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2020-09-05 12:11

#114 成るより在る

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「成る」一辺倒では世界を貪る人生になってしまうという懸念。


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みなさんこんばんは、上水優輝でございます。
サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、成るより在る、という話をしたいと思っています。
成るっていうのは、成功のせいにる。在るっていうのは、存在の在にる、で在るですね。
タイトルを見ていただけるとわかると思うんですが、
ここでいう成るっていうのは、何かに達するっていう未来の状態を指すと、
こんなふうになりたいっていう、成るですよね。
で、在るっていうのは、今この瞬間、この状態を指している言葉として、在る。
どう在るかっていうことですね。
なので、未来を指す言葉と現在を指す言葉なんだよっていうことなんですけども、
一見ね、未来を目指して成るって思って、そこに向かって頑張っていくっていう、
いわゆる成長志向というか、目標を設定してそこに向かっていくっていう志向は、
素晴らしいことのように思うんですが、
私自身はですね、成るを否定する気はないんですが、
その前にね、在るということをむしろ優先した上での成るじゃないと、
まずいんじゃないかなと思っているんですね。
今日はその辺のお話をしていきたいと思っています。
よく立場が人を作るっていうようにですね、部長になったから、
なんかだんだん部長らしくなってきたよねとか、
子供ができたから、父親らしくなってきたよねみたいな感じで、
その置かれている状況は自分を作っていく、
いわゆる、成るからこそあるっていう状態が生まれるっていうのは、
それこそあると思うんですが、
それって、なんていうか、受動的というかね、
置かれた環境によってそうなっちゃったっていう、
なんかこう、何でしょうね、受け身な視線に見えるんですね。
それよりも、なんだろうな、僕は思うのは、
成る前にあることってできるんじゃないかなと思っているんですね。
例えば起業家になると、それは会社を登記すればもう起業家ですよ。
少なくとも経営者ですよ。
けど、その前から起業家、心は起業家っていうことができるはずなんですよね。
何にもかかわらず、世の中の評価軸が経済一辺倒ですから、
市場価値があるかないかっていう判断のされ方をされてしまうというところなんですよね。
要は経済に世の中独されてしまって、市場価値があるかないかで、
物事がもう完全に判断されちゃってるということです。
だからさっきの起業家も、心は起業家なんですとか言っても馬鹿にされるだけですよね。
けど実際に登記して、起業家ですって言えば、起業家なんだねってなるし、
もっとわかる人からすると、どんな会社を起こして、どんなことをやってるかっていう、
その企業の市場価値を見て、素晴らしい企業家だねとか、
しょぼい企業家だねみたいなことを決めるっていう感じで、
かなり市場価値で判断されていると。
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企業家だったから、それはビジネスだからそうだよねって思えるかもしれないんですけども、
芸術家であっても、何だろうな、
芸術家っていうのは本来、芸術家であるということが芸術家になるってことなのに、
芸術で生計を立てれるようになったから芸術家であるみたいな、
何なのかな、
なるが先にあって、それに保障されてあるってなっちゃうみたいな、
さっき言った部長になったから部長らしくなってきたとか、
それに近いんですよね。
でも本来芸術家っていうのは、芸術家という態度であることが、
そもそも芸術家なわけですから、と僕は思ってますから、
あるということによって、なるという部分もあるんじゃないかっていう話なんですね。
にもかかわらず、さっき言ったように市場価値に独されているがゆえに、
芸術家でさえも、何だろう、
作品が20億円で取引されたみたいな、
そういう経済的な指標で価値が測られてしまっているというところがあるかなと思っています。
何でこんなに経済に独されているかというと、
市場価値がつかないとお金が入ってこないし、
お金が入ってこないと生活はできないし、
生活ができないと死ぬと。
じゃあ、死なないために生活をするし、
生活するためにお金がいるし、
お金を稼ぐためには市場で価値を提供するし、
市場でもっともっと価値を提供してお金を稼ぐためには市場価値を高めようとするっていう、
結局そこの生きていくということにかなり直結しちゃってるがゆえに、
市場価値みたいなものに独されてしまっているんだろうなというのもわけです。
なので、多くの場合、全てとは言いませんが、
私たちが多くの場合、何者かになろうとしている、
そこで宿泊しているのは経済に独されているからなんですね。
ビジネス書なんかも大概そういうことを書いてますよね。
経済的自由を手に入れて、どうだろう、こうだろうと書いてますし、
境目が危ういですけども、
自己啓発書とかで言うと面白いのは、
自己啓発書の場合は大体第一章に、
今日の話で言うと、あるみたいなね、
どうあるかみたいなところが最も大事なことですよみたいな感じで、
第一章に大体書かれてるんですよ。
しかもその著者が、この本で実は一番大事なことで、
大体第一章でどうあるかみたいなことを書いてるんだけども、
大体みんなが響いてるのって、第二章以降のなるに対してなんですね。
どうやって成功した人間になるかみたいなことで、
なるの部分のノウハウの部分とか、
具体的な話にみんな感銘を受けて、
この本は名著だとか言ってるけど、
大体、著者は第一章のどういう人間であるかみたいなところの話が
一応大事なことだとして書かれていたりするんですが、
結局、なんでその本が売れてるかというと、
第二章以降のノウハウに価値があると判断されて、
その本が売れていると。
本当に経済に毒されているなと思うわけでございます。
とはいえ、経済的自由があったらいいじゃないって思うと思うんですね。
僕も確かに、お金がないよりはあった方が選択肢も多いし、
あるに越したことないと思ってるんですが、
あればそれでOKかというと、そうじゃないと僕は思うんですよね。
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経済的にちょっと成功している人たちっているわけですよ、周りにも。
いわゆる大富豪とかいうレベルじゃなくて、
明日の生活を心配しなくていいような暮らしをしている人っていっぱいいて、
かつ、自分で会社をやってたりとか、
多少自由にやってる人ってたくさん周りにいて、
でも見てると、そこそこ成っているんですよね。成っているように見える。
成功のせいね。成っているように見えるんだけども、
一向に満足しているように見えないんですよね。
見えないし、ご自身でね、満足したら終わりだとか言っちゃってるわけですよ。
だから不満足ってことですよね。
だから結局サラリーマンとかをバカにして、
こっちは自由だしみたいな、なんでそんな不自由なことやってんのとか、
君たちより楽しいよとか、こっちに来た方がいいよ、
どう考えてもそっちは損でしょみたいなことを言いながらも、
心はいつも不満足と。
意味がわかりませんね。
もちろん不満を掲げてサラリーマンをしている人は不満足なんだけども、
結局そっち側にいたところで不満足なんだったら、
意味ないよねって僕は思うですね。
その不満足を原動力にしてというか、
要はもっとなりたいというところでどんどん高みを目指すと。
原動力は一見好奇心であるとか野心であるというふうに見えるんだけども、
実は心の奥深くにはですね、
このままだとダメだなと、
もしくはこんなところでは終われないなという気持ちがあると。
こんなところでは終われないなって気持ちって、
こんなところでは終われないってすごい前向きに聞こえるけど、
裏にあるのは結局不安や焦りや恐怖だったりするんですよね。
別に一見それをね、もっと見たいものがあるんだみたいなポジティブな言い方できるけども、
それを見れなくて死ぬことが嫌だということで、
結局不安とか焦りとか恐怖が背景にあるということなんですよ。
そうしたエネルギーに駆動されて、
狂気じみなエネルギーで思った人がね、
世の中を動かしているというのは事実かと思います。
起業する人たちもだいたいそういう野心がある人とか、
そういうすごいコンプレックスがある人とかっていう、
エネルギーがある人がやっている印象はありますね。
結局水平線の彼方に地球の終わりがあるんじゃないかと思って、
船を漕ぎ出すんですけども、結局そこには地球の終わりなんかないし、
新大陸があると。
新大陸を発見しましたということになるわけですけども、
新大陸を発見することで、だから価値があったよねって、
結局またそういう話になりがちなんですが、
新大陸で確かにいろんなものを発展させたり生み出したりしてきたと、
そっちの光の部分に焦点を当てればそうなんだけども、
結局はそこで失ったものとか滅ぼしたものがあるわけだから、
よく分からない自分の不満足のエネルギーの
矛先のためにいろんなものを滅ぼしているというふうに見ると、
すごく自己中心的な行為だというふうにも見えるわけです。
僕は最近そこのところをすごく感じるというか、
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いわゆる経済が右肩上がりなんていうのは、
とっくの昔にも限界だろうと思っている中で、
無理やり経済的なレースに、資本主義的なレースに参加して、
上位を目指していくゲームというのは、
なんかもうオワコンだなというふうに思うわけですね。
なので、なるということでフォーカスして駆逐するみたいなね。
しかもそれは別に私利私欲のためだということになっちゃっているわけですから、
なんかそれはね、とても残念な感じがするというかですね。
一見それは社会課題だとかなんだとか言って、
大義名分を作り出すんですけども、
社会課題というのは以前も言いましたように、
例えば地球温暖化をされちゃうと困る地方と、
温暖化してくれた方が助かる地方があるわけだから、
地球の課題化というと、ある地方の課題であって、
ある人からするとそれは歓迎すべき事象であったりするわけですから、
一側面だけを見て社会の課題であり、
これは絶対的に解決すべき課題なんだというのは嘘なんですよね。
嘘というか一面的な捉え方なんですよね。
違う面から見ると課題でもなんでもなくて、
むしろそれは恵みだったりするのに、
その恵みを破壊してしまうということになるわけですから、
自分の論理であまり世界を走りすぎると、
ただの破壊活動になってしまうと、
必要以上の破壊活動になってしまうというふうに思いますので、
ある程度樽を知るということが大事なのかなと思っています。
樽を知るためには、なるという話ではなくて、
まずあるということだと思うんですね。
自分がどうありたいかとかどうあるかということをベースにして、
それに必要なものを最低限破壊するという、
実際命を僕たちは奪って生きているわけですから、
ご飯を食べるたびに何かの命を奪っているわけですから、
破壊しないと生きていけないというのはしょうがないんですけども、
必要以上に破壊して、ただなるために不満足を、
しかも満足したら終わりだとか言いながら、
不満足を駆動力にして世の中を破壊し続けるというのは、
いかがなものかと思うわけでございます。
それをイノベーションだとか想像だとか言ったりもするんですが、
それを本当にどうありたいかというところに
起因してなろうとしているのかというところで、
全然意味が変わってくるかなと思いますので、
まずあるということを自分の中で見つけて、
その上で何かになるというのは、
せめてその順番でやっていくのがいいんじゃないかなと思います。
なるありきのあるというのは、
どこまでたってもあるにたどり着かずに、
ずっと不満足でずっとなり続けようとして、
ずっと自分の満足を求めて、
いろんなものを破壊する活動になってしまうんじゃないかというお話でした。
ちょっと抽象的でわかりづらいかもしれませんが、
伝わると嬉しいなと思っています。
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本日は以上でございます。またお会いしましょう。さようなら。
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