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2021-01-11 07:40

#242 させられた、してあげた、した

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何かを行なった際に思うこと、それが未来を規定する。過去に対する呪われた認識によって、自分を過去に閉じ込めてしまうのかもしれない。「させられた」と思うのか「してあげた」と思うのか「した」と思うのか。/サイコパスのラジオは、サイコパスがサイコパスの視点で語るラジオです。斜め上の視点に触れたり、サイコパスについての理解を深めるきっかけとなることを目的としています。/パーソナリティ:うえみずゆうき /【脳内議事録】というマガジンをやっています。https://note.com/y_uemizu/m/md0e3af51acf5 【脳内議事録について】「本音は傷つく、高くつく。」毎日更新のエッセイ。認識の解像度を上げるための思索の旅の記録です。うえみずゆうきの考えたことのすべてがここにあります。ご自身の考えと対比させながら、人生観を磨き上げていくきっかけの1つにしていただければ幸いです。マガジン購読者限定の特典として「サイコパスの裏ラジオ(音声)」を毎月プレゼント。ぜひ購読ください!

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みなさんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、させられた、してあげた、した、という話をしたいと思っています。
なんでもいいんですけども、自分が何か行った後の行為に対して、どういう評価をするか、どういうニュアンスで評価するかということで、
過去起こったことの意味合いって変わってくるなぁって思うんですよね。
過去起こった、もしくは起こしたことに対しての評価というか、どういう意味付けをするかというところのニュアンスに自覚的になるってすごい大事だなぁと思ってるんですね。
いわゆるさせられたって思うのか、してあげたって思うのか、したと思うのかで全然違うよと。
例えば、誰かと同棲している方がいるとして、家事をさせられているって感じるのか、してあげたって思ってるのか、家事をしたって思ってるのか。
また、職場に行ってね、どういう仕事をさせたか知りませんけども、企画書を上司から作らされたのか、企画書を作ってあげたのか、企画書を作ったのか。
これは全然ニュアンスが違うんですね。
まずは、自分がいろいろ行っている行動の評価、意味付けをするときにどういう評価をするのかというところを考えてみてほしいんですね。
それぞれニュアンスが違って、まずさせられたっていうのはね、自分はしたいわけではないけども、
何か外圧的な何かによってしたかもない何かをさせられている、させられたっていうことですよね。
決してそのしたかったことをさせられたって言わないですよね。
なので、したくないなーってことをある種強制的にさせられている状態っていうのは、これさせられたっていう表現なのかなというふうに思いますね。
なので、自分で自分の行動をコントロールしてるんじゃなくて、人から自分の行動をコントロールされてしまっているよねっていう状態なんです。
で、次にしてあげた。これはですね、一見ね、自分がしたいからしたんだっていうニュアンスに見えるんですけども、
これはね、意外と大きな問題をはらんでいて、結構過度な期待がセットになってるんですよね。
人がこうしてあげたって言うときは、大体ですね、私はあなたにこれだけしてあげたにもかかわらず、あなたは何にもしてくれないのでみたいな、
見返りを求めてしてあげてるっていうようなパターンが多いかなと思うんですよね。
見返りを求めずにしてあげたっていう人っていうのはあんまり見かけないなと。
つまりね、なんか見返りを求めてるわけだから、見返りがその通りに来るかって言うと難しいですね。
例えば、舵をしたから褒められるとか喜ばれる感謝の言葉が返ってくる。
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言葉で期待してると舵をしてあげたみたいになっちゃうんだけども、
ただ、なかなかありがとうとかね、いつもありがとうとか言ってくれないとかいうことって多いですよね。
つまり、してあげたっていう期待を込めた行為っていうのは、その期待が返ってくるかわかんないから、ある種ストレス装置を自分で埋め込んでいるような感じになっちゃうんですよね。
で、最後にした。これはそのままですね。した、以上という態度ですね。
別にさせられたとか、してあげたとかいう意味は特になく、ただその行為をしましたよ、以上というその事実だけですね。
したという事実だけを言っているという感じです。
一見これって味気ない感じするんですけども、とっても爽やかな態度なんですよ。
舵をした、企画書を作った、もうそれだけなんですよ。
もちろんね、舵をする時とか企画書を作る時に最中にね、ちょっとさせられかんというかね、ちょっとさせられてるなーとか嫌だなーとかいう気持ちが湧いてくることはあるかもしれないですけども、
それってしてる時の話であって、もう出来上がった今ね、企画書はもう出来てるわけだから、作ったでいいし、舵をしたでいいと思うんですよ。
舵をさせられたとか、企画書を作らされたと思っていると、いわゆるアウトプットですね、生化物に対しても負の感情が残っていくというか呪いがかかっているんですよね、その企画書とか、舵に対して。
終わったことにもかかわらず、継続的にね、あの舵をさせられてとか、この企画書を作らされてとか言っていると、ずっとこの負の感情が残り続けますよね、もう終わっているのにね。
そういう意味では、ここまでの話を聞いてもう分かるかと思いますけども、した、以上というね、態度で終わった行動に対してはね、捉えるというのがとても大事だよって思っています。
あのね、させられているとか、してあげているっていうその現在進行形とか、これから起こる系の話は、なんていうのかな、事実ね、そう感じているというのがあれば事実そうなんだろうけども、
終わったことをわざわざ言う必要があるかというと、あんまりないというか、意味がないよねって思うわけですね、言ったところで何も改善されるわけではないから、終わったことに対してはね。
どっちかというと、これから起こる、させられること、もしくはしてあげるみたいなことに対してもっと敏感になって、これってなんかしてあげるとかいう見返りを求めた行動じゃないかなとか、
これなんかさせられてる感じがするから、こういうのってもうさせられないようにしたいなとか、もしくはさせられてるって感じるこの認識をちょっとうまく捉えかえて、なんかもっと主体的にしているって思えるようにするにはどうすればいいかなとかという感じで、これからもことに対して対策を打っていけばいいんじゃないかなと思うんですね。
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ついついね、させられたとか、してあげたって終わったことをね、なんかウジウジ言ってる人って多いなと思うんですけども、
未来のね、させられるとか、未来のしてあげるにもっと敏感になって、未来を変えていくってことがとても大事なことかなと思います。
そのためにもね、過去を起こったことに対しては、した、以上と思ってしまえば、過去にとらわれなくていいので、これからどうしたいかって話がやっとできると思うんですよ。
ついついね、未来どうしていこうみたいな話が、そういうテクニックばっかりね、学ぶことってあると思うんですけど、まずはね、過去をね、過去と決別しないとね、未来なんて作れませんから。
未来をね、した、以上と。まず未来を切り捨てる、感覚を切り捨てるというか、なんだろうな、無駄な情動を出来事にくっつけずに、事実として企画書を作った、舵をしたと終わらせてね、一旦情動を終わらせて、未来どうしていきたいかってことを初めてね、過去と決別して未来を考えることができるんじゃないかなというふうに思っています。
なので、させられたとかしてあげたって思うことがたくさんある方はですね、なるべくそれをね、したとまず思えるようにして、そしてこれからさせられないように、これからしてあげないようにというかね、したとするという、なんかこうさっぱりとしたね、態度で生きていけばね、こうねちねちしてない、こう爽やかな人生が読めるんじゃないかなというふうに思いますので、ぜひまずは過去との決別、した、以上という態度をですね、身に付けていただけるといいんじゃないかなというふうに思います。
本日は以上でございます。またお会いしましょう。さよなら。
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