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2021-04-19 06:53

#340 「書く」と「話す」の射程範囲

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音声のほうが情報量は多いが、その情報にはカルチャーを共有していなければデコーディングできない情報も多分に含まれる。一方で、文章は言語ごとよほど吹き飛んでいない限りは概ねデコーディングできる。現代語訳など他者による変換もきく。音声ならそうはいかない。本人の肉声が台無しである。/シソフレ(思想フレンド)募集中!【秘密結社S.A.B】の活動はこちら https://bit.ly/2P3pujF /うえみずゆうきの活動を応援していただける方は、noteマガジン【脳内議事録】をぜひご購読いただけると嬉しいです。 https://note.com/y_uemizu/m/md0e3af51acf5 

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皆さん、こんばんは。上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、書くと話すの射程範囲というお話をしたいと思っています。 ノートで毎日エッセイを書き、このポッドキャストで毎日話すということで、個人の表現活動としてですね、
これを毎日話す、書くということをやっているんですけども、いろんな角度からですね、それを考えてきたんですが、最近ちょっとクリアになったこと、なぜこの2つをやる価値があるのかということですね。
明確に自分の中で定まったので、ここでご紹介したいと思っているんですけども、書くと話すというのは射程範囲が違うなというふうに思ったんですね。
もともとは書く、読み物が好きな人、こういう音声を聞きたい人がいるだろうからというのも思ってたんですけども、そういう現代人の好みの話ではなくて、
もっと時間軸を超えた射程範囲の違いがあるんじゃないかなというふうに最近は考えています。 例えば鎌倉時代の人が書いた文章、
吉田健康が書いたツレズレ草を読んでみたいと思うとしますよね。 一方で吉田健康が
ツレズレ草を音声で残していたとしますよね。
どっちを手に取りますかって言われると、やっぱり僕は本を手に取るんですね。 それは
読む方が好きですとか聞く方が好きですっていう話ではなくて、僕どっちも好きなわけですね。 どっちがいいですって話ではなくて、多分鎌倉時代の人が喋ってる音声で聞けたもんじゃないんじゃないかなと思うんですよね。
ツレズレ草も確かに原文ままだと読めたもんじゃないという部分もあるかもしれないんですけども、それって現代語訳みたいなものが比較的しやすいですよね。
現に現代語訳のツレズレ草とかって出てたりすると思うし、 だんだんね現代語訳を読んでから原文に近づいていくという方法もあると思うんですけども、音声を例えば
吉田健康が話しました。ツレズレ草ですっていう音声ファイルを誰かが現代語で読み替えましたって言っても、なんかちょっと
人が喋ったことを現代語風にやるとこうですよっていう感じで、人のスピーチを人が真似されてもちょっと違うなっていう
その肉性が台無しになっちゃうというかね。とか喋る間とかいろんなものが台無しになっちゃうので、人が代わりに喋り直すっていうのは難しいけども、文章に関してはそういう現代語訳的に翻訳しやすいというか
つまり文章の方が時代を超えて対応年数があるんじゃないかなというふうに思うんですよね。 一方で音声っていうのはその時その時代の人にとっては
すごく同じ言語を使っているというか、ある程度同じようなカルチャーを同時代のカルチャーを共有しているということで、
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会話の方が聞きやすいっていうのはあると思うんですよね、同時代の人は。 だから今この2021年に生きている人からするとこのポッドキャストの方が、僕はポッドキャストとブログを書いてますけども
ブログ、文章が好きとかいう人でない限りはポッドキャストの方はですね、僕が言いたいこととかはよりね、喋る方が情報量多いですから
文章を読むよりもこのポッドキャストの方がいろいろと聞いてて内容が入ってくるっていうのはあると思うんですが
すごい未来の人というか自分が死んだ後とかもね、いろいろ想定すると文章を残しておくっていうことの価値ってあるかもしれないなというふうに最近は思っています。
今度ね、映像ってあると思うんですよね。映像はやっぱり最強ですよね。 100年前の戦争の映像がとかってすごいリアリティがあるというか
映像で見れることによってそれは文章で見るよりも音声で聞くよりもまた違ったリアリティがあるということで
やっぱり映像は今言った文章とか音声よりも強いなぁと思うんですが
今度映像になるとそのまあ個人的なあれですけどもあんまり量欲しくないなみたいな
ここ一番のスピーチとかね、記念となる映像は欲しい。節目の映像は欲しいけど毎日のライフログみたいな映像は
ちょっと重たいなというかだるいなとなってしまうので わかんないけども100年後に自分の文章とかそういった作品をね
検証する人が現れるかわかりませんけどももし仮にいたとして毎日こう動画があるのと毎日このポッドキャストがあるのと
毎日の文章があるのって考えると100年後の人がすると文章が最も検証しやすいだろうし
音声は雰囲気だけ感じてもらう感じになるだろうし 映像は節目のイベントごとのとかじゃないと毎日の映像なんか見たくねーよって多分なると思うんですよね
だからものを使いようというかしっかりと使い分けてですね 映像はポイントポイントに残していきたいなと思うし
今ですね友人に写真を撮ってもらってですね 市販機に1回ですね季節ごとに写真を撮ってもらってポートレートを撮ってもらってですね
インスタグラムの方にですねずっと自分の写真を上げているとかもやってるんですけど それってね自分の姿形を残したりとか思想を
書いたり話したりとかあとは映像で時々何か何らかの形で残したりということで いろんな形ですね自分の人生を作品として残していくみたいなことは
今後も考えてやっていきたいなというふうに思っているところでございます ぜひね今からブログを書こうかな
ポッドキャストやろうかなーって迷っている方いましたらですね どこの時代の人をですね射程範囲と捉えてその作品というかその活動していくのか
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ということですね考えてみると面白いんじゃないかなと思いますね 書くのが得意だから書く話すのが得意だから話すっていうのが一つの方法なんだけども
どういった人にというかどこの時代の人に届けたいより届けたいかって考えると多分今の 時代だと多分話すってのが一番届く気もするんですよね
個人的にはけどもえっとあえてねあの書き続けるっていうのは未来 あの今の日本語ちょっと変形した時にもですね耐えるような文章という意味でですね
頑張って生きている限り書き続ける話し続けるというのですねやってみたいなというふうに 思っています本日は以上ですまたお会いしましょうさあなら
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