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毎度、黙れヤドロクでございます。お疲れさんです。お元気ですか?
元気やった、ええねんで。言うて、言うとりますけど、花粉がよけ飛んどりますな、言うてね。
えー、もうなんか、校舎や、言うてね、窓開けて外見たら、もうぼやーっと黄色になってるようなね、これは何気なこっちゃ、言うて言うとりますけども、
まあ、皆さんお元気で、ポッキャスターの方もね、鼻ぐじぐじ言うたはる人もおりますが、
まあ、やっぱりね、あのー、新、新何?新楽器?やったりね、年度をはじめと言うんですか、
4月1日ね、エプリルフールやとも言いますけども、4月になりますとですね、今回でございますが、
推し勝つ二次元ライフラジオ、水城誠さんの企画されたポッキャトークテーマ、
えー、ということでございまして、参加させてもらおうか、というわけでございましてね、
私も、えーと、お誘いのね、ダイレクトメールいただきましたですよ。
誘ったらやってくれるんでしょ、言うてね。
いやー、誘われたらやりまんがない、言うてね、えー、喋らせてもらおうかと思うわけでございます。
まあ、皆さんと事後で、小学校時代で言うたら、私からしたら、もう、そりゃ、7つで入りますから、今から44年前というようなことですね。
ほぼ、えー、もうすぐ誕生日ですから、私ね、44年前じゃない、えらい前やなと、
え、44年生な、44年前やな、というようなことでございますが、
もう半世紀だっすよ、あんさん、覚えてへんことのが多いちゅんやけどね、
私、まだ小学校の時、いろいろありましたからね、えー、覚えてることもあるということでございますが、
まあ、あのー、ぼちぼち、ひも解いていくというんですか、
何がこれ、えー、これがどれ、というようなことはないんですよ。
まず、思い出すとこから大事なことが始まるわけでございます。
さあ、1年生の時、どんなやったかな、とかね、2年生の時、どんなやったかな、とか言うて、
えー、思い出すわけでございます。
まず、私、あのー、生まれは大阪、あ、行くの久というところをね、下町でございますが、
町工場の多いところでございます。そこで育って、小学校に上がるわけでございますけども、
えー、家からね、走ったら30秒もかからんところに、えー、小学校があったわけでございます。
入りますと、1年生、ぴかぴかの1年生ですな、えー、朝尾先生というね、
えー、名前出していいんやろな、これ、えー、あの、背の高いね、えー、ちょっとチックショーというんですか、
あー、言うていいんか、わからへんけど、こう、目をしばしば刺すというんですかね、そういう先生、印象残ってますね。
背の高い先生でしたなー、怖い先生でした。あの、厳しいで有名な先生でね、
1年生の時に朝尾先生に当たるとみんなピシッとするんやで、というような噂があるような先生に見ていただいて、
1、2年と見ていただいたような気がしますね。1、2年、3、4年、5、6年というような感じだったんちゃうかなと。
今思うと先生の顔覚えてるのは3人だけであんねん。
せやさかい、今考えたら朝尾先生に見てもらったんやな、というね、何や、怖かったな、という印象しかありませんわ。
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えー、2年生の時の体幹遠足なんかちょっと優しかったような、何となく、こうね、そんな、何となく何があったか覚えてないんですよ。
もう、知らん、半世紀ほど前の話ですよ。覚えてるわけない。
2年と3年、4年とね、森本先生という先生、女の先生であんねん。
この先生の時にね、話題もいろいろあってね、今考えたらもう本当に情けない障害者教師、障害の持った子のこととかで、
もう心ないね、小学生ですから周りがみんな、障害を持った子にワーッと寄っていくというんかな、
あんまりかもたったらあかんのにかもてるというんかな、面白がってしまうというんか、時代も時代ですからね。
そんなやってる時にね、森本先生がね、涙流しながらビンと外られたんですよ。
えー、あんたはなあ、言うて、自分の、例えば自分の家族やったり、自分の弟妹やったりが、
もしそういうふうにバカにされてたら、あんたどない気持ちになろう、言うてバシーンと外られただけ覚えてまんねん。
いや、自分は悪気なかったんですよ、特にその頃差別意識があるとかね、そんなことはなかったんやけど、
確かにやっぱりね、その障害というものもよくわからんかったという、なんでこいつこんなやんやろなんてみんな思ってたと思うんですよ。
詳しい説明もありませんでしたな、どういうもんやとか言うのは、やっぱ子供にしゃべってもわからんというのがあったんやと思いますね。
ビンタバチーンとバチン、往復で外られた覚えはありますね。えー、当時まだそれがオッケーやった時代ですよ。
でもね、あの時殴られててよかったなと思うことの方が、よく子供の頃思い出すとあるんですよね。
あの時先生が涙ながらに語らんかったら、わたし今あんなふうに思ってたやろか、やっぱりどっかで、こう、差別意識いうのはもっとあったんやないやろかと思いますね。
自分の家族やったらとかね、自分の親やったらとかね、自分の身内やったらとか、友達がそうやったらとかね。
いや、これは先天的な項目おるやんね、途中事故やとか病気でなる場合もあるんやでって言われたらそうかと、もしかしたら自分もなるかもわからんねやでと言われたら、やっと子供にもわかると言うんですかね。
ビンタ、はつられたのは痛かったように感じるけど、痛みというよりも自分が思ったより大変なことをしてたんやなというようなことに心を痛めたような思いでありますね。
5年、6年になりますとカーリン先生という、これが本当にね、学校行ってるとみんなね、同級生がそのカーリン先生のことをね、お母さんとかね、ママって呼んでしまうというような母性の強い先生でしたね。
私、小学校6年に上がりますとすぐ引っ越すことになるわけです。言うてました、育ったのが京都やというのはそこですな、京都の南部の方に引っ越すことになった先生が、1学期の成績だけをつけて送り出してくれると。
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女の子がね、下の名前でね、私、しんいちって言いますねんけどね、しんいちおいでって言って下の名前で呼ばれるわけですよ。
ね、呼んで、先生何ですか、言うて言うたら、あんた向こう行った時に成績A4になったらAやろう、言うて。
女の子なんか、成績が、あの、主要4強化かな、オール5やったら、お母ちゃんが自転車買うてくれる、言うてんねん。
そうか、言うたらね、先生が目の前で通知しようにね、引っ越す前ですよ、5をね、ポンポンポンポンと押してくれて、これで自転車買うてもらいって。
もう本当にお母ちゃんのような先生だったなと、要はお母ちゃんで言うてたんですよ、間違ってね。
結構、私だけじゃなかったんです。みんな結構お母ちゃんと呼んでたような先生で、A先生、私に先生のあたりよろしいんですよ。
そんなわけで、小学校6年の時、6月に引っ越します。
その6月までに、大阪の小学校中のは、修学旅行はもう終わってるわけですよ。
6年生で行きますからね。もうみなさん有名な、あおいせさんですね。
とば水族館から、あおいせまえりというようなね、漢字のルートでございます。
ふたみがうらね、めおといわというとこですね。
あの時はまだパルキンスパーにはおませんね。
だから、とば水族館行って、それも旧とば水族館ですわ、あの頃。
で、めおといわ見た後、ふたみがうらの旅館で一泊した後、おいせさんに回ってから帰るというようなルートだったと思いますね。
三木本パールなんかも寄りましたね。よく覚えてますわ。
で、6月に引っ越すことになります。
京都は南部の小学校の方に引っ越すことになりますけど、そこではまだ修学旅行に行ってないわけですよね。
引っ越してきたばっかり、1年生からの写真がない、卒業やのに何の写真もないから、お前修学旅行ぐらい行ったらどうやって言われてね。
えーっと思うけど、どこですかって聞いたら、おいせさんや。
だいたいあの頃の関西の小学校なんかみんな同じとこ行きます。
全然同じコースもありまんね。先生僕一回行ったからもう二回は行って、しかし写真が一つもあらへんからなあ言うて。
行くだけ行ったらいいんちゃうか言うて。
分かりましたって言ったら同じバス会社だね。
隣のバスガイドさんこの間乗ったばっかりやん。
行ったやん、コース全く一緒やん。
バスガイド代わりにしたろか言うぐらいね、行って。
で、旅館もね、歩いて20mと離れてへん。
前に泊まった旅館のとこにね、おばちゃんと言おう喋ってたから旅館の前行ってね、
おばちゃーんって言うたろ。
ほんとなんや。
二回目やね。
とらして。
引っ越して。
もう一回行け言われて。
ほんまかよ、そんな珍しいことあんねんなあ言うてね。
おばちゃんと話したりて。
まあ一回目の旅行の、旅行の板先の旅館のおばちゃんとそない仲良くなるか言うぐらい仲良くなってたね。
ちょっと変わってまんね。
そんなわけでまた二神川浦の旅館に泊まりましても、同じコースを回って帰るお医者さんに縁があったんかなと言う考え方もありますけど、
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私そんなような子供時代ですね。
事情はいろいろあるんです。
なんで引っ越すことになったかと言う事情は、私のサブスク入ってもうたらわかるんですけどね。
ここで宣伝入れときますわ。
そんな感じでね。
小学校時代いろいろあるかと言われたら、大きな事件というよりは、
結構弱いし先生に当たったなというような思い出の方が多い、多い、多いという感じでございますね。
悲しい出来事、いじめられたことあるかと言われたら、確かにあるんですよ。
私もね、おでぶちゃんやから、子供の頃からおでぶちゃん。
幼稚園の時にね、車に引かれましてね、入院したんでしょう。
食べて食っちゃねー食っちゃねーしてテレビ見るという生活が板についてしまう。
3歳からずっと太ってきたい。
おでぶちゃんになってもおでぶちゃんやし、口はよう喋るしというようなことで、
4年生、5年生あたりでちょっといじめられることがありましたね。
いじめられてもね、いじめられてるのに途中まで気づかへんのですよ。
あれ、これおかしいなと思うのがね。
5年生になってくるとね、今度逆に食うと背が伸びてくるんですよね。
太ってますからね、お肉いっぱい持ってるから。
もっと伸びたことで急にいじめられるようになるんですよね。
不思議なもんですよ。
子供の時のもんじゅうのはそんなもんですな。
私もスポーツ別に得意はないし、勉強もそんなにできるほうはないし、
いわゆる今で言うたらモブと言われるようなもん。
そんな生徒やったと思いますね。
ただただよう喋るというようなことで、その代わりですよ。
祖父、祖母がやってた一番のお店行きますとアイドルですよ。
子供の頃から、しんちゃん、しんちゃん言うてね。
どこ行っても呼ばれて、しんちゃんこれ食べえよってね。
ありがとうおばちゃん言うて、食べんね。
隣の店行ったら、ぼくがパッとチラッと見たらね、しんちゃんこれ食べえよって。
ありがとうおばちゃん言うて。
次々。
お菓子屋行ってね、好きなお菓子とってね、帰りますね。
おばちゃんつけといて言うて。
後でうちのおばあさんが払いに行きますね。
そんな生活をね、子供の頃から小学校ぐらいまでやってましたからね。
小学校入ってもまだやってたかな。
そんなのがあります。
小学校4年か5年の時に、ひいおじいさんが九州で亡くなったことで、
おじいさんおばあさんが九州に帰らんなる。
そこでお店を畳むことになって、やっと市場から離れたというようなことでございます。
いろんなことがあったなと思うわけでございます。
おじいさんがその後亡くなったりとかね、いろんなこと。
ひいおじいさんが亡くなったりも。
一方の電話を受けたのは、ダイヤというのを覚えてますね。
家の前で遊んでましたらね、家の電話が鳴る。
あの頃また、皆さんご存じで、ダイヤルのね、電話ですよ。
黒電話ですわ。ジリリリ。
大きい音鳴りまね。
なにやこんな。
5月やったような気がしますな。
パーと通りに行ったらね、ひいおじいさんが亡くなった。
その前の日にひいおじいさんの夢見てたんですよ。
ええ?って言うて。
その時友々だけあったお母さんに電話して、ひいおじいさん亡くなったらしい、言うてね。
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そんなあったなと思いますわ。
そんな、もうほんまに断片的なね、もうそりゃ半世紀前の話ですからね
えー、断片的な話が多いね
火おじいさん亡くなった時のことよく覚えてますね
なんかお休みやったような気するんですよ
休みの日にかかってきたのよく覚えてるんですよね
だから外で家の前で遊んでたのが
電話で家に入って電話を受けたのも覚えてるんですよね
結構そんなあるなぁと思いながら
虫の知らせというか前の日にたまたま火おじいさんの夢を見てたというな
だから印象に残ってるというのもありますな
そんな感じでね、わたりの一家一族の話というな
これもサブスクでありまんね
気になる方おられたらサブスクね、高いんですけどね
わたりのね、生まれる日100年ぐらい前の話から始まりまんね
そんな感じでね、やっておりますから宣伝しときますねたまには
そんなわけでございましてね
推し勝つ二次元ライブラジオ
水城誠さんが企画されるポッキャトークテーマ
小学校の頃の話というようなことでございまして
本日はこれぐらいにさせてもらいます