こことも言いたくなるわけですよね。
はいはいはい。
でもこれって、よく考えたら、
なんか自分の先輩とかがたまに言ってくれる、
最近の若い者論と一緒なのかって思うこともあるわけだよね。
あるね。構造上一緒な感じしますね。
うん。だから足で稼ぐのが大事だみたいな感じで、
この話誰に聞いたらいいですかって言った時に、
ライトパーソンを教えてくれればいいのに、教えないとか、
謎の研修みたいな名刺交換してこい、100人ととか。
ああいうのって僕らから見ると、
一世代前の無駄な精神論で、
それでビジネス筋肉やしないみたいな感じって古いなと思うわけじゃん。
はいはい。
しかしもし仮に我々が、議事録に関してはそうではなく、
あれは本当に人間が行うべき重要なものだと思っているのとしたら、
それはそうなのだろうかみたいなことを最近思ったんだよね。
うん。
つまり、我々が老害だと思っているものも、
実は本当に意味があることであり、
我々が意味があることをと思っていることを、
後輩たちに説くと、単に老害になると。
うん。
いうことを最近考えていて、夜も眠れないんだけどどうしたらいい?
ちなみにこの議論はですね、
ダボス会議でも議論されているぐらい、
非常に重要な論点だと思うんですよね。
おお、そうなの?
うん。
いや、ちょっとすみません、ダボス会議は盛りました。
え、嘘?
俺めっちゃ今こいつ白色だなって思ったし、
やっぱり我々はその良いイシューを胸に抱えているんだなと、
ちょっと満足したんだけど。
え、でもね、そのイシューをめちゃめちゃ感じている人は多いんじゃないかな。
ダボス会議はやばいだろ。
思ってて。
騙されたぞ。
自分もすごくそれ思う、それ俺思う。
俺イシューそれ俺思う。
どの部分?どの部分?
いろんなこと喋ってたからさ。
いくつかあるんだけど、一個は、
議事録あり社会に生きてた我々が、
あれで得た筋肉、
バーサス、
今例えば、そのLLMで議事録アプリとかを
オンラインミーティングにぶち込んで、
議事録を自分の手でゼロからスクラッチで取る必要がない
若手ビジネスパーソンみたいなのがいた時に、
結局その若手ビジネスパーソンは議事録を自分で取るという行為を通じて
何かを得る必要はあるのかないのかっていう問い。
これはめっちゃ考えるところがあります。
これ抽象化するとさ、
なんかのテクノロジーの出現によって消えた仕事を
これ以前の人たちがやってた消えた仕事を
わざわざキャッチアップするのかみたいな問いにも置き換えられるじゃん。
だから昔はなんか手紙書いて
急いでチャリンコ漕いで隣の村に頑張ってこれですってお届けしてたみたいなのが
今はメールカタカタカタカーンってやったら秒で届きますわみたいな。
お前はチャリンコを急いで漕いで手紙をきれいに書いて出すスキルがないんだっていうのは
これは意味があるのかなしやみたいな議論にすると意味なさそうだなって思いつつ
一方でこの議事録の件って結構特殊だなと思ってて
すげえいい線をついてると思うんですよ。
それが議論をやかましく難しくしておりまして
人が何を喋ったかみたいなものを構造化して
最終的に例えば結論とトゥードゥと重要な会話のポイントみたいなものに
まとめ直すっていう能力自体は別にAIに取って変わられてもいいやんって正直思うんですけど
議事録っていうか会議体っていうものすごい情報密度の高い場所を通じて
各参加者がどういった情報をその場に開示したのかとか
そこから得られるコンテキストをキャッチアップするみたいな機会で議事録取りを捉えたとすると
そのコンテキストキャッチアップの機会って要は自分の脳みそにラグを入れて
外部の知識をくっつけるみたいな作業なわけじゃない
その作業をいかに効率的にできるかっていう点で議事録を取ると
アウトプットすることによって自分の頭にも同時にインプットされるから
そのコンテキストの解像度を高めやすいとか
この解像度を高める中で自分が分からなかったことを議事録へのフィードバックって形で得られるとか
そういう自分の知識のアップデートみたいな点で言うよみたいなのが議事録のもう一つの価値になってるじゃね
これLLMに任せてたら多分あんまり自分の頭に入ってこないのよね
自分もよくやるけど
だからその機会ない時に
新入社員
育つ機会減ってないか問題みたいなのはちょっと
いいような気もするし悪いような気もするなみたいな感じがする
しかし議事録だけが特殊なエクササイズ功能を持った下仕事なのだろうかみたいな疑問もやっぱりあるわけだよね
昔はもらった名刺を全部ファイリングして偉い人に並べるみたいな仕事とかもあったんだけど
今やったアシスタントとかに渡してエイトにぶち込んでおしまいした人たぶん知らんけど
ファイリングしながらあれこの人誰だっけとかこの人微妙にあの時顔色曇ってたなみたいな話をするみたいな
無駄な気もするがしかしそれはそれでコンテクストの統合としての意味もある
メールで済ませず直接手紙渡しに行くのもその場の雑談とか何を話そうとか
何か意味があるようなないような何つまりちょっと言いたいことはあまり半然としないんだが
失っているものもすごくあることを僕らは気づいていないし
前の世代が失ったもの前の世代が大事にしたけど僕らがもうなくていいと思っているものは大事じゃないと思うのに
自分たちの経験していて次の世代になくなるものは大事だっていうのは
ダブルスタンダードなのかみたいなことを考えて夜も眠れないんですよ
寝れないんだそうか
とりあえず今日に関しては朝8時から今まで寝てない
だいぶ寝てないね
健康には気をつけてほしい
確かに
でもそれあるよねそうある
自分が経験したものを良いものだと思い込む性質あるじゃないですか
ある
自分の経験したものがぜであるからそれがない別の世代はダメであるって思いがち問題だったり
自分が前の世代がやってて自分がやってないことあるはずなのにそれは別に良しとしているみたいなことは
往々にして多いですかね
多いよね
そういう結構フェアな観点に立つと実は擬似録を取らなくてもいいのかみたいな風に
なってしまう自分がちょっと悲しい
俺は擬似録を愛してるんだが
ねえ
美しい擬似録が出てくるみたいな書けた時の達成感とか
それの発揮するバリューみたいなものは擬似録の品質によって
ぶれがあったとしても多分AIでそれなりの平均ぐらいまでキャッチアップしちゃうレベルのものだと思うんですよね
擬似録ってそのコンテンツが仕事に果たして
何だろう
及ぼす影響みたいなものは
割とキャッチアップされちゃう領域かなっていう感じはするんですけど
ただだがしかし擬似録を書くっていう行為による
簡単に言うと筋トレなんすかねやっぱり筋トレ擬似録は筋トレ
筋トレなのかもね
俺たちがやってた筋トレめちゃめちゃ良かったぜって言って筋トレの自慢してるけど
若者は今はペンチプレスっすよみたいな
ヒカルさん腕立て伏せっすよそれみたいな
こいつ悪いっすよみたいな