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2025-07-22 52:47

Take46.『クインシー・ジョーンズの扉』~意外と知らない!?稀代のヒットメーカー~

昨年他界したクインシ・ージョーンズ

誰もが一度は名前を聞いたことがあるだろう音楽プロデューサー。しかし、彼のことは意外と知らない…なんて人が多いと思って今回ご案内します。

音楽というビジネスの頂点に君臨し続けたクインシーの成功の生涯と彼の残したジャズについて見ていきます。


◇アルバム『Back on the Block』

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◇アルバム『GULA MATARI』

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『surface』『wherever』『Nighit Walking』『Subway』『Favorite Piano』『Trrafic jam』『Good Day』『OK』『Station』




サマリー

クインシー・ジョーンズの音楽的キャリアの始まりと影響力を探っています。幼少期からトランペット奏者としての道を歩むまでの苦闘や重要な出会い、成功を収める過程について詳しく語ります。クインシー・ジョーンズは、フランク・シナトラの下で成功を収めた後、映画音楽の分野に進出し、数々のヒットを生み出します。そして、マイケル・ジャクソンとの出会いによって、音楽の歴史を塗り替えるような成功を収め、後にはアフリカへの支援活動にも積極的に取り組みます。彼は音楽業界から政治に至るまで多大な影響を持つ人物であり、彼の人生やキャリアは常に新しい扉を開いています。また、音楽の重要性を黒人の歴史と結びつけ、数々のプロジェクトに携わる中でその使命を果たしています。クインシー・ジョーンズの音楽的な影響や象徴的なアルバムについても探ります。このエピソードでは、ジャズとヒップホップの融合や多様なアーティストとのコラボレーションが強調されます。さらに、彼の作品を通じて黒人音楽の歴史や文化を次世代へ伝える重要性についても考察しています。クインシー・ジョーンズの音楽的影響や多様な作品を通じて、彼の人生や音楽活動の深さを探っています。

クインシー・ジョーンズの背景
ジャズの入り口案内所、案内役のFrank Nappaです。
この番組は、様々な扉からジャズの入り口をご案内するポッドキャストです。
2900曲以上の録音、そして300枚以上のアルバムを録音。
51の映画・テレビ音楽を制作し、そのオリジナル曲は1000曲以上にも上る。
グラミー賞には80回以上ノミネートされ、28回受賞。
エミー賞、グラミー賞、オスカー、トニー賞、すべての受賞をした歴代18人のうちの1人であり、
歴代最も売れたアルバムと、歴代最も売れたシングルに関わる、そんな伝説的な音楽家を本日は取り上げたいと思います。
その名は、クインシー・ジョーンズ。
昨年94年におしまいれつつも、91歳で他界したこの伝説的な音楽家について、
今回は2回にわたってご案内をしていきたいと思います。
今日はクインシーのすべてというネットフリックスでやっている自伝的な映画を中心に、
彼の足跡と主にジャズについてピックアップしてお話ができたらと思っております。
次回は、彼の残した作品だったり、彼自身のパーソナルなほぼれ話のような部分を中心にお話をしていけたらいいかなというようなことを思っております。
ということで、早速クインシー・ジョーンズの扉を開けてみましょう。
幼少期の影響と音楽との出会い
まず、彼の追い立ちについて少し見ていきたいんですけれども、なかなか強烈です。
まず、1933年にイリノイ州シカゴで生まれます。
当時のシカゴというのは犯罪の倉口というか、マジでヤバい街だったということをクインシー・ジョーンズ自身が語っていますけれども、
どうヤバかったかというと、彼が幼い時、7歳ぐらいの時に街を歩いていると、行っちゃいけないところってあるんですよね、そういう街ってね。
今、日本ではあまりないと思いますけどね。
当時のアメリカのシカゴというところは、相当治安というものは悪かった。
そこで彼の父は何をしていたかというと、そこで有名なマフィアのお抱えの大工の仕事をしておりました。
そして、母はかなり賢い女性だったらしいですね。
何カ国語もお話ができるような妻女だったらしいですけれども、
そういった環境、自分の旦那さんはマフィアの仕事をしている、
マフィアの仕事をしているというか、マフィアの一員ということですよね。
ですから、そういう学歴も高かった方がそういったところに行って暮らすというのは相当なストレスとかそういったものもあったんでしょうね。
今でいう統合失調症というのを発症してしまいまして、
クインシー・ジョーンズが7歳の時に彼の目の前で、
この拘束着を着けられて病院の方へ移される、搬送されるというね、
そういう光景を目の当たりにしたということで、
このね、母親の存在というのがかなりクインシー・ジョーンズの人格形成に大きく関わっているんだろうということは間違いないと思いますね。
実際にこの母親が入院している精神病院にね、
このクインシー・ジョーンズが行ったことがあるそうで、
そこではね、母親がね、保健にですね、いわゆる排泄物をですね、入れた状態で立っていてですね、下着姿で裸足。
その後ね、何をするかというとね、そのまましゃがみ込んでですね、
目の前でこの陽を足すようなね、場面というものをクインシー・ジョーンズはですね、目の当たりにするということでね、
たまったもんじゃなかったぞって言ってましたけど、それはたまったもんじゃないと思いますね、そんな光景をね、見せられたら。
ということで、この母親というのは後にだいぶ回復してきて、クインシー・ジョーンズのね、家族とも交流をするわけですけれども、
その中でね、クインシー・ジョーンズがすごくその母親との関係性というものに苦労するというかね、心を非常に痛めるというようなね、様子がいろんなところで書かれております。
またですね、彼の祖母ですね、実際にはですね、この後祖母に育てられるわけですけれども、この祖母というのが元奴隷出身なものですからね、
何でもかんでも料理しちゃうそうですね、とにかく貧しかったそうなんですけれどもね、ですからね、腐りかけのものからね、ネズミからですね、食べれるものは何でも料理してしまうような人で、
ジョーンズ自身もそういったものを食べたと言ってましたね。なぜそんなものを食べたか。貧しかったからですね。
それほど苦しい、精算なですね、この幼少時代を過ごしたジョーンズ。どの影響かわかりませんけれどもね、彼は晩年になってもね、口が非常に悪いですね。
彼が子供の頃、どのように音楽に出会ったかというとですね、とあるところに忍び込んで行ったときにですね、とあるところに忍び込んでっていうのもすごい話ですけどね、そこにあったピアノというものを発見するらしいですね。
で、このピアノを弾いたときにですね、自分はこの音楽というもので生きていくんだということを決めたというふうに言ってますね。
で、後にですね、このトランペットを学びですね、彼自身はピアノまたはトランペット奏者としてこのキャリアをスタートさせていくことになります。
で、この10代でですね、ニューヨークに移ってですね、14歳で18歳だと偽ってですね、バンドに参加しながらですね、政権を立てていくことになります。
そんな14歳のクイン・C・ジョーンズがここでね、運命的な出会いをします。
当時15歳だったRC、レイ・チャールズとですね、出会うわけですね。
で、この2人はですね、レイ・チャールズが亡くなるまでその信仰を深めていってね、無二の親友としてですね、その音楽業界の仕事の上でも何度も一緒になりますしね、
この講師ともに非常に大事なパートナーとして、友人として、このレイ・チャールズとの付き合いを深めていきます。
またこの頃ですね、クイン・C・ジョーンズ、14歳の時に仲間と一緒に車に乗っていたそうですね、後部座席。
で、その車が事故にあってしまった時に、この運転手から友人から全員が亡くなってしまうっていう事故をね、彼が経験します。
でね、事故した後にね、この仲間をかばってね、腕で引き寄せようとしたら、ポロッとね、その友人の首が取れてというような衝撃的な経験をしたことからですね、
クイン・C・ジョーンズというのは車に乗れないんですね。運転できない。
ということで、よくこの後も出てきますけれどもですね、映像作品なんか見ると、クイン・C・ジョーンズってね、必ず誰かの運転で動いてます。
キャリアの成功と挑戦
これはね、偉そうにしてるわけじゃなくて、どうやらその事故が原因で運転ができなくなったというようなことらしいですね。
そんなクイン・C・ジョーンズですけれども、当初はですね、このライオネル・ハンプトン楽団という当時でもね、すごく有名な人気のね、ジャズバンドにトランペット奏者としてこの入団することができます。
そこではですね、トランペット奏者としてではなくて、編曲や作曲の仕事も任されていたそうで、その後の彼のキャリアの重要な役割ということでね、このライオネル・ハンプトン楽団での経験というものが彼の音楽人生というもののベースになってきますね。
ここでですね、編曲というものの面白さを感じたクイン・C・ジョーンズは、この編曲の仕事を中心にやりたいということで、ジャズボーカリストのダイナ・ワシントンという女性歌手のアレンジャーの席を認めます。
ダイナ・ワシントンがね、いろいろなプロデューサーを紹介される中で、私のプロデュースはこの人なんだということでね、指名をしまして、ダイナ・ワシントンのプロデューサーとしてこのヒットをすることができます。
このアレンジャーとしての成功がですね、後にカウント・ベイシーだとかデューク・ウェリントンとの仕事にもつながっていく。
カウント・ベイシーだとかデューク・ウェリントンというとですね、当時のジャズ界においてかなりのね、ビッグバンドですからね、ここでもかなりの成功を収めるわけですね。
そんなクインシー・ジョーンズですけれども、1957年にですね、パリへ行きます。
なぜパリへ行くかというと、音楽理論こういったものを学ぶためにですね、勉強のためにパリへ行きます。
するとですね、マイルスの時もあったんですけれども、このパリでの経験っていうのは、彼をね、長らく苦しめてきた黒人差別というもの。
この差別から一時解放するわけですね。
マイルス・テイビスも確かそんなことでね、居心地が良くなってね、しっぽりと好きな女の人とね、ずっといるなんていうお話をしたと思いますけれども。
クインシー・ジョーンズもね、このアメリカでの黒人差別というものから解き放たれてですね、本当に音楽に集中をしていきます。
その時の師匠から言われたのがね、この十二の音、この音を先人たちがどのように使ったのかというものを学びなさいということを言われたらしいですね。
で、彼はね、ここで色々な音楽について学ぶことで、後のね、アレンジ、そういったものに音楽の理論、知識というものを生かしていくことになります。
だから彼の音楽というものはものすごくジャンルレスで幅広く、そして柔軟なものが多いですね。
ここでの経験をもとに彼はヨーロッパでの活動というものを進めていくわけですけれども、1959年にはですね、自身のバンド、ビッグバンドですね、これを形成します。
かなりね、こだわりのメンバーを集めてね、最高のバンドと彼自身が言うようなバンドでこのツアーを行うわけですけれども、まあこのツアーがですね、こけるんですね。
で、こけてね、何が残るかというと当然借金なんですね。
彼は失意のうちにこのバンドを解散をさせて、残った大量の借金というものに対してですね、向き合っていかなきゃいけなくなるということで、彼はここで大きな挫折を味わうことになります。
この借金を返すためにですね、翌年1960年からはですね、このプロデューサーとしての仕事をですね、一生懸命頑張っていきます。
またですね、自身もですね、リーダーアルバムを出していきまして、彼の代表アルバムの一枚ともいえるですね、リックバンドボサノバという、前回のルパン三世の時にもね、紹介しましたけれども、ソウルボサノバというね、曲があるわけですけれども、それが入ったアルバムですね。
ですから、あの曲はクインシー・ジョーンズの代表曲であるんですけれども、かなり初期の作品だということが言えますね。
その翌年の1963年には、レスリー・ゴアという女性ポップ歌手のプロデューサーとしてですね、このスーパーヒットを飛ばして、プロデューサークインシー・ジョーンズとしての名をね、広めていきます。
もうこの頃になると飛ぶ鳥落とすような勢いで、新鮮気鋭のアレンジャーとして、このクインシー・ジョーンズは、マイルス・デイビスやフランク・シナトラ、カウント・ベイシーといったね、そういったいろんな人とね、仕事をするようになっていきます。
クインシー・ジョーンズの音楽キャリアの始まり
このフランク・シナトラっていうのは、当時で言うとね、最も売れている偉大な歌手でしたから、その評価というものをね、うかがい知ることができるわけですけれども、このフランク・シナトラの元でやってたのはね、この楽団、当時のバンドというかね、人気歌手についてはですね、専用の楽団がついています。
すごいなと思うのは、このフランク・シナトラの後ろで演奏をしていた楽団っていうのは、カウント・ベイシー楽団なんですね。カウント・ベイシーって言うとね、皆さんも聞いたことがあると思いますけれども、とても有名なね、ビッグバンドのね、リーダーですけれども、その楽団の式、そしてアレンジをしていたのが、このクインシー・ジョーンズなんですよ。
またこの頃ですから、30歳ぐらいですか、29歳、30歳ぐらいのクインシー・ジョーンズがですね、フランク・シナトラに認められるっていうことの凄さ。初めはね、ちょっと試されたらしいんですけど、このフランク・シナトラに気に入られて、相当気に入られて、一緒に仕事をするようになったということなんですね。
ちなみにこのフランク・シナトラのね、有名なフライミー・トゥ・ザ・ムーンという代表曲がありますけど、この曲はアポロ10号が月から流した人類初めての音楽ということで有名ですね。
そんなクインシー・ジョーンズですけれども、たくさんのね、色々なアーティストとのアレンジの仕事を経て、次に目指したのはね、映画、映画音楽の世界へ移っていきます。
当時ですね、映画音楽というのは基本的に白人の仕事、白人の作曲家が主にやっていたんですね。クインシー・ジョーンズの言葉を借りると、東欧系の長ったらしい名前の奴らだけがね、やっていたっていう、そういうような仕事なんですけれども。
ちなみにこの彼のクインシー・ジョーンズの友人であるヘンリー・マンシーニという人のね、お話のエピソードなんですけれども、このヘンリー・マンシーニのね、とある友人の映画監督がね、クインシー・ジョーンズを映画の音楽プロデューサーにね、こう迎えたいんだけれども、黒人が白人の映画なんていうものの音楽を作れるのかね、という質問を本気でしてきたそうですね。
ヘンリー・マンシーニはね、もちろんだよっていうことを言うわけですけれども、それほど当時、この映画音楽に黒人が関わるということはね、異例中の異例だったそうですね。
実際にクインシー・ジョーンズが映画音楽を作った霊結という映画があるんですけれども、その原作のトルマン・カポーティ、彼が言ったことがね、この黒人が出てくるわけでもない、この映画の音楽を黒人に作らせるってのはどういうつもりだというふうにね、言ったという逸話が残ってますね。
このトルマン・カポーティというのは、本当にね、人種差別主義者のね、クソ野郎だということでね、このクインシー・ジョーンズというのは言ってますけれども、実際に後ほどね、トルマン・カポーティ、アカデミー賞の作曲賞にですね、この曲がノミネートされたときにですね、クインシー・ジョーンズに直接電話をかけてね、涙ながらにね、僕が間違っていたということでね、謝罪をしたというような逸話が残ってますけれども、
このことからも、このクインシー・ジョーンズという人がですね、いかにこの当時の差別社会の中にあったのか、またそういった差別社会の中でいかに自分自身というものを表現し続けてきたのか、先頭を走ってきたのかということがね、よくわかるエピソードだなというようなことを思いますね。
他にも、ゲッタウェイだとかね、夜の大捜査船、ちょっと私も名前ぐらいは聞いたことあるけど、見たことないなみたいなね、そんな映画がたくさん、当時の映画が並んでいくわけですけれども、その他映画やね、ドラマのサントラなんかも担当をしていって、この分野でも先ほどね、冒頭でも申し上げましたけど、51の映画やテレビ音楽というものを制作していきます。
そして多くの成功を収めていきます。
マイケル・ジャクソンとの伝説的なコンビ
この頃の成功というのはすごくて、デューク・エリントンからね、その実力を見込まれてね、音楽のジャンルを壊すんだということをね、直接言われたりしてますね。
さらにこのアカデミー賞にノミネートされまして、このね、アカデミー賞ではアフリカ系初のですね、ノミネート。
このアカデミー賞ということは映画音楽ですね、でノミネートされて、さらにそのアカデミー賞でこの音楽を演奏するその指揮者、指揮者としてこの舞台に立つということでね、
このアカデミー賞の歴史の中でアフリカ系ミュージシャンとして初めての回帰をね、成し遂げていくそんなね、開拓者としての一面をここでも発揮していきます。
今紹介しただけでもですね、黒人初のメジャーレーベルの重役、マーキュリーレコードの副社長就任とかですね。
それから黒人初のアフリカ系のね、ミュージシャン初のアカデミー賞ノミネートの指揮者、それから黒人初の映画音楽の作成ということでね、この時点でかなりの足跡を残しております。
そんな映画音楽の制作、このクインシー・ジョーンズの映画音楽で最も有名なものの一つに挙げられるのが、私も幼い頃に見ましたね。
ウィズ、オズの魔法使いという映画、ご存知でしょうか。1978年、このウィズの音楽プロデューサーに抜擢されたクインシー・ジョーンズは、ここでね、運命の出会いをします。
このウィズというのには有名なミュージシャンも多数出ています。
例えばですね、ダイアナロスがですね、それから有名なのはこの人ですね、マイケル・ジャクソン。
マイケル・ジャクソン出てましたね。カカシの役だったと思いますね。ダイアナロスって何の役でしたかね、ちょっと忘れちゃいましたけど、確か一行の仲間だったのかなと思いますけど。
このマイケル・ジャクソン、当時ジャクソンファイブとして有名だったんですけれども、その頃ね、ソロ活動というものを始めた頃だったかなと思いますけれども、ここでね、運命の出会いをします。
この時にマイケル・ジャクソンからね、クインシー・ジョーンズはとある相談を受けています。
どんな相談だったかというと、クインシー、僕にぴったりなプロデューサーはいないかなっていうね、相談を受けるわけですね。
で、その頃クインシーはですね、すごくこの仕事に没頭してます。このウィズの音楽に没頭してますからね。
ああそうだねなんて生半可に聞いてたわけですけれども、ちょっと一段落してきた頃にですね、このマイケル・ジャクソンにこんなことを言います。
俺がやるよっていうことを言うわけですね。
ということでここで、あの伝説的なコンビですね、マイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズというものが出会って、その後の大ヒットにつながっていきます。
ここからは多くを語る必要がないとは思うぐらい有名な話だと思いますけれども、マイケル・ジャクソンのオフ・ザ・ウォールという1979年に出したアルバムからプロデューサーとして参加して、その後はですね、言うまでもないですね、スリラーの大ヒットですね。
このマイケル・ジャクソンとの仕事はですね、本当に多忙を極めて、そして大きな成功をもたらします。
その成功の延長線上にあったのがWe Are The Worldですね。
このWe Are The Worldについては次回ちょっと話をしたいと思うんですけれども、このマイケル・ジャクソンとライオン・エル・リッチーが作曲したこのWe Are The Worldという曲をプロデュースして、たくさんのアーティストをまとめてこのプロデュースについても成功を収めます。
アフリカへの支援活動
その後ですね、なんと彼自身が映画制作、カラーパープルという映画をね、制作していくんですけれども、これがすごくて、この映画制作のディレクターにですね、スティーブン・スピルバーグを引っ張ってくるんですね。
この辺の話はね、またいろいろあるんですけれども、とにかくこの新しいことをね、どんどんどんどんチャレンジしていくという姿勢はね、本当に素晴らしいと思いますよ。
この頃ですね、彼自身のリーダーアルバムとしても、バック・オン・ザ・ブロックというね、ヒップホップとジャズというものの融合をしたアルバムを作っていきます。
これ後ほどちょっと語りたいと思いますけれどもね、そんな成功もあります。
その後の彼の足跡を見ていくとですね、この先ほど言ったバック・オン・ザ・ブロックというアルバムを通して、このヒップホップの文化と触れたクイーン・C・ジョーンズは、やがてそこでですね、
トゥ・パックとかね、ノートリアス・ビッグという当時の超有名なラッパーとですね、関わっていくことになるんですけれども、この二人って詳しい方は知っていると思いますけれども、
構想がね、争いがありまして、やがてね、この命を落とすような結果になっていくわけですけれども、その前段階でね、この問題っていうものは非常に大きな問題なんだと。
若い音楽の才能をここでなくしてしまうわけにはいかないということで、シンポジウムを開いてですね、この問題の中山に乗り出すっていうこともやってますね。
メンバーがすごいですね、このトゥ・パック、それからノートリアス・ビッグという当時の二大スターに加えて、ドクター・ドレーというかですね、それからコリン・パウェル。
コリン・パウェルをここで引っ張っちゃうところがすごいですよね。コリン・パウェルってブッシュ政権でいた国務長官ですよ。
政治家をここで呼んできてしまうっていう。どれだけの顔の広さがあるのかっていうところなんですけれども。
結果的にはですね、このシンポジウムを開いたとしてもこの問題の解決には至らなかったわけですけれども、こうしたですね、いろいろなその当時起こっていた問題っていうものにね、
We are the worldもそうでしたけれども、やがてそういった事前事業というものにも彼自身がシフトしていきます。
2000年前後になってくるとですね、この世界への貧困への取り組み、とりわけアフリカへの支援というものに注力していきまして、
このアフリカの支援について国連でスピーチをしたりですね、チャリティーコンサートを開いたり、
彼自身の活動を通してですね、アフリカのツツ大主教とかですね、ネルソン・マンデランとかですね、そういった人たちとの交流も深めていったり、
またアメリカ大統領、歴代のアメリカ大統領ですね、クリントン、それからジョージ・ブッシュ、バラク・オバマといった人たちとね、進行を深めていきます。
クリントンなんかとはね、よく非常に一緒にいたということを聞いてますけれども、その繋がりもあって、コリーンパウェルともね、知り合いということで、知り合いなんですね、すごい。
そしてそんなね、黒人社会の問題に取り組んできた彼にですね、あるオファーが来るわけです。
それが何かというと、スミソニア博物館にあるアフリカ系アメリカ人の博物館というものを、このバラク・オバマ政権の時に立ち上げるわけですけれども、このオープニングのセレモニーショーのプロデュースの依頼というものが舞い込んできます。
クインシー・ジョーンズの健康と人脈
この頃ですから、70代を超えて80代ですよ。クインシー・ジョンズね、おじいちゃんですね。自分で歩くのも苦しくって、この頃糖尿病とかも発症していて、何回も倒れて救急で搬送されてたりとかですね。
いよいよあの大好きだったですね、この人ノンベイなんですけど、シナトラとかレイ・チャールズと一緒にいる中でね、1時間でウィスキーのジャック・ダニエルのダブルを7杯飲むような飲み方をしてたんだということを言ってましたけれどもですね、
もう本当に酒酒酒みたいなね、そういう生活の中からやはり自分自身の健康問題が浮上してきてね、酒をパタッと止めるということをしておりますけれども、そんなフラフラな健康状態の中、このビッグプロジェクトをね、成功させていきます。
すごいのが先ほども出てきたね、コリン・パウェル、言うとアメリカでも超大物ですよ。この当初ね、このセレモニーの客人の一人として、出演者の一人として予定をしていたんですけれども、このパウェルさんがですね、予定があってね、欠席するというふうにスタッフに伝えたそうなんですね。
それを聞いたこのクイシー・ジョーンズは何をするかというと、わかったわかったと、俺電話するからって言って、携帯電話持って、もしもし、元気?って来てほしいんだよね。君が必要なんだよね。だからちょっと来れる?来てよって言って、さっき断っていたパウェルに電話をします。
その場でですね、快諾を取り付けて、出るって言ってね、電話を切るっていうね、言う場面がこのクイシーのすべてにそのまま載っています。彼のね、一言。We got him!って言うんですね。捕まえたって。すごいですよね。
その様子からも、クイシー・ジョーンズという人の懐の深さというか、人脈の広さ。後からもちょっと話をしますけれどもね、次回。いかにこの音楽以外の部分でも、彼の影響力というものが強かったのかということをね、伺い知れるエピソードの一つだなあということを思いますね。
実際にこのスミソニア博物館のオープニングセレモニーに出演してもらうっていうアーティストもね、彼がまずこいつとこいつとこいつと言って名前をどんどんどんどん上げていくんですけど、例えば出席者を言っていくとですね、オプラ・ウィンフィリーという、この方も大統領候補にも名前が挙がるような超有名なアメリカの司会者というかですね、そういったような人。
この方がね、メインのパーソナリティーとして司会をするわけですけれども、まずオプラだろうって言うんですよね。まずオプラだろうですね。それからね、ウィル・スミスだとか、メアリー・ジェ・ブライズ、ハーヴィー・ハンコク、スティービー・ワンダー、コリーンパウェル、バラック・オバマということでね。
本当に広いですよ。それからトム・ハンクスとかレディ・ガガとかいっぱい実際出てますけれどもね。まあ一回この映像とか見るとすごいなと思いますけど、なんていうこのメンツを揃えるんだこの人はっていうね。しかもみんなクイーン氏に声かけられたら行くしかないだろうって来てるっていうところがまたすごい。
あとオバマとブッシュも確か参列してましたね。オバマは当時の大統領でしたからオープニングスピーチをしてテープカットもしてましたけれどもですね。本当にすごい。
で、ここの博物館の仕事もですね、この若者たち、今の黒人の若者たちにその歴史というものをやっぱり残したいんだというような思いがあったそうですね。やっぱり本人が差別のあるアメリカ社会の中で生きてきて感じたもの、それから取り組んできたこと、そして大事にしてほしいこと、やっぱり伝えたいことというのがたくさんあったんだと思いますね。
そういったものを込めたというところが、なんというかこのただ単に音楽ビジネスだけをやってきたわけではない、このクイーン氏・ジョンズの理念みたいなものも一部感じられるのかなというようなことを思います。
音楽と歴史の融合
この彼に言わせると黒人のルーツというのはね、ビーバップに始まり、ドゥアップで、そしてヒップホップということでね、音楽の歴史でもあるという認識が強くあったみたいなところは感じられますね。
実際にエリストレーテにおいてクイーン氏・ジョンズはキャリアを始めたのがビーバップですから、ディジー・ガレスピーだとかね、そういった人たちと一緒に演奏していたような人ですからね、この音楽を通じてこの黒人の社会、そういったアメリカの問題についてとても深く関わりを持ってきた、そんな一面もあります。
そしてですね、この80代を過ぎてもバリバリ現役で働いてきたわけですが、2024年、昨年ですね、アカデミー賞のですね、名誉賞というものを受賞することが発表されて、そのね受賞式を控えていたわけですけれども、その受賞を本人が受け取る前にですね、91歳としてこの生涯を閉じます。
ということで、この彼の波乱万丈ともいえる、しかしながらこの成功体験に満ちあふれた、そして新しい扉を開き続けた、この彼の人生というものはね、とても見ていて魅力的だなあということを感じます。
先ほども出てきたバラク・オバマの言葉を借りるならば、彼が素晴らしいのはね、いつもそれが最初のことだ。黒人初のというね、いろいろな業を達成してきたということですね。
後から来る人への道を開いているというようなことをね、バラク・オバマ自身がこのクイーン・シン・ジョーズに対してですね、送っているという言葉があるわけですけれども、まさにこの黒人ミュージシャンとしての歴史というものの先頭を常に走ってきたという人だと思いますね。
実際に先ほど言ったバック・オン・ザ・ブロックというアルバムでは、前にマイルス・デイビスの回でね、マイルス・デイビスがこの当時流行っていたブラックミュージック、ヒップホップをね、ジャズに取り入れたんだっていうお話をしましたけれども、実はあのアルバムをね、出したのが、マイルス・デイビスがリリースしたのが1991年のことなんですけれども、
このバック・オン・ザ・ブロックでは、その2年も前に実際にこのラッパーを起用したアルバムを作っております。ジャズとヒップホップとの融合というものをこのクイーン・シン・ジョーズがね、実は真っ先にやっていた。しかもそのアルバムに参加していたメンバーがマイルス・デイビスなんですね。
ということで、ちょっとね、このバック・オン・ザ・ブロック見ていきたいと思うんですけれども、クイーン・シン・ジョーズのアルバムを見出すと見切れないし聞き切れないほどあります。先ほども言いましたけれどもね、めちゃくちゃ数あるんですよ。その中でこのジャズのアルバムということに目を向けていくとですね、いくつかあるんですけれども、主には初期の頃のビッグバンドの演奏というものがたくさん残っております。
それから後半になってくるとですね、やがてソウルだとかジャズファンクこういった明け色の作品が多くなっていく中で、このジャズファンクとヒップホップを融合させたバック・オン・ザ・ブロックというアルバム、これグラミー7部門受賞する超成功する作品なんですけれども、この作品でクイーン・シン・ジョーズ名義の作品として初めてグラミーを取るんじゃないかなと思います。
そんな話をしています。またちょっと感慨深かったのは、この作品の受賞スピーチで彼はね、母親に対して感謝を述べてるんですよ。彼の人生にとても暗い影を落としていたはずの母親に対する感謝をここで述べてるっていうのがね、何とも考え深いものがあるなと思ってね。
もしかしたら、いわゆるね受賞スピーチの提携文として、母へ感謝という言葉を言ったのかもしれませんけれども、でもそういう言葉をここで言ったっていうこと、だから彼の中で何か神経の変化があったのかもしれないし、この受賞というものがそれほど彼の中での喜びが大きかったのかもしれないなということは思うわけですけれども、ちょっとアルバムの方に戻りますね。
まずですね、このヒップホップ、特にラッパーとのですね、コラボレーションということで、ICE-Tだとかね、ビッグダディケイン、クールモーディーというね、ラッパーと一緒に、私ちょっとブラックミュージックに疎いものですから、この辺りの人聞いたことあるなぐらいなんですけれどもね、と一緒にやってますね。
で、一曲目がですね、この息子のクインシー・ジョーンズ3世と一緒にラップをしてます、オープニングで。
ですから、このクインシー・ジョーンズのラップというね、非常に貴重な音源を聞くことができるので、よかったら聞いてみてください。
実際にね、息子からこのヒップホップ、ラップのことについて教えてもらったなんていうことも残ってますけれどもですね。
他のですね、参加者を見ていくと非常に豪華。
ボーカルグループTake6、それからルーサーバンドルス、そしてウェザーリポートのリーダーであります、ジョー・ザビヌル、そしてハーヴィー・ハンコク、レイ・チャールズ、チャカ・カーン、エラフィッツ・ジェラルド、サラ・ボーン、アル・ジャロー、ボビー・マック・ファーリン、マイルス・デイビス、ディジー・ガレスビー、ジョージ・ベンソン、などなどなどなどということでね。
すごいですよね。これだけのミュージシャンを集めちゃうっていうところがまずすごいですし、来ちゃうんですよね。
で、そのミュージシャンたちが何が一番すごいなって思うって、これだけアクが強くて主役級のミュージシャンを並べてですね、この1枚のアルバムに落とし込める。
要はわがまま言わせてないわけですよね。
クインシーが言うならってことで、このクインシーのアレンジ、プロデュースに従ってですね、作品に参加しているわけですから。
これ下手なプロデューサーだったらみんな言うこと聞きませんからね。アルバムなんかできやしないですよね。
で、この辺りがやっぱり名プロデューサーとしてのクインシーのすごさだな。だって、We Are The World作ってるんですから。
We Are The Worldについてはね、次回喋りますけど、We Are The World作ってるんですから、これぐらいできますよっていう。
これぐらいっていうメンバーじゃないですよね。
ジャズに疎い方もね、中にはうちの番組お見えになると思いますけれども、
ディジー・ガレスビーって言うとね、チャーリー・パーカーと一緒にビバップの時代を作った人ですし。
そのディジー・ガレスビーと一緒にやっていて、ディジーの世には吹けないということでね、
独自の路線を築いていった帝王フリーザことマイルス・テイビスがいますね。
それからですね、名優のレイ・チャーズ。
さらにですね、これも進行の深いハーヴィー・ハンコックがいたりだとかですね。
エラフィッチ・ゼラルド・サラボンなんて、歴代のこのジャズボーカリストの中でも
トップに君臨する二人ですからね。
ジョージ・ベンソンだとか、ボビー・マクファーリンが小さく見えてきちゃうぐらい。
小さくないんですよ、この二人だってね。
なのにそう見えてしまう。
しかも、ジョー・ザ・ヴィルヌなんて、
バードランドというウェザーリポートの代表局を提供しているにもかかわらず、
バードランドには参加させてもらってないんですよ。
アレンジと音楽の融合
この辺りの支配の仕方というかね、すげえなと思いますよね。
でもこのバック・オン・ザ・ブロックという曲があるんですけど、
この曲は本当にジャズプレイヤーとヒップホップの共演であります。
さらに先ほどから言っているバードランドという曲なんですけれども、
その一曲前のジャズ・コーナー・オン・ザ・ワードという曲があるんですけど、
このトラックと繋がって二つの曲で一曲みたいな流れになっています。
ここの辺りはね、アルバムで聴いていただいてもいいですし、
YouTubeなんかを見ると、そこで弾いている、
プレイしているジャズプレイヤーの写真が差し込まれて、
誰が演奏しているのかというのが分かりやすくしてある、
そんな画像もあったりしますからね。
よかったら見ていただければ。
せっかくですから、リンクを貼っておきますかね。
非常に素晴らしい。
クイーン・C・ジョーンズではなければこうはならないだろうというような流れになっていますし、
このアルバムを通してアレンジだとか曲順だとか、
この繋ぎ方、先ほどから言っている一曲目のプロローグ、
彼がね、ラップをしているプロローグ。
2Q'sラップなんて書いてありますけどね。
彼のあだ名がQですからね。
2Q's、つまり息子のQ。
クイーン・C・ジョーンズ3世の2人で2Q'sということなんですけど、
この2Q'sラップからバックオン・ザ・ブロックに流れていく、
その繋ぎも非常に滑らかで、
本当に一曲の流れみたいなね、
そういうアレンジもされているのも聞いていてとても心地よい。
この実際のBIRDLANDっていう曲も、
ウェザーリポートのバージョンと全然違っていて、
もっとスローテンポなんですけど、
アフリカのリズムというか、
大楽器というかパーカッションが入っていて、
どこかアフリカ、黒人の歴史というか、
やっぱりブラックミュージックとの融合というものが、
このアルバムのテーマになっているだろうと思いますのでね。
タイトルのバックオン・ザ・ブロックって、
バックもブロックというのもね、
ブラックという言葉遊びなのかなと思うような文字の並びですよね。
ですからこのBIRDLANDを作る時にも、
ジョー・ザビヌルの方に言ったのは、
この曲を通してね、若者たちに、黒人の若者たちに、
この黒人の歴史というものを伝えていきたいんだっていう、
そういう思いがあったそうです。
ですからこのアレンジも、アフリカのね、黒人音楽のルーツ。
これね、インタビューの中で、ケンドリックラマーとのインタビューかな、
このヒップホップ、ラップのミュージックの原点って何なんだっていう話をね、
していた時に、このケンドリックラマーに対して、
アフリカミュージックだっていうことをね、
説いている場面がありましたけれども、
やはりそういった自分たちのルーツというものがどこにあって、
どういう歴史になっていて、どういう問題を今抱えていて、
自分たちがどうしていかなきゃいけないのかということを、
常に考えて、後進に託していこうとしたね、
こういったクインシー・ジョーンズならではの思いというものが込められた。
著名なアーティストとのコラボ
これはね、名アレンジだと思いますよ。
名アレンジというかね、豪華すぎ。
本当に豪華ですよ。
このアルバムで1枚、1本エピソード撮れるぐらい豪華ですね。
先ほども言いましたけどですね。
ぜひよかったら調べてですね、
どんなミュージシャンが参加しているか見てみるとね、
面白いですよ、この人のアルバムね。
本当に目ん玉飛び出るようなラインナップで演奏してますから。
この人が早くみたいなね。
いや、すごい。
それでいて、また何がすごいって、
このらしさ。
例えばマイルス・デイビスらしさとかですね、
ラフィッツ・ジェラルドらしさというものをすごく感じる一方で、
新しい魅力みたいなものをちゃんと引き出しているあたりがね、
いや、さすが名プロデューサーっていうね、このクインシー・ジョーンズ。
素晴らしいですね。
このアルバムぜひ聴いていただきたいと思います。
曲を1曲聴くというよりはね、
アルバムで通してぜひ聴いていただきたい。
そんなクインシー・ジョーンズの作ったアルバムのうちのたった1枚ですけれども、
代表してご紹介しました。
他にも聴いていただきたいアルバムたくさんあるんですけれども、
それは興味を持ったらいろいろディグっていただけるとね、
こんな曲がという曲に出会えるのかなというふうに思っております。
ということでですね、
本当はもっと短くまとめたかったんですけれども、
長くなってしまいましたけれども、
今日のプレイリスト、
スモーキングということで今年をやっていくぞということを言いましたから、
そんな流れでどの曲を入れようかなと思ったんですけれども、
クインシー・ジョーンズといえばですね、
プロデューサーでありますので、
彼がプロデュースをした、
アレンジをした曲からまず2曲。
1曲目が、
ヘレン・メリルの
ユーピッソン・ナイス・カム・ホーム2という超有名な代表曲。
ニューヨークのため息といわれたヘレン・メリルですね。
有名なジャケットです。
ヘレン・メリルがすごくしかめっ面をして、
マイクの前で歌を歌っているドアップの写真ですね。
おそらく青みがかったジャケット
じゃないかなと思います。
後をね、後ほど出された
マスタリング版ですかね、
は白黒写真になってますけれども、
有名なのは青いオリジナル版かな。
で、この
ユーピッソン・ナイス・カム・ホーム2というとね、
ヤシロアキさんもカバーしてましたけれども、
このヘレン・メリルの歌の中でも代表曲の一つ。
で、この代表曲っていうもののアレンジが
実はクイーン・シー・ジョーンズだったって知らなかったですね、私。
今回調べてみて、えーって思いましたけど、
知ってました?皆さんね。
これクイーン・シー・ジョーンズなんですよ。
クイーン・シー・ジョーンズらしさとはちょっと違うイメージですけどね。
実はクイーン・シー・ジョーンズらしいですよ。
それから、シャーリー・ホーンの
マック・ザ・ナイフという曲。
シャーリー・ホーンというのはですね、
歌いながらピアノを弾くということで、
あの弾き語りの人なんですけれども、
非常にその声が独特でですね、いい声なんですね。
あの煙のようなコントラルトっていうことでね、
あのウィキなんか見ると書いてある。
コントラルトっていうのはアルトのことですね。
要は女性で言うと低い声なんですね、シャーリー・ホーン。
ですからちょっと煙がかったような声なんですけれども、
この声がね、抜群にいいんですよ。
で、このクイーン・シー・ジョーンズに言わせるとですね、
まるで衣服のように彼女はその声であなたを誘爆するっていう解説をね、
しているようなほど素晴らしい歌声を持っている方。
僕も一声聴いてですね、なんというか痺れましたね、この方の歌。
すげーと思って。
なおかつね、この方は他にもマイス・デイビスだとか、
ディディ・ガレスビー、トゥーツ・シールマンス、
ロン・カーター、カーメン・マクレー、ウィントン・マルサリスなどですね、
たくさんのミュージシャンとコラボをしていることでも有名。
もしこの歌を聴いてね、気に入ってくれたらですね、
ぜひ他の作品も聴いていただきたいと思いますね。
僕もこの後ね、シャーリー・ホーンいっぱい聴きたいなと思ってしまった。
そんな人です。
ということでね、2曲目はシャーリー・ホーン。
プレイリストの紹介
3曲目は、先ほどのね、バック・オン・ザ・ブロックから1曲とも思ったんですけれども、
ちょっとクインシーらしさみたいなのも欲しいかなということで、悩んだんですけどね。
ウォーキンというね、あの名曲のクインシーのバージョンも、
これもかっこよくて、参加ミュージシャンも豪華なんで、
このウォーキンでもいいかなと思ったんですけれども、
ちょっとスパイス、クインシーのね、このソウルフルなファンクなスパイス、
クインシー・ジョーンズの曲って結構こう賑やかしいというか明るいというかね、
そういうダンサブルなナンバーって結構多いんですけど、
そんな部分もね、あってもいいんじゃないかなということで、
アルバム、You've Got It But Girlというね、アルバムが1973年のアルバムがあるわけですけれども、
こちらからサンフォード&サンテーマということでね、
NBCというテレビ局のテレビ番組の主題歌だったらしいですね。
もちろん私は知りません。アメリカのテレビ番組なので。
ですけど、どことなく聞いたことがあるような感じがしてくるというのが、
このクインシー・ジョーンズの曲の不思議なところ。
たくさんありますけれどもね、そんな曲。
この曲もクインシー・ジョーンズみたいなね、ありますけれども。
とりあえずですね、今日紹介するにあたっては、
こちらのちょっとファンキーな曲も1曲入れてみたいなということで、
こちらの曲、合計3曲をプレイリストの方に入れさせていただきたいと思います。
またですね、概要欄の方には、紹介したいね、先ほどのバックコードブロックの
バードランドなんかもありますけれどもね、いくつかご案内したいような
リンクも貼らせていただきますのでね、よかったらぜひ見ていただきたいと。
そしてね、クインシー・ジョーンズ、ちょっと私もね、
ここしばらくクインシー・ジョーンズ付けなんですけど、
皆さんにも沼っていただきたいと思います。
名古屋でのポッドキャストイベント、ポッドキャストミキサーを開催します。
ポッドキャストミキサーは、ポッドキャスターもリスナーも全員巻き込んだ
トーク型イベントです。
豪華ゲストによる特別コラボセッション。
10分おきに様々な番組が混ざり合うミキサータイム。
各番組のグッズが手に入る物販ブース。
計15番組と混ざり合う。
東海で今までになかったポッドキャストイベントがここに実現。
声が混ざる、思いが交わる。
ジャンルもスタイルも超えて、ポッドキャストの今が名古屋に集う週末。
話す人も聞く人も、混ざって生まれる新しい熱。
7月、ポッドキャストミキサーで会いましょう。
場所は名古屋駅すぐ近く、名古野キャンパス。
7月26日、13時より開始。
チケットはリッスンチケットページにて。
さあ、推しに会いに行こう。
ということで、送りしてきましたJazzの入り口ですけれども、いかがでしょうか。
クインシー・ジョーンズの深さ
Queen C. Jones、深いっていうね、ところですよ。
ほんとね、何とも言えないこの深さというものがありますけれどもですね。
まだありますよ、後半。これだけ喋って後半があるんですからね。
まあ、1回目がカスカスじゃないことを祈ってますけれども。
次回はですね、このQueen C. Jonesのジャズ以外の部分、ざっくりとした略的はね、お話ししましたので、
もうちょっとお笑い話だったりね、ブラックな話だったり、
ジャズ以外の音楽の部分の紹介なんかをね、していけたらというふうに思っております。
1つのテーマとしてはですね、8月は私の中で世界平和というかですね、
今ちょっといろいろな世界的な問題、紛争だったり戦争だったりね、
いろいろなちょっとあまり世の中に優しくない話題っていうものが多い中で、
もう1回ね、そういったことを見つめ直すきっかけにしたいなというような8月にしたいと思ってますのでね。
そういったテーマも盛り込みながらね、次回お話ができればなというふうに思っております。
ということで、ジャズの入り口案内所ですけれども、なかなか更新のタイミングが遅れている日が続いておりますけれども、
基本的には各週の金曜日、大人の時間、午後8時頃から配信予定となっておりますので、
温かい目で見ていただければと思っております。
番組への感想やお便り、その他リクエストについては、各種SNSでハッシュタグ、
ジャズの入り口をつけてポストするか、DMをいただいても大丈夫ですし、
番組リットリンクの中にありますメールフォームがあります。
そちらから送っていただいても結構です。
Spotify、YouTube、Listenではそれぞれのね、プラットフォームの中に感想、コメントを書く欄がありますのでね、
そちらに残していただいても大丈夫です。
あなたの送りやすい形でその感想の声を届けていただければ、とても嬉しく読ませていただいております。
またお便り会なんかをね、やりたいと思ってますよ。
ということで、ここまでお付き合いありがとうございました。
またのお越しをお待ちしております。
アナ役はフランク・ナッパでした。
今日も喋っているそこのあなた、第2回ポッドキャストスターアワード2025開催中です。
雑談でも、はたりでも、ゆる配信でも、あなたの声を応募してみませんか?
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詳しくは、podcaster.jpをご覧ください。
No.1ポッドキャストクリエイターは誰だ?
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