だから例えばこの言語を喋るときにここが活発になってるから、ここが言語を担当してるんですよっていう話をよく見かけるわけですけど。僕もまあそうやろって思って。だって科学的な処理されてて、そういう実験結果が出てるからそうやろと思うんですけど。
実はそれはかなり強調されているというか、実際はもっと脳は広範囲に全体的に活動していると。
その平常的に活動しているのがまず全体があって、その機能が動いているときにその部分だけがより強く動いていると。
だからそこを特徴的な部分だけをある種差分をとって見せているんだと。
だから一般的な脳科学の話を聞いてると、言語処理しているときはそこが活発に動いてて、それ以外の部分って脳が動いてないような政治的なイメージをなんとなく思ってたんですけど、そうではないと。
非常に全体的な動きをしていると。だから脳が科学的に分かるということは非常に難しいんだということが、本書全体を通して語られてます。
脳ってそんなに簡単に分かるもんじゃないよっていうのが本書のメッセージとも言えるんじゃないかなとは思いました。
そうですね。もうちょっと言うなら、勝手に分かったつもりになっていることばっかり言われてて、そうじゃないんだよってもうめっちゃ言いたいって感じでしたね。
そうですね。昨今のコンピューターの発展によって、脳、人間の知的処理がコンピューターに置き換わるっていう話が実際に出てきているわけですけど、
それが脳、その知的作業がコンピューターに置き換わるのと、脳がコンピューターに置き換わるっていうのはこれ全然等価ではないよと。
で、ニューロンの動き一つとっても、例えばそのニューロンの、すべてのニューロンをマッピングしてそれをつなげば脳じゃんっていう話があって、
僕もそういうイメージを動いたんですけど、例えば本書ではニューロンの動きそのものっていうのが、実は確率論的にしか動いてないと。
10回あったら、例えば3回ぐらいしか発火しないようなもの。
30回で1回って書いてなかったかな。
それぐらいの低頻度でしか起こらないものと。もちろんその完全なランダムではないんだけども、ある確率論的にしか振る舞わないものであるから、
単純にネットワークを模倣したからはい、脳になりましたっていうのは誤った考え方だよということが結構強く主張されていると。
で、もう1個はこれの話はよく出てくるんですけど、脳っていうのは過疎性があると。
ある部分壊れたところを別のルートにつなげることができると。
繋げることが再編できるっていうことがコンピューターにはない特徴ですし、それが可能なのは先ほど言ったように固定的ではなくて、
ある種のランダム性とそれを強調するネットワークが全体が仕事をしているからと。
ある一箇所が仕事をしているので全体が仕事をしているから再編成も可能であると。
だからCPUのイメージを持って脳を理解しようとすると、おおむね間違った、誤ったモデルになっているなと。
こんな話を僕は脳科学の本としてではなくて、さっきの知的生産周りの話として結構読んでたんですよ。
何が引っかかってたかっていうと、いわゆる第二の脳というやつですよね。
セカンドブレインが出てきて、もちろんキャッチコピーとしては非常にキャッチなんですけども、
脳とツールを第二の脳と言うのは別にいいんですけど、ということは第一の脳も第二の脳とある種近似的というか相似の関係にあると捉えられますけど、
でも実は全然違うものなのだと。
ここを間違ってしまうと、脳とツールは便利に使ってるかもしれないけど、脳の働きを逆に逆方向で勘違いするんじゃないか。
つまり、脳との働きを脳の働きとして捉えてしまうのは、これは多分誤った推論なので、
だから第二の脳って多分言わない方がいいんじゃないかなと、ちょっとこの本を読みながら感じてました。
個人的にもこの話を、この本を読むまで脳の仕組みというのの解像度がすごく理解が浅かったなっていう印象はあって、
いかにデジタルではないのか。
そうですね。まさにアナログ的に動いているという。
で、そのアナログ的なことによって本書のタイトルにも間違えてしまうことが起こると。
今間違えるって言いましたけど、間違えることはなんとなく悪いことになってますよね、基本的には。
忘れる間違えるはやっぱ二大人類悪みたいな印象はありますよね、今は。
でも、それによって人間が新しい発想をしたりとか、考えを抽象化するっていう能力を持つことができると。
これはだから、本書にもありますけど、完全記憶を持っている人はそれができないと。だからこれはトレードオフなんですよね。
で、第二の脳をデジタルノートツールに置き換えようとするってことは、つまり完全記憶の方に進んでいこうという流れに、
まあ等しいとまでは言いませんけど、そういう起因を感じるんですけど。
そうすると、最終的に第一の脳いらなくね?っていうことになってしまうと思うんですよ。
だって、間違える脳ですからね、脳は。
だから、そもそも間違えるとか忘れるを、いいことまでいいことと言っていいかどうかの悪いこととしてしいぞけるという考え方を
一回考え直した方がいいんではないかなということを、本書を読んでて感じました。
間違えることが悪いこと。
そうだな、暮らしたさんの話を聞く範囲で、第二の脳というフレーズは置いといて、
個人的にはあんまりそういう懸念みたいなのは自分だけの話なのかもしれないんだけど、あんまり思ったことはなくて、
どういうイメージで見てるんですかね?暮らしたさんが、世間一般がイメージしている第二の脳に求めていること。
知識バンク?知識、もっと覚えようということかな、簡単に言うと。
収めておいて引き出せるもの。
知識を蓄えておこうということが良いことだという価値観を感じるということ。
そうだとしたら、俺の認識なんですけど、あんまり自分が2,3年前に見た西洋のそういうものを見る限り、
良い記事と思われるやつは、そういうことはあんまり書いてなかった印象はあるかな。
それなら別にいいんですけど、現在理解されている、もしノートツール、そこにデジタルがいいツールだと言っているときに、
脳が忘れるというものの評価が軽んじられているとしたら、多分それは大きな間違いではないかなということをちょっと思ってまして。
脳は揺らいでいるという話が出てきまして、揺らぎがあるからエラーがあると。
つまり常に静止的じゃなくて、ちょっとだけ常に動いてて、それによってニューロンネットワークの発火がちょっと変わってしまうと。
体はゆくやったっけって紹介されてましたけど、全く同じ動作ができないっていうのも多分これに由来するんですよね。
発火してるから常に動く。そこから想像性っていうのが生まれる。
つまり入力Aに対して必ずBを返すっていうことは固定的じゃないですか。
でもAに対してたまにCを思いつくれたらそれがアイディアになると。
この揺らぎをどう捉えるか、固定的なものじゃなくて変動的なもので捉えるか。
あと人が忘れることによって、その情報が変換されるようになると本書では書いてあるんですけども。
全く変わらない固定的なものっていうのは、分解も連合も再構成もされないと。
習慣と脳の科学でもできましたけど、学習においては再構造化が重要という話があるんですけど、
固定的な知識っていうのは再構造化すら起こらない。
そこにぴったりはまったまま動かないということなんで。
だからこういう変換とかをどう起こしていくのかっていうことを
考えねばならぬぞということをまず第一の観点として考えたと。
あれかな、紙のメタファーを持ってきて第二の脳みたいな言い方をすると、
鉛筆はさておいて基本的に書き換えができない前提になっているので、
その固定的な考えに陥りそうなイメージはあるんですけど、
デジタルの脳とのメリットというものを理解というか、
掘り下げて考えていくと、やっぱ書き換えられることがメリットであって、
その仮想性というか、書き換えられることと脳の仮想性は割と近い部分があるような気がして。
だからこそ役立つところはもちろんあるんですけど、
そこに若干のトラップがあるんじゃないかなということを、
2冊目の本で取っていきたいんですけど。
間違える脳自身は今言ってる話と全然関係なく脳の話としては面白いので、
ぜひ読んでもらいたいんですが。
2冊目が忘却の生理学。
著者が富山茂彦さんという方で、至高の生理学という本の方で超有名ですね。
大御所ですね。俺が大学生の時に名著って言って、図書館じゃないや、大学生教に置いてあった。
今でも京大とか東大で一番読まれている本にラインナップされている本の一つなんですけど、
あの本もいわゆるノウハウ書というよりは知的生産に関するエッセイ集みたいな感じで書かれたと思いますが、
本書も同じで、忘却にっていうものに関するエッセイ集というところで、
別に科学実験の話が出てくるとかエビデンスが示されるわけでもなく、
でも若干ちょっとその話強引じゃないかなって思えるようなところは多々あるんですけども、
本書の主張である忘却を重視しようということが、
脳科学の話を全くせずに著者独自の考え方で至ってはると。
で、その間違える脳と言っていることがだいぶ似てるんですよね、このエッセンスで言うと。
彼自身の知的生産的な経験から導き出されたことと脳科学から言えることが合致しているっていうのがまず僕の中では面白かったですね。
富山さんというのが梅竿さん的な、そういうあんまり好きな言葉じゃないんだけど知識人的なところの最後の世代ぐらいのイメージがあって、
おそらくそういう、やっぱりツッコミどころは特に現代の観点で見ると多いんだろうなっていう気はするんですけど、
だからこそ学べるような気もするし。
そういう飛躍があるからこそ面白いというところはありまして。
内容自体には好き嫌いはありますけど、この本書の主張ですね、忘れるということを再評価しようと。
帯には忘れることはいけないことだと言われてたけどそれはとんでもない勘違いだったと。
本書全体を通して、現代社会において覚えること、記憶することを信奉してきたけども、
その代わりに反動として、忘却っていうことが非常に低くあるいは悪く扱われてきたけど、
それを逆向きに考えられるんではないかっていうエッセイか論考かが展開されていると。
一つの事例として挙げられてるんですけど、著者は大学生さんを教えられてたので、
日頃よく勉強して、知識も豊富な学生さんがいても、論文のテーマが決められない人が結構いると。
逆にチャランポランに見えるような人が、意外にこれ面白いなっていう研究テーマを見つけてくると。
こういう話から規定になって、知識を蓄えることを重視するあまりに何か大切なことを忘れてるんじゃないかなということが語られるわけですね、これは。
その話でいうと、おそらく勉強して知識が豊富だという学生の知識という言葉の範囲が浅いんだろうなって思って。
そう思いますね、確かにね。その知識をどう定義するかですけど。
あの、著者が言うには知識っていうのは、一回覚えた後、その大部分を忘れた後、その元々の知識から距離を置いたときに初めて、その人等のオリジナルな思考が生まれる余地が生じると。
で、その生の知識、生っていうのは生ですね、生成子の生ですね、の知識っていうのは使い物にはならないと、著者が言うですね。
この多分生の知識っていうのはさっきゴルゴさんが言われた浅い知識ですね、きっとね。
で、生の知識っていうこのメタファーですけど、もっとそれを忘却をくぐらせた後、つまり枯れた知識のみが新しい知識を生み出すと。
で、これもメタファーですけど、大工さんっていうのは生木で家を建てないと。
そういうイメージで、その知識、はい知識です、はい使いますって言うんじゃなくて、一回知識を頭に入れて、その部分ある程度忘れてしまった後に、残るものが初めて材料として使えるものになるという主張。
で、このここでその忘却っていう言葉はイメージとしては、なんかまるっと全部忘れるっていう感じじゃなくて、ある著者選択が行われた後のもののことを指してるわけですね。
ある意味、なんか理解という言い方すらできそうな気がしますよね。
できてしまいます、この場合では。だから、真なる理解は忘却とともにあると言ってもいいかもしれない。
多分書いてある字面をそのまま覚えるんじゃなくて、書いてあったことを忘れて自分なりに覚えるので、やっぱ忘れるですよね、真の理解は。
そう、だから結局そこは忘却と言いながら再構成が行われてるわけですね。で、それは結局、情報をある種陰影をつけてるというか、ここは重要だから覚えるけど、ここは忘れるってことを無意識のレベルの脳が処理してるわけですよね。
そういうことを言って、初めてその人の血肉になる知識になると。だから、僕がいわゆるマネジメント系の話で心配してるのは、生の知識を増やすことがゼだとなってないかっていうことですね、要するに。
A単語の暗記が好きな人とかはね、そういう方向が好きそうですかね、その理解で言うなら。
別にその、例えばA単語の知識を増やすことが好きでやってるんやったらもちろんいいんですけど、テーマに挙げた知的生産っていうような、あるいはそれに類似するような行為をしようとしてる。
なんか試験に高得点を取るとかじゃなくて、何らかのナレッジを自分で生み出したいという場合には、生の知識を増やしたら、それで成果がかかるという考え方は、
少なくともこの著者の論点を拝借すると、ちょっと危ういよなという感じはしますね。
さっきの忘却と理解のセットという話なんですけど、著者は忘却っていうのを呼吸に称えてるんですね。
呼吸というか、覚えることと忘れることっていうのは呼吸のようなものだと。
吸うだけでも吐くだけでもダメだと。
両方動くことによって初めてその記憶っていうものが、つまり頭に残ってる情報を出して使うっていうその行為そのものが、覚えることと部分的に忘れることのセットになって初めて脳がちゃんと情報を処理してくれるという、こういうふうに捉えればいいんではなかったかという話をしまして。
脳って結局自然に忘れますよね。というか意識的に忘れることって逆にできないですよね。
難しい。難しい。
昔は僕らの頭に入ってくる情報量は非常に少なかったので、その自然忘却で全然足りたと。でも現代ではどうだろうかと著者は言うわけですね。
自然忘却では足りんよ。
忘却しきれないぐらい情報を仕入れてるんじゃないですかとちょっと問題提供されてるわけですよね。
これはもちろん全然単なるメタファーの話なんてわからないですけど、でももしもその自然忘却力っていうのがあるとして、それ以上の情報を仕入れてしまったら、生の知識ばっかりが比重として増えるってことはまあ考えられなくはないですよね。
ツッコミの頃は大いに感じるけど、言いたいことはわかる。
例えばある情報の再構成を必要としなければ理解できないとして、仕入れることばっかりに比重が大きすぎると、やっぱり処理できないものばっかりが溜まっていくということは全然あるでしょうね。
だから脳が単に忘れている、風化している、メモリをオフにしているんじゃなくて、ある再構成の処理をしているものだと考えれば、情報を増やしすぎることは確かに良くないことである可能性はあります。
これはもう何のエビデンスでもないですけど、でも自分の実感から言ってもそれは確かにちょっとあるなとは思います。
同じくの実感で言うと、ノートを一気にたくさん作りすぎるとパンクするんですよね。わかりやすいぐらいにそうなるんですよね。
だからそういうことを、例えば知的生産というもの、あるいはその前段階の情報接種とか情報収集の段階でそこまで考えないと、いわゆる量が増えたらアウトプットも増えるみたいな不自然というか不人間的な感じになってしまうんじゃないかなということはちょっと思いましたね。
今の話を聞いて、インプット編長になってしまうというのかな、世の中全般が。デジタルツールによってインプットがたぶんかつてないぐらいすごく簡単になったんですよね。
ただそれはおそらく表面的なインプットだけというか、新聞記事を切り抜いて集めるのと同じで、切り抜いて集めているだけならば劇的に簡単になった。
たぶん昔の人はもっとゆっくりだったんですよね、その処理が。
その処理がゆっくりやったからこそ、その人の理解に染みるインプットになっていた。真なるインプットになっていたのではないかと。
その情報化社会のさっきの呼吸の話をまた別の、この人メタファーが大好きなんで、別のメタファーを扱っていて、知的メタボリックという表現をされているんですけども。
面白い、面白い。いい表現だ。
インプットとアウトプットという表現じゃなくて、著者はインプレッションとエクスプレッションという表現を使っているんですけど、
インプレッションが増えたら、本来はエクスプレッションも増えなければバランス調子が合わないと。
でもインプレッションばっかりが増えて、死亡的情報が体の中にたまって知的メタボリックになると。
だから少なくともそのエクスプレッションを増やそうと。
頭を整理する。余計なものを捨てて邪魔なものを取り除くとか、物語でいうとカタルシスみたいなものを体験する。
特に例えば、カタルシスの物語を見るとかよりは、自分がサッカーとかを自分でやって体を動かすとかして、自然防却力を上げてみてはどうかみたいな提案はされてまして、
多分、倉下さんが懸念しているセカンドブレインというのは、外付けハードディスクみたいなイメージですよね、やっぱ。
そうですね、はい。
でも、ブレインの価値をハードディスク的なところに置くかどうかなのか。
そう置いてしまうと、多分その知識知っている人が偉いということで、それはそれでいいんですけど、さっき言ったように生の知識を重視するばかりに、その人らしいアウトプット、その人が考えたことが既存の知識と結びついて出てくるようなことが若干出にくいんではないかなという印象があって。
で、どういう名前をつけて読んでもいいんですけど、どんな行為を促しているのかというところが気になるところというか。別に気になるだけでどうこうせいとは言わないんですけども。
そこで行われている営みの方向性をどうしても引っ張ってしまうので、名付けっていうのが。
で、脳が忘れるもの間違えるものであるという観点から見てセカンドブレインと言うならばいいんですけども、その人間の間違える忘れるが劣っているから大の脳で補佐しようと言うんであれば、その価値観そのものがコンピューター寄りになっているというか、間違えないことがいいことだというふうに感じるんですね。
でも実際そうではないというか、もちろん知識を覚えて使うという場面で言うとそれは良いんですけど、それは全然問題ない。そういう脳とか必要なんですけど。
思考とか想像という点で言うと、新しいものが生まれてきにくい形になっているんではないかっていうのは、どっちかというと僕自身の経験から感じることですね。
自分がためたものに自分の発想が制約されてしまう感覚が少し前まであったので、その自分の振り返りからも言ってちょっとこれは思っているところですね。
自分がそれでもう唯一にして最強の解決策がやっぱり書くことなんじゃないかと思っていて、クラシタさんが懸念しているようなことのほぼ全ては自分で書いてないから起こることばかりで。
だからインプットとアウトプットの比率があるわけですよ。結局。僕の場合で言うと読みすぎてた。
エクスプレッションが追いついてない。どんだけ書いたとしてもやっぱりインプレッションの方が多いから。
だからね、今から振り返ってみた時に、その自分なりの問題意識っていうのが薄いないしはその相対的に小さい。他の人が書いた本を読んで、その人が持っている問題意識に感化されるわけですね。
これ面白いとかこういう問題があるって。で、それの比率が、例えば自分が1入ってきたのが9やとすると、1の方がだいぶ扱いが雑になるというか、大きな関心ごとになりにくい。
だから、ここがインプレッションが入ってくるのが小さければ、ある程度書くだけで多分対応できるんですね。きっとね。そこは。
だから、インプットとアウトプットの比率と自分が書くっていう量、可能な量を考えた方がいいよみたいな話が多分、僕は気になっていることですね。きっと。
ああ、そっか。ラシタさんは俺からしたらめっちゃ書いてるんだけれども、その書く量がまだ全然足りない。
足りてない。で、結局これはもうどう考えても、その読む量を減らさない限りは追いつかないぐらいのインプットをかつてはしてた。今はそうではないですけども、かつてはしてたので。
で、これは多分、あんまり良くないことだと思います。だから、実際、一日の時間の中で例えば30分しかエクスプレッションができないのに、3時間もインプットしてたら、多分比率としては少ないんじゃないかな。
現代の3時間は、比重…いや、濃度が違いますからね。その入ってくる情報の量が。だから、もちろん書くことで解決するんですけど、比率とかバランスが多分ここでは観点になるのかなというところをちょっと今話を聞いてて思いました。
おだしょー それってイメージとしては、1対1ぐらいが望ましいというイメージですか。言い過ぎ? いやー、それはさすがに、うん。でもせいぜい…当然、書く量よりは読む量の方が多くないといけないのは間違いないんですけど。
おだしょー うん。 でもどれくらいだろうな。今でも…ああ、そうだよな。ちょっと今度測ってみるわ、時間。最近時間測ってんからイメージとしてはわからないけど。昔に比べて読む量はだいぶ減りましたね、僕は。で、読む量が減ったっていうか、ネットの記事を読まなくなった。
おだしょー ああ、それはね、俺もある。 で、やっぱネットの記事って読んでるけど読んでないんだよね、あれ。
おだしょー 消費してるんですよね。 でもやっぱり、頭には入ってきてて、脳はそれを何か処理してるわけよ、結局。無駄なエネルギーを使ってる。
その時間があったら、例えば1冊の本をゆっくり読んで考える時間に当てた方が遥かに有用みたいなことが、こういう知的生産の話では多分言われるべきやし、デジタル業界で言うともっと強く言われた方が良いのではないかと。
どうしても情報を処理しましょうとか、効率的に処理しましょうという話になると、数を追うことになってしまいかねないので、もっと限られたものをじっくり時間をかけてという古くさいものを再検討した方がいい。忘れるための時間とか余裕を持つってことが、この忘却の生理学でも散々語られてるんですけど。
現代でこそ多分そこが重要じゃないかなというのはちょっと思いましたね。
2つぐらい思ったことがあって、1個が年齢的な話というか経験値的な話、もう1つが記事を考えさせられる文章であるかどうかみたいな話。
1個は単純に例えば10年前の自分と今の自分を比べたら、ほぼ確実に上っ面だけだとしても知っている物事の量って今の方が多いですよね。
となると、おそらく比率の話で言うと若い頃の方がインプレッションが重視されがちに、重視すべきになるのではないか。
さらに言うと、インプレッションを70年以上積み上げた富山さんの意見だけを参考にして良いのか。
あともう1個思ったのが、今のネットの記事がどうのこうのっていうのが、インターネットとそうじゃないものっていう比較は正しくないと思うんですけれども。
読んでいて考える気になる内容の文章、テキストとそうでないテキストはあるのではないかという気がして。
やっぱり考えなくていいテキストが増えているということが1つの問題なのではないか。
食べる量を加えてどんなものを口に入れているかによって知的メタボリックが起こりやすく変わるみたいな。
その例で言うとジャンクフードがやっぱり増えている。
ジャンクインフルエンションをたくさん食べれば太りやすいっていうことがメタファーとしては確かに言えそうですね。
食物繊維多めの天然系の良質な不純物がむしろ多い素材が少ないのではないのか。
インターネット、特にSNSで流れてきてリンクをポチッと押して読める記事はそういうのが多いですね、確かに。
テキストも限りなく短くなっているから、純度の塊で。
でも純度は高いんだけれども栄養成分の絶対の種類が少ない。
純度が高いがゆえに雑な要素がなくて、それは頭を働かせてくれない。
安く量産できるので、生産者もより多くそれを作ろうとするし、
簡単に消費できるので、我々もそればっかり求めようとしてしまう。
深く考える記事、明らかにこれを深く考えるでしょうっていうタイトルは、ちょっとクリックするのにパワーがいりますからね。
おれね、暇と退屈の倫理学を読み終えて多分3ヶ月ぐらい経ったんですけど、
まだ読んでいるというか、読書メモを見直している。まだ考えている感じがあって。
国文さんをただ褒めるだけになるかもしれないんですけど、やっぱりすごかったんですよね。
一冊の本から考えさせられた量が。
なるほど。
そういうものをどうやって見つけるかっていう問題はもちろんあるんですけど。
例えば同じようにその本を読んでも、ゴリゴさんと同じように勘応するかどうかは人次第ですか。
それはそうですね。
それこそ1年間の独立を指す数が増えたらいいみたいな人は、多分何も勘応しながら読み終わってしまうでしょうから。
こちら側の態度というのももちろんあるでしょうね。
食欲の話とまさにつながっていて、食物繊維が多い食べ物とかタンパク質が多い食べ物を食べると簡単に満腹になるんですよね。
なるほど。
これ以上食べられないという感じになる。
わかるわかる。それはわかります。
対してジャンクフードはもうまんまメタファーなんですけど、美味しいですよね。間違いなく。
ただ、必要以上に食べても満腹であることに気がつけない。
なるほど。
という意味で、ちょっと何をどう解決できるとかではないんですけど、例えとしていい感じにつながるなと思って、ちょっと前のブックカタリストの話と。
そうですね。だからこの比喩としての知的メタボリックっていうのは、その日常的な情報接種行動をどう調整したらいいのかっていう指針にはなってくれそうですね、どうも。
そうですね。だから食物繊維が多い記事を読もう。タンパク質が多い記事を読もう。それは何だろう。
読んだ後に自分でエクスプレッションしようということで、知的健康を保つための方法みたいな。
運動しようですよね。食べたら。
そういうことが、運動することが前提となると、そこに時間が必要だからそんなたくさんを読めなくなるよねみたいなことで、調和というかバランスが見えてきて。
そういうことを言ってくれるんであれば、僕はその手の話は最近は評価できるなという気がしますが、やっぱりもっとたくさん読みましょうみたいなのはその観点がちょっとないというか。
たくさん読みましょうと言ってなくても、むしろ現代ではちょっと減らしましょうと言うぐらいの方がバランスが取れるかなと思うんで。
だからこそ今回これをテーマにしたわけですけども。
読むことと書くことは正当にした方がいいという話でしたね。
そうですね、割と大きな主張かな。
一応、本の話を軽く続けておくと、知識と思考、ナレッジと想像、シンク化の関係性も一応論じられていて。
さっき言った生の知識とか、半分生きてない知識、過去の知識っていうのも覚えとけば有効ではあるけど、
知識があるが故に考えることができなくなってしまう。思考力が発達しなくなるということを述べられていて。
つまり、自分が知っていることだと思って当てはめてしまって、それ以上のことを考えないということだと思いますね。
一時期、アンラーンみたいな話が出てましたけども。
知ることを重視してしまうと、ラーンばっかりで新しい状況に対応できないから、
知ることっていうのが忘れることを一回通して、ある部分忘れると。でも知っていることがあると。
この状況に対して新しく考えようっていう、知ると忘れるがセットになるから考えるができるよっていう話がされていて。
それはさっきの理解の話と通じると思うんですけど。
これもだから、両方が強いよっていう話で。
あと、アルファ読みとベータ読みっていう本の読み方、アルファとベータの2種類が、
著者はこれ結構いろんな本で書いてるんですけど。
アルファ読みっていうのは、例えば、昨日の野球の結果を共感で知るみたいな感じ。
つまり、新しい事実、自分が理解できていることが書いてあることを読むってこと。確認するっていう感じのがアルファ読みで。
ベータ読みっていうのは、つまり暇と退屈の人間が読むみたいなことですね。
つまり、わからないものを読むというチャレンジ。
で、このベータ読みには何が必要かっていうと、想像力とか洞察を生む力。
イマジネーション。つまり、わからんわけだから、これって何だろうって考える力が必要。
で、何かがわからないときに初めてそれが働くと。
で、わからないから、わからないに推測して何回も何回も読んで、初めてそのわからない状態から少しずつわかるに近づいていく。
このプロセスを重視しましょうというか、このプロセスが大切だよねって。
新しい詩を読むためには大切だよねっていうのが書かれてて。
これも近しい話というか。
知ってることが重要というよりは、知ってる状態に向かうことが重要という感じかな、この場合。
だから、全体的に本書は忘却っていうのを復興するというか、価値が落としめられてたものを再評価しようと。
それは、さっき言ったように全部を忘れるっていうことじゃなくて、覚えると忘れるがセットになって、情報に因縁をつけていくと。
で、面白いのは忘れ方にこそ個性があると著者は言うんですね。
100点満点の答案っていうのは全部一緒じゃないですか、どの答案も一緒ですけど、間違えた答案、答えられなかった答案の形、足りない部分が人それぞれの個性だと。
一冊の本を読んで、どこを注目するのかっていうのは人によって違うわけですけど、それは結局、それぞれの人が完璧な記憶を持ってないからですよね。
完璧な記憶を持ってたら全員同じように答える。だから、僕たちは何を忘れるかによって個性が出るんだと。
それはなぜかというと、その人の経験によって、これが重要、これが重要じゃないっていうのを脳が蓄えて、そのフィルターを通して、ネットワークを通して情報を受け取るから、その傑約にこそ個性があると。
だから、人間的なものっていうのはその忘却にあるんだよということで、コンピューターとの違いが最後に論じられているという感じですね。
忘れることこそが人間的、そうですね、どっちの方にもつながる話だな。
うん、同じ話で。だから忘れるっていうことを忌避したりとか、もちろん日常生活で忘れたら困ることはあるんですけど、
それは、それを重視しすぎると脳の本来の機能をマイナス評価してしまう。機械を基準にして人間の脳を測るようなことになってしまうので、
これは2冊の本と共に言えることですけど、もうちょっと人間の脳を軸にした評価軸っていうのをちゃんと持っておいた方がいいんかなっていうのが思う。
全然別件の話ですけど、別件じゃないかな。僕がやっている執筆術なんですけど、バザール執筆法というのがあるんですけども、
これ忘れる執筆法なんですね。一回原稿を書いて、その原稿と同じテーマでもう一回書き直すという方法なんですけど、
見事にね、この忘却が働くんですね。これ面白いことに。大体同じ内容にはならなくて、大体重要じゃない部分は2回目の原稿で消え落ちるんですね。
この評価の部分を忘れてるから。思いついた時ってどれも面白く思えるんですよね。そのアイディア、書こうと思ったアイディアどれも面白く思えるんですけど、
一回原稿を書いて時間を置いてから書き直すと、やっぱりそこで強弱とか陰影がついてくるんですよ。データを利用するとか記録を重視すると、
つまりそこにはファースト原稿があんねんから、それを手を入れてセカンド原稿にしたらいいじゃないですかってなりがちなんですけど、やっぱりその2つの仮定が違うんですよね。
もちろんどちらがいいか悪いかはわからないですけど、自分にとって重要なものがくっきり残る方は後者、僕の方のやり方であって、前者だとどうしても捨てきれないんですね、原稿が書いてあると。
なんかこう、重要そうかなと思って残してしまう。それは結局デジタルノートツールで情報を集めすぎてしまうのと、たぶん似た感じのことが起こってんのかなと。
だから知的生産と忘却っていうのをどう組み合わせるかの一例がバザール執筆法なんですけど、たぶんノートの方法とか情報接種の方法についても、
この忘却の作用っていうのを念頭において進めていこうということは、現代的に提案できるんではないかなと思った次第でございます。
そこもやっぱあれですね、書いてみてわかるというか、ノートを集めているときは全部重要な気がするので、ワンテーマで書いてみようとしてみると、あれ、これはいらんなっていうことに気がつけるかもしれない。
少なくともこっちの方が重要だなということに気がつけるかもしれない。
重要度の陰影がつくようになればたぶんそれでよくて、やっぱそれを無自覚で集めているだけやと、脳は結局価値判断をする機関というか、記憶を蓄えているのは、生存のために必要やからそうするわけじゃなくて、
情報を保存しようとするわけではないんですよね。だから改変とかするわけですよ。
覚えるとは価値判断の基準を増やすこと?
価値判断の結果がそこに残っていること。つまり狼っぽいものを見たら逃げろっていう行動のために、役立つためにやってるんであって、狼博士になろうとしてるわけではないという点が。
根本はそうですね。
という点はちょっと覚えておきたいなと。もちろん大袴博士を目指すのもいいんですけど、頭の創造性っていうところを考えたところで、忘れることっていうこと。
記憶が変わったりとか書き変わったりとかする、重要度を与えるっていうことそのものは全然悪いことじゃないし、それこそが脳の役割なんで。
第2の脳やったら、重要度の因縁をサポートしてくれるツールがあったらそれは多分セカンドなブレインだなとは個人的に思いますが。
自分のセカンドのブレインのイメージは、やっぱり用語としては補助ツールにはなるんですよね。
メモリが足りない、そうだな、足りないメモリと足りないリマインドをしてくれるツールか。
だからそれ、脳とじゃないよね結局。じゃあ脳じゃないよね。脳じゃないツールね。
おだしょー 全くモテのブレインだから、やっぱり使うけどたまにそういう用語を。感覚としてはやっぱりブレインではないですね。
僕のすべ脳にも書いたけど、脳と脳とっていうのは違う役割やから初めて補完する関係にあるんであって、同じ役割を担ってるんでは何の補完にもならないわけですから。
だからああいう言い方はそこを間違った方向に誘導するんじゃないかなと思っているのが常々僕が挙げてる懸念で。
究極どうでもいいと言ったらどうでもいい話なんですけど、人がその行為で何を求めてるのかとかどういう方向に行ってほしいのかっていうことを決定するので、今回はわざわざ題材に挙げさせていただきました。
だいたいこんなとこですね。
間違える脳に出てきた話で、個人的に非常に面白かったなと思ったのが、熟達すると血流が少なくなるっていう話。
そこが非常に示唆深いというか考えさせられたというか、一番想像していなかったというのかな。
たぶん脳トレの文脈で出てきた話なんですけど、脳トレをすると血流が増えるから頭が良くなってるみたいな話だけど、実は人間は熟達すると血流はむしろ減るんだっていう話が出てきて。
でもそうなんですよね、結局熟達するとほぼ無意識で行動するんで、脳ってほとんど動いてないんですね。ある部分が発火したらもうそのままスルスルーといってしまうから。
慣れてない時、今学習している時が血流が増えるんですよね。
いろんな精度が上がるから余分な血を流さなくても同じような行動、動きができるようになる。
同時にそうなると他のことをする余地がなくなる。悪い意味で間違える余地がなくなるんだなっていうことも思って。
しさ深い、悩ましい、熟達が100%良いことだけとは限らないなっていう感じがします。
熟達は効率側ですかね。だからアンランが言われるのもそこなんですね、結局だからね。
考えずに最短経路でやってしまうからですよね。
これさっき話したんだけど、最初血流が増えて後々減るっていうのは、最初ノートに情報を増やしすぎて後で減らすっていうのがメタファーですよね、これきっと。
そういうふうに、それも本に書いた話なんですけど、最初は読書メモなんてめっちゃ多いんですよね。
多いと思う。多くて、そこから削るという過程を通して始めて、自分の中での重要度が分かるっていうことかもしれないね。
ただ最初は多くないといかんと思っていて、同時に。
いらないものを見極めるためには、いらないものが残っていないといけない。
それは言えると思う。だからそういう観点やね。増やしましょうの後にちょっと減らしましょうがあれば、多分サイクルとしては正常な気がする。
数をこなさないとできないことはやっぱり絶対にあるので。
それはもちろんある。
例えば本を読むにしたって、最初期はたくさん読むしかないんですよね、きっと。
まさにあれですね、積読から採読へ変わっていくようにっていうのと一緒なのかな。
だからレベルアップっていうのは先継なものじゃなくて、矢印の方向がどっかで変わるんだよね、きっと。
逆向くかもしれない時には。だから初心者はこれしなきゃいけないけど、中級者はそればっかりしてたらダメで、むしろ逆向きの武器取るのことをしようっていうような成長の段階に合わせた方針の変更みたいなことが多分必要なんでしょう、きっと。
熟達に合わせてスランプ、私たちはどう学んでいるか。
いろんなことを試行錯誤した上で次の段階に至って、そのためには停滞期がやはり必ず存在していて、でもそれは次のステップに向かおうとしているから停滞しているのであって、同じことを繰り返していてはダメだという言い方にもなるのかな。
どっかの段階でやり方を複数のやり方をやる。で、その複数のやり方は初めは絶対にうまくいかないけども、そうすることによって新しいランクに至れるっていう。だからやっぱりその先継的な成長モデルが多分嘘というか、あの単純なしすぎてるのはあるね。
だから何かの本に書いてあったことがどれだけ素晴らしくてもずっとそれが通用するわけではないってことでもありますよね。
だからそういう意味での暗記は良くないよね。
そうですね。少なくとも日本の暗記というイメージはそういうものになるからね。
だからそういう漢字の暗記からアルファベットの暗記へという言い方をしてもいいけど、ある知識が使えるということはある部分忘れるという、抽象化できるということなので、その点は現代的な21世紀の知的生産ではちょっと外せないポイントになるかなと思いますね。
そうですね。俺がイメージする暗記の話でいうとやっぱりマッスルメモリーに持っていくためのもの。
はいはいはい。確かに。
で、実はマッスルメモリーに持っていくためには理解がしないと暗記ができない。
確かに。
というか理解できる、両方だな。やっぱり理解しつつ暗記するんだな。両方な気がするな。
マッスルメモリー。だからこういう状況になったらこういうみたいな反射的なレベルに行こうと思ったらマッスルメモリーが絶対必要だし。
でもそれはさっき言った効率化の極みみたいなところで脱線ができない。別の方向に行きにくくなってしまうわけだから。
だから超最小単位にしないといけないんですよ。やっぱりマッスルメモリーに持っていくところは。
だから知識を使うとか想像するっていうのはそのレイヤーがもう1個か2個ぐらい上のところやからね、きっと。
もっと遥かに上なんじゃないかな。それを使うになると。
そこを暗記しようとしたらあかんってことだよね。要するにその上のレベルを。
そうですね。なぜ明治維新が起こったのかは暗記できない。何年に大正奉還が起こったかは暗記できる。
その場合に大正奉還に大きく関与した人物なら暗記できるけれども、その人が何をしたかはやっぱり暗記はできないっていうその難しさ。