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  2. 4. 子供嫌いだった女性が里親に
2020-09-18 24:46

4. 子供嫌いだった女性が里親に


暴力をふるう継父と、脳卒中で意識が戻らなくなった母親。子どもだった彼女はどう生き抜いた? 子ども嫌いだった彼女が、なぜ里親に? NPO法人happiness代表・宇野さやか(明香)さんへのインタビュー。ノンフィクションライター・大塚玲子がお届けします

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PitPaのザ・フォーカスへようこそ。
この番組は、ディジカルチャーシーンをテーマに、取材音声をもとにしたリアリティーあふれる情報を配信していきます。
こんにちは、ライターの大塚玲子と申します。
今回登場してもらうのは、UNO Sayakaさんです。
Sayakaさんは、子供時代を母親の再婚家庭で過ごした後、中卒でフリーターになり、
今は、自分で立ち上げたカフェで子供たちを支える活動をしています。
母親が倒れて渾水状態になってから、当時10代だったSayakaさんは、どうやって生きてきたのでしょうか。
もともとは子供が嫌いだったという彼女が、里親にまでなったのは、一体なぜだったのか、教えてもらいました。
物心がついた頃には、もう父親はいませんでした。
離婚の原因を聞いたことはありません。
Sayakaさんには10歳以上年の離れた姉と年後の妹がいます。
3人とも母親の下で暮らしていましたが、いつしか男性も一緒に生活するようになりました。
保育園に入った頃、Sayakaさんは母親から、この男性をお父さんと呼ぶように言われます。
その頃は、「おっちゃん、おっちゃん」と言って、わりと懐いていたような記憶はあるのですが、
ある日突然に、今日からお父さんと呼べと言われるようになって、
なんでやさ、今までおっちゃんと呼んでたやん、みたいな感じで言っていたのが、
お父さんと呼ばへんかったら怒られるようになったのです。
それがおそらく再婚のタイミングだったのですが。
再婚相手の男性にも娘がいました。
年はSayakaさんよりちょっと上です。
体に障害があったため、普段は専門の施設で暮らし、週末だけ一緒に過ごしていました。
母親と男性はスナックを経営しており、Sayakaさんは毎晩妹と留守番をしていました。
小学校に上がる前、夜中に目が覚めて母親がいないことに気づくと、
Sayakaさんはいつも一人で店まで歩いていきました。
危ないので娘が勝手に外に出ないよう、母親が外から鍵をかけるのですが、
Sayakaさんは椅子によじ登ったり、勝手口から出たり、あの手この手を使って店に現れていたと言います。
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Sayakaさんの記憶にある限り、母親と再婚相手の男性はしょっちゅう喧嘩をしていました。
母親が帰ってくるときは、すっごい酔っ払って帰ってくるので、すごい大喧嘩しながら帰ってくるんですね。
毎晩ではないけれども、寝てたとしても目が覚める。
家帰ってきてから喧嘩の続きが始まって、父親と母親が殴り合いとかをするんですよ。
夫婦喧嘩の原因は何だったのでしょうか。
とにかく、母親のことが父親としてはすごく好きすぎて、私たちに構うのが気に入らないみたいなことであったりとか、
あとはもうすごくシュランっていうのか、お酒を飲むととにかく人格が変わるみたいなところがあって、
家に帰ってくると、私らは口を開くだけで怒鳴られるみたいな状況だったりして、
自分の娘に対してはそういうことは一切言わなくて、むしろ障害を持っているからかわいそうやろみたいな、
そういうところがすごく強くて。
警府は自分の娘だけを可愛がり、さやかさんや妹にはよく手を挙げていました。
一方、さやかさんの母親は夫の娘であるママ子にも分け隔てなく接し、
ママ子の方もさやかさんの母親の味方についていたといいます。
お姉ちゃん自身も、あんたの言ってることがおかしいねみたいな感じで、父親に向かって言ってはいはったんですけどね。
警府に応戦するのは主にさやかさんの役割でした。
口が立つ子供だったこともあり、逆上した警府からはよく重い灰皿を投げつけられたり、
叩かれたり、押し入れに閉じ込められたりしたといいます。
家にはお金もありませんでした。
当時はバブルの絶頂期でしたが、店の経営はうまくいっておらず、
さやかさんの家では電気やガス、電話などがよく止められていました。
毎日借金取りが現れ、さやかさんが親から預かった金を渡す日もあれば、
テレビの音を消して身を潜めてやり過ごす日もあったということです。
中学の途中からさやかさんは学校へ行かなくなり、家にもあまり帰らなくなりました。
直接のきっかけは、引っ越しをして学校が変わり、
友達がリセットされてしまったことでしたが、最も大きな原因は警府でした。
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この男性はいつも子どもたちに対し、自分が生活費を出していることを恩に着せていたのです。
本当にとにかく口を開けば、誰のおかげで飯が食えていると思っているのかというお決まりのセリフを言われて、
本当に言われ続けて、とにかく父親のお金で私たちの生活が叶われているのが嫌で嫌で仕方なくて。
学校の代わりにさやかさんが行くようになったのは様々なアルバイトでした。
ガソリンスタンドの店頭で着ぐるみに入る仕事や、街頭でのティッシュ配りなどは身分証明を求められず、年齢をごまかせば中学生でも可能だったのです。
高校に進学せずフリーターになったのも、当時の彼女にとっては当然の選択でした。
受験となれば勉強する必要がありますが、学校にはずっと行っていませんでしたし、お金も稼げているのです。
わざわざ高校に行く意味がわかりませんでした。
それに進学することになれば学費だってかかります。
一番嫌なのが、学費はじゃあ誰が払うのっていうところですよね。
そこはもう絶対、父親に出してもらうっていうことが死んでも嫌やったので、そもそも受験する気もなくて、受験をしなかったです。
その後、さやかさんはアルバイトをてんてんとしていましたが、ある日母親が倒れてしまいました。
さやかさんが17歳の時です。
母親はパチンコが好きで、昔からよく通っていたのですが、ある時行きつけの店で脳卒中を起こし、病院に運ばれたのです。
一命は取り留めたものの、その後3年ほど意識が戻らず、入院していました。
さやかさんにとって唯一良かったのは、これを機にようやく警府と離れられたことでした。
当時すでに初体を持っていた年の離れた姉が、さやかさんと妹が引っ越せるよう手助けしてくれたのです。
なおこの時、障害がある義理の姉は施設にいたそうですが、彼女は今でもさやかさんと交流があるということです。
その頃にはさやかさんの妹も中学を卒業して働いていたため、生活費は2人で苦面しました。
母親の入院費は上の姉が払ってくれていましたが、家賃や公熱費、携帯電話の料金などは、自分たちで稼ぎ出す必要がありました。
今から思うと、18歳までは児童養護というのがあったので、私たちももしかしたら施設に入ったりとか、そういうことも可能だったと思うんですけど、知らないのでね、そういうのがあること自体を。
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なお母親は倒れてから3年ほど経った頃、ようやく自発呼吸ができるようになり、その後少しずつ回復していきました。
後遺症のせいか、記憶はあやふやのままでしたが、最後には車いすも使えるようになり、今から数年前に亡くなったということです。
私も本当に母親のことめっちゃ憎んだし、なんでこんな父親なのにこんなに嫌な思いしてるし、嫌なのに別れてくれへんのってすっごい思ってたんですよね。
だから母親のこともすごい嫌いやった時期もあるし、信じられへんかった時もあったんですけど、今となってはわからんでもないというか、
おかんもおかんで、どうしようもなかった、知らなかったんやなっていう、今では許しの気持ちというか、理解して許すことができるようになったっていう心境です。
さやかさんの人生に天気が訪れたのは23歳の時でした。今の夫との結婚です。
とても穏やかな男性なのですが、当時の彼女は結婚することに不安だらけだったといいます。
主人に対してというよりかは、親御さんに対してですね。その時はすごい私はいろんな追い目を自分の中で持ってて、やっぱり母親、家のこともそうですし、まともにも学校も出てないし、
しかもいきなりできちゃった結婚やし、今の主人は両親揃って払う家ですしね。めっちゃ気にしました。
さやかさんはこの時初めて高校に行かなかったことなど、過去を後悔したといいます。でも実際には夫の両親は彼女のことをとても温かく受け入れてくれました。
子供ができたんやったら、しゃあないやろうって思っていたのかわからないですけど、すごく温かく迎えてくれました。
妊娠中もね、いろいろ5ヶ月目にはお参りに行ったりとかあるじゃないですか。
そういうのも私には親がいなかったので、いるけど施設に入ってたのでね、そういうことを全部代わりに連れて行ってくれたりとかしました。
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子供が生まれてみると驚くことが起きました。
それまでさやかさんは子供が嫌いだったのですが、見方が180度変わったのです。
もともとは子供なんか大嫌いで、もう本当にうるさいし、めんどくさいし、どうせしたらいいかもわからへんし、とにかく嫌いだったんですけど、
私自分が子供を産んで、子供を産んだ時に、今までいろんな大事なものってあったんですけど、
例えばブランド物のバッグだったりとか、車だったりとか、いろんなものあったんですけど、
自分が子供を産んだ瞬間、そんなことどうでもいいぐらい、ものすごく大切な存在だったんですよ、子供が。
こんなに大事、大切って思えるものがあるんやっていうぐらい、自分が子供を産んで抱っこした時にすごい感じて。
初めてさやかさんが就職をしたのは、2人目の子供を産んだ後でした。
結婚後、さやかさんは一人で勉強して、高校卒業程度認定試験、いわゆる公認に合格していたのですが、
この頃仲のいいママ友に誘われたことがきっかけで、保険の営業の仕事を始めたのです。
すると、もともと向いていたのでしょうか。
たちまち成績が伸びていきました。
次に就職したのは、携帯電話の販売店でしたが、ここでも彼女は活躍しました。
販売の仕事をするうちに間もなく保険営業を任され、人事部で新卒採用も担当するように。
この間、会社もぐんぐん成長し、彼女は自分の中で一つの区切りがついたことを感じました。
そして、ついに夢を叶えるため、会社を辞めることを決意します。
さやかさんの夢とは何だったのでしょうか。
それは、里親になることでした。
もともとは子供嫌いだったさやかさんですが、自分の子供が生まれてからは子供がたまらなく大切に感じられるようになり、無力な子供を守りたいという気持ちを抑えきれなくなっていたのです。
里親になるという彼女の選択、背景にはさやかさんの子供時代の経験もあったようです。
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自分が子供を産んだ直後ぐらいから虐待のニュースがすごく気になるようになって、そこに至るまでの支援がないので、その時から私は里親になりたかったんですよ。
私自身も生まれた環境によってすごく悩んで過ごしていたというのもあったからかもしれない。
そういう過酷な状況で過ごさざるを得ない子供って絶対めっちゃいるんだろうなと思うと、抜け出せるようにしてあげたいというのがすごい思いましたね。
また、さやかさん自身も子育てをする中で、子供だけでなく親への支援も重要だと強く実感していたことも、里子を迎えるという選択に影響したようです。
やっぱり子育てってすごいしんどいじゃないですか。
泣きやまへんし、夜中も寝れへんし。
ましてや、私は頼る母親がいなかったので、主人のお母さんに手伝ってもらったりはしたけど、好き勝手自分の親に言うみたいには言えへんし、
そういう中で私自身ものすごくしんどかったので、虐待に走ってしまう親の気持ちもすごくわかるし、
でも誰もみんな殺すために子供を産むお母さん、いいひんと思うんですよ。
あんな痛い思いしてね、産んでるのに。
結果としてきっと誰にも助けてって言えなくて、その結果虐待だったりとか、いろんな悲しい事件につながってるんやろうなって思うと、
そこに行くまでに何かできることってなかったのかなと思って、ずっと考えてたんですよ。
会社を退職すると早速、さやかさんは里親になるための研修を受け終え、委託を待ちます。
実際に子供がやってきたのはその約2年後で、今もその子を預かり育てているということです。
里親になる人の中には、自分の子供が欲しかったのに恵まれず、本当は養子園組をしたいんだけれど、年齢的にやむを得ず里親を選ぶ人もいます。
すると里子が実の親と交流するのを嫌がる人もいるのですが、さやかさんは違いました。
彼女は子供が欲しくて里親になったわけではありませんでした。
そもそも私は別に子供が欲しいわけでもないし、その子の可能性を広げてあげられたらいいなと思っているのと、
あとやっぱりその里子に出さなきゃいけない家庭って、何かしら大きな課題を抱えている家庭だと思うんですよ。
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私は今その里子ちゃんに、自分のお母さんのことももちろん忘れてもらったら困るのでね、すごくお母さんの話もするし、
時々お母さんに面会も来てもらって、私も一緒に会うんですけど、
そうすることが多分その里子、その子にとっては一番いいことじゃないかなと思っているので。
子供にもその親にも寄り添うさやかさんのような人は、今の社会ではまだちょっと珍しいでしょうか。
支えが必要な子供の立場と支えが必要な親の立場を両方経験しているさやかさんだから、可能なことなのかもしれません。
さやかさんは今、地元の京都でハピネスカフェというお店を拠点に子供たちを支える活動を続けています。
里親の研修を受けていた頃、新聞で子供食堂という取り組みがあることを知り、自分でもやってみようと思ったことがきっかけでした。
子供食堂というのは、地域に住む大人たちが子供たちに無料または低価格で食事や暖欄の場を提供する活動です。
子供たちにとっては、親でも学校の先生でもない大人たちと関われる貴重な場になっています。
さやかさんはまず、新聞に出た支援団体に見学に行って子供食堂の情報を集めました。
そして、ママ友や勤務先で知り合った学生さんたちに声をかけて手伝ってくれる人を確保し、助成金を調べてお金を調達し、ついに自宅で子供食堂を始めたのでした。
何でもないことのように話してくれましたが、行動力が半端ではありません。どうしてそんなふうにできるのでしょうか。
やりたいなと思って、どうやったらできるんだろうと考えていく感じですね。
お金と人と場所といるなと思うと、どうやって集めていこうかなと。
こう考えていくと、気がついたら全部できるようになっているんですね。
その後、さやかさんはNPOを立ち上げ、さらにカフェをオープンしますが、これは半ば偶然だったといいます。
子供食堂を続けていくために、資金繰りの方法を探していたところ、地域課題をビジネスで解決するという助成金を見つけたさやかさんは、
高齢者の居場所カフェ兼子供食堂をやろうと思いつきます。
カフェの売り上げを子供食堂の運営費に回すというアイデアです。
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それでちょっと申請書を書いたら通ったので、お金も貸してくれるという人が現れて、
無理しで貸してくれるって言うんだったら、それ足りなきゃしゃーないじゃないですか。
物件も見つかっちゃって、ちょうどいいのが、これはやれっていうことだなと思って始めたっていう。
ハピネス子供食堂には毎週、いろんな子供たちが訪れます。中にはこんな子供もいたといいます。
小学校6年生の卒業文春で、小学校6年間の中で一番楽しかった出来事を作文にしましょうっていうので、
ハピネスのこと書いていいって聞いてきたんですよ。
すごい嬉しかったんですけど、すごく嬉しかったけど、その6年間の中で、
ハピネスが一番嬉しかったんやと思って。
家族での思い出とか、もっと他になかったんかなって思うと、
すごい切なくもあって、やっぱり、両親がいるから必ず幸せとも限らへん。
私もそうやったんですけど、この子もそういう状況なんやなっていうのをすごく感じてて。
家族の形に関わらず、誰かの支えが必要な子供は誰でも支えていきたいと、さやかさんは思っているのでした。
今、家に居場所がなくてつらいと感じている子供たちに何か伝えたいことはあるか。
そう尋ねると、さやかさんはこんなふうに答えてくれました。
結局、今私が子供食堂をやっていることの理由でもあるんですけど、
親だけじゃなくて、頼れる大人は近くにいるよっていうのをすごく伝えたいですね。
私は高校の受験を誰にも相談できなくて、自分一人で行かないっていう選択になったんですけど、
大人に相談すると解決できる方法が一緒に考えてくれる人は絶対いるので、
自分一人で抱え込まないで、親に相談できないんだったら、誰か違う大人に相談してみてと思います。
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一人で悩んだり、追い詰められたりする子供を一人でも減らせるように。
そんな願いを抱きながら、さやかさんはこれからも里親として、子供食堂の運営者として、できることを探し続けていくのでしょう。
この番組は、ポッドキャストプロダクションピトパのオリジナルコンテンツです。
番組の感想・リクエストは、詳細欄のURLよりお待ちしています。
それでは、また次回お会いしましょう。
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