考えるぐらいだったらただ怒ってる方がまだなく だからそうじゃなくてここに救いがあるんですよ
なるほどこの123456ということを自分でやってるんだなと分かったぞと そうするといろんな方向からこの解決の糸口っていうのがね
こう見えてくるわけです 例えばなるほどね私は自分の身を守るために起こっているのかっていうね
まずこの1点目でその次に次の問いは じゃあ本当にこの怒りで身を守れているのかっていうねこの問いが立ちますよね
そうするとある矛盾が見えてきます そもそも私は怖いね危険を感じてやばい怖いぞと思って自分の身を守るために
怒りという攻撃の手段を繰り出そうとしたね 防御なんですよ攻撃という防御ね
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じゃあ向こうはどうなんだってことなんですよ 相手に対して今攻撃をしようとしてるね相手の多分何かを変えようとしてるん
ですねその罪と罰の仕組みを使ってね 罰という恐怖を与えることでお前心を正せと行動を直せということがやりたいんだよね
でも僕が攻撃したら相手は恐れや不安を感じますよね 当然だけども僕が同じようにこの123456をやるんだとすれば向こうもやるじゃない
ですか 相手も当然同じ人間だからこれで僕らは攻撃の応集になるんですよ
でもしこれが攻撃の応集にならないパターンがあったとすればそれはこちらがものすごく 力を持っている時ですよ
小さい頃で言えばね喧嘩が強いとかね大人になったらなんかこう論理ではね 口では言いまかされるとかもしくはえっと私が上司で向こうが部下とかね
私が先輩で向こうが後輩とか なんとなく力が力関係が僕の方があるというねこの関係において
私はこの戦略を成功させることはもしかしたらできるかもしれない でも多くの場合そんな力関係がはっきりしていることってないんですよね
しかもですよ相手が明らかに自分より弱いってなった場合には 少々のことを言われても身の危険を感じないじゃないですか
だからここここもね一つのヒントなんですよ 同じセリフをもう例えば4歳の子供に倉園さんてなんかいつも失敗ばかりだねーって言われたって僕は絶対に怒らないんですよ
何の身の危険も感じないからなんですよ でも例えば初対面の人にねなんか私がその飲みの席で箸を落としたり
ね皿をこう割ったりとかしててなんか倉園さんてさっきから失敗ばかりですねって言われたら向かってくるわけ これは危険を感じるからなんですよ
で大体はこういう対等な関係ほぼほぼ対等な関係でこの攻撃を繰り出そうとするのでね 自分の身を守ることにはならないですよね
相手も当然攻撃を繰り出してくるっていうね ただここにねあのよくその怒らなきゃダメだよとかっていうのがあるじゃないですか
なんか僕らはやっぱりこの怒るということで時玉だけどもうまいことね まあ多分多分だけど僕はそういう力関係が働いたんだと思うんだけども相手が
折れるっていうことをね経験してるんですよ まあよくあるのが例えばそのなんつーのかなホテルとかねお店とかね
従業員がなんか無礼なことをした後ここで一つ怒ったかなきゃダメだってこれ完全に 客とね向こうはスタッフですからね
力関係がもう上下が決まっているわけこの場合お客さんが怒れば大抵だけども通りますよ なんかでもこんな風にはやっぱりこう普段の生活ではね
上下関係はつかないんですよ だからえっとこの特殊なねなんとなくその怒りが通用した例みたいなのをあの僕らは覚えて
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いて 起こるべきところではしっかりと怒らないと悪事を野放しにするみたいなことが言われるんだけども
ね なんかこの話ってだとすると泣き寝入りか怒るかの二択しかないってことになるわけで
そうではないんですよ 泣き寝入りすることするわけでもなくね攻撃をするわけでもなく
まさに攻撃せずにコミュニケーションすれば問題は解決するんですよ この第3の選択というのがあるはずなんですよね
落ち着いて話そうよと攻撃する必要はないよねと もしかしたらこれが僕は自分の身を守る最も安全な方法じゃないかと思うんですね
ただなぜこの選択をね僕らはしにくいかというとさっき言ったように第6段階で極悪人を 作ってしまってるからなんですよ
絶対こいつに話なんか通じるわけないともうだから罰を与えても構わない0100の悪人 なんだっていうことを6番目で作り出してしまったからなんですねこれはまさに心傷なんだけど
ね本人のことなど本当のことはわからない状態でするやってますから ここがなかなか受け入れがたくなっちゃうんですよ
いやいやこいつに話しても通じるわけないじゃんともう怒るしかないじゃんってそれを しないんだったら泣き寝入りだよっていうこの本当に単純な2択を作ってしまう
そこでやっぱりこの攻撃は間違いなく相手を相手に恐れや不安を抱かせるんだなって いうことを思い出すことが大切ですよね
つまり自分の見守る手段にはなってないっていうことです これが一つ目ねからもう一つなるほど怒りとは罰なのかっていうね
この一つの認識ですよねつまり私は裁きを下したってことなんですよ 怒ったって怒ったって時は確実に1さっきの123456のねこのプロセスを通して
さばいているんですよこの人の行動は罪だね だからそれ相応の罰を受けなければならないという自分の中でちっちゃな裁判をやってるわけですね
ここで次の第2の問いですよその最低は本当に正しいのかっていうね まず相手はねまあ僕が怒っているということはなんだかそういう僕に被害を与えるような言動を
したんですよ その人はなぜそれをしたのか動機ですよねこれ重要なんですよやっぱ裁きを下すときに
動機というのはね 意図したのかねそれとも計画性があるのかとかねそういうことはとても重要なんですよ
これは私たちはこの一瞬の間に勝手に決めてますよね こいつは絶対なんか意図して行ったわざと行ったに違いないとかね
前から俺のことが気に入らなかったに違いないとかっていうね ものすごくいい加減なその自分の独断で決めています
そしてそもそもこの行動が罪である間違っているという判断は何によって行うかという と自分の正しさですよね
これは前にあのそれぞれみんながね 倉園国とかね佐々木国とかやべ国みたいな小さな小国の独裁者みたいな感じなんですよ
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自分というのはね そしてその国を治めるために一人一人がみんな法典を持っているわけね
これをしてはいけないこれをしなくてはいけないこれは自分の正しさです これはどうやってできていったかっていうと小さい頃から受けてきた教育だとかしつけだとか
そして自分が自ら読んだ本だとかね感銘を受けた言葉 そしてセミナーで聞いたいろんな話みたいなことを総合しながらね
この正しさを持って生きていればきっとこの正しさに沿っていれば自分は安全に 生きられるという風なこれも一つの防御のための正しさなんですよね
ここに反するからやっぱりこいつは間違ってるって思うわけ でもよく考えてみるとこれは80億種類あるんですよ
みんな違うなぜ自分のこの正しさだけ絶対的に正しいと断言できるかってことなんですね
でも僕らはこの法廷をもとにさばいているんですよ 明らかにどう考えてもその動機もおかしいし
元になる正しさも私だけのものだし これを罪であると認めるにはとてもじゃないけど弱い根拠が弱いんですよ
だからこのこの最低は私のね下したこの裁きは本当に正しいのかっていうね この素朴な問いを一つ投げかけるだけでも少しは
なるほどっていうねちょっと心に余白ができるはずなんですよね そして3つ目なるほど僕らが起こるときには多分例外なく
心象心の図をね自分で作り出したさっき言った1から5番までのね私の怒りは正当で あるまでのこのストーリーですよ
このストーリーイコール心象ね これを見ているんだなっていうこの気づきですよねなるほど
これを見て私は怒ってるもしくはこの心象を作り出さなければ起こることができないんだ なっていうことです
この次にどんな問いが出てくるかというとこの頭の中で作り出したストーリー 心象を見てそこで現実の問題が解決するんだろうかってことですよね
何か問題が起こってるんですよ私が起こるということはね でもそれはえっとこの心の中で作ったストーリーではなくて目の前にある
もう一つの現実なんですよねここでおっとっととなるほどこの心象を見て罪と罰の ストーリーを作り出し
そしてこいつは極人や極悪人だというね 楽園を押して私は攻撃しようとしているんだけども
それで本当に今起きているこの現実の問題が解決するんだろうかっていう問いなんですよ 多分ねアプローチするべきはそこじゃないと思いますね
そうじゃなくてえっと心の中にあの解決の糸口があるんじゃなくて 目の前にあるっていうねこれを見に行かなくちゃいけないっていうふうにここで
思えたら最高ですよね ここに気づかせてくれるのがねそれで本当に現実の問題が解決するのかっていう問いですよね
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これはものすごく大きいと思いますそして最後になるほど 怒りは攻撃だから私はこんなに消耗してしまうのかっていうね
この気づきですよね これは前にも実はこのお話はしたと思うんだけども
僕らは相手を攻撃すると自分が傷ついてしまうんですよ なぜならばまあ簡単に言えば私たちは一つだからです
私はあなたあなたは私なんですよ もっと細かく言うとね3つあるんですね
まず私が誰かを攻撃すると 攻撃するということはこの罪と罰の仕組みの中でやってますよね
そうすると間違いなく私が攻撃した相手は傷つくんですよ 悲しんだり苦しんだり悔しがったりするそれを見ていて私は当然だけども罪悪感を
感じてしまうんですね ここがね感じられなければ楽だってさっきも言いましたけどね感じざるを得ないんですよ
そもそもこの罪と罰の仕組みの中で行っているんでね これはまさに鏡の法則です私が相手に罪を見て相手を攻撃すれば罰を与えれば
その相手が苦しんでいる様子を見て私は罪悪感を感じる これは宿命ですよねしょうがない法則なんですよ
これが一つ目そしてもう一つがですね さっき言いましたけども攻撃するためにはこの人を極悪人にしなくてはいけない
良いものと悪いものに分断して悪いものに入れなきゃならないんですよ 自分の周りに良い人と悪い人とどちらがいる方が幸せかって言ったら当然だけども
良い人がいる方が幸せなわけですね100人が全員良いだったら 100人良いだったらとても平和じゃないですか
でも私が一人を攻撃すれば99人に減るんですよ なぜか一人は極悪人になるからなんですよ
この100が99に減ったということが自分を傷つけているわけね 世界がどんどん悪くなっていくからです
半分攻撃すれば完全に悪い軍団っていうのかな 悪い勢力が自分の人生の半数を占めることになるわけ
100人良い勢力だったのが半分が悪い勢力になったら傷つきますよそれは とても居心地の悪い世界に自分がしてしまっているからなんですね
これはもう本当に例えば限られた家族とか職場とかね 人の入れ替わりがないとこでやれば必ずこうなりますよ
攻撃した人は悪人なんですよ自分の周りに悪人を作っているというね これも自己責任の話にしないでほしいんだけどもそうではないんですよ
なぜ自分が攻撃すると傷つくかっていうね 人を攻撃すると自分が傷つくかというこの理由なんですよね
これが2つ目そして3つ目これはなかなかえっと僕ら自覚できないんだけども 前回お話ししたね形のない自分っていうかね形のない本来の自分は僕は
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これは本性は愛だと思うんですね なぜならば恐れや不安を今一切抱いてないからです
私たちも恐れや不安を一切抱いてない時はこの体を持っていても多分だけど本性は 愛なんですね誰も攻撃しない
誰も傷つけないもちろん自分も傷つけない これがえっと攻撃するということによってこの本性と反するからなんですね
本性と反したことをするから僕らは傷つくわけです つまりなぜ怒ると消耗するのか
この答えは怒りは攻撃だからですよね で攻撃をすると私たちは自分自身が傷つくとこれは行動に現れるような怒りをぶちまけるだけ
ではなくて 心の中に攻撃的な考えを持つだけでも多分だけど同じような影響を受けると私はなんと
なく自分を通してねそんな感じがしますね これがその怒りを手放すためにね
僕らが気づきたいことそして自分に問いかけたいことなんですね もう一回まとめると
なるほど私は自分の身を守るために怒っているのかっていうまずこの気づき その次にじゃあ本当にその怒りで身を守れているのかっていう問いかけですね
次になるほど怒りとは罰なのかと 私が裁きを下した結果なのかっていうねこの気づきですね
これに対する問いはその最低裁きは本当に正しいと言えるのかっていう問いです そして次になるほど
私が怒る時には例外なく心象心の像を見ているのかと そして私の近くはその心象に従って証拠集めをしているのかと
だから現実がどんどんどんどん悪く見えていくんだなとこの怒ろうとしている相手が さらに極悪に見えているんだろうとね
このこの気づきですそしてここに対する問いは本当にそれで現実の問題が解決するのか っていう問いですね
そして最後になるほど怒りは攻撃だからこんなに消耗するのかって ここにここに対しては
私はまだこのねおかしな防御則を手放さないんだろうかっていうこの問いかな このあたりをその毎回毎回ね
ザワッときた時ですよザワッときてやばいストーリー作り始めそうになってるっていうこの時に ババババッとこう自分に対してね
言い聞かせられるようになると僕は次第にね次第にこの123456というこのステップを踏まない でいられるように自分はなったっていう感じがしますね
これは決してそんなにあの不可能なことではないし実はそんなに難しくないんですね なぜ難しくないかというと今お話ししたように
怒りは多分私に何の良いこともメリットももたらさないんですよ 唯一多分だけどもこの泣き寝入りか怒るかの二択みたいなこの世界さえね
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いやいやそんなことはないと真ん中の攻撃のないコミュニケーションで問題は解決できるよ っていうここさえ納得できればもう本当に起こるメリットっていうのはどこにも
ないっていうことをしっかりと自分で認められる受け入れられるんですよ これができたら多分だけどこんなね
損ばかりの選択はしなくなると思うんですね それをなんていうのかな自分自身に教えていくっていうそんなプロセスなんだろうなと思います
そしてこの先にこの先にというからこれができたと同時におそらく僕は許すということ もそう難しく思えなくなるんじゃないかなとそんな風に見ています
私もこの取り組みをもう十何年やってきました どうなったかというとねえっと一つはまさに言ったように私の周りから極悪人が消え去り
ました 消え去ったというのは正しい表現ではなくて私がゴックス極悪人を作り出さなくなった
ということです 今周りにいる人たちは基本的にはみんな平和な大変かな人たちに私は見えています
これだけでも十分効果はあったかなと思います そしてそうだなどのぐらいかなもうこの78年ぐらいかな
多分私は起こってないと思うんですね イラッとすることぐらいは今でもありますよ
ザワッとすることぐらいはねでもあ 怒ってしまったなっていう経験は多分だけどゼロだと思います
それに従ってこれも一応ね個人の感想というエクスキューズを使う付け加えた上で そのそれに従って私はねものすごくやっぱり
こう体が健やかになって言ってますね 何かが痛くなったり調子が悪くなったりすることがこの怒りがなくなるに
従ってなくなってきたっていう自覚はあります それから当然だけども心が穏やかになればなるほど動ける機会というのは
増えていきますね そしてだからといって私の周りから問題がなくなったかって言ったらそんなことはあり
ません日々日々日々起こります誰かと何かをやれば必ず1度や2度 もっとですね3度4度5度何かをするたびに問題は起こります
もし私がねまだその怒りという防御の手段を持っていたとしたら多分この数年間で 何百回も起こっていると思います
でもそこでさっき言った泣き寝りでもない攻撃でもない コミュニケーションで解決するっていうこの方法をやり続けた結果ね
基本的にはそうやって起きた問題は現実として片付いていっていますね だからだから私は自信を持ってこのやり方というのかね怒りを手放す方法を
お勧めしたいと思っているわけですね 今日もあの例によって50分超えてしまったんですけどね
なんとなく今日は356分で収めようと思ったんだけどなかなか止まりませんなぁやっぱり そんな感じですかね今日はね
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そうそうあと年末にねあの今日突然でひらめきましてね そういえば最近関西の方に全然伺ってないなという事を思い出してね
年末ということもあるんでちょっと12月あたりに関西大阪ですね 大阪にまた伺いたいなぁと思っています
ですんであのなかなかこの1年2年ぐらいお目にかかれなかったですね 関西方面の方々名古屋から日西ぐらいな感じかな
よかったらですね年末なんかのイベント考えますんでぜひあの一緒に遊びましょうでその後 忘年会がなんかやってね盛り上がって今年を締めくくるみたいなそんな感じにしたいと思って
ます よっしゃじゃあ今日はこんな感じで怒りというね攻撃を手放していい1日をお過ごしください
ありがとうございます