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2023-05-28 11:57

#536 判断を留保する覚悟

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判断を留保しながらも、あきらめずに考え続けることができるかどうか(目の前の事象に反応するだけでなく、じっくり腰を据えて)。そういう態度は、才能やスキルもさることながら、何よりも覚悟が求められる。「覚悟を決めるべき」とまでは思わないが、そうでないというのなら差別主義者の血が流れていることをせめて自覚して生きるべきではあると思う。


▼上水優輝⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠Twitter @y_uemizu⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ ⁠⁠⁠⁠⁠

作務衣を着た悪魔。株式会社現象 代表取締役。

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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、判断を留保する覚悟、というお話をしたいと思っています。
先日ですね、 カテゴライズ
みたいなことについてね、 お話しする人とお話する機会があって、まあなんかどういう時に人をカテゴライズしてしまうのか
みたいなことを問いとして投げられたんだけども、僕の考えとしては基本的にですね
カテゴライズしまくって生きていると人間は、その前提としてね、思っていますと
個人のその、なんていうのかな、人間性がどうだとか、そんなんじゃなくて、そんな抜きにして基本的には
カテゴリーでものを見ると。 大きな情報でものを見る、と言った方がいいのかもしれないですね。
例えば、福岡県の人はこういうところがあるよねとか、 男の人ってこういうところがあるよね
広告代理店の人ってこういう傾向があるよね、みたいな感じで。 個人を見ればそんなことないんだけども、集団で見たときには、まあ一定そのような傾向って見られたりするよね
っていう意味でカテゴリーでものを見るっていうのはあるかなと思うんですよ。 これがある種差別の種になるからね
福岡県の人ってこういうところがあるよね、みたいなものの見方そのものに対して 怒っている人ってのがたくさんいると思うんですよね。特にこのご時世というか
最近はそうやってカテゴライズすることに対して、すごく過敏になっているように思うんですよ。 ただ
さっきも言いましたように、カテゴライズしてものを見てるだろうって思うんですね。
子供とか言っちゃってるじゃないですか。子供と大人の境目がどっかにあって、それが定義はね、それぞれにあるかもしれないけれども
子供、大人って言ったりとか、都会、田舎って言ったりとか、 九州と関東みたいな地方のね、それはちゃんとした定義があると思うけれども
イメージはそこに付与されていて、九州ってこんな感じ、関東ってこんなイメージ、東京はこんなイメージみたいな感じで
イメージってのを持ってるんじゃないかなって思うんですね。 それ自体が
問題なのかって言うと、 僕は問題というか仕方ないと思ってるんですね。
仕方ないから仕方ないことを問題視しても仕方がないと思っているって感じですね。 例えば僕が誰かと出会う、その誰かは僕のことを評価する際に
例えばね、このポッドキャストのことも知らない、何も知らずに僕に出会って、ちょっと初めておしゃべりをすると、その時に
まあ見た感じ、背がまあまあ高いな、日本人としては背が高いなとか、30代後半だなとか、福岡県の
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ちくほ出身らしい、田川出身らしい、今福岡市に住んでるらしい、 なんか会社経営してるらしい
寒い着てる、なんか変わった服着てるな、みたいな感じで、見た情報とかそこで聞いた情報とかを元に
そこに持っている、そのカテゴリーというか、それらが持っている、それらに対して自分が持っているイメージを
全部混ぜ合わせて、総合的に上水という人物はこうであるというふうに、まあ判断すると。
だいたいみんなそうなんじゃないかなと思うんですよね。特に距離が遠い人ほど、生身のその人、一緒に暮らすわけでもないですから
見た感じとか話した感じとか、書かれてあるプロフィールとか、そういった情報で判断する際に、カテゴリーかけるカテゴリーかけるカテゴリーで、その人を一応掛け算して、こんな感じの人物かなって
判断すると思うんですよね。
それが限られたレベルで判断される。例えば、田川の人だから暴力的で、こうでこうで、みたいなふうに判断されると、確かにそれは僕は差別を受けているというか
ものすごい偏見によって差別されているというふうに感じるかもしれないし、なんかそんな感じで限られたカテゴリーかつ、それに対するその人の勝手なイメージで僕という人間が評価されてしまうと、まあ差別だなって感じるんだけれども
一方でね、一個一個のそのカテゴリーに対してはやっぱりイメージって持っていると思うんですよ。
背の高い人って時に背の高い人のイメージってなんとなく立って浮かんでくるイメージあると思うんですよ。それは今まで自分が接したことのある背の高い人、もしくは自分が街で見かけたことのある背の高い人、小説や映画とかテレビとかで見た背の高い人のイメージを総合的に判断して背の高い人とはこうである、みたいなことが断定しないにしてもイメージみたいなものを持っているんじゃないかなって思うんですね。
まずその決めつけるのがまずいのであって、嫌でもそのように見てしまうっていうのはあると思うんですよね。背の高い人ってこういうイメージだってあると思うんですよ。
それはね、やっぱり偏った見方、偏見であるということを知っておかなければいけないよねって思うんですね。僕たちはそういう一個一個の物事に対する偏見の塊で生きていて、誰かと接した時に、この人は40代前半で男性で年収これぐらいでこのような業界で働いていて、このような家族構成でこのような過去を持っていて、みたいなところから今まで出会った
各それぞれですね、その年収どれぐらいの人、何々業界の人、40代前半の男性、なんとかなんとかみたいなことを全部掛け合わせて、偏見を掛け合わせてその人を見て、掛け合わせる軸が多いから何となく差別じゃなくその人を見ているっていうふうに言えたりするけれども、基本的には偏見のまなざしで見てるよねって思うんですよね。
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そこに対する自覚を持つみたいなことがとても重要だなと。単純に差別って良くないよねって怒り狂っても何も世界は変わらないし差別だよねって言ってそのラベルとかカテゴリーを撤廃したところで、もちろん一定の効果あると思いますよ。
2択しかないものを5択にするみたいなことで分散されるみたいな一定の効果はあるけれども、差別そのものがなくなるかっていうと基本的にはカテゴリーでものを見るという修正みたいなのが人間にはあるだろうと思うから、根本的な解決にならないと思うんですよね。
カテゴリーでものを見てしまうっていうのはやっぱり認知的な負荷を下げるためには致し方ないことだと思うんですね。
自分が触れる全ての情報を初めて触れた情報科のように全部接していると疲れますよね。情報処理できないですよね。
食べ物を一つとってもその一個一個が例えば目の前にパンがありますとアンパンみたいなものがあると。
これはアンパンっていうのは偏見だからアンパンかどうか食べてみないと分からないから本当にこれがアンパンに属するのかどうかはそんなアンパンにカテゴライズしていいのかみたいなことがあるわけですよね。
食べてみて過去経験したアンパンと同じだったと感じられたとき初めてアンパンだなと思うことができるかもしれないけどそれもカテゴライズなんじゃないかみたいな感じでね。
どこまでいっても何かにカテゴリライズしていくと何かに当てはめていく何かに収めていくと思うんですよ何かを認識するということは。
だから何でもかんでもねラベルをつけた時点で差別だとか偏見だって騒ぎ立てるんじゃなくてそもそも偏見しか持ってないんだと我々は。
だからその偏見に対して自覚的になるということが大事なのであってそれに自覚的になるということはつまりどういうことかっていうと決めつけないことが重要であるということなんですね。
今こうだろうなって思ってもそうだろうなという仮説としては持ってていいけどそうに違いないって思ってしまったらやっぱそれはまずいと。
子供がとか何犬の人がとか年収いくらの人がとか何でもいいんだけども自分が思っているイメージがあったとしてというイメージで仮説を持ってその人と接する分には僕はね良いとか悪いとかじゃなくて仕方がないと思うんですけれども。
だからといってそうだと決めつけるのはまずいよねって思うんですね。
そしてこの決めつけないということがいかに難しいかっていうことをね自覚とか反省っていうのをしないと差別しているにもかかわらず他の差別に対して差別だと騒ぎ立てているよくわからない人になってしまうので
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差別全般に対してのという姿勢なのであればやっぱり自分が差別をしているということに対しての自覚とかそれに対する反省というのはしていかなければいけないのかなというふうに思いますね。
つまり判断しない判断をどれだけ留歩できるか福岡県出身のとかなんとかのっていろんな情報が出てくる中で福岡の人だからこうだなとか決めつけるんじゃなくてその情報でそのような印象を自分は今まで持ってきたかこの人はどうかというのは目の前のこの人と対峙してゆっくり考えていくという判断せずに判断を留歩しながら考え続けるということとはいえもう判断できないんだからって投げやりに諦めるんじゃなくて諦めずに考え続けるということ。
ずっと諦めずに考え続けることができるかどうかこれがね差別しないということだと思うのでなんか差別ってよくないよねみたいなそんな簡単な話じゃないんだよねって思ってます。
覚悟が問われるそして覚悟だけじゃなくてそういった能力というか複雑な情報を複雑なまま認知するとかそれと複雑なまま向き合い続ける考え続けるという体力とか能力とか必要だと思うのでめちゃくちゃ難しいことだしそれを全人類であるなんてことはとても難しいとも思うんですね。
難しいということを自覚すべきだろうなというふうに思っているしその覚悟を決めるみたいなところで全人類は覚悟を決めるべきだとまで僕は思いませんけれどもその覚悟を決めれないのであれば自分は差別をどこかでしているんだなということそしてそこに対して自覚的であること自分は要は差別主義者であるんだということを自覚してね生きていくべきなんじゃないかなと思いますね。
僕自身もねそんな成人君子じゃありませんから何というか今これ差別してしまっていたなとか決めつけてしまっていたなみたいな場面はやっぱりねあるんですね。
そういう時にね反省する態度みたいなのはねせめて持っていたいなというふうに思います。
何の話かって感じですけどね。
とにかく世の中のね差別は差別だと騒ぎ立てているけれども本当に差別についてよく考えているのかってことはね結構思うところがあって判断流布をしてね考え続けるっていう態度そのような覚悟を持たずして差別撲滅じゃないですけども差別をなくしていくみたいなそんなね生ぬるいもんじゃないよってことをね思った次第でございます。
本日は以上です。またお会いしましょう。さよなら。
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