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はい、というわけで昨日の続きです。
この対談記事ですね。
表現の中で安全に壊れること、回復に殺されないために、というのでですね。
その対談のお一人の倉田さんというのが、すごい薬物依存から回復したんだけど、
このままだと回復に殺されると思ったという話ですね。
で、じゃあなんで回復に殺されるのかっていうと、
結局その生きづらさみたいなモヤモヤをですね、
なんとか打ち破って、幸せになりたいがためにそもそも薬を始めたわけで、
その薬をやめるっていうことだけだと、
単純にですね、そのモヤモヤを打ち破る手段みたいなものが奪われた状態でもあると。
そしてあなたはもう回復しましたね、みたいな人間として扱われると。
もう問題ないですねって言うと、いや全然あるんだと。
ということでですね、そういう状態は逆に危険で、
なんだったらその薬をやめたところで自殺しました、みたいな人も結構多いんだという話でしたね。
この話聞いた時に一つ僕の中であんまりよく理解できてなかったんだけど、
そういうことだったのかと思ったエピソードがあって、
確かアメリカで起こった事件なんですけど、
精神患者の子とか元患者に殺害されるって事件があったんですよね。
元患者の言い分としては、
自分の病気が治されてしまったからって言ってたんですよね。
なんか分かるような分かんないような感じだったんですけど、
これを読んでちょっと分かったんですよね。
自分の病気っていう、精神的な病気っていうのが、
その人の辛さみたいなものを乗り越えるというか、
それを表現する一つの形ではあったわけですよね。
それだけ治されてしまうっていうのは、
逆に非常に辛いことであるということだったんだというので、
なるほどっていうふうに思ったんですけど。
でですね、倉田さんの方は、
そういうふうに問題をクリアした、
普通の人なんですねっていうふうに扱われることに対して、
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きつい、これはやばい、回復に殺されると思っていると。
赤坂さんの方はですね、
一方すごい依存症とかには全然なったことはないんだけど、
ずっと強いもやもやを抱えていて、
ギリギリ依存症とかにはなってないんだけど、
自分はギリギリであるという形とは自覚しているみたいな人なんですよね。
つまり、ある種その依存症、精神病、
身体的な病みたいなことにまでことが及んだら、
みんなそれを問題としてその人と向き合ったりするわけじゃないですか。
本人自体もそうだと思うんですけど、
そういう人は何らかの名前がつくから、
ちゃんとその人の生きづらさみたいな問題と
誰かが対峙してくれたりするわけですよね。
なんですけど、赤坂さんぐらいのずっとギリやばいけど、
ギリどうにかなってるみたいな人はですね、
それはもう他人に分かりやすく示せないわけですよね。
そういうヤバさみたいなもの、辛さみたいなもの。
ある種病気とか依存症とかまでいっちゃうと、
そういう極端な形にまでいくと、
分かりやすいケースとして周りが扱ってくれるんだけど、
そうじゃない場合は普通の人として、
みんな普通だからもう大丈夫ですよねっていう風に扱われると。
そういう苦しさがあったみたいな人なんですよね。
何から話そうかな。
この話本当に結構濃くて、
どういう風に話そうかっていうのもあるんですけど、
ただ、この対談の話の流れの中で、
うまく、あんまりにもちゃんといい対談なんで、
内容をまとめてから話そうかなとは思ったんですけど、
ただですね、この対談の終わりの部分でですね、
うまく言えないことは大事だよって書いてあったんで、
まあいっか。
じゃあしどろもどろでいいから、
ぶっつけで話してみようって今思ってるんですけど。
えっとですね、
まあそんな感じで、
もやもやっていうのは本当に太平洋プレートに
歪みが溜まるように勝手に溜まっていくと。
で、それがドカーンと一気に爆発すると病気とかになるわけですよね。
それはそれで一つの表現だし、
一つの歪みの解放ではあるんですよね。
溜まった歪みの解放ではあるんだけど、
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でもそれって危険なことでもありますよね。
すごい重い精神的な病気になったりとか、
すごい依存症になったりするのが危険であると。
だから安全に壊れることっていうのが大事なんだって話なんですよね。
この安全に壊れるっていうのはさっきの太平洋プレートのたとえで言うと、
小さい地震みたいなものかなと思うんですよね。
歪みがバーっと溜まってるんで、
溜まっていく中で小さい地震がちょくちょく起こっていれば、
歪みが解放されているのかなと思うわけですけど、
そういうふうに小さく小さく壊れること。
壊れるっていうことも表現だし、
どうもこの対談全部読んでいて、
安全に壊れる、安全に表現する、
安全に狂うみたいなこと。
多分これらがとも言い換えられると思うんですよね。
そういう息づらさの歪みみたいなものを、
なるべく安全に解放するっていうことが重要なんだみたいな話なんですよね。
これもすごいシンプルだなと思ったんですけど、
溜まった歪みみたいなものを解放して、
自分が少し壊れること、もしくは大きく壊れること、
何にせよ壊れることですね。
その時は生き生きとしているって言うんですよね。
生きている感じがすると。
その生きている感じっていうのが、
みんな欲しいよねって言ってるんですよね。
これは非常に共感するんですよね。
詰まるところこれが欲しいんですよね。
生きている感じが欲しくて。
何かの歪みみたいなものが溜まっていっているんだけど、
自分のやっていることみたいなことに対して、
その歪みの表現になっていないみたいな感じを感じることが多々あってですね。
そうなると生きている感じはしないんですよね。
そこにしっくりくる何かっていうのにたどり着くと、
生きている感じがすると。
僕の場合はですね、新しいことに挑戦したり、
特に仕事上ですかね。
仕事じゃなくても柔術とかもそうだと思うんですけど、
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新しいことに挑戦して、
そういう風にできているのかみたいなことを知ってですね、
なるほどとか思ったりとかするっていうことっていうのが、
僕にとっての生きている感じがする時なんですよね。
それが感じられない状態になると、
生きている感じがだんだんしなくなって、
つらくなってくるんですよね。
その状況っていうのは、
この倉田さんの依存症と何が違うのかって言ったら、
多分これは違わないんですよね、本質的に。
僕はそういう新しい刺激とか、
新しいことを勉強するとか、
新しいことを知るってことに対しての依存症なんですよね。
たまたま社会の枠の中に収まっている依存症って感じなんですよね。
正直言ってですね、
自分の新しい刺激、新しいことを知りたいみたいなことが、
社会の枠に収まらないって言うと言い過ぎかもしれないですけど、
ちょっと自分の、
働かなければこうした方がいいんじゃないみたいな、
社会的にはこうした方がいいんじゃないみたいなことに収まってないこともありまして、
特に今はまた新しい挑戦をしたいと思っているんですけど、
そのことはですね、やっぱり収まってない部分もあるんですよね、正直言って。
なのでですね、そういう意味で言うと、
たまたま社会の枠みたいなものの中に収まるように、
うまく挑戦できたりとかする部分もあるんですけど、できない部分もあるというような感じですね。
なんだ、俺も単純にこの生きている感じが欲しいだけの依存症だったのかと思ったらですね、
非常に納得いったんですよね。
これは結局、全員そうだと思うんですよ。
言い方変えると、全員何らかの依存症だと思うんですよね。
それが依存症みたいに非常に社会的・身体的ダメージがでかいものなのか、
そうじゃないのかというだけの濃淡の差があるぐらいで、
分布の差があるだけでですね、
基本的にはみんな何かモヤモヤみたいなものがずっと発生していてですね、
それを表現することというのができたとき、
それは本当にもうね、正体を失うまでお酒を飲んだときなのか、
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薬を打ったときなのか、もしくは何か絵とか書いたときなのか、文章を書いたときなのか、
仕事をめちゃくちゃ頑張ったときなのか、何か家族と何かしたときなのか、みたいな感じで、
社会的なある種の良し悪しみたいなのさ、
本人にとってダメージがあるかないかの差はあるけど、
基本的にはそれらに依存することによって生きている感じというのを得られると。
それがですね、多分その感覚が、
生きている感じがする。
生きている感じがする、だと思うんですよね。
何も言っていないな。
生きている感じがするのは生きている感じがするみたいな、
トートロジーみたいになっちゃってますけど。
でも結局それが単純に欲しいという話なんですよね、人は。
というですね、この2人の話す人生観というか、
生きるってことに対するモデルっていうのかな、
生きるってことに対する見立てがあって、
それには非常に共感しましたということですね。
もう少し、もう1回くらいいろいろぼやぼや話してみようと思います。よろしくお願いします。