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2025-04-11 26:17

第4章「義の心の裏には打算あり⁉️戦争によって国をまとめた武将、上杉謙信‼️」

※こちらは過去に「マンラジ」内で配信したものと同じでございます


今回は義の心でお馴染み「上杉謙信」で話をさせていただいております‼️

よろしければお聴きくださいませ‼️


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サマリー

このエピソードでは、上杉謙信について、その義の心と政治的打算の関係、及び戦国時代における彼の役割や実績が語られています。特に、彼がどのように国をまとめ上げ、対戦相手に対する義理を守りつつ巧妙な戦略を用いたかが中心テーマとなっています。また、上杉謙信の戦争における義の心の裏に存在する打算についても考察されています。彼の行動が本当に他者を思いやるものであったのか、自己の利益を追求する側面があったのかが掘り下げられています。さらに、上杉謙信の女性説とその背景についても探求され、時代の文書や民間伝承からの考察が行われています。

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おはよう、こんにちは、こんばんは。
漫画について喋るラジオを略して、マンラジオのうっちーです。
この番組には、通勤1時間、片道2時間を、漫画とポッドキャスターに避ける30代男性である私、うっちーが、
大好きな漫画について、自分なりの解釈を入れたり、感想や話しなど、逆手に話して、毎週土曜日に配信していくという番組です。
どうぞよろしくお願いしま〜す。
今回の配信、2月11日、ソロポッドキャスターの日で配信でございます。
毎月11日は、主に1人で配信をしておりますソロポッドキャスターのための日でありまして、
この日には、数々のソロポッドキャスターが特別な配信をしております。
ソロポッドキャスターの日は、マンラジで武将ラジという、おまけと言いますか、
戦国武将であったり、中国の武将であったり、様々な武将について話をしている武将ラジというのを配信しております。
ただ、前回1月11日は、通常配信と被ってしまったこと、
もうちょっと番組ブスケンラジオの電子書籍化の作業で忙しかったこと、
また、そもそも武将ラジでテーマをいただいていなかったこともありまして、休んでおりました。
休むことを告知しておらず、申し訳ございませんでした。
正直、マンラジと武将ラジを分けようかとも考えていたんですけども、
武将ラジのテーマがない時もあるなということで、もうしばらくマンラジのおまけという形で続けさせていただきます。
今回、先日なんですけども、仕事でとある場所で講演をさせていただきました。
その講演の内容としましては、薬局の業務に関わるものということなんですけども、
その時に、ポッドキャストを配信すると薬局の売上につながったり、地域貢献になるよという話をさせていただきました。
その際に、質問をいただく時間がありまして、話の流れで戦国武将の話とか、武将ラジとかマンラジの話もあったんですけども、
その時に、今回話をします武将についての質問をいただきまして、
その時にこんな感じのイツがありますよということを話したところ、評判良かったので、
今回話をするテーマにさせていただきました。
その際に質問いただきました方、誠にありがとうございます。
といったところで、今回話をいたしますタイトルはこちら。
上杉謙信の紹介
義の心の裏には経産高さ?戦争をすることで国をまとめた武将、植杉謙信。
今回、植杉謙信という武将で話をさせていただきます。
植杉謙信、武田信玄のライバルとかで、敵である武田信玄に血を贈ったとかそういったイツはもありますし、
また戦国最強なんて言われ方もします。
信長の野望などの戦国ゲームでは、戦闘力が一番強い武将だったりもします。
そんな植杉謙信に話をさせていただくんですけども、
ただ、戦国時代好きな方ですと、いやいや植杉謙信って呼び方おかしいよって思われるかもしれません。
そのおかしいよっていうところは十々承知で、あえて植杉謙信という名前で話をさせていただきます。
ここらへん、なんで植杉謙信がおかしいのかというのを少し注釈入れさせていただきますと、
植杉謙信は植石星を名乗る前の長尾星での長尾影虎という名前も有名なんですけども、
有名である植杉謙信という名前は正しくは鳳鳴。
周波の違いとかいろいろ厳しいところですけども、鳳鳴は出家した神徒に授けられる名前でして、
一応植杉謙信と名乗っていたとも言われてはいるんですけども、
主に植杉テルトラの方で様々な書類とかを書いていたとも言われたりもします。
また、さらに正しく言えば植杉じゃなくて藤原のテルトラだろうという方もいらっしゃると思います。
藤原のテルトラという文章も残ったりしていまして、藤原のテルトが一番正しいとも言われております。
ただ、藤原のテルトラかと話しても、これ誰よと思われると思うので、
あえてわかりやすい名前として今回は植杉謙信として話をさせていただきます。
謙信の生い立ちと成長
まず簡単に植杉謙信の老いたちについて触れさせていただきますと、
謙信は西暦1530年に越後の霞山城で守護台である長尾ためかげの四男として生まれます。
父であるためかげは自分の上司にあたる守護であるとか関東関連を倒して越後を支配したという武闘派の方だったりもします。
よく言う下国城を成し遂げた方でもあります。
ただ、下国城を成し遂げたからこそと言いますか、この長尾ためかげを倒して自分こそが越後の支配者になってやろうという豪族という地元で力を持っている方ですね。
そういった方たちが長尾ためかげを狙うことになります。
実際ためかげがね越後城成功したということもあるからこそ、俺もやれるだろうということでためかげを倒すための反乱が越後中で起き、
その反乱を沈めるためにためかげは苦労します。
そしてこの越後には反乱が多いということは、けんしんの兄であるはるかげが父であるためかげからはるかげに家徳が譲られるんですけども、
このはるかげの代になってからも反乱は続きますし、その後もけんしんが代を継いでからもこの反乱というのは苦労することになります。
なのでためかげだけでなくて子供たちも越後の反乱が多さというのは苦労することになります。
兄はるかげが家徳を譲られたときはけんしんはまだ6歳でした。お寺に預けられて武道や学問を学んでおりましたけれども、
この時けんしんを預かっていたお寺の方はけんしんは天才だとか武神の生まれ変わりだと話したという逸話もあるんですけども、
こういうのは成功した人物によくある子供の頃から彼がすごかったんですよっていう話を持っているというエピソードの可能性もあるので、
性格性が怪しいところにもあるんですけども、上杉けんしんは子供の頃から優秀だったと言われております。
その後1543年けんしんが13歳になったときに兄であるはるかげの任命によりまして原仏一人前と認められまして土地王城王というところに入ることになります。
はるかげの代になっても越後では内紛が絶えずけんしんが土地王城主になっても当時国が2つに分かれるんじゃないかっていうぐらい大きな内紛が起こっておりました。
さらに土地王城主になったけんしんまだ13歳だということもありまして周辺の豪族たちは次々と無謀を起こします。
けんしんが13歳で若造だということで舐めていたというところもあったりします。
ただこの時上杉けんしんは城兵を巧みに動かしまして撃退に成功します。
そして仲間となる武将や兵をどんどんどんどん増やしていったと言われます。
そうやって力を示してそして実際の力も手に入れていった上杉けんしんは19歳の時に病弱であった兄はるかげから家徳を譲られることになりまして長尾家の当主となりました。
まだこの時は上杉家でなく長尾家でございます。
その後もけんしんは反乱が多い越後の安定を目指して戦いを重ねまして22歳の時家徳を譲って3年後には越後を統一させます。
兄や父の代理は越後の国主越後で一番偉い人だよと言ってもまだ越後で嫌々長尾家には従わないよという人もいたちもいました。
それを従えるようになった無事統一を果たしたということで父や兄でも成し遂げられなかったことをけんしんは成し遂げることができました。
またその頃けんしんは様々な方を保護するようになります。
ほうじょう家に追われた関東官礼上杉のりまさ。
後に上杉のりまさの養子という形になりまして上杉家を継ぎまして長尾家は上杉家になったりしますけども
ほうじょう家に追いやられた上杉のりまさが困り果てていた時に保護してあげたのは長尾家というところだったりします。
また武田信玄に領地を奪われた品野の豪族村上義喜代なども保護することになります。
彼らに頼られて彼らが追い払われた土地を奪い返すために武田家やほうじょう家の戦いを繰り広げていくことになります。
上杉けんしんが武田家とかほうじょう家と戦うことになるのはこういった困っている人たちを保護して彼らの願いを聞き入れるために戦っていたというところがあったりします。
そんなふうに人から頼られその人物の願いを聞いて戦いをする姿さらに敵である武田家が使用不足で困っている時には使用を提供していたといったなどから
上杉けんしんは素晴らしい人物だ正義や忠義のために戦う義の心を持った人物だと後世で語れるようになったりもします。
けんしんは生涯70回以上出陣をして負けたのはたったの2回と言われるほど戦に強く
中にはけんしんが出陣してくるだけで士気が下がったり逃げ出す敵もいたなんて言われておりまして
天下統一を目前にしていた織田信長でさえ上杉けんしんを敵に回さないように大変気を使っていたなんて言われたりもしております。
謙信の死とその影響
義の心を持ち戦も強い軍の神軍神そんな言われ方もする上杉けんしん
そんな上杉けんしんは1578年生まれた時と同じ勝ヶ山城内で突然倒れそのまま49年の人生を終えます。
死因は脳溢血などの病気ではないかと言われております。
お酒が大好きで塩も大好き梅干しとか漬物あてに大酒を飲んでいたということもあったことや
寒い地域ということもありまして血圧が高くなって血管がボロボロになっていたんじゃないかとも言われております。
最後には病で倒れた上杉けんしん。
けんしんの死後は家徳争いが上杉家で起こったときにけんしんがしっかり家徳を決めていなかった
次の当初を決めていなかったということで大変な追い出騒動が起きてしまいます。
それによって力をそばれた上杉家はその後織田軍から多方面攻撃を仕掛けられるということになりかけまして
あわや武田家と同じく滅亡の道をたどることになりかけます。
ただ本能寺の変によって織田家の中での内奮などもありまして上杉家はなんとか生き残ることができます。
兄や父から譲り受けそして自分自身も守りすぎた長尾家そしてその後上杉のりまさん養子となって上杉家となりましたけれども
その上杉家をあわや滅亡の一歩手前になる原因まで作ってしまったという応募家
これは家徳をきちんと決めなかったということでけんしんの応募家でもありましたけれども
ただ義の心を持った軍神は今もなお語り継がれて愛されております。そんな戦国武将ではないかなと思われます。
これが上杉けんしんの雑とした生涯でございますけれども
この上杉けんしん義の心とか軍神というワードを本当によく見ます。
だからでしょうかね上杉けんしんについていやいや上杉けんしん実は義の心なんて持ってないよ嘘っぱちだよとか
実は悪党だよという意見もよくあります。どうしても世間一般的に世の中逆張りをする方がいらっしゃいます。
大半の意見がこう言っててもいやいや違うから逆張りする方もいらっしゃるんですけども
ただこの歴史の場合はこれ特に顕著です。もう歴史の場合は歴史を探究している研究者でも
今の説って間違ってるよ本当はこうだったんだよっていう
そういうふうに伝わっている説の逆張りをする説を発表するっていうのが多いので
歴史に関してはこの逆張りってのは仕方ないことだったりもします。
例えば上杉けんしんどんなふうに嘘つきだとか悪党と言われているのかと言いますと
例えば有名なエピソードがありますけども敵に潮を送る。竹田家が持つ領土っていうのは山梨とか長野あたりなんですけども
海に面していない。そういうこともありまして竹田家は潮が不足しがちでした。
そして通常であれば海に面している場所が潮をよく作れるのでそこから潮を打ってもらう。
例えば静岡とかあたりを領土にしている今川家とかから潮を打ってもらったりするんですけども
竹田家が様々な外交の失敗とかもありまして今川家との関係性が非常に悪くなった時期があります。
そういった時に潮を全然打ってもらえなくなります。
また今川家の隣にある松平家、徳川家とも関係性は良くなかったというのもありまして竹田家は潮不足で困ることになります。
そんな竹田家に対して植杉家の植杉賢治が潮を送ってあげたと言われるエピソードですけども
このエピソード実は潮を送ったわけでなく打っていたというのが正しい話です。
なので潮をあげたというふうに伝わっているけれども実際には潮を打っていたと聞きますと
上杉謙信の義の心
植杉賢治って人が困っている時に商品売りつけてる悪い奴じゃないかっていう風にイメージを抱く方が多かったりもします。
そういうこともありまして植杉賢治って本当に義の心を持ってないんじゃないかって言われたりもしますし
他にも関東出兵であるとか竹田領地への侵攻これらについても本当に義の心でやってたのかなんて言われたりもします。
まずよく言われているところとしましては関東出兵は関東で北条家が退場してきました。
それに押されるように場所を失った大名は豪族たち。例えば植杉則政とかですね。
彼らが越後の植杉賢治に訪れてどうか領地を取り戻してくれないか北条を倒してくれないかというお願いをしまして
それを聞き入れた植杉賢治が関東に兵を出して北条を攻撃したというこの出兵ですね。
これに関しては最終的に北条家が小田原城に立てこもってそこまで立てこもられると植杉家も攻めきれない。
そうすると冬が近くなってくる。冬が近くなってくると自分の領土越後に戻らなきゃということで戻っていく。
これを何年も繰り返していきます。北条を倒せたわけではないものの頼ってきた人たちの願いを聞き入れて戦闘をしたということで
頼られた人の願いを聞き入れる。素晴らしい人だというふうに植杉賢治は言われております。
また武田家の侵攻に関しても武田に敗れて行き場を失った村上義輝の願いを聞き入れて村上の領土を奪い返すために武田家を攻めます。
なのでやっぱりいい人じゃないかと思われております。
こういった武田家とか関東への出兵をした際なんですけどもこの時に植杉賢治は攻めた土地から人をさらっています。
そして身の後ろを切りを要求したり人外商人に人を売ったりもしております。
そのことから植杉賢治は人をさらって金を稼いでいたんだ。悪党じゃないかというふうに言われたりしております。
なので植杉賢治は困っている武田家に塩を売り付けた主宣道だ悪徳商人だとか人さらいで金儲けをしていた奴隷商人だなんていうふうに悪い言われ方をすることがあります。
そういったことから植杉賢治が義の心を持っているなんて嘘だと言われることはよくあります。
確かにこう聞きますと植杉賢治って悪徳商人だとか奴隷商人だって思われますけども
これ資料が若干わかりにくいところもあるんですけども資料を読み解いていきますと
え?そうでもなくない?悪徳じゃなくない?賢治悪くないよね?っていうところがよくあります。
ここらへんもう少し話させていただきますと植杉賢治確かに塩を武田家に売ったりとか人をさらってその身の資料金とかやってましたけども
この金額適正であったりむしろ安かったと言われております。
まず塩について武田家の領土の周りで海に面している大名と言いますと
愛知や静岡方面での徳川家とか今川家越後方面の植杉家をもらっていますけども
当時徳川とか今川と関係悪化したことで塩をどうしても売ってもらえない武田家
ついでに言えば神奈川方面に幅を置かせる北条家も近くの大名で北条家から塩を売ってもらうことも無理ではなかったんですけども
この時北条家との関係も微妙なものでした。なのでほんと周囲から塩を売ってもらえず本当に武田家困っておりました。
そんな中で植杉家は武田家に塩を売ったんですけども
これどうしても欲しいもの周りが売ってもらえない中で売ってくれる人がいるというだけでも正直武田家嬉しいと思うんですよ
しかもこの時植杉賢治武田家に塩を売る際の値段を低価で売ることということを商人たちに徹底させました。
もう儲けようとするなよ高値で売ろうとするなよというのを本当厳重させました。
正直商人からすればこんなに塩を困ってるだけだったら塩高値で売っても絶対買うじゃんということで高値で売りつけたいところなんですけども植杉賢治がそれをやめさせました。
ここらへんやっぱり困ってる人に対してこっちが悪巧みをするようなことはやるなということで植杉賢治の素晴らしい行動だと思います。
これに関してはどうしてもエピソード上塩を送ったっていう風に
ただで送ったと思われてるからこそ普通の値段で売りましたって言うと商売してたんかよってちょっとがっかりしてしまってその落差があって植杉賢治って悪徳商人だなと思われやすいと思うんですけども
実際には適正な値段で売っていた。しかも高値で売りつけるなと厳守させていたということで植杉賢治は真面目な人物だと言われます。
またドレン商人の件この件もちょっと資料がはっきりしないところがあるんですけども
当時人を攫って身の代わりを要求していたというのは植杉家だけでなくどこの大名家でも一般的に行われていることでした。
で大体の相場は1人当たり2館から10館これ今で言いますと30万円から150万円くらいと言われております。
これ植杉家の場合この100分の1の値段とかで捕虜を解放していたそうです。
今の価値で言うとだいたい3000円とか1万円とか1万円5000円くらいですね。
それくらいの金額で捕虜たちを解放したそうです。3000円とかですと捕虜を捕らえている間の食費とか経費で消えていきます。
なので正直儲けようという感じではありませんでした。
にも関わらずやっぱりどうしてもこうやって人買いに渡してたとか身の地の金を少ない額でも要求していたということを聞くと
人さらいとか奴隷商人という風にやっぱりイメージがつきますけども正直当時の戦国時代みんなやっていた中で植杉献身はすっごい安い金額でやってました。
というのもやっぱりどうしても当時兵士というのは農民とかが多いんですよね。その土地に住む農民が多いんですけども
その農民たちとしても家族がさらわれてしまったとなった時に高い身の資料金払えと言われても困ってしまうんですよね。
そんな時に安い本当に安い金額で経費の分だけ請求していたということで植杉献身ここら辺でも人さらいでも儲けようという気持ちはなかったんだろうなということで
やっぱり真面目な人だったんだろうなというのが伺えるエピソードだったりもします。
というように植杉献身とかは本当別に普通のことを普通にやってただけなんですけども
ただ偽の人物と言われるからこそ植杉献身に対してはハードルが高く上がっていた。
また資料を送ったと言われるからきっと無償でやっていたったなとか
そういった様々なエピソードによってハードルが高くなりすぎただけであって
普通のことをやってただけです。むしろ他の大名よりも遥かに優しい人物にもかかわらず
ハードルが高くなりすぎたせいで植杉献身は悪徳商人だとか奴隷商人だなんていう風に悪く言われてしまっておりますから
やっぱりやってることから考えますと植杉献身は十分に義の心を持っていた人物だと言えると思います。
とは言いましても頼られて領土を奪い返すために出兵するというよく戦争行為
戦争の影響と反乱
これを本当に心の底から人助けのために行っていたのかというと
この点には植杉家ならではと言いますか戦争をしていた方が良かったという植杉家ならではの事情というのもありました。
植杉家を苦労させていた大きな問題それは反乱が起きやすいということでした。
植杉献身の父長尾ためかげであるとか献身の兄である長尾はるかげ。
彼らを苦しめていた長い分が多いという問題は献身が党首となってからも苦しめられました。
献身がいくら戦争の天才であるとか軍神だと呼ばれていたとしてもただそれでも反乱を起こす人物は多かったです。
これ反乱の多い理由としては先ほど触れましたけれども元々は父ある長尾ためかげが外国上で越後を奪ったということから
反乱で国を取れるという成功例があった。だから反乱をしようというお国柄もあったというのもあるんですけども
もう一つの理由として越後の国が資金が豊富、たっきり言ってしまえば金がたくさんあったんですね。
だからこそ反乱を起こしやすいという点がありました。
越後という国、今の新潟あたりですけども海に面している部分が非常にあります。
この海に面している地域が多かったことから港も多くそれによって貿易事業が盛んでした。
当時遠方の土地と商売をするというのが結構難しかったです。
今と比べて異動手段が限られていましたし陸路では歩くとか馬を使うなどで限られておりましたし
特に馬に商品を載せるにしても馬一頭とかでは商品を載せられる量が限られたりしました。
多めに運ぶためには馬釈という馬を使った現代で運送業者を雇って商品を運んだりもしましたけども馬釈に支払う賃金が必要だったり
また国を越える際には赤書を通ることになるんですけどもその時にはお金が必要だったりなど
陸路での販売は商品の量運べる量に比べると様々なコストが必要でした。
一方海を使うこれは赤書もないですし馬釈を借りたりする必要がないです。
なので様々なコストを下げられた上でなおかつ大量の商品を運べるということで船を使って物を運ぶこの商売は大量の儲けを生み出しやすかったです。
余談になりますけども織田信長が琵琶湖周辺に安土を建てたりとか琵琶湖周辺を整えることに一生懸命だったと言われるのも
琵琶湖を用いての交易商品運搬を狙っていたからだと言われております。
琵琶湖に住む有力者としてはこの莫大な利益を独り占めしたいと考えるものも多く反乱を起こそうという考えるものが多かったです。
そういった理由からも琵琶湖は反乱が多い土地でしたし莫大な利益を求めて家信団の中でもお互いの利益関係によって意見が合わないという状態が続いておりました。
こういった状況に嫌気を刺して植杉賢氏は仕事をボイコットしたり引退を宣言することも多かったです。
そんな意見の合わない家信団をまとめるために植杉賢氏何をしていたのかと言いますとエチゴの外に敵を求めました。
現代社会でも同じような政策を行われることが様々な国にありますけども、あえて自分たちの外に敵を求めることが大事だったのではないかと考えました。
植杉賢氏は、共通の敵ができますと組織は団結できます。普段は仲が悪くても共通の敵がいることであいつを倒すためにみんなで団結しようという風になって国内がまとまりやすくなります。
またそういう風な風潮が高まりますと強い指導者戦争が上手い人の方が国内を団結しやすくなります。
植杉賢氏の中での内部の対立を解消していくためにも賢信は敵を作って戦いを続けました。
そうやって戦争によってカシンダーを持って戦いを続けました。
戦争によってカシンダーを持って戦いを続けました。
戦争によってお金を儲けてしまうとそれがまた反乱の種になる恐れがありました。
戦争すると儲かるなぁとなると自分も戦争に勝てるかもしれない。
戦争に勝っても戦争に勝てないかもしれない。
私は戦争に勝っても戦争には勝てない。
検診という人物だったりもします また反乱の理由であるお金の問題
戦争によってお金を儲けてしまうとそれがまた反乱の種になる恐れがありました 戦争すると儲かるなぁとなると自分も戦争できる立場になりたい
自分がやっぱりエチゴの国主になりたいという考えが思うものが増えてしまいます そういった面もありまして上杉健進は戦争でなるべくお金を儲けたくなかった
だからこそ捕虜を解放するためには格安で解放していたという状況もありました お金を儲けをしてないですよこれを国内外に親しめる必要があったりしました
打算の背景
上杉健進また人から頼られたそれで戦争することに対して 義の心を持っていると言われましたけども実は
義の心だけではなくて自身のため エチゴを安定させるためという利益のためという打算的な部分もあったかもしれません
ただそれでも主要のエピソードでもありますけども人が困っているときにそれで儲けをという 考えはなかったんではないか
やはり義の心を持っていたんではないか上杉健進という人物だったのかもしれません ここからはスタートオフです今回武将ラジ第4弾戦国最強の呼び込みの高い上杉健進で話を
させていただきました 本編の方で上杉健進の義の心とか軍心とかそこで話させていただきましたけども
上杉健進調べるとよく出てくるワードですけども 上杉健進女性説というものがあったりします
上杉健進本当は女性だったんじゃないかというものなんですけども なぜこんなことを言われるのかと言いますとこれが言われるようになったのはスペインの
とある修道院において15世紀から16世紀の日本について書かれていた文書が発見されましたよ というその文中に上杉健進の言葉
上杉陰勝のおばという言葉が見つかったと言われております でまた上杉陰勝はおばが開発した佐渡銀山を所有していたと書かれていたことから
上杉陰勝のおばにあたる人物上杉健進じゃないかということで 上杉健進は女性説を裏付けると言われております
また健進はたびたび原因不明の腹痛に襲われることがあったと言われておりまして 定期的に休む期間もあったと言われます
これが生理だったんじゃないかとも言われております その他にも民衆の間で健進が女性であることを示唆した歌が流行していたよ
とか肖像画とか手紙にはなぜか健進女性的な表現が数多く見られた などと言われております
などそういったところから上杉健進は女性だったんじゃないかなーって言われております けどもただこういった説なんですけども
上杉健進のおば説 まずこれそもそもスペインで発見されたという文章は実は実在したかどうかも定かではなくと
現物を確認することができない状態だったりもします なので本当にこれ上杉健進のおばって書かれてたのかということで
まず疑問を持たれているのとまた上杉家が里の金山を所有するようになったのは 健進死亡後と言われておりまして
仮に文章が存在したとしてもこのおばが健進であるわけはないと言われております 他にも定期的に休むという文書もどういったタイミングで休んでいたのか
例えば1ヶ月に何日間が休んでいたのかともかく そういったタイミングとかの記述が怪しいものであるというのもありまして
たまにはそれ休むこともあるだろうなということでこれが正義だったんだろう というのはちょっと結びつけるのは難しいんじゃないかと言われております
また健進が女性であることを示唆した歌というのもちょっと詩歌的な資料とか根拠 がないこととまた女性的な表現が多かった
ここらへんに関しては健進姉からの教育を受けていたところもありまして 上杉健進の教養の一環だったんじゃないかと言われております
というように上杉健進が女性説っていうのは正直現在否定されていることが大変多いです ただやっぱりもしも本当にこれ女性だったらどうなんだろうとかね
そういった歴史のロマンを感じる話だと思います 上杉健進という部署はやっぱり面白い部署ですので皆様ぜひとも調べていただければ
次回のテーマの予告
なと思っております というところで今回はここまでとさせていただきます
また次回別の部署で話をしたいと思っておりますけども特にリクエストもないですしどう しようかなと思っております
もしも気になる部署日本だけでなく中国市などでも気になる部署などいましたらいつでも ご連絡くださいませ
今回も最後までお聞きいただきまして誠にありがとうございました また次回も聞いていただけると大変嬉しいですそれではまたお会いしましょう
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