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はい、というわけで、昨日の続きです。
自由意志というのがないんじゃないかと思うわけですけど、
自由意志がないと、責任というのも本来はないはずであると。
なんだけど、実生活の中では責任を取ったり取らされたりみたいなことがあるわけでですね、
そこの矛盾をどう考えるかといったときにですね、
政治哲学の中で話された自由状態という概念のですね、
議論の変遷みたいなことを思い出すなと思ってその話をしてました。
ホップスとですね、ロックとルソーって3人主にいるわけですけど、
いろいろ自然状態になると全員で殺し合うんだとかね、
平和なんだけど争いが発生するんだとか、
そういうことをホップスとかロックは言ってるんですけど、
ルソーは自然状態っていうのは完全に理性のない人が自由にフラットに存在していると。
でもそれは揉めるときあるやろうみたいなですね、反論に対してですね。
揉めそうになったら多分片方がどっかに行くって言うんですよね。
片方がどっかに行くっていうですね、
状態が争いが起こらない理由が片方がどっかに行くっていうのがすごい面白いなと思ったんですけど、
でですね、このですね、ルソーの言う自然状態みたいなことはですね、
なんかすごく面白いししっくりくるなと思うんですよね。
というのはですね、確かにルソーの言うようにですね、
ルソーの言う自然状態っていうのはですね、
ルソーが昔、歴史上に本当に存在したと思ってるわけじゃなくて、
完全に仮想、社会っていうのを考える前に社会がない状態を仮で考えてみようって言ったときのルソーの想像なんですよね。
それをルソーも断ってるんですよね。
実際にこんなことあったわけじゃないけどって言って、
と思いますけどって言ってるわけですけど。
でですね、その自然状態が僕にはしっくりくるわけですけど、
本当は人間が普通に暮らしていく、社会とかをぐっと形成せずに暮らしているという状態があり得るんだとしたら、
ルソーの言ってるような形なんじゃないかなというふうに僕は思うんですよね。
でですね、つまりみんな普通に離れて暮らしててですね、
揉めそうになったら片方がどっかに行くと、
それで揉め事が起こらないみたいな、
つまりどこにでも行けるってことですね。
この社会っていうのがあってですね、
国籍だったりとか何かの所属だったりとか、
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それこそ責任を持って家族を養っているとか何でもいいんですけど、
そういうですね、この場所にいなきゃいけないというものがなくてですね、
お、やべぇ揉めそうって言ったらですね、
めんどくさくなって片方がどっかに行くっていうのがですね、
まさに自然状態って感じがするんですよね。
実際にですね、動物とかってそんな感じですよね。
クマとかですね、サルとかみたいな動物はですね、
動物番組とかでよくある展開でですね、
ボスザルの座を奪おうとするって言ってですね、
若いサルとかがボスザルに挑んで行って、
メスとハーレムを奪うために挑んで行ってですね、
失敗して負けて、
そしたら負けた方はどっか行きますよね。
なんて言うんですかね、
責任取らされたりしないですよね、
ボスザルに負けたその若いサルがですね、
不損にもボスに立てつけようって言ってですね、
責任取らされている若ザルとかは見たことないですよね。
どっか行くんですよね。
でですね、さらに言うとですね、
サルとかがですね、
あのメスが欲しいって感じてですね、
ボスにワーって挑む時ですね、
自由な選択肢とかってやっぱりしてないと思うんですよね。
あのメスが欲しいな。
いや、どうかな。
どうしよう。立てつくかな。
それともおとなしくしておこうかな。
どっちの選択にするか。
よし、立てつくぞ。
とかですね、
多分ボスとかですね、
サルとかクマとかは多分考えていない気がするんですよね。
そんなこう、自由な選択肢からですね、
理性的に選んでいるクマもサルもいないと思うんですけど、
まあですね、
しかもその結果ですね、責任を取らされるですね、
クマとかサルもいないわけですよね。
で、でもですね、
クマとかサルは結構社外的な動物っちゃ動物じゃないですか。
あれと人間の差ってそんなにめっちゃ離れてるようにはやっぱり思えないので、
そう考えるとですね、
なんかこう、やっぱりその自由な選択の中からですね、
理性的に選ぶってことも、
まあないだろうし、
責任を取るっていうこともですね、
まあ、なんていうかな、
人間得意の幻想なんだと思うんですよね。
実際に日本の中世はね、
責任という概念がなかったから、
殺人事件が起こったら家を燃やすっていうのが解決方法だったわけですけど、
でですね、
そう考えるとやっぱりこう、
ルソーの自然状態っていうのに近く見えるんですよね。
で、まあそれがしっくりくるような、
なんていうんですかね、
世界観っていうのを僕はちょっと持っててですね、
持ってるんですけど、
ただ一方ですね、
現実は社会がもうガッツリできてますよね。
国から自治体から会社からとかですね、
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もう自分はいったいいくつのものに所属していてですね、
いくつの取引の中のですね、
に組み込まれているのかと思うと、
ほんとすごいぐらいもうガチンとあるわけですけど、
そのですね、社会がガッツリできていてですね、
お前はこの家に住んでて、
この家族を持っていて、
この会社に勤めていて、
日本国民でありみたいなですね、
この法律を守らなきゃいけないんだ、
みたいなことをガチンと固めてですね、
僕はそのある場所に固定されているわけですけど、
その枠の中でですね、
こういう人たちに囲まれて生活するんだ、
っていうのが私は思っています。
その枠の中でですね、
こういう人たちに囲まれて生活するんだ、
っていうのが決まってるわけですよね。
そうなるとですね、
さっきの猿みたいにですね、
もしくはね、
ルソーの言う自然状態みたいにですね、
悪いことしたなとか、
揉めたなってですね、
片方がどっかに行くとかできないわけですよね。
どっかに行けないんですよね。
じゃあどっかに行けないと。
ってなったらどうしようと。
ってなった時に、
あるということにして、
その責任というのを取ってもらおうと、
いうことにですね、
なってるとしかやっぱり
言いようがないんですよね。
なんでですね、
そう考えるとですね、
僕はその責任というものもないし、
自由意志というものもない、
っていう世界観、
感覚があるんですけど、
実際にですね、
自由な意思とですね、
責任というのがあるんだということがですね、
前提の社会に住んでいるというよりは多分、
社会っていうものの中で
暮らすために、
その自由な意思とですね、
責任というのがですね、
要請されたんだと思うんですよね。
これ必要だわってなったんだと思うんですよね。
それがないと裁判とかね、
警察とか何もできないですからね。
だからまあこれはあるってことに
せなあかんねっていう感じになったと思うんですけど、
でも実際はないわけですよね。
ただの幻想だと思うんですけど、
なのでですね、
感覚的には、
そういうですね、
責任とか自由意志というものがですね、
あるというですね、
風習を持っていて、
その風習をですね、
背景にしたですね、
儀式、
例えばですね、
警察に逮捕されるとかね、
裁判にかけられるとかですね、
そういう儀式を持った部族にですね、
幸か不幸かわからないですけど、
生まれ落ちた、
というふうに、
考えるようにしようと思ったわけですよね。
だからですね、
まあそういうふうに考えると、
まあまあそんなもんかと思えるわけですけど、
でもそう考えるとですね、
日本中世のですね、
殺人事件が起こったら、
何?よし家を燃やすぞみたいなね、
犯人ほっといて家燃やすぞみたいなのもですね、
あながち変じゃないですよね。
その、
まあそういう、
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なんていうかね、
その風習と儀式を持っている部族であってですね、
なんか、
まあその、
最初にこう、
家を燃やすって聞いてるから、
すげーちょっと笑っちゃったんですけど、
でもやっぱこう考えるとですね、
別にそれがすごい変ってわけでもないなと思うんですよね。
ということでですね、
割とこうやっぱり、
思想とか歴史を学ぶと、
まあそういう面白さがあるなと思います。
なんかこう、
なんでしょうね、
自分がやっぱり当然と思っていることというのをですね、
ちょっと一歩引いて見入れると、
なんかそうするとやっぱりなんていうんですかね、
嫌じゃないですか、
僕はすごくこう忘れ物をしたことに対してですね、
ものすごい責任を感じてですね、
なんで、
なんで俺はこんなバカなことを、
責任を感じて、
この責任取らねえわとかですね、
ここのそこから思ってたら嫌じゃないですか、
まあ僕は嫌なんですけど、
ね、なんか、
いやーほんと面白いです。ほんと責任感じてます。
っていう風に言わないと回らないから、
口ではそう言うんですけど、
心の中ではですね、
5秒くらいで切り替えてるんですよね。
しょうがないな、ないもないな、
みたいな感じでですね、
切り替えてですね、
ただまあめちゃくちゃ謝るみたいな、
いうような感じでですね、
今日の午前中は過ごしてました。
ということで、
本日は以上となります。
ありがとうございました。
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