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2021-11-09 1:05:10

BC024『知ってるつもり: 無知の科学』

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今回は、最近文庫版が発売になった『知ってるつもり: 無知の科学』を紹介します。

『知ってるつもり: 無知の科学 (ハヤカワ文庫 NF 578) 』

ちなみに、『知ってるつもり~「問題発見力」を高める「知識システム」の作り方~』ではないのでご注意を。

書誌情報

単行本は2018年4月、文庫は2021年9月に発売。

著者のスティーブン・スローマンとフィリップ・ファーンバックは共に認知科学者。

原題は「The Knowledge Illusion:why we never Think Alone」。「知識幻想:なぜ私たちは"独り"で考えられないか」あたりか。邦題はすばらしくキャッチーに仕上がっている。

主題は「なぜ人類は原爆などの高度な技術を持つにもかかわらず、愚かしい行動を取るのだろうか」。あるいは「私たちは愚かであるにもかかわらず、なぜ高度な技術を持てているのか」。

非常に興味深い主題。その主題を「無知」「知識の錯覚」「知識のコミュニティ」という観点から読み解いていく。

まず人間は無知である。たくさんの情報を保有していない。それで別段困ることはないのだが、「自分がどれくらい無知なのか」についても無知である。それが知識の錯覚を引き起こす。実際の程度以上に自分は知っていると思ってしまう。「知ってるつもり」になる。それが、ときに愚かしい判断を引き起こす。

一方で著者らはそれを「愚かしさ」だけでは片づけない。そうした「知っているつもり」になれることで、私たちは他者が有する知識にアクセスできるルートを持てる。また、むやみやたらに複雑な現実に直面しなくても済むようになっている(おそらく真なる複雑さに直面したら精神が壊れる)。

人間が「思考」を行うのは、「行動」のためであり、よき行動を出せることが(進化的に)よい思考だと言える。無駄に複雑な現実に直面して何も決定できなくなるのは(進化的に)望ましくはない。詳細にすべてを正確に把握するのではなく、行動を決定するに足りる情報だけが得られればよい。抽象的な特徴だけを把握できれば、長い人類の歴史において困ることはなかった。

また人間は社会生活を行うように発展してきたので、他者が「知っている」ことを利用できる。これは認知的分業と呼ばれる。それが可能であるからこそ、私たちは「高度なテクノロジーが集まることでしか実現できないテクノロジー」の恩恵を受けている。

これらの事実が示すのは、私たちはフラスコの中の「脳」だけで思考しているわけではない、ということ。むしろ私たちは外界(脳の外)にある情報をうまく利用して思考を行っている。これはもともと思考が外界とのインタラクションのために生み出されたと考えればごく自然なこと(動物と植物の違いは動くこと=外界が変化すること)。

私たちは"他者"を使って考えている。だから"we never Think Alone"。物を使って考え、他人を使って考え、文字を使って考える(だからノートを書こう)。

よって、「知性」の捉え方も変わらざるを得ない。フラスコの中の「脳」の情報処理能力だけを見ても「知性」はわからない。そうではなく、外界とのインタラクションをどれだけうまく行えるのかが鍵を握る。知識がコミュニティにあるとしたら、そのコミュニティといかなる関係性を結べるのかが「知性」の在り方だと言える。

ピーター・F・ドラッカーは、知識労働者は他者に貢献してはじめて仕事が為せると喝破したが、見事な指摘である。あらゆる知識は、「他者と共にある」。"we never Think Alone"。

また、知識のコミュニティはそこに所属する個人の考えや価値観に強い影響を与えるので、個人を「事実」で説得してもほとんど効果がない(BC023参照)。一番レバレッジがかかるのが、知識のコミュニティを変えることだ。だからこそメディア(マスメディア)は第四の権力と呼びうるし、情報プラットフォームは第五の権力と呼びうる。どちらも知識のコミュニティに強くかかわっているから。

以上のように、私たちと「知識/情報」がいかなる関係性を築いていけばいいのかに強い示唆を与えてくれる一冊。

倉下メモ

この本はいろいろな話のハブになるので、枝を広げていけばキリがありません。それはまたどこかでまとめてみたいと思います。

ちなみに、「行動と思考」の関係を考えると、「幸福と思考」の関係もぼんやり見えてきます。人が幸福な状態でいるときは変化(行動)を必要としないので、思考は要請されません。逆に言えば、思考が要請されないなら幸福な状態といえるのです。とは言え、思考を抑制すれば、それが幸福といえるかは別の話でしょう。



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面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第24回の本日は、「知ってるつもり、無知の科学」について語ります。
はい、お願いします。
はい、よろしくお願いします。
今回はクラシタのターンなんですけども、まず本の簡単な紹介から。タイトルは、「知ってるつもり、無知の科学」というタイトルなんですけど、
つい最近、新書で、「知ってるつもり」っていうタイトルの本が出てるんですけど、その本とは別なので、ちょっと注意してください。
これは、早川書房から出てる、「知ってるつもり、無知の科学」という本です。
似たやつっていうか、実質同じタイトルがあるので、
注意ですね。
間違えないように気をつけてくださいということですね、まず。
著者がスティーブン・スローマンさんとフィリップ・ファーンバックさんという2人の認知科学者の方が書かれた本で、
単行本が2018年の4月に出てるんですけども、
今年の9月に文庫版、早川NF文庫に登録されておりまして、
内容は一緒でちょっとプラスアルファの可視質がある版が1000円ぐらいで買えるんで、
もしニュースする場合は、そっちの文庫版を探してもらえるとよろしいかと思います。
可視質もあるんですね、文庫版は。
文庫版が出たので、3年前に読んだ本を今年紹介しようと思った次第です。
いいな、そうか知らんかった。文庫じゃない版を読んでいたので、それはちょっと羨ましいですね、新しい版は。
英語の本なんですけども、タイトル、原題がThe Knowledge Illusion。
サブタイトルがWhy We Never Think Aloneという本で、
知識の幻想、知識という幻想と、
私たちはなぜ一人で孤独に考えることができないのかという、
知ってるつもりですごいいいタイトルなんですけど、
私たちの知識のなさに関する知識のなさについての科学の本ですね。
これあれですね、上手な翻訳ですね。
これは上手い翻訳だと思います。
まんま言ったら味気ないし、英語がわかるならもちろんそれでいいんだけど、
知ってるつもりって翻訳するんだっていう、前回の翻訳とはこういうものだっていうやつですね。
これはキリエイなタイトルだと思います。
この本、僕は実は2018年に読んだとき、
2018年のベスト本というか、一番面白かった本で、
その後、たびたびこの本のことを本の中でも参照してるんですけど、
スクラップボックス情報成立という本を書いたときには、
この本まだ読んでなくて、参考文献に上がってなかったんですけど、
もし先に読んでたら間違いなく参考文献に上げてる本ですし、
最近出た全てはノートから始まるという本にはもうバッチリ参考文献に上げてる。
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クラシタにとって重要な本ですね、これ。
クラシタさんのいろんな思考の基盤になる、基準になる要素がいっぱいあった本っていう感じですかね。
そうですね。先にもって言っておくと、僕この本を読んで以降、
スクラップボックスの使い方も個人ユースというよりは、
いろんな人に集まってもらって共同のプロジェクトをするとか、
その単独の知的生産から集団というか、
集合的知的生産に結構舵を切っている節がありますね。
あれですね、そうやって聞くと、何年に一冊レベルの大きく人を変えた本になったということですね。
そういう位置づけで間違いないと思います。
ある種の科学的な啓蒙の本に位置づけられるんですけども、
そういうジャンルで言うと、多分ファクトフルネスという本が大ヒットしてまして、
その本もおすすめではあるんですけど、
どちらかというと僕はこっちの本を読んだ方がよろしかろうと思います。
あれかな、俺の両方知っている印象化すると、
ファクトフルネスの方が優しくて分かりやすい。
それが逆に知っているつもりになりやすいというか。
ああ、そういうふうに言えるな。
なんか俺は間違っていたんだで停止してしまうとあれはダメですね。
あの本がそうなってしまったら。
あなたはこの世界情勢知らないでしょう。実はこうなんですっていうのはいいんですけど、
それすらも実は知っているつもりになりかねないので。
なので僕はこの本の方がより科学的な啓蒙になるのではないかなというふうに感じます。
そうか、それは確かにおっしゃる通りです。
一応目次はちょっと長いんですけど、第13章だてなんで、
全部読み上げるのもあれなんですけど、
第1章が知っているの嘘。知っているというのは改革的ですね。
自分がそれを知っているということについての嘘。
第2章がなぜ思考するのか。第3章がどう思考するのか。
人間における思考、知的な作用の進め方とその内実ですね。
第4章がなぜ間違った考えを抱くのか。
これは前回ロリオさんが紹介してくれた本にも通じる話ですね。
第5章が体と世界を使って考える。第6章が他者を使って考える。
第7章がテクノロジーを使って考える。
ここがいかに人間の考えるというプロセスをうまくやっていくかについての参照。
第8章が科学について考えると、第9章が政治について考える。
この2つに僕たちの日常生活において関わる重要な2つの科学と政治についての
いかに関係性を持ったらいいのかっていうことを解説してます。
第10章が賢さの定義が変わる。第11章が賢い人を育てる。
第12章が賢い判断をするの。賢いについての参照で、
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最後第13章が無知と錯覚を評価するというコンセプト、
賞立てになっております。
結構自分の中で同時に前回紹介した事実はなぜ人の意見を変えないのかと
つながるところがいっぱいあるような感じがしますね。
いっぱいします。
主要なテーマというかこの本の一番の問題意識っていうのは人類文化っていうものが
ものすごい高度な技術とかテクノロジーを発展してきて、
それこそ核爆弾とかあれって分裂のタイミングを揃えないと意味がないんで、
すごい精緻な技術が必要になるようなテクノロジー、つまり賢さを持っているにも関わらず、
個人として見た場合にひどく愚かしいことをしてしまうし、
集団としても愚かしいことをしてしまう。この賢さと愚かさの同居って何だろうなというのが
全体的な問題意識というか出発点になっている考え方ですね。
13章立てで大きいいろいろな話があるんですけども、
3つ論点を挙げれば、1つは無知について。
無知っていうのは飴と無知の無知じゃなくて、ない知識ってことですね。
知識がないという、知がないという状態についてが第一テーマ。
第二テーマが錯覚ですね。特に何かを知っているっていう錯覚について。
最後が知識のコミュニティ、あるいはコミュニティの中にある知識っていうもの。
この3大が本書の主要なテーマだと思います。
ちょうど現代につながっているんですよね。
知っていないことと知っているつもりになるということがナレッジ・イリュージョンで、
1人では考えることはできていないというのがWhy We Never Think Alone。
そこの現代と、当然だからぴったりのタイトルになっているわけですけども、
この点の話をすると、人間って無知で愚かなっていう、
高等経済学でいうところの非合理的な人間像っていうのが描かれている部分もあるんですけど、
それよりももう少し射程の広い話で、
なぜ人間はそのような不合理性を持っているのかっていうことと、
そのメリットっていうんですかね。そう持っていることでできることがあるんだと。
そういう観点に立つことによって、知性、インテリジェンスって呼ばれているもののレイヤーとかリュードとか射程というかを、
もう一段階広く捉える。つまり、頭のいい人がいるよねっていう個人の能力として捉えるんじゃなくて、
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知性をもう一段大きい射程で捉え直すというのが、この本の一番の魅力ですね。
サピエンス全史にもつながるようなイメージが出てきますね。この話、それを聞くと。
これは結構難しい話で、サピエンス全史に直接は言及してなかったかな。
人間って、サピエンス全史では虚構、嘘を信じることによって人間が共同作業をできるようになったと。
だからピラミッドみたいなのが作れたんだぞということを言ってるわけですけど、そういう共同性に人間性を見るっていう点は似てますね。
そうですよね。何百人何千人が協力するには、存在しないものをみんなが認識できないといけなくって、
それってこの本でいう知ってるつもり現象ですよね。
だからサピエンス全史の著者は、ちょっとあれを愚かしい風に語っていますけど、
でも他の動物に知れないことを成し得ているっていう一つの知性の現れでもあるわけで、悪いことばかりではないですよね。
実際この本を読むと、そのことは全部が前向きに捉えられたというか、
その知ったかぶりっていうとすごいネガティブな言葉の印象になるんですけど、
知ってるつもりというのは結構いいことだっていう感じでしたよね。
いいこともあるよという話ですね。
じゃあどこから行きましょうかね。
無知についてなんですね。
私たちは物事をまず知らないと。
これはもう当たり前の話で、
例えば今僕、パソコンでZoomを開いて買っていただいたマイクに向かって喋りかけてるわけですけど、
そこで働いてるメカニズムをほぼ何もわかってないわけですよね。
なんで俺は愛知県にいて暮らしたさんは関西にいるのに顔が見えて声が聞こえて、
さらにそれを録音することができて、さらにそれをこうやって聞いてもらうことができているって、
どこまで仕組み説明できるんだって話ですよね。
そういうソフトウェアがあるぞというところまでは言えますけど、
それより内側の話って全然わからないと。
この世界にある技術、テクノロジー、制度について、
一人の人間がその全てを知ることはもう原理的に不可能であると。
だから私たちが無知であるということはごく自然な結果というかナチュラルであるんですけども、
僕たちはその無知さについてまず無知であると。
自分が何をどれだけ知らないのかを知っていないというのがまずこの本のスタート地点ですね。
知らないことを知らない段階からまずはそれをちゃんと理解しようというか、そういう感じですね。
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にもかかわらず僕たちはそのような人の誰かが作ったソフトウェアとかを使えてしまうというのが、
多分人間の一番面白いところなんでしょうね、これ。
知らないままでも使えてしまうという能力というのが他の動物はなかなか、
確か書いてありましたよね、そういう能力は人間にしかできないみたいなことが。
書いてましたね。だからこのように使われるであろうというようなある種のデザインを込めて道具を作ることによって、
その中身がわからない人間でもある人が持っている知識の結果っていうのを他の人に使わせることができると。
それが先ほど言った愚かな、知識が限られた限定的な知識しか持たない人間が、
例えば爆弾を作ったりできると。これを認知的分業と本書では呼んでいるんですけど、
それぞれが専門領域を持って、それぞれが共同的に知識、認知的な作業を集合させることによって大きな成果につながっていく。
だから別に無知であることはごく普通なこと。
ただし僕たちはその無知については、自分がこれぐらい無知だろうと思っていること以上に無知であるというようなことがまずスタートで。
このブックアタリストで長く続けてきて、ご了承さんがよくおっしゃられるんですけど、
自分はこれについて知らないことを初めて知ることができたっていうことをよくおっしゃるんですけど、そういうことなんですよね。
そうですね。序盤で言うとやっぱり倫理というものは何も知らないということを知らなかったですね。
最近有機化学を勉強しようとすると、高校のレベルのことももうわからなくなっていることを思い出して。
だからそのように知識を使おうとした時になって初めてその知識の無さに気づく。
あるいは知識がある技術を見かけて理解しようとした時に知識の足りなさに気づく。
僕たちは無知なんだけど、その無知であることについて無知なままでずっと普段は生きている。
生きている。生きることがそれでできている生物である。それが無知ですね。
無知と錯覚もこれは含んでるかな。だから知らないのに知ってちゃう。知らないことが意識されない。
知らないということが意識されず、それについては分かっているだろうぐらいの認識で僕たちは生きてしまっている。
すごい何重構造にもなっていて複雑なんですけど、まず俺たちは全然知らなくて、
さらに知らないことがいっぱいあるということすらも知らなくて、それがいっぱいあるということも知らないままでいてっていう感じの無限ですね。
でもなんとか生活っていうのは成り立っていると。
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それはなぜ可能かっていうと、僕たちが先ほど言ったように他者の良い知識とか結晶化されたものとか技術とかテクノロジーとかを使って考えているからだと著者らは言うわけですね。
中盤に出てくる、身体と世界を使って考える、他者を使って考える、テクノロジーを使って考えるみたいな、考えることで使えてしまっているんですよね。知らなくても。
だから僕たちの思考プロセスっていうのは、脳内で起こっているニューロンのネットワークの演算だけではなくて、自分の体、自身の外にあるもの。
例えば世界にあるものとか誰かが考えた本を読むとか、そういう外部のものも、あたかも自分の知識であるかのように脳内で処理できてしまうという能力を持っていると。
これはすごいですよね。確か書いてあったエピソードで、ギターのエピソードがあったんですけど、ギターを弾く場合に何もないよりも実際にギターを持っている方が動きは制限しやすい。
っていうことが書いてあって、イメージしてみると、昔ギターを弾いていたんですが、本当にそうなんですよね。ただ脳内で動かすんじゃなくて、弦が存在していて、ちゃんとヘッドがあって、指で弦を押さえているという感覚によって体がうまく使えている。
それはそのギターがない状態では同じ動きができないっていうのも言われてみると本当にそうだと思って。
よくある話で言うと、野球選手がフライをキャッチするときに物理演算のシミュレーションを働かして落下地点に走っているわけではなく、ボールがこの角度で見えるっていうのを維持していけばこの地点でキャッチできるっていうのを、
ボールがどう見えているのかっていうことから、計算する代わりに見え方の角度の修正を常に行って移動して落下地点に移動しているというような話とか、人が歩いているときも結局どうやってまっすぐ歩いてるかっていうと、まっすぐがわかってるわけじゃなくて、
見えてる壁の角度が常に一定になるように動きを補正しているからまっすぐ歩ける。それが変わってしまうとまっすぐ歩けなくなるみたいな事件もあって。だから僕たちは脳内で知的プロセスを完成しているわけじゃなくて、常に外部にあるものとかを一つの情報として使って考えたりしている。
この思考って、考えるっていうプロセスがなぜ進化的に生まれたかっていうと、結局行動するためだと。これも動物だから当たり前なんですけど、動物っていう言葉が示してますよね。動くものですから。植物と動物って脳、ニューロンに大幅な違いがあるらしいんですけど、それは当然なんですよね。
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動くっていうことは環境が変わるわけですから、行わなければならない情報処理のプロセスが桁上がる。つまり、床掃除してくれるロボットも普通の掃除機よりははるかに難しいわけじゃないですか。組み上げるとっていうのは。動かなければ。環境からの情報を摂取して行く場所を決め取るわけじゃないですか。
あいつらも言ったらちょっと考えてるわけですね。周りからの赤外線の反応からで考えてるんでしょうけど、きっと。だから、人間の思考っていうのは、いかに良い行動を、良いというか環境適応的な行動を生み出す必要に応じて生まれたと。
だからこそ、思考っていうのは常に外部の情報に対して反応するように出来上がってしまっているというのが、この本における思考の位置づけです。
そういえばね、この話を今それを聞いてね、なんか最近自分が考えていることにここからめっちゃ影響を受けているということを改めて何か思い知りました。
この本は結構いろんな本に枝が繋がってるんですけど、行動するために思考できたらいいんで、その得られる情報っていうのは詳細なものじゃなくていいんですよね。
例えば、あれってライオンっぽいなっていうのが分かればいいだけであって、そのライオンが例えばどこかに傷を持ってたとか島がどんな模様だったかってこと情報は別にいらんわけですね。
そのトラっぽい、ライオンっぽいものと猫っぽいものが区別できたら行動の判断には十分役立つと。
だから僕たちの思考っていうのはその行動を生むためのものであって、詳細を省く代わりにそれっぽさ、いわゆるパターン認識ですね。
それを本質づける、本質って難しい言葉なんですけど、本質づけるある種の抽象的な要素だけ捉えて思考に役立てる風に進化してきてしまっていると、そういう特徴があると。
だから僕たちはそもそも詳細に考える能力を生物学的に持ってないというのが面白い話です。
だからその人間のいろんな認知のバグみたいなのっていうのも、バグなんだけど仕様なんだってことなんですよね。
だから仮にそのバグを取ったら、もっと基本的なレベルの生活ができなくなってしまうんですね。
だって、詳細を全部見てたら頭破綻しますよね。
猫の模様を一匹一匹違うのを全部覚えるってことですから。
そういう特殊能力を持っている人はいますけどね。
やっぱなんか生活に不安というか問題を抱えてしまいますよね、そういうタイプの人になると。
だから僕たちは抽象を捉えることによって、例えばゴルゴさんが明日ヒゲ剃っても僕はゴルゴさんってわかるわけじゃないですか。
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これはでもかなり高度なことなんですね。
それはだから具体を見てないというか、詳細を省いてるからそこにパターンを見出して、
これある角度から見た時にもゴルゴさん、別の角度から見た時にもゴルゴさんって言えるっていうのは結構高度な能力なんですけど、
その代わりに僕たちは詳細を面白いことを無視すると。
で、無視しても行動を決める、良い行動を生むという点においては特に問題なく、今までは問題なかったっていうことですね。
特に顔はすごいっていうのは言ってましたよね、恐ろしいことに。
人間の顔なんてほぼ全員が目2個で鼻の穴が2個あって口があって耳があるだけなのに、
少なくとも俺100人以上の人を認識して識別できるんですよね。
だからその人、ポサっていうのを捉えて脳内にどっかに置いて、
あとはそのポサとの称号でこの人がどうかっていうのを見てるんでしょうけど、
基本的に抽象情報を脳を扱うのが得意と。
で、もう一個行動を生むための思考において、
最も重要なのが因果関係なんですよね。因果の推論。
こうなったらこうなるだろう、だからこうした方がいいっていうのは、
当然それがシミュレーションが適切であるほど生存しやすくなるのはこれは合理的で、
坂の上から大きな岩が今転げ落ちてると、
そこからどうなるかをシミュレーションできない生物は死にますよね。当然どう考えても。
きっとどんどんスピードがついて、すごいスピードで落っこちてくるから、
真っ直ぐ落ちるはずだから、そこから避けないといけないですよね。
っていうことがほとんど直感的に演算、推論できないと生物としては生きていけない。
動く生物については特にそうですよね。自分で対応できるから、シミュレーションできた方がより適応しやすいと。
インガを見て取る、インガを推測する能力っていうのも、
僕たちの生徒的に、しかもかなり強く持っている能力だと。
これが意味とか物語っていう話につながるんですけど、
これはこうだからこうなっているっていうのは一つのストーリーであって、
こうなっているっていう意味付けを生むんですよね。
だから僕たちはもう意識的に抑制しない限り、常にまずインガを見ますし、
インガを推論してしまうというか、正しいとか間違ってるとかいう以前に、
Aが起きてその後にBが起きたら、Bが起きたのAのせいだとまず思ってしまうっていうようなところがある。
ここがよく言われるとさっきも言ったミンチのバグというか、エラーになりやすいポイントでしょうね。
何でも関係があると考えてしまうんだけど、インガ関係と相関関係ってあれですよね。
サイエンスを学ぶときにいろんな本に出てくる超重要なことで、
関連していることと理由があってそうなっているは全然違うんだぞっていうことを、
ついつい何もかも人間はインガ関係があるものだと思い込んでしまう。
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思い込むというか思いつく?思いつかないといけない?
そうですね。絶対にそう思ってしまうんですよね。
科学者とかの人は一回自分がそれを思いついた後でその思いつきを却下できる能力があるだけであって、
思いつかないわけじゃないと思うんですよきっと。
絶対思うと思います。
だからこれもこういうインガの推論っていうのは非常に重要なんですけど、
非常に単純なことしかできない。
さっきの岩が落ちてくるぐらいのことはいいけど、
例えばこの現代の複雑な経済を見抜く推論能力は全然持ってないわけですけど、
僕たちはそれを推論してあたかもそれが正しいことであるかのように思ってしまう。
意外と人間アホなんだよねって感じですよね。やっぱそうやって考えると。
これもだからこのアホやウネっていうのは生物学的なアホであって、
個々人の能力が劣っているというわけじゃなくて、人間が生物的にそういうのをまず持っているというところで。
もう一個ね、この話意味インガを求めるっていうのは本書には触れてないんですけど、
結局人間が自分が生きる意味を求めるのも一緒なんですよね。結局求めてしまうのも。
自分の性にインガを求めてしまうっていうのがあって。
なぜ俺は生まれてきたんだろう。俺は何のために生きているんだろうというのは、
人類の延々の課題ですよね。きっと。
この知的能力を持っているが故に発生してしまうと。
残念ながらこれに答えがないので、勝手に立てた推論なんで。
答えはダーウィンの考えを参照してくださいっていうのが正確な答えですけど、
そういうのは求めてられる答えはそうじゃないんで、
宗教っていうのは結局そこに答えられない答えに答えを与えるための装置なんだろうなというのが僕の考えですけども。
おだしょー それによって宗教によって宗教という幻想が人類を一致団結させたみたいなのも、
確かサピエンス戦士とかであったような気がするんですけど、
やっぱなんでっていう答えに当時思いついた一番いい答えが神様がそうすることにしたっていう答えなんでしょうね。
おだしょー 神様っていうのは僕たちの人間が触れない装置じゃないですか。装置っていうと存在じゃないですか。
だから絶対的な切断点というか、神様が言ってるんだったらしょうがないなって言って諦めることができる。
諦めた後に行動することができると。だから行動を生むためにはどっかで思考を止めなければいけないんですね。
だからその思考を止められる存在が神という絶対点なんだろうなというのは脱線なんですけども。
おだしょー あーそれいいですね。行動をするためにはどこかで思考を止めなければならない。
おだしょー これはもう絶対的なことなんで。人間というのは動物なんで、やっぱり行動をすると。行動することが重要と。
これは別に普通の日常生活でもそうですよね。
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例えば昼ご飯どこで食べようかって悩んでる間昼ご飯食べられないわけで。
おだしょー あーその日常生活でもできるか。それはその通りですね。
おだしょー どっかで決断。正解か間違ってるかは別にして決めないと行動は生まれないから。
だから決められるルールを持っておくっていうのは実は重要なことなんですね。
おだしょー いつまでもうじうじ悩んでたってしょうがねえだろうってめっちゃ体育会っぽい発言なんだけど。
実はそうではなくその行動をしないと結局何もできないというのはそういう観点からも言えるっていうのは結構いいなと思いますねそれは。
おだしょー しかも行動してみることによって結果が分かってその結果がフィードバックになってより賢く考えられるようになるというサイクルが回り出すんで。
だから行動を躊躇しない方がいいというのは実際的なアドバイスでもあるんですけども。
だいぶ話が逸れましたが。
例えばさっき言った因果関係の推論とかも結局外に起きている現象を分析して自分の思考に取り込むかということで結局これも外側の情報を処理してるんですね。
自分の内側だけの推論ではなくて環境とかを使って思考してると。
そのうちの一番大きなものがコミュニティなんですね。
コミュニティ、集合、集団、他の人の集まり。
これが一番厄介なところなんですけど、人間は認知的分業をしていると。
自分の知っていることしか知らない。
だから自分の知らない欠点について他者に委ね、他者に任せるということをごく普通にしていると。
人間が所属しているコミュニティがどう考えてるかっていうのは結構擬人法でややこしいんですけど、
例えばマジョリティ的な意見がどうであるかっていうようなことに個人の決定が影響される。
あるいは決定されてしまうようなところがあると。
これもさっき言ったように人間が愚かっていうわけじゃなくて認知的分業してるから自然に起きたことだと。
だから個人の意見って変えられないんですね。
コミュニティの意見が変わってないから。
そこに来るんですよね。
俺はその部分を読んだ時に結構絶望とは言わないんだけど、
そうか、それは意見変わらないだろうなって思ったし。
あとだいぶ戻るんですけど、第3回、マイケル・サンデルさんの共同体主義。
コミュニティの責任だとか、共同体というものがいかに人類にとって大事なのかみたいな話も、
これを読むと結構納得できたというか、
一人じゃないという概念がもう一つ大きくなったというのかな、人間というものは。
一人で存在するものではなくて、集団としてありみたいでちょっと嫌だっていう言い方もできるかもしれないんですけど、
個体というよりも集団としての人間みたいなものを考えさせられた感じがして。
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僕が個人主義の限界を感じるのはやっぱりここなんですよね。
もちろん個人の人権が重視されるという社会はもちろんいいんですけど、
行き過ぎた個人主義というか、前言った能力主義とかも一緒なんですけども、
その人が頑張ったからその人の成果だって言えるその人の成果の何割がコミュニティの影響かってもう全くわからないんですよね。
大体の人は学校行ってて、学校の勉強は人から教えてもらったもので、
それどころかその学校の勉強の仕組みというものは誰かが作ったもので、どこまで行けばいいんだろうっていう。
だからいろいろなものが個人の中にあるその能力だけで発揮されてるわけじゃなくて、
むしろその人が自分の周りにあったいわゆるコミュニティの知識をいかにうまく使えたかによってその成果が発揮されるとしたら、
やっぱりそのコミュニティに対する還元を持つとか逆にコミュニティに対する責任を持つみたいなことは別に言っても言い過ぎじゃない。
別に共産主義までいかないと思うんですよね、こういうのって。
難しいのがどこまではそのコミュニティだとみなすのかを、また結局個人の判断に委ねないといけない。
もちろんこの簡単な答えではないんですけども、
でもこう、例えば自己啓発的な話っていうと、
自分と他者を切り分けて、自分の関心だけに向き合いましょうみたいなことを言うわけですけど、
そこにそのコミュニティ論が一切ないんですよね。
ないですね。
コミュニティから助けられてるはずのものがないで、その中で自己を高めましょうっていうのは、
誰かがコミュニティを維持してるのにフリーライドしてるだけのように僕は見えるんですよ。
そして人類はフリーライドするものを基本的に許さない。
だからしかもそれを許したときに、やっぱりあまりよろしくないというか、
結局コミュニティが衰退したときに個人の知も減ってしまうわけですから、有効な知っていうのも。
だからその観点がない話って非常に射程が狭いというか、
もちろんそうすることによって気楽には生きられますけど、
かといってそれが本当に幸福なのかどうかはちょっと僕の中では最近、
最近というかこの本を読んであたりからずっと疑問ですよね。
そうか、そういうふうに考えると、この前らしたさんが話していたその若い人たちに、
自分が知っている学んだことを少しでも還元しようみたいなことを言っていて、
ああ立派だなあこの人はって思っていたんだけど、
今の話を聞くと自分にも響くところがあって、
33:01
ああそうだよなあって、自分もこの何ヶ月かでこういうようなことを読んだりして思ってもいるし、
今の話を聞いてもそうですね、何か自分が良ければいいでは、
結局それは自分のためじゃないとでも言えるし。
長期的に見ても多分自分が使える知識のコミュニティが弱ってくるんで、
公理主義的に言っても多分否定し得るものだと思いますねそれは。
だから人間の知識っていうのは個人の中にあるだけじゃなくて、
コミュニティの中に偏在していて、僕たちはそれを頼りにして生きていると。
だから人の意見っていうのはコミュニティの影響を受けるから結構変えにくいと。
変えたかったらコミュニティの大部分に流れる意見を変えるしかないけど、
それは結構時間がかかるから難しいねと。
この本は結構はっきりとその無理さ加減をちゃんと言ってるところが偉いなと思うんですけど、
簡単に解決できる話じゃないねってちゃんと書いてあるんで、この本では。
だからこの問題については何とも言えないですけど、やっぱりコミュニティに投資していくっていうのが、
個々人を教育することももちろん大切なんですけど、
個々人に必要な知識を全部教えるというような方向ではなくて、
個々人に必要ならば多分最低限の知識と、他の人の知識をどう利用するのかについての知識。
例えばそれは専門家としてどれぐらい妥当なことを言っているのかっていう判断をする、
メタ知識を持っておけば他の人の知識も利用しやすくなるんで、
真に開発されるべきはそちらの方でしょうね、きっと。
ありましたね。みんなが専門家になるよりも、専門家の信頼性を確保するということを考えようっていう。
これは知ってるつもり原則にしたかったらどう考えてもそうなんですよね。
一人が全部を知ることなんてできないから、
どのぐらいまで信頼できると判断できるのかということはやっぱりまた無限に難しいけれども、
全員が全部を知るよりは簡単だろうと言える。
っていうのが教育的な。
個人と人権意識以降って、個人の能力を普遍的に向上させようという方向に進んできて、
日本でも基本的に学術教育になってますけど、それはベスト界ではない、最適界ではおそらくはないんでしょうね、きっと。
当時というか今でもですけど、技術的な問題っていうのがやっぱりありますからね。教育を全員に同じことしかできないというのは。
今やったら、例えばアルゴリズムAI教科学習とかで、その人の問題の解き方を見て、
次からの問題を個々人で変えていくっていうことは原理的には可能でしょうから。
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全員が全く同じ授業を受ける必要は全く必要がなくて、レベルに合わせた。
それもスケールが大きくなれば大きくなるほど有利なはずですよね。
このぐらいできる人向けっていうのが100段階ぐらいあれば、
細かいことができるし、こういうことが得意な人はこれを見ましょうとかが、もっと学べるようになれば。
得意なことをもっと伸ばして、最低限このぐらい知っておこうねっていうことは全員がだいたい分かるようになる。
何を最低限とするのかとか、結局悩みはつきないんだけど。
そうやって知識のコミュニティを豊かにあるいは多様性を増す方向に進んだ方が、
結局は僕ら一人一人にとっても役に立つ話になるだろうというようなところでございます。
政治についてとか科学については非常に難しいというか、センシティブな話なんですけども。
本書において一番僕が実用性的に役立ったっていうのが、説明深度の錯覚という話なんですけども。
これ全てはノートから始まるにも直接的に言及してるんですけども。
あなたはそれについてどれぐらい知ってますかってまず最初に聞くと。
7段階ぐらいかな。この程度ぐらい知ってるって答えてもらって、その次に実際に説明してもらうと。
そのあたりにもう一回あなたはそれについてどれぐらい知ってますかって聞くと。
そうするとほぼ数値は下がるらしいんですよね。
知らないことを知らなかったことを認知できたんですよね、それは。
結局それしかないんですよね。
僕も散々ノートの本で書いてますけど、人に説明するという知識を使おうとするときに知識の不在に初めて気が付けるっていうところがあって。
僕たちの無知の知を確保するためにはもう説明し続けるしかないと。
本書の中でも説明マニアっていう言葉が出てくるんですけど、説明マニアって人が世の中にはいるんですよ。
僕がそれなんですけど。
喋りたくって仕方ないという言い方もできるし。
頭の中で、例えば何か見たら、それってこうだねって誰かに説明してるんですよね、脳内で。
それをしてる限り、自分は何を知ってるか知ってないかをある程度精度を高めることができる。
文章を書くような人は大抵似たような傾向を持っていると思うんですけど。
文章で書くっていうこと。説明するないし、言い換えると文章で書くということをすると分かる。
これはどこかで出てきましたけど、タスクを単語じゃなくて文章で書いた方がいいんじゃないかって話をどこかでしたと思うんですけど。
しましたね。認知の話だったかな。
これも同じことなんですね。文章で書くとそれについて何をしようとしてるか、何が分かってないのか、何が大事じゃないか、より精度を高く分かるようになるんで。
39:08
自分たちが扱う情報って、かなりの程度文章で書くことをした方がいいと思います。
それによって初めて知と無知の境界線がよりクリアに引けるようになると。
これはもう、なるだろうじゃなくて、なるって言ってもいいと思います。
それで言うとちょっと思ったのが、日本語は英語に比べて名詞というものがバリエーションが深すぎる、広いことを示せすぎるせいでタスクを名詞で書いてしまうのではないかってちょっと思いまして。
そう思います。
だから余計文章で書かないとダメなんですよね。日本人で日本語話者は。
スーパーに行って買い物する程度のものであれば別にいいんですけど、知的に複雑な作業をしようとする場合は確実に書いたほうがいいです。これはもう実体験から言えるんですけど。
原稿を書いてて、どっかの章を書いてて詰まるときに、詰まっているときに自分が何をどう詰まっているのかをまず文章化するのが基地なんですよ、これ。
それを日本語は原稿を執筆という四字熟語で書く訳じゃないですか。
多分それがダメなんだろうな。
執筆作業というタスクを作っても、永遠にチェックはされないですから、それは。
タスクは英語っぽく書くという言い方もできるのかな。
英語っぽく書くというのは、主語と動詞を伴う文で書くってことですね、要するに。
そうそう。説明的に書く、構造的に書く。
タスクは説明的に書けっていうのは言えますね、きっと。
だから本書の話自体は、個人の知っていうものの捉え方をより広くコミュニティの中から捉え直そうと。
それをより実用的に言うと、自分の無知の知を自覚するために文章で書こうっていうのが、これを知っておけば本書については概ね知ってるつもりになれると。
知ってるつもりになれる。
なれるとは思いますね。
僕が面白いと思った側面、別の側面で言うと、人は物語を求めてしまうっていう、意味づけを必ず欲すっていうのと、
もう一個、この現実的な社会の事象って、さっき言ったように真に理解しようとしたらあんまりにも複雑なんですよね。
2種類の複雑さがあって、1つはわかりやすくて、カオスリオンと呼ばれるやつで、
インプットからアウトプットが演算できないほど複雑やっていう話と、
あとフラクタルな複雑さっていうのがあって、レベルの各層において動詞の複雑さが繰り返されるっていうやつで、
だから、最奇的構造ってことですね。
最奇的構造っていうのは人間の脳では扱えないんですね、基本的に。
そっか、無限に繰り返すというか、順番に処理できないわけではないか。
42:02
ネットワークと最奇というのは相性が悪いんですかね。
非常に。
最奇って、数学的に処理すると最奇はわかりやすいですよね。
ifの中に括弧に入れればいいですからね、全部。
そういうこと。
でも、人間の脳の中でその抽象性、ある種の数式の抽象性を抜いて捉えようとすると、
途端にパンクするんですよね。
2時、3時、4時、5時、6時っていうのが展開されていくんで、扱えないと。
だから、仮に私たちが2種類の道を選べると、
真の複雑さを理解できる世界と、私たちは今のまま続ける世界をどっちを選ぶかって言われたときに、
真の複雑さを選べたとしても、たぶん生きていけないと思うんですね、これは。
だから、複雑さを認識できないから、
僕たちはこの複雑な世界に耐えて生きていけるっていうことが本書には書いてあるんですけど。
だから、メリットでもあるんですよね、俺は。
複雑さがわからないメリットもあるし、でも複雑さがわからないことによって取り違えてしまう問題もあると。
この現象の複雑さが捉えられないっていうときに、
起こる現象というか、代替的に発生するというか、
認知的不協和の解消と言ってもいいんですけど、
英雄信仰というのがあるんですね。
あとの方に出てきましたね、そういうふうに。
わかりやすくしようとする。
ある事象、何か問題が起きてそれを解決したときに、
そこの後ろで働いていた複雑なプロセスをまるで無視して、
ある一人のスーパーヒーロー、超人、エリートリーダーが解決したと、
分かったつもりになってしまうっていうのがあって、
これは複雑さを無視して起きるデメリットの方なんですよね。
非常に物語としても楽しめますし、脳内のプロセスの省エリーにはなるんですけど、
例えばそれをリバースエンジニアリングしようとしたときに、
英雄を持ってくるしかなくなるんですよね。
でも実は英雄一人じゃ何もできてないんですよね。
むしろ英雄の周りにいた人との共有的なネットワークのおかげで、
その成果が出たっていうことが起こるので、
だから環境構築を自分で再構築しようとしたときに、
そこの分析が間違っていると、全部が無駄になっているか、
効を発しないというかね。
もちろん再現しようとした中で何かしら効果が生まれることもあるでしょうけど、
思った効果には絶対にならない。
これが僕たちの認知が落ちやすい罠であるがゆえに、
やっぱり意識した方がいいですね。
一人のすごい人が偉いって思えたときには、
これ要注意のサインなんですよ。
かなり複雑性を無視して簡略化してしまっているっていう。
45:05
エリートビジネスって言うかな。
競争ビジネスって言うかな。
どう表現したらいいかわからないけど。
インフルエンサー的な人に憧れる気持ちも、
この英雄幻想をうまく利用されてしまっている側面が、
少なからずあるだろうという気はします。
この人が成功したのは、
この人のみの力で成し遂げられたというような錯覚を
してしまうかもしれない。
してしまうでしょう。
娯楽として消費しやすいんですもんね。
物語になってしまうから。
スティーブ・ジョブズのおかげでiPhoneはあるっていうのは、
一面では事実だけれども、そんな簡単なもんじゃないぞっていう。
もちろんジョブズがいなかったら生まれなかったでしょうけど、
たぶんそのときのAppleの社員が半分別の人だったら、
たぶん生まれてないでしょうね、同じようには。
しかも最初期に、
ティム・クックがいなかったら、
iPhoneが世界中に行き渡るようにはならなくて、
ジョナサン・アイブがいなかったらって、
数人単位ですら他にいなかったらダメな人はいっぱいいますからね。
そういうネットワークと今こういう話も、
結局何細かいこと言ってんねやっていうふうに
捉えられると思うんですけど、
別にそれは物語として消費する分にはいいんですけど、
自分が似たようなことをしようと思ったときの分析としては、
さすがにちょっと大雑把すぎるなと。
だから、
専門家の言ってることをどれくらい信頼するのかっていうのと同じぐらいに、
偉人幻想とどう付き合うのかっていうのも結構実際的な問題で、
特に平凡な生活を送ろうとしてるんじゃなくて、
何か成し遂げたいと思ってる人ほど、
この辺はちゃんと分析というか立ち止まってみた方が良い。
特にコンサルタントとかやってる人は、
こういう視点を持っててほしいというのはありますね。
一人じゃできないということを意外と分かんないし、
しかも我々は基本的に一人で仕事をしているという設定の人たちなので、
余計そうなんですよね。
そうすることによって、
コミュニティに向かう投資が減るっていうのはあんまりよろしくないと。
で、さっきほど言ったように、
僕も最近この本読んでいこうコミュニティ、
コミュニティって言ったらちょっと強いんですけど、
複数人で何か作ったりとか考えたりするっていうのをよくやってるんですよね。
結局、何か僕は自信満々に言ってるけど、
これって多分間違ってるだろうなっていう思いが常に。
間違ってるとか足りてない部分があるだろうなっていう思いがずっとあるんで。
だからスクラップボックスで何人か集まって、
ある話題について議論したりすると、
やっぱりそういう視点かっていうのがあるんですね、これが。
だから一人で知的生産するのってめっちゃ気楽なんですよね。
例えば独学するのも一人でやるとずっと楽やと思うんですけど、
48:01
そこに穴が空いてることに思い至らない怖さっていうのが常に付きまとうんですよ、結局。
何か勘違いしてたとしても、
勘違いしてるかどうかのフィードバックがゼロなので。
複数にいた方が間違いは起きにくい。
汚く意見が言える場であれば。
だから、ある本を書くとかあるテーマについて研究する場合にもやっぱり、
程度の差はあれ、他の人の関与をしてもらった方が、
最終的に出るアウトプットは確実に良いものになると思いますね。
異人幻想の逆転として、何もかも一人で進めようとしてしまう。
一人で進めた方が良い結果になるような気がしてしまう。
他の人の意見を聞いたときに、自分の信念が曲がったら困るみたいなのがあるんですよね、マインドセットとして。
でも、そういうのはほぼ幻想で、
いろんな人の意見を聞いて、なおかつ出てくるアウトプットのクオリティが絶対に高いので。
おだしょー なんかあれですね、個人事業じゃなくてやっぱり会社にした方がいいのかな。
ゴリゴ.comみたいなやつもって思いますね。
大平 会社じゃなくてもいいけど。
おだしょー 会社という、携帯を取らなくてもいい。
適切な言葉が会社しかないから、会社という表現をするけれども、
一人でやろうと思うのを根本的にきっと変えた方がいいんだろうなっていうのは出てきてしまいますね、それは。
おだしょー でも、ゴリゴさんはまだ奥さんがいらっしゃるじゃないですか。
タイプが違うっていうか、考え方がたぶんゴリゴさんと全く同じ人よりはちょっと違う感じじゃないですか、きっと。
大平 そうですね。
おだしょー だから、そこでミニ会社みたいなのが生まれてると思うんですよ。
大平 一応それは意識もしているし、良いことだとは思っています。
おだしょー そういうのがもしない場合って、やっぱり自分で意識的にさっき言ったコミュニティに通していく気持ちを持っといた方がいいですね。
後輩を育てるっていう話は、さっき言った偉いとかいうことじゃなくて、やっぱり自分に返ってくるフィードバックもかなりあるんで。
だから、よくある言い方するとWin-Winなんですね、これは。
おだしょー そうだな、俺今年の頭ぐらいとかは、できるだけ幅広い年齢層の人と幅広い人と話したりする場面を作らないとなって思っていて、最近は本を読むのが面白くて忘れていましたね。
本ももちろん他者との対話っていうものの一番根源的なやりやすいやり方なんですけど、リアルタイムで話すっていう、しかも自分と置かれてる立場が違う人と話すことによって、
視界が開けたりとか考え方が変わったりっていう、自分が所属してるコミュニティ、知識のコミュニティを多様化していくっていうことを心がけた方がどん詰まりになりにくいというような感じがありますね。
51:03
おだしょー なんかいろんなものとつながりますね。幸せにお金を使うみたいな話で、まんねりというものがいかに良くないのかみたいなことも出てきたし、意識的に刺激的な今までと違う状況を作ろうとしないといけない。でも考えないといけないことがやっぱ多いですね。
これは多いですね。多いです。でも現代は特に閉じこもれてしまうんですね。人間関係をクローズにデザインできてしまうんで、快適か不快かでいうと、閉じこもれた方が快適なことは間違いなくて、だから閉じる方に重力が働いているような状況なんで、だからそこに脱出するためのエネルギーを注いでいく必要はあるでしょうね。
たぶん人間の本質は一人でいたくないし、一人で閉じこもろうとしないものですよね。
おそらくは。
ただ、それはあまりにも大きな組織というか、例えばインターネットで出会える人々というものは、かつての世界には存在しなかった規模の出来事なので、そこに対応できなくなって何か変な方向というか間違った方向に進みかねないとかがあるのかな。
まあ、かもしれません。ここのテクノロジーも知ったつもりで語ることができますが、たぶんあまりにも複雑すぎるんで、一部しか理解できてないでしょうけど、現実の事象を見る限りでは、やっぱり広がる方向よりはほっとくと閉じる方向に向かいがちというのはありますね。
確かにわかるんですよね。コンテキストを異なる人と会話するのって、疲れるか疲れないかというと疲れるわけですよね。話がうまく通じないこともあるし、あれっていうので通じないから、いちいち言葉を尽くさなければならないと。結局それが一番重要なんですよね。
あれと手で通じないから、ちゃんと言葉で説明すると。説明するというのがどう築けられるわけですね。自分とコンテキストが違う人と喋ることによって、説明しなければならないことになると。だから文章を、まあ文章じゃなくてもいいんですけど、言葉で語らなければならない。そうすると、自分がわかってないことが築けると。だから、アウンの呼吸の中では、説明深度の誤解っていうのが解けないんですね。説明してないから。
ずっとわかっているつもりのままになってしまう。俺たちはブック語リストでシステム1とシステム2っていう用語をついつかってしまうけれども、お互い全然わかっていないかもしれない。
っていうことが、全然知らない人にシステム2って何ですかって言われて、システム2とはねって言って、説明できなかったときに初めて説明できていないなっていうのがわかるっていうのがあるんで。
だからやっぱり常に外部者に向かって、外部っていうかコンテキストが異なる人に向かって開いていく。自分の持っている知識を開いていくっていうことをするのが、自分の知識の理解を深めるにも役立ちますし、知識のコミュニティを豊かにするのにも役立つというようなことを、この本を読んでからずっと考えてます。
54:12
俺もそう言われると面白いなと思うのが、自分の場合この本がすごく面白かったと思っているんだけど、まだ自分の中でちゃんと消化できていない感じがするというか。
クラシタさんの話を聞いて、一個一個は知ってるんですよね、喋ってることは。ただこうやってまとめるんだっていうのを話として聞いてみて思ったっていうか。
それはうまく言えない。何て言うんだろうな。やっぱり自分のものになっているとなっていないという感覚の違いというか。あとはやっぱり話そうとして話すことによって話すためにまとめようとすることで、クラシタさんの中で消化されてそうなっているとかっていうのもあると思うんですけど。
そうですね。この自分の中でそれが消化できたかどうかっていうのって、分かったつもり現状があるから難しいんですけど、やっぱり自分が以前から知っていることのネットワークの中にそれがどう位置づけられるか、あるいはリンクが作られるかっていうことをですね。だからリンクが作られてない知識って多分分かってないんですよ。
だから話せないんですよね。
そうそう。だからその単語を暗記しているのと使えるのとの違いも同じことで、自分のその地のネットワークに何か関連付けられるものがあるとちょっと分かったって言えますし、その肝づけが増えれば増えるほどその分かった度合い、分かった感覚っていうのがより深まっていくということで。で、やっぱり何回か読むしかないじゃないですかね。
そうですね。これは何回か読みたいと思っているし、ただ何回も読みたい本がまた無限にあって困るっていうね。
その問題は尽きないですけどね。結構だからこれまで紹介してきた本いくつかありますけど、この本は今まで紹介してきた中で一番僕にとってのインパクトが大きい本でしたね。
なんかあれですね。ネットワークの一番結びつきが多そう。ここまで話した中で一番いろんなものと関わりがありそうな話っていう感じがしますね。
はい。雑にスクラップボックスでちょっと思いつく本をあげただけでも10冊ぐらいになりましたし、多分それぞれの観点についてまた細かくページを作っていくこともできますね。
例えばパワーオブツーって言って二人で一人の天才って本があるんですけど、みんなが偉人と思っている人って実は相方とかチームの影響のおかげだよねっていう話なんですけど、もうばっきりこの本の話なんですよ。結構そういうのって多くあるんですよね。
そうですね。それで言うとちなみに、この本に書いてあった研究もすでに科学、サイエンスの世界も基本一人ではやらなくなって、みんなでやるようになるのがごくごく当たり前になってきているとか、そんなんも一人じゃもう無理だっていうことが、アカデミックなんて言ってみたら天才がいかに成果を出すかみたいなイメージだったものがもうそれすらもそうじゃなくなっている。
57:23
複雑性と対峙するためには知的分業しかないんですよね。人間の知性をIQ600等にはできないわけですから。いかにその分散的な知能ネットワークを効率的に築けるかっていうところしか解決方法はないんでしょうね。
多分ですけど、プログラムを書く人だったら知的分業ってほとんど当たり前の話で。
本質を分かってちゃんとやっていればそうなると思います。
基本的に例えばコードを書くときってゼロから最後まで書くことなんてほぼゼロですから。だいたい検索してどっかのライブラリーとか他の人が上げているものをコピしてそれっぽくしあえるっていう。それがなかったら自分のコードなんてほとんど9割以上書けてない状況ですから。
だってライブラリーなかったら今何時の表示すらめちゃめちゃ難しいですからね。
だからプログラムしている人にとってはこんな自分が知らない知識がいっぱいあるってほとんど当たり前と思うんですけど。でも日常世界ではそこまで頻繁に他人の知識を具体的に使ってするってことがあんまりないから気づかれないんでしょうけど。
でもこの本の最後に書いてあるんですけどここに書いてある本は多分読んだ後に当たり前だろうなって思うだろうと。そのように知ったつもりになってほしいって書いてあるんですけど。僕たちはその事象を説明されるとまあそうだよねって。
この僕方は何回も当たり前っていうこの本に書いてある。
【佐藤】全部の本で言ってますね。書いてあること大体当たり前つって。
当たり前ってのはそれ自分を以前から知ってたっていうことですよね。ほんまにそれだから知ってたかもしれないけど意識はしてなかったよね。そういうことがこの世にあるってことは意識してなくて説明されて初めて確かにそういうことがあるよねっていう。
意外な感じは受けなくてもそれ以前までってそんなに意識はしてなかった。詳しくはしてなかったってことがあるんで。だから少なくとも知ってるつもりという本は知ってるつもりを超えて一回読んでみていただくのが一番良い。今こうやって聞いても多分その本についてある程度わかった感覚はあるでしょうけど。
知ってるつもりになれるけどね。でもやっぱり読んでいただくのがよろしいかと思います。
【佐藤】ブックカタリストの本来の意義が知ってるつもりになるやつを知ってるつもりになることが悪いとは言わないけどやっぱそこから知りたいよねってなるといいよねってやつですからね。
確実に読めとは言いませんけどこの問題に知識とか個人のCEOをどう変えていくかみたいな話に興味がある人はこれはもうぜひ読んでほしいぐらいのランクの本ですね。
1:00:09
あとそれ関連で自分が似た体験をしておりましてつい先日倉下さんがブックカタリストを始める前の練習会で紹介してくれたMODという本を興味を持って多分数日前ぐらいに読み終えたんですよ。
知ってるつもりがいかに知ってるつもりだったかということを思い知らされ、やっぱ自分で読むものと人から聞いて分かったつもりになるものでまず全然違う。本の話で言うとやっぱねその記憶を、俺の記憶との比較なんですけどやっぱあの興味を持ってこれが面白いなって思った部分は当たり前だけどやっぱちょっと違うんですよね。
まさにそうなんですけど同じ一冊の本について語るとしても人によって持ってくる感想は結構違う。それをやっぱ面白いそうだなと思えたものを聞いただけで終わりにするのはやっぱもったいないなと思って。
全部が全部読む時間とエネルギーは絶対に足りないので、ブックカタリストペースで2週間に1回だとしてもまあまあ大変なのでそれは全部は無理だと思うんですけど、面白いなと思ったらやっぱりこれは読んでみないとまた感想が全然違うなっていうことを思い知りましたね。
それはありますね。でもまあその最初知ってるつもりになる、こんなことが書いてあるんだろうなっていう知ったつもりになれるから本を手に取って読むという行為が生まれるということもあるので。だから悪くないですよね、全然。
悪いとは全く思わないですね。そのきっかけが、だから知ってるつもりになるための本。本じゃない、ポッドキャスト。
というのはあるんですよね。興味を持つ、あれってそんな本だろうなっていう推論を立てるっていうのはもうちょっと知ってるつもりなんですけど、でもそれが入り口になるというか、それがあることで初めてもう一歩踏み出すことができるんで。
知ってるつもりにすらなれないものっていうのは、知らない、全く何も知らないっていうことなので、興味を持つことすらできないんで、だから知ってるつもりから始めるってことですね。
そうですね、本で言うとね、そんな概念すらなかったみたいなことは結構思うからな。前回の読書会で出てきた郵便屋さんが紹介してくれた本とかは、正直何を言いたいのか意味がわからんっていう本だと思ったんですけど、
そんな風に物事を考えるということを考えたこともなかったわっていう感じで。
ちなみにその本も結局この本とつながるんですよね。つまり、その紹介された本でブラックボックスっていうのが論じられてるわけですけど、ブラックボックスがあるからこそ僕たちは他の人の知識を使えるということなので。
1:03:03
すべてはブラックボックスですよね、現代技術の話で言ったら。
ブラックボックスがあるから僕たちは人の知識を使ってコミュニティに参加できると。でもその中身についてはわかっていない。だからブラックボックスっていう表現なんですけど、だからこの本ともがっちりつながる本です。
いろんなね、知ってるつもりでそこで傲慢になっては決していけないと思うんですけど、知ってるつもりになることは結構重要なことなのかなっていうのを思いますね。
本書の最後でも、著者の一人が自分の娘さんを二つのロールタイプに分類してて、一つは知的に謙虚な人で、もう一つは知ってるつもりであふれかえて自信満々な人なんですけど、やっぱり自信満々な人も世の中にはいるんですよ。
冒険とかチャレンジするタイプの人っていうのはそういう人で、知的に謙虚な人っていうのは自分の領域を、領分を踏み出そうとしないからチャレンジが生まれにくいっていうのがあって、だから両方の人がいるのが良いのであって、別に知ってるつもりがいけないこととかそういう話ではないですし、いろいろな多様性で地のコミュニティを育んでいきましょうというような決着点にしておくのがよろしかろうと思います。
それすらもやっぱりいろんな人がいた方がいいってことですからね、一人よりも。
そう思います。
なんかやっぱすごいですね、自分の中ではうまく素晴らしさを紹介できないと思っていたけれども、すごく面白い感じに紹介してもらえて、これは良いんじゃないかなと思いました。
この本本当に面白いんでぜひ見てください。
では、感想や質問などがあれば、ハッシュタグ、カタカナでブックカタリストをつけて、ツイッターでつぶやいていただけるとゴリゴとクラシタが確認して紹介します。
収録の後は本編で語られなかったアフタートークも収録していますので、アフタートークはサポータープランで加入いただくとお聞きいただけるようになります。
気になる方はぜひご検討してみてください。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
01:05:10

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