面白かった本について語るPodcast、ブックカタリスト。
今回は『労働の思想史』について語りました。
前回の『戦争の思想史』に続く、思想史シリーズの第2回。(全3回予定)
今回は「戦争」に比べて歴史だけの要素は少なかったんですが、逆に自分は「歴史」中心に読んでいて、それを面白く感じた、というのは中々に面白い体験でした。
たぶん自分は、世間の平均から見て、労働というものをかなり低く見積もっていると思ってるんですが、この本を読んで改めて自分の特性に自信を持つことができた気がします。
きつい仕事をしている人が偉いとか、そもそも働かないやつは怠けているとか、そういうのは全部歴史によって育まれてきた「今の価値観」でしかない。
働くことを過剰に「上に見てしまう」傾向に歯止めをかけるためにも、こういう本をもっと広めねばならん、ということを感じました。
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感想
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サマリー
今回は『労働の思想史――哲学者は働くことをどう考えてきたのか』をもとに、労働観の歴史的な変化をたどる。古代ギリシャでは労働は奴隷が担う卑しい行為とされていたが、キリスト教の修道院では苦しい肉体労働が神に近づく修行として重視され、道具の改良や時間規律にもつながった。宗教改革とプロテスタントの予定説によって、勤勉に働くことが救済の証明とみなされ、労働しないことを不道徳とする価値観や自己責任論が形成された。
労働観を歴史から相対化する
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 今回は148回、労働の思想詞、哲学者は働くことをどう考えてきたのか、について語りたいと思います。
思想詞シリーズの第2回ということですね。
そうですね、それであってるかな?
たまたまというか、テーマとして非常に掘り下げ方が個人的に興味深いなと思って、いわゆる哲学の歴史の本というのは、もう探せばおそらく腐るほどあるのではないかと思うんですけども、
ある観点のみに切り取った哲学の歴史という言い方でいいのかな、というのは案外珍しい気がする。
なるほど。
そしてそれを集中的に読んでみると、案外いろんなことが見つかるかもしれない。
労働とは何かとかってまさに哲学的な問いですけど、それを考えるヒントとかきっかけが得られそうな気がする?
そうですね、それが今既存の3冊でいうと、戦争、労働、技術、全部同じようなことを3回繰り返せば、そういう意味でもいろいろ知識が増えるというか、見解が広がるというのかな。
立体的な感じになるだろうなという予感はありますね。
前回の戦争の思想史はめちゃくちゃ雑なことを言うと、前半、歴史あったやん、ただのっていうイメージだったんですけども、
労働の思想史はもうちょっといい意味でわかりやすいというか、知ってる人からしたらもちろん大したことではないという前提はあるんですけど、
我々がイメージする労働というものは、思想を組み合わせた歴史によって作られたものであって、
所詮現代の価値観なんて大した歴史がないんだよっていうことがわかるだけでも、かなり人生全体の救いになるというか。
今、僕たちが持っている労働感というのを相対化、設置してくれるような効果がある。
すごくそう思いました。
もともと、俺は多分平均から見て労働というものを低く見積もる傾向があると思うんですけど、
それは別に、前時代の中の平均から見て低く見積もっているわけではなく、現代人の中で低く見積もる傾向があるだけで、
少なくとも、古代はこうやったんや、中世はこうやったんやって言えば、俺は変ではないと言えるかもしれないし、
そういうふうに、あくまでもこれも前回と同じく、いわゆる西洋の労働に対する思想で、
そうじゃない地域のものは基本的には出てこないという前提にはなるんですけど、
要するにギリシャとローマ帝国からヨーロッパまでの、みたいな流れにはなってくるんですけど、
もともと、当然日本とか中国は入っているわけね。
そうですね、という感じで、現代なんかで言うと世界全体ではもちろんあると言えるけれども、
あくまでも大雑把に言うと、西洋人が学ぶ労働の思想史であるという前提は差し引かないといけないんですけど、
それでも個人的には学べることは多いかなというイメージです。
非常に全体で言うと、旧石器時代の話から始まり、新石器時代の話が出てきて、
古代から近代から古代、中世、近代、現代という感じで大きく流れが出てきて、
自分の個人的なイメージとしてはやっぱり面白かったのが誰がっていうよりは、
なんとなくこういう価値観があっていうのが、言ってみたら歴史に近いかもしれないんですけど、
その辺の観点というのが個人的に面白かったかなという感じで、
そういう観点でまとめてみようかなと思っています。
特定の思想家、哲学家がこういうことを考えていたという部分的というか断片的なものじゃなくて、
その思想感が変転していた流れみたいなのが面白かったという。
そうですね、だからそういう意味で言うとまた歴史の話になってくるという言い方もできるんだけど。
でも自分がそう読んだという感じで言えるので、
多くの方が多分この辺はご存知かと思うんですけど、
古代ギリシャの労働観と奴隷制
まず古代、要するにギリシャの時代の話を主体にするんですけど、
その頃っていうのはすごく雑なことを言うと、
労働というのは何て言うんだろうな、癒やしいものだったみたいな。
奴隷がするイメージですよね。
そうですね、奴隷がするもので、
労働というものは何て言うんだろうな、
そのイメージとして大の大人が、立派な大人がすることじゃないぐらいの言い方?
逆に言うと立派な大人は別にすることがあるんだということですよね。
そうですね、市民活動というものが尊いもので、
労働というものは奴隷がやるもので、
自分が想像した話で言うと、
俺たちが子供の頃、ゲームなんて子供がするもので、
立派な大人がやるものじゃないみたいな価値観、イメージがあったと思うんですけど、
ひょっとしたらそういうところに近いようなレベルで、
労働というものが下げすまれていたんじゃないか、
みたいな印象を受けたりして、
基本的に結局奴隷というシステムに頼っていたことで、
労働から解き放たれているという非常に限られた環境でしかないというところではあるんですけども、
そこら辺がまず一番最初の原点としての労働感。
だからある種、労働とは何かというのも深く考えないというか、
大人のすることじゃないとして低く扱われていた時代があったということですね。
逆に市民活動が立派だって考えると、今の話で言うと、
例えば町内会の活動に参加することは非常に価値があることだと言われていたと言えるんですよね。
だから古代ギリシャのポリスの市民会議みたいなものが、
現代の町内会活動に操縦するというイメージか。
さらにこれは悲観的なものの見方なんですけど、
俺たちだから奴隷やんっていう、
そういうような見方もできてしまって、
それが正しいとかうんうんではないんですけど、
我々古代の奴隷と同程度のことしかやれていなくて、
本来当時想定していた市民がすべきことをやれていない、
本当に奴隷的な行動をしてしまっているという見方もできるかもしれない。
もちろん全然時代が違うので、
根本的に考えていることは違うとは思うんですけど、
そういう労働感というのは割と結構長いこと続いていたみたいで、
そこからローマ帝国飛ばしつつ、
修道院が変えた労働と技術
ローマ帝国からキリスト教が国の宗教になっていって、
そこから労働のイメージが変わっていくっていうのが、
個人的に知っている人からしたら当たり前かもしれないけれども、
非常に面白かった流れになってくるんですけど、
キリスト教を極めていくと、
極めようとした人たちというのの代表格が修道院と呼ばれるもの。
修道院でその神の教えを実践する、身をもって学んでいくために、
いろんな厳しい戒律を守って、
厳しい戒律を守って、より正しい神の教えを導いて、
自分自身だったり周りの人々だったりを導いていかないといけない。
そうすると、非常にだんだん道を極めようとすると、
マゾヒスティックな人たちというか、やることを可能な限り、
ブッダが修行したのと同じように、
きつくて嫌だと思われることをやることが、
素晴らしいんだ、みたいな価値観が生まれてくる。
そこで選ばれたのが、老道だった。
だから、古代ギリシャの価値観を引き受けつつも、
そこに神への道を見出した。
そう、すごく盗作的で面白いと思うんですよね。
癒やしくてみんながやらないという、
きつくて厳しいことをやることによって、
その修行としての価値が出てくる。
それが神へ近づく一歩だ、みたいなニュアンスで、
その肉体労働を積極的に行って、
それをすることで、神の道に近づいていって、
さらに面白いことに、
こういうことをすると、
当時の他の人たちが、
労働をあまり従わないが故に、
お金が稼げてしまう。
まあ、そうでしょうね。
でも修道院って、お金を稼ぐことなんて言ってみたら、
それもやっぱり癒やしいことなんですよ。
確かに。
何回も何回も、そういう流れを繰り返していたみたいなんですよね。
神の教えに従うために、
きつくて辛いことをやらないといけないから、
積極的に変秘な場所に行って、
変秘な場所できつい労働を繰り返して、
そこで例えば森林伐採して畑耕して、
みたいなことをやっていたりとか、
そういうことを繰り返して真面目に働いてしまうと、
真面目に働いたが故にお金がちょっと儲かるようになってしまって、
そうするとまた修道院の人たちは、
そんな金にまみれるなんて許せんとか言って、
もう一回リセットしてゼロからやり直そうとするんだけど、
真面目に働けば働くほど、
またこれがお金を稼ぐことを生んでしまって、
っていうことで無限じゃないかな、
そういうサイクルが繰り返されてきた。
結局そういうきついことがちょっとずつなんだけど、
多分これを繰り返すことで、
だんだん価値観が変わってきていくというのかな。
ここから結局近代の話で言うと、
この後から思想家みたいな人たちが大雑把に言うと、
やっぱ労働を正当化する、新生化する、
みたいな考えがだんだん増えてくるんですけど、
おそらくこの頃まではとにかくひたすらに、
労働というものはやっぱ誰もやりたくないし、
やろうと思わないし、
なんならだからやっぱ労働という行為は、
多分癒やしい行為だったっていう感じではあると思うんですよね。
ここでその時代の労働というのは具体的にどういう作業をするの?
田畑を耕すとか、
基本的には農業しかなかったというイメージかな。
イメージなんですけど、確かに修道院って森の中にあったりとか、
断崖絶壁の端っこに建ってるとか、
生活するのが厳しそうな場所に作ってるんですよね。
イメージですけどね、あくまでもちゃんとした根拠があるわけじゃないけど、
それも意識的に選ばれているような感じがある。
そういう不便な場所で、
神についてのみ専念するために過ごさないといけなくて、
でもみんなが一生懸命働くから相対的にちょっと儲かっちゃって、
あと道具なんかもそれと同時にっていうか、
割と神聖なものとして扱われがちだったみたいで、
労働の道具すらなんならやっぱ神聖なものだったりだとか、
結局神に使えるために使うものであるっていう考え方から、
道具の神聖性みたいなものが出てきたりだとか、
あとは例えば水車みたいなものっていうのも修道院で生まれてるみたいなんですよね。
道具というものを重視するようになったがゆえに、
道具を工夫することを考えるようになったりとか、
大事に扱うということは相対的に道具というものの価値が上がってきて、
そこを改良とか改善する動機にもおそらくなってきている。
ということはその時代の教会というか修道院が、
現代の労働のエンジンだったような気がするね。
そうなんですよ。
おそらくこの頃の価値観というものが一回ひっくり返って、
これこそが素晴らしいものだっていうのが、
たぶん現代までずっと全部続いている。
その後の思想家たちはそれを全部正当化する話をしているっていうイメージ。
技術の思想師の話で、これは出てきた話なんですけど、
同じく古代とか中世ぐらいまで、
技術というものも労働に近いイメージで過当なものとして見られていた。
その技術者っていうのは奴隷か奴隷に準ずる者たちがやることで、
道具を作ったりするような人も下に見られるみたいなんですよね。
そういう観点から見ても、おそらく転換点はここにあって、
道具を作るという行為が神に捧げるものを作るみたいなニュアンスと近づいてきて、
少しずつ経緯が上がっていって、
この頃からちょっとずつ逆説的な話なんですけど、
仕事がきつければ、きつい仕事してる奴ほど偉いみたいな。
価値観っていうのもここからちょっとずつ生まれてくるっていうのかな。
ニーチェが一番攻撃しそうな。
それをニーチェが否定することで、
一回ひっくり返ったとかだから、
例えばニーチェの凄さとかって、俺あんま分からなかったんですけど、
これが超絶当たり前の世界に生きている中で、
あれだけひねくれたことを言っていたっていうのがやっぱすごいんだろうなっていう。
やっぱり西洋の歴史だったり価値観みたいなものが分かっていることで、
相対的にさっき言ったような、同じ人物に対する理解みたいなことも深まってくるような気がしました。
このきついことほど美しいが、たぶん現代の日じゃないですからね。
その想像で言えば。
まあそうでしょうね。確かに。
それが想像できないぐらいすごいだろうなっていうぐらいまでの想像しかできないけれども、
現代ですら、なんて言うんだろう。
例えばなんですけど、いわゆる金融みたいな職業とかを下に見るような人だとか、
農業労働者は偉いとか、きつい労働をしている人はというか、
大変な仕事をしている人は偉いみたいなイメージか。
みたいなものはあったりするけれども、たぶんそんな日じゃなくて、
そういう世界観がものすごく当たり前だったっていう感じか。
非常に一番上の、本来であればイメージ的には一番上の人たちが一番下な行動をしていたっていうのを
美しいと思っていたっていうこの頃の人たちの変な価値観っていうのか。
なるほど。
っていうのがおそらく変わってくる大きなきっかけって、
これは歴史の話とかでもよく出てくるんですけど、
十字軍の遠征。
その十字軍の遠征が始まってから、
西洋社会がイスラム文化と必然的に出会うことになって、
その後向こうのイスラム文化圏にはなぜかギリシャのプラトン・ソクラテスあたりの書いた本とかがいっぱいあって、
それを読んだらなんかめっちゃすげーみたいな話になって、
ちょっとずつ世界の交わりが増えていって、
そこから近代的なものに変わっていくみたいなのが、
少しずつ変化していく流れみたいな感じにはなってくるんですけども、
宗教改革と勤勉の道徳化
そこからちょっとずつ近代ぐらい、いわゆる宗教革命とかその辺の話になってくる。
中世までの話で言うと、さっきの話で言う労働は苦痛なことだから素晴らしいみたいな言い方がされていた。
そこに例えばアダム・スミスが出てきて経済みたいな言葉が入ってくるとか、
宗教改革によってその宗教というものの価値観が変わってきたりだとか、
さらにその後にホープズとかカントとかその辺の人たちが、
労働ってなんなんやろうみたいなことを考え始めて、
そこからすごくイメージが変わっていくというのかな、労働というものの。
労働感がその思想化によって変わっていく。
それはだからどう変わっていくか。
いろんな社会の影響があって、まず一つはルター・カルバンの頃のプロテスタントとかっていうものが始まって、
キリスト教の世界観が変わってきたっていうのがまず一つ影響があるみたいで、
言ってみれば信じればあなたは救われるって言われてたのが、そうじゃなくなってきてしまった。
すごく雑な宗教感ですけど、中世までは教会の言うこと聞いとりゃあなたは天国に行けますよだったんですよ。
プロテスタントって結構考え方が変わってきて、難しい話はいっぱいあるんですけども、
すごく雑なことを言うと、自力で神の救いを得るようにしないといけないとなってくる。
結構個人主義っぽい日々ですね。
そこもそうですね。おそらく個人主義の始まりはこの時代なんじゃないかっていうぐらい、
そこから自らの力で救済を獲得しなければならないとか、
もう一個宗教の変化で大きいのが、すごく変な価値観なんですけど、
プロテスタントって、カルバンが言ってたことかな。
救われるものと救われないものっていうのは、生まれた瞬間から決まっていて、
何をしても変わらないっていう、すごく変な価値観で言われているくせに、
でもみんなはそんなことを信じたくないから、俺は救われるものだって思い込みたい。
俺は救われるものだっていうことは、
救われるものというのは素晴らしい行動をしているものであるはずで、
俺は素晴らしい行動をしていないといけなくって、
つまり俺は真面目に働いていないと素晴らしい行動をしているとは言えなくって、
結局真面目に働くことこそが、素晴らしいものであることの証明になるから、
俺は多分天国に行けるっていう、予定説を無理やり解釈して、
そういう価値観が生まれてくるというのか。
自分が予定説のリストに載っていることを証明するために、
真面目に頑張って働くという宗教観が生まれたってことだよね。
どう考えてもおかしいんですよね、言ってることは。
確かに。
だって初めから決まってるって言ってるのに、
初めから決まってないと思い込みたいが故に、
自分は選ばれた人間だっていう風な理由を言いたいというのか。
っていうような価値観が現れてくることで、
これまではただの、さっき言った苦痛で修行のための労働だったものが、
少しずつ神に選ばれたものというものは、
勤勉に労働するものだみたいな価値観にちょっとずつ変化してくる。
はい。
っていうところから少しずつ変化が起こっていくというか、
個人的にはルター・カルバンとかって宗教の人だと思っていたんですけど、
そうやって考えるとやっぱ思想家なんですよね、かなり。
当たり前なんだけど。
ものすごく当時の人々の宗教を変えることで、
結局西洋においての価値観とか思想みたいなものを
根本的に大きく変えていくような流れになっていくというのか。
まあそれは当然で、神とは何かという定義が変わると、
神と自分の関係性が変わり、
それはこの世界がどうであるとか生き方が変わっていくわけで、
そこは宗教と思想をバサッと切ることはできないでしょうね、きっと。
イメージなんですけど、自分が思っていたよりやっぱり相当、
そういう影響というものが、何なら当たり前なんだけど、
いわゆる思想家が考えたことよりも宗教家が言ってきたことの方が、
人々に対する影響みたいなものはでかいんだろうなというのも、
この辺の話でちょっと実感したと言えるのかな。
2026年に生きている僕たちがイメージする宗教と、
この時代のヨーロッパの宗教は多分重みが全く違いますよね、きっと。
そうですね。価値観の前提が宗教にあるわけで、
その価値観の前提が宗教にあるという価値観が、やっぱり想像しづらいですよね。
確かに。
よく生きるとかそういう次元ですらないというのか、
それを疑うことなんて、想像もできないということを想像するのが難しいというか、
そういう感じで少しずつそうやって変わっていって、
ここから結局いろんな人たちがちょっとずつ、
なので働くことが申請されていくと同時に、
この頃からいわゆるお金を稼ぐことというものも、
ちょっとずつ正当化されていったりだとか、
あとさっきの神の救いみたいな話が、
ものすごく自分の価値観からしたら良くないことなんですけど、
弱者を助けることをしないということを正当化する理屈にもなっていく。
なるほど。
貧乏で困っているやつを助けてあげても、
その人は何て言うんだろう、
そんなことをしても神に救われはしないみたいな理論というのか。
予定されてるからね、誰が救われるかは。
お金がなくて困っている人を助けるのが、
おそらく最初のキリスト教では、何なら一番大事なことだったはずなんですよ。
そりゃそうやと思います。
それがちょっとずつ働くことが貴重であるということは、
見方の一つとして、
あいつらは神に言われた一番大事なことをやっていないみたいな言い方をされるようになってくる。
なるほど。
だとか、本来の神から与えられた大事なことをやっていないやつを助けてあげても、
そいつは怠けるだけだみたいな言い訳、考え方だとか、
そういうことが言われるようになって、
その隣人愛みたいな概念というものが結局、
なんて言うんだろう、しなくてもいいというか、
それは間違っているは言い過ぎなんだけど、
働いていることこそが重要であって、
神、金を持っていないことを助けるが重要で、
貧乏で困っている人を助けるということが、
やらなくていいことになっていくというのか。
美徳のリストからは外れているという感じがしますね。
だって、そもそも、
労働して自分が救われる側にいることを証明するという行為に、
隣人愛の理の字もないですからね。
ここら辺がやっぱり、非常に恐ろしい。
結局、言ってみたらここら辺からが、
自己責任論からのアメリカ社会的な文化が生み出されていく、
元になっていくんだろうな、みたいなことをすごく感じたし、
逆説的な話でいくと、
例えば、タイとかミャンマーとか、
あの辺のジョーザブ仏教とかの世界観だと、
まだその真逆の価値観がすごく残っているんですよね。
多分、日本の仏教もそうですし、
キリスト教以外は結構あるんじゃない?
貧しい人を助けましょうというのが美徳に普通に残っている気がするけどね。
イスラムも未だにそうですよね。
キリスト教を自分も深く知るわけではないので、
あくまでも本に書いてあったことをベースにした話ではあるんですけれども、
やっぱりこの辺から、
今の良くない社会の元みたいなものができているというのはすごく感じたかな。
宗教改革というのは、
腐敗した教会制度を打倒するということが目的だったわけじゃないですか。
だから、教会はダメだ、個人だっていう風になった、
その理論が多分飛躍してたんでしょうね、きっと。
そうですね。
ちなみにルターとかの話を見る限りなんですけど、
ルターとかは全然そんな気はなかったっぽいんですよね。
なるほど。
ルターさんはただ聖書を読んだら、
こんなこと書いてないけどどこに書いてあるのっていうのを、
教会の人たちに真面目に聞いてみたいと思ったら、
めちゃめちゃ政治的に利用されまくってしまって、
本人そんなつもりじゃないのに、超強烈な見越しにされてしまった。
なるほど。
だから、結局誰ではないみたいな言い方もやっぱりできるんですよね。
当時の社会事情からして、都合がよく利用されてしまって、
確かカルバンはもうちょっと革命的までは言わんけど、
そういう活動をしていたっぽいんですけど、
みんながみんなそういうわけではない。
なるほど。
その象徴っていうのが、風光の狂気の歴史とかで言われていた、
都合の悪いやつらとかを全部閉じ込めておいて、
なかったことにしとこうみたいなやつ。
土地を割れた農民だとか、失業者っていうのは、
感覚として困っている人じゃなくて、怠けている人なんですよね。
その仕事ができないという概念が多分なかった。
なるほど。
仕事がなくて働き口がないから仕事をしていないだとか、
やむを得ない事情っていうのが、やっぱり一人一人聞いてたらみんな違うので、
そんなものを処理しきれないみたいなことはすごくよくわかるし、
そういう、おそらくなんですけど、
現代でいうニートに対する目線みたいなものも、
現代の日ではないようなもので見られていたんだろうなとも思うし。
労働を美読とすればするほど働けない人が下に見られるというのは、
必然の構造ですよね。
だからやっぱり、それは俺の価値観で言うと、
働くものはもっと下に見ないといけないと思うんですよね。
働くというのは。
なるほど。
その辺りが中世から近代に関して変わっていく、
ところで、これができたことによって、
ここから宗教改革が始まっていくことで、
やっぱり労働というものが実質的に道徳的な行為であるとされて、
労働しないことは不道徳であるみたいな。
結局そうやって考えると、やっぱりこれが資本主義を生んだんだろうなっていうことは、
すごく納得というか、想像ができるような気がするし。
その辺って、例えば前回の話とちょっと関係するけど、
国家っていうのは、まだ枠組みがそんなに破棄してないタイミングかな?
基本的に自分のイメージなんですけど、
俺たちがイメージする国家って、やっぱりフランス革命以降にしかないんじゃないかなって。
労働を要請する国家みたいなのがあったわけではないということなんだなということは。
おそらくそうではない。
労働は国家が規定しているという次元の話ではなくて、
イメージとしては、やっぱり宗教の名の下に、
多分あいつは働いてないダメな奴だっていう。
やっぱり町内会で言われるみたいなイメージなんだと思う。
なるほど。
で、その頃から結局なので、
五体満足でないことすら不道徳だと多分見られていたっぽいんですよね。
その時代で言えば。
そこから少しずつ、産業革命の話にちょっとずつ飛んでいくんですけども、
産業革命の都合とかで、
結局、規則正しく動けるみたいなことに価値観があったりだとか、
工場労働に向いた人ってことだよね。
あとあれですね、ちょっと話すのを忘れてたんだけど、
時計とかも修道院の時代に生まれた道具っぽいんですよね。
そうでしょうね、きっとね。
あの頃に鐘を鳴らすとか、
同じ時間に軌道行為を行うっていうのが、
労働に関することと非常に組み合わせて都合が良くて、
時間通りに皆が動くとか、
神の教えをきちんと守るためには、
規則正しい時間に規則正しいことをするというのが美徳とされていて、
そこから現代の産業主義の原点すらも、
その修道院にあったという言い方ができる。
なるほど。
結局、かなり偏見が入った話なんですけど、
何かを極めようとすると、やっぱり変な方向に進んでしまうんだなっていう。
はい、なるほどね。
そこが結果的にやっぱり西洋が他の文明より、
文明を兵器だとか、そういうものに対して優れていた、
元にはなっているとは思うんですけども。
はい。
この辺のことはあれですね、
風光とかが色々と上手に整理して批判したことで、
風光すげえなっていうのとかも出てきたりするイメージかな。
経済学と資本主義の形成
で、そこからちょっとずつ近代に入ってきて、
近代のこの労働っていうか、
いわゆる価値観がちょっとずつ変化していく。
この頃から思想家の名前とかが、
わりと強めには出てきたりするんですけども、
現代でいうと、例えばGDPみたいなものっていうのが、
お金っていうか国家がどれだけすごい、
いい感じにいっているかの数字というのか。
っていうので、例えば他のシリーズの、
名前忘れちゃった。
青色の本なんですけど、
ヒューマンなんとかみたいなやつ。
とかでGDPなんてもはや古いパラメーターだよね、
みたいなことを言っている人が出てきたりするんですけど、
この頃からそういういわゆる経済という概念が
少しずつ立ち上がってきて、
一番最初に出てきた概念っていうのが、
重商主義とか重農主義と呼ばれるやつ。
重いという感じ使いですね。
そうですね。重い商業の主義とか重い農業の主義っていうので、
これもやっぱ経済というものが、
いかに後から考えられた学問なのかなっていうことを、
すごく表す象徴的なものだと思うんですけども、
現代だといわゆる国民総生産と言われるGDPというものっていうのが、
国がどれだけ豊かであるかっていう象徴だっていう言われ方をしているんだけれども、
それは所詮何て言うんだろう、
今のところこれだったらいいんじゃねえって思われているだけの数字で、
全然そうではないと。
例えばその重商主義と言われるものは、
貿易黒字であるかどうか、
だけが大事で、
そうじゃないものは何の価値も生まんというか、
貿易黒字を出すことということイコール国家が強くなることだっていうので、
その関税をめちゃくちゃ強くしようだとか、
輸入を極力しないようにしようだとか、
あともう少し長い目で見れば、
おそらく植民地を獲得しようみたいな概念にも繋がっていくような考え方だと思うし、
他にもフランスとかでは重農主義みたいなやつで、
大雑把に言うと農業しかお金を生まんくって、
他のことなんてただのお化けでしかねえみたいな考え方もあったりした。
これもやっぱり現代の経済みたいなのが当たり前に感じてしまっていると、
何て言うんだろう、多分価値観として想像ができない、
確かに。
みたいなものとかっていうのが生まれてきて、
その頃からやっぱり、
労働とは何なのかっていうものが、
おそらく思想家の中でもちょっとずつ考えられていくようになっていく。
忘れちゃった。
だからここからの労働が経済活動と関わってきて、
さっきなかった国家っていう枠組みと経済っていう枠組みと労働っていうのが
混じり合っていくような時代なんかなというのをちょっと聞いてて感じました。
そうですね、おそらくそこら辺ですね。
一般的にやっぱりアダム・スミスが経済学の父であるという言われ方をしているので、
その頃まではやっぱり経済という概念は少なくとも存在していなかった。
つまりトータルで見た時の経済活動という認識はなくて、
個別の売買とか雇わないみたいなのがあったということなのかな。
お金を稼ぐとか、なのでやっぱりこれも難しい話なんですけど、
その概念がない時代のことを想像しづらいんですよね。
確かに。
そもそも経済という言葉が文明改革の時に、
慶国左衛民から取った造語ですよね。
現代社会でいうと。
なので多分漢字だけを見ても正しいニュアンスみたいなものって日本語では想像しづらいし。
この漢字二文字では何のイメージもニュアンスも伝わってこないね。
経て済むですからね。
どういうことなんやろうっていう。
っていう意味でやっぱその経済、そもそも考えてみると経済って何ですかって言われて、
俺例えば小学生の子に説明できないと思うんですよね。
なるほどね。確かに。
経済って何ですかって言ったらお金を稼ぐことではないじゃないですか。
お金を稼ぐことではないですね。
お金をどう使うことでもないじゃないですか。
お金を回すこととは言えるけど、
お金が回っている状態のことを経済と呼ぶということは言えると思うけど。
回っているって何ですかって聞かれるとまた難しくなってくるじゃないですか。
説明はできるけど、
どう説明してもたぶん子供にピンポイントで認識させるのは難しいですよね。
自分もそのくらい経済というものがよく分かっていないものだし、
人類がそもそも経済というものが歴史的には歴史が非常に浅い学問だし概念だし、
捉えることが非常に難しい概念だし。
しかも一口に経済と言っても市場経済もあれば造業みたいなものもあって、
経済と呼べるものの多様性もあるけど、
僕たちは大体単一の経済体しか生きていないから相対化もしにくいという点がありますね。
直感的には分かっているんですよね。造業というものに対して。
よく言われるのがポトラッチとかでもそうなんだし、
現代社会でもそうだけど、
お世話に対してお金でお礼をするとか、
なぜかちょうど先週お葬式があったんですけど、
葬式に公伝は持っていくんだけど、
そこはよく分からないけどお金を出すことが認められていて、
そうね、確かに。
すごく不思議なんですよね。
公伝は現金で渡す、結婚式の衆議は現金で渡す、
でも基本的に現金というものは嫌われて、
親族間とかで現金を金銭を返す行為というものは、
あいつは情がない奴だみたいなことになってしまう?
誕生日プレゼントで現金渡すのはちょっとナンセンスな感じがするよね。
っていう概念が我々は持っているけど、
経済という感覚、言葉が存在しない時代は、
そういう考え方があったのかな?
でも俺、造業があるんだからあるのかな?
結婚式とかはむしろ宗教の儀式だから、葬式でも。
そこと結びついてたんでしょうね。
だから独立した経済活動、買い物をして終わりっていうものだけを捉える視点はなかっただろうけど、
経済的な活動は多分意識されてなくても行われてたと思うけど。
でもそっか、個人レベルでの金銭を返した行為というものが、
そもそも通貨がきちんと流通していたいとできない話で。
そこで初めて抽象性が生まれて、経済学の対象になり得る状態が生まれたとは言えるかもしれないね。
現金で基本的なやり取りがどこでも成立するという行為すら、
そもそも当たり前に思っていることが多分変で。
だからブツブツ交換なんて定量化しようがないからね。
だってあっちの地域のブツブツ交換とこっちの地域のブツブツ交換は多分違うルールで動いてるからね。
それをお金を返すことで便利にしましょうというのが、経済の起こりみたいなことでもあるんですよね。
確かにね。
経済とあとあれかな、おそらくアダム・スミスがすごかったんだろうなっていうのはここで思うのが、
労働というものが経済に変換できるって考えたこと。
ここがおそらく革命的というか誰も思いつかんかったすごいことで、
お金って誰が作ってるんやろうって考えたときに、
労働をして価値を付け足したことこそがお金を生むものだって初めて多分気づいたっていう言い方ができると思うんですよね。
面白いのが勝手な想像だけど、修道院の人たちが一生懸命働いて、
その修道院が意外と金を稼いでしまったっていうのは、多分当時なんでかよく分かってなかったんじゃないかって気がするんですよ。
神のご褒美みたいな。
そういうことかな。
何か説明するとしたらそういう理屈が持ち出されたと思うけどね。
経済的な観点で、価値を生み出したからお金が稼げたとか豊かになったっていう概念が多分なかったとは思うね。
そういう考え方はやっぱり普通に生活をして、現代社会で生活をしているとも気が付きようがないレベルの話というのかな。
みたいなところでも、アダム・スミスの何がすごかったのかみたいなのも、こうやって位置づけてみるとちょっとわかるような気がするなと思うし。
あとアダム・スミスの話でいうと、文業というものが非常に合理的であったという考え方をできたこと。
これは多分なんですけど、この後の産業革命とかの影響にもものすごく巨大な影響を及ぼしていて、
基本的に一人でやれば一人で何かやるというものを、自分は一個のことやっといたら案外大丈夫なんや。
みんなでやった方がうまいこといくんやっていう考え方を生んだっていうのも、多分すごく新しい概念だったんだろうなと。
そうですね。
結局、非生産的労働みたいなものがこの後問題になっていって、現代の家事労働とかの話とかっていうのは最後の方に出てきたりはするんですけども、
そこからちょっとずつ近代とかホップズの話とかジョン・ロックの話とかは出てくるんですが、
この辺は割と一般的な話だったりはするかな。
結局資本主義ではその労働が商品の価値を生み出していくっていうところから資本主義にうまいことつながっていって、
あとジョン・ロックが言っていた話とかで、所有っていうものが労働から生まれていくんだという考え方。
これすらもすごく普通なような感じはするんだけれども、
おそらくそれも誰かが言わなかったら、概念としてきちんと理解されていなかった。
誰かが何かを所有しているのは、あの人が働きをしたからそれに見合うものを得ているんだという考え方は、現代ではごく普通ですよね。
そこに同じく問題点が隠れていて、金持ちが金持ちであることは、あいつは立派に働いたからだっていう。
本人がやっていなくても、親の親が親の親の親がそうであったら、その人も立派なことになってしまうみたいな。
相続税みたいな話の流れにもなっていくし、さらにお金持っている人は平均的に政治力とかそういうものを持っているので、
そこの構造が壊れにくいみたいな問題なんかも出てきたりもするのかなっていう。
そうですね。だからそれに対して、じゃあ現場で働いていることが大切なことなんだというと、
結局さっきの問題で働けない人が働かされるという。
今度は労働が尊いことが美徳にされてしまうと働けないことっていうので、
やっぱり労働の観点一つでもそれだけいろんなことが言えるというのかな。
確かに。
あとはデビッドヒュームが言っていたので、
労働する必要があるのは実は人間だけのもので、
他の動物たちは狩りはしているけど辛い労働みたいなことはしていないみたいな話とか、
結局個人の労働ではそれがうまくいかないから社会というものが必要になったんだよっていうところで、
社会契約みたいな概念をなくしたみたいなところもデビッドヒュームがすごいところだったりもする。
ルソーの話も社会契約の話みたいなところでいろいろ出てきたりもしたりだとかするんですが、
ある意味これは一番有名なところかな。
カント、ヘーゲル、マルクスの労働論
この辺りに思想家がすごくいっぱいいて、
いろんな労働感みたいなものがこの時代に一気に整理されていって、
一気に産業社会に変化していく爆発的な基盤になったのかなみたいな印象もありますかね。
産業革命が起こりつつあった中で、
人々がやっぱり働くってどういうことなんだろうかという考えざるを得ない下地が整っていた時代なんでしょうね。
そうですね。今がこういう状況って何でなんだろうって考えたりだとか、
そういうことから少しずつ一気に変化していってみたいなところに変わっていく。
カントが出てきてヘーゲルが出てきてみたいな感じで、
カントも結局労働は辛いことなんだけど、
これを経験することでより良い状態に進歩していくというようなことを言っている。
カントっぽい。
ヘーゲルがそこをもう一段階レベルアップしたというのかな。
カントの話からさらにいって、
さらに言うとヘーゲルの場合は、これも雑な言い方ですけど、
労働はきついことで、そういうきついことをクリアすることで、
人間は人間らしく大人になっていくんだみたいなイメージ。
非常に教養主義的な発言ですね。
この観点でいうと、やっぱりこの2人が悪いんじゃないけどね。
思想の大元みたいな。
ものすごく現代の労働感を作り上げた2大巨頭が、
この2人なんだなっていうことはものすごく思い知らされる。
ヘーゲルとかは近代までの哲学を完成させたみたいなことを言われていたりするんだけど、
個人的には、いい子ちゃん哲学を完成させてはいるんだけど、
非常に自分は納得できないとか同意できないことがすごくいっぱいあるイメージがあるかな。
我慢するみたいなことが美しいみたいな話だとか、
ヘーゲルの主導論みたいな話とかっていうのも、
どうしても自分は納得できないというか、同意できないみたいな感覚はあったりして。
少なくともゴリゴさんの人生観にはそごわない。
嫌な仕事とか苦労を乗り越えて作る経験こそが、
人を本当に自由にするプロセスだと考えたみたいなニュアンス。
でもさ、そういうプロセスだけがのだけがを取ったらどう?
そういうプロセスが完成させることもあり得るという主張だったらどう?
それはだいぶ許せる。
やっぱりそれしかないというのがダメなんだね。
これこそが人を自由にするみたいな言い方をすると、
やっぱりこれを経ないといけないという言い方だと思うんですよね。
確かに。
働くことを通じて人間として成長していくということ自体は、
少しも間違っていないと思う。
そこは僕も同感ですね。確かに。
別に、ただそうじゃないと人間として成長しないと言っているように俺は聞こえる。
そう言ってると思いますよ。
そこはどうしてもすごく納得できないというか、同意できないというか、
そういう感覚がやっぱりめっちゃあるなってすげえ思いました。
この辺はやっぱりカントも素晴らしいけど、
半分ぐらいはこの人の言ってること嫌いやなっていう感じもするし。
でも一つ思うのは、そう言わないと聞いてもらえないというか、目立たないというか、
鉄の駅舎が生きるためにですよね。
エッジを尖らしてわざと言ってて、
実際に本人だったらもっとオンワというか中立的な意見であろうなとは思いますけどね。
そうですね。我々が知り得るのは残された本とか記録しかないですからね。
ある種極端なことを言うことで思考を揺さぶるみたいな哲学の方法としてあるから、
もちろんその思想が苦手というのは全然あるとしても、本人に引きつける必要はないかなという。
彼らの主義主張が私の主義主張と合わないみたいな。
そういうニュアンスですかね。
ここからはかなり現代とかそれに近いものになっていくんですけど、
当たり前にめちゃくちゃ影響力が高かったのがマルクス・エンゲルスの労働感みたいなやつ。
結局すごく雑なことを言うと、ヘーゲルからマルクスは影響を受けたとよく言われていて、
ヘーゲルの場合、働くことこそが素晴らしいことになるんだみたいなことを言っていたけれども、
マルクスはそこをもうちょっと抽象化して、まず普遍的な行動ができることがすごいことなんだよっていう話だったりだとか、
価値を生み出すというのはどういうことなのかとか、
読み終えて思ったのが抽象化の鬼みたいな人なんやなっていう印象があって、
今までいろんな言われてきたことをどれだけ概念として捉えることができるのか、
抽象化して普遍化して説明することをすることで、
その労働っていうのはどんなものなのかみたいなことを考えたっていうのがおそらくとてもすごいことで、
よくある有名なので、動物は自分にとって必要な分しか生産しなくて、
人間は普遍的に生産ができるっていう感じのことを言っていて、
これも極めて言われたら別に大したことには感じないんだけど、
こういうものを見つけられるというのは相当すごいことだなと思うんですよね。
後から聞いたときに当たり前に感じられるようなことを言えるというのはすごいことなんだよね。
そういうことなんだなっていう。
この能力こそが労働というものの普遍的価値を生み出すものだっていうところから、
やっぱその労働というものは自然に作用することでその価値を生み出していくというのか。
あとはその労働っていうのが行為そのものとか、
その労働の対象とか労働の手段っていうものを使って、
その労働っていうのはその3つの要素から成り立っているんだっていうことを伝えたりだとか、
その3つの要素というものがマルクスのとても難しい使用価値っていう概念を生み出していくんだみたいな話から、
当時のマルクスの時代で言うと、
そこからいわゆるヘーゲルが言ってた働いている生きがいみたいなやつが工場労働にはもうなくなってしまった。
ヘーゲルが言っていた疎外というものが労働においても疎外されてしまっていて、
労働というものがかつては良いものだったし、
ヘーゲルが言うには人間を人間たらしめるものだった労働というものがそのマルクスの時代になってくると、
逆に人間を人間ではないものにしてしまう位置づけのものになってしまったみたいなので、
時代と合わさってやっぱ労働というものの、
労働が価値あることだという言い方自体は変えていないのか、でもその言い方で言うと。
そうですね、価値を生むもの、価値を生むものとしてマルクスは位置づけてるね。
そうですね、もう一回整理すると、ヘーゲルは価値を生むものに加えて事故を良くするものだという言い方をしていたんだけれども、
そのマルクスの時代になってくると、いわゆる工場労働者というものが本来は価値だけでなくて、いわゆる生き甲斐という言い方になるけど、
そういうものを生み出していたはずのことがそうじゃなくなってしまっている。
なので、革命を起こして全く新しい社会を作らんといかんよね、みたいなことから、
現代でいう共産革命をそこら中に繋げていくことになっていくというのか。
マルクスは多分ものすごくとてつもなく難しいので、
労働の中で軽く位置づけるだけでもとても難しい。
本の中でも一章は全部マルクス・エンゲルスでした。
他にはそういう人はいなかったですね。
という意味で、結局一番重要レベルなんだろうなと現代社会で見れば。
近代の管理労働と労働批判
その後、フランス革命の話が始まって、ここからいろんな人たちがいろんなことを言っていて、
一個一個追っかけていくともう終わらんわっていう感じなんですけども。
結構この頃から細かい話で言うと、やっぱり面白い考え方がたくさん生まれてきているなという感じはあって。
例えばフランス革命のちょっと前にCASさんという人が、
第三身分とは何かみたいな本で、いわゆる生殖者とか貴族だけじゃなくて、
農業とか工業とか商業サービス業になる第三身分という人たちこそが、
社会を成り立たせているという概念を言葉として生み出した。
これはもろにドストレートにほとんどフランス革命につながるような思想でもあると思うし。
あとこの三志門とかは、そこをさらに農民とか職人とか工場主、商人、科学者とか、
そういう産業者みたいな言い方を考えていって、少しずつ広がっていったりだとか。
その後オーギュストコントが三志門と協力して、
科学と産業っていうのが、中世のそういう軍事的な進学とか軍事を変えていくんだみたいなことを考えていったりだとか。
この人は順番で言うと、ここからマルクスエンゲルスとかにつながっていって、
その社会革命みたいなものにつながっていくみたいな話とか。
あとまあ余談的な話で、ロバート・オーベンって呼ばれる人が、
共同体社会のユートピアみたいなものが作れるって考えたりっていう話だとか。
シャルル・フーリエさん、数学のフーリエとは違うフーリエさんらしいんですが、
その辺の人たちがそろそろ文明社会を批判するようになったりとか、
労働という行為は辛いものじゃなくて、喜びを生むものなのだみたいな感じで、
仕事を楽しくせんとあかんみたいな感覚のことを最初の頃に言い出したような人たち。
なるほど。
同時に、もう人物名とかは全部出てこないんですが、
やっぱ労働というものは喜びであるみたいな概念も、
この頃、フランス革命前後していろいろとたくさん出てくるようになっていって、
労働は素晴らしいんだっていう人たちもいれば、第9章では逆に、
怠けることこそが素晴らしいとか、
労働というものがいかに悲惨で苦しいものだみたいな思想家たちがいっぱい出てきたりする。
これも名前がいっぱい出てくるんですけど、
例えば知らんかったのが、ワルクスの娘向こう、ポール・ラファルグさんっていう人は、
ワルクスからの影響をすごく面白く受けているみたいで、
労働の苦しさじゃなくて、怠惰の喜びという哲学みたいなことを言っていたらしいんですよね。
なるほどね。
1日3時間働いて残り自由に生きようって、
ちょっと前の時代なんかにもよく見たと思うんですけど、
これはラファルグさんが言い出したことらしいんですよ。
そうなんやね。
その怠惰であること、怠惰を芸術と好奇な美徳の母とする、
みたいな考え方とかっていうのも、
ワルクスの娘向こうが言い出したみたいなところは、
結構個人的には面白いなと思ったところだったりも。
ワルクスは労働せないからね。
そうですね。ワルクスはエンゲルスの紐ですからね。
それを見て、その親の姿を見て思ったことがあったんやろ、きっと。
多分あったんでしょうね。それはそれで。
でも全然知らんくって、やっぱワルクスの娘向こうが、
そういう直接思想家として名前残すような人だったんだなってことは、
何も知らんかったなっていうことを思ったりだとか。
あと印象に残った人で言うと、シモーヌ・ベイユさん。
工場労働というものを経験してみたら、
どんだけ辛いんや、どんだけ大変なんや、みたいなことを書きまくって、
有名になった人だったりだとか。
ここからは一気に現代になっていくんですけど、
テイラーシステムとか、シモーヌ・ベイユがその辺の話を出てきたりだとか、
テイラーシステムって、どれだけ効率的に仕事ができるのか、
みたいなことを分析して、数値化していって、
みたいなことが結局ここから現代の管理主義みたいなものの始まりになっていって、
そこからフォードさんがベルトコンベアを作って、
一気に作ろうみたいな話をしていくんだけれども、
歴史の話で言うと、1960年、70年ぐらいにやっぱここが行き詰まってしまって、
ここから一気に変わっていったみたいなのが、
現代までの大雑把な流れかなっていう感じで、
例えば、あんまりちゃんとよく分かってなかったんですが、
その観点でトヨタの車の作り方っていうのが、
フォーディズムの次の看板方式、在庫持たない全部みたいなシステムみたいなのがすごくうまくいったとか、
スウェーデンのボルボとかは、結局労働、それがつまらなさすぎて価値観が上がらんっていうので、
チームで最初から最後まで1台の車を作らせようみたいなことをやってはいたんですけども、
一時的にはうまくいったけど、どうやら結果的にはうまくいかなかった、現代の結論で言うと。
みたいないろんなことが試されてきたっていうのが大雑把な話か。
ここからは歴史じゃないんですけど、あとさっき出てきたニーチェの話で、
ニーチェが労働というものをいかにくだらんものであるかみたいなことを言っていたりとか、
フロイトが労働っていうのは何なのかみたいなことを考えたりもしているし、
労働じゃないんだけど、ハイデ側もこの辺りの話を結構しているっぽいんですよね。
技術っていうものが、自然を挑発して自分を見失ってしまう。
個人的にはマルクスの考えを引き継いで、
もうちょっと現代文明みたいなものを批判的に見ているという感じかな。
これとかは存在と時間しかハイデ側のことを知らなかった自分からしたら、
ああ、そういう話もしているんだね、みたいな印象もあったりとか。
ハイデ側は結構技術論でも参照されてますね。
よく出てくるんだっていうことが少なくとも一節割かれているぐらいは、
いろんなことをやっているっていうので、
結局ここからもいろいろ、この後から一人一人の思想が細かくなっていって、
細かく説明するのが逆にだんだん難しくなっていくんですけれども、
あとホルクハイマーアドルドみたいな人が出てきたりだとか、
これはヘーゲルの主導の弁償法の逆向きなことみたいな感じになってきて、
人間の歴史が結局自然を壊していくみたいな話になっていくのか、
だとかボードリアールが出てきて、その人もいろいろといろいろありましたという話と、
シャドーワークとAI時代の労働
最後が現代的な話、現代の労働の問題みたいな話で、
この辺は逆に今時いっぱいいろんな本が出ているので、
割と有名なところかなって思うんですけど、
賃金が払われない労働っていうのがもっといっぱいあるよねって、
シャドーワークって呼ばれていて、
現代だといわゆる家事労働とかがシャドーワークの代表格だっていう言い方が生まれてきて、
そもそもシャドーワークっていう言い方が影みたいな言い方で、
ダメやろう、この野郎みたいなことが出てきたりだとか、
感情労働と言われる、ご機嫌でいないといけない、笑顔でいないといけない、
一般的に飛行機の乗ってる、
キャビンアテンダントの人たちがずっとご機嫌でいないといけないって、
これって新しい、こういうことが労働としてあるんだよっていうので、
労働の概念が相当広がってきている。
自分も、例えば感情労働なんて多分ここ数年レベルで知った話で、
それ以前ではそんなことは考えたこともなかったというのか。
他にもネグリとハートが浄土労働みたいな話で、
いわゆる現代で言うと体を動かすが、
大雑把にマルクスまでの時代は体を動かすことが労働だと言われていたけれども、
そうじゃなくて心の話とか、労働と思われていないものも、
ちゃんと労働だよねみたいなことが言われるようになったとか、
現代で言うと依存労働って呼ばれるケアみたいなものっていうのが、
非常に難しい存在で、
ケアをしていく行為というものは、
どうしても片側がどっちかに頼らざるを得ないので、
パワーバランスみたいなものができてしまって、
そこから依存労働というものが、
非常に人間関係を難しくというか、
良くない方向に進めがちになってしまうというのか、
そうした労働を担う人の多くが女性で、
実はその人たちは家庭内では逆に、
パートナーに依存しないといけなくなってしまって、
そこにもパワーバランスのねじれみたいなものが出てきてしまって、
みたいな話だとか、
自分は最近新しく知ったんですが、
承認労働と呼ばれるもので、
いわゆるその働き甲斐を売りにして働かせようとする仕組みなんですけど、
今ドイツでは、
従業員のことを賃金労働者ではなく、
労働力経営者と呼んで、
社員経営者としての自覚を持たせて、
能力を全面的に活用しようとする、
そういう考え方を進んでいるらしい。
セブンイレブンですね。
これはね、やっぱり地獄への話、
始まりだなと思うんですけど。
まさにそうですね。
セブンとかコンビニのチェーン店の店長って話も、
この例えとして非常に強く出てきています。
やっぱやりがいというものすらも搾取しようとしている時代とか、
これも自己責任論の強力な、
悪い方向への発展ではないかって思うんですけど、
その従業員というものをただの従業員じゃなくて、
経営者と呼ぶことで、
お前の責任でお前が働けみたいな、
それはそれでやっぱり地獄だなという感じもするし、
裁量と賃金を与えないのに、
責任だけ与えるというのは、
経済学からしてはおかしいと思うんですけど。
みたいな、
この辺は、これはこれであれですね。
その11章、
それなりに現代の労働の問題点とか、
現代的な労働みたいなやつが、
割と網羅的に書かれているので、
一個一個が全然深いわけではないんですけども、
ここはここで面白かったかなと思います。
あと市民労働みたいな話で、
これもドイツの話なんですけど、
有償とか無償でボランティア活動っていうものが、
ドイツですごい広がっていて、
例えば高齢者の通院に付き添うとか、
スポーツのトレーナーをやったりとか、
子ども食堂みたいなものをやったりっていうやつなんですけど、
失業者が職を見つけられないときに、
一定期間こういう活動の従事を求められて、
国からある程度の手当てが支払われる、
っていう仕組みが、
どうやらドイツにはそういうものもあるっぽい。
働くことは完全になくすわけじゃなくて、
中間地帯で働く的なことをしてもらって、
お金を支給すると。
これも良いか悪いかみたいなことは、
一旦置いといてみたいなんですけど、
個人的には非常に、
こういうやり方が一つ、
失業対策としてあるかっていうのは、
すごく発見だった気がするかな。
何か問題解決するかどうかは別にして、
失業期間があったときに、
いきなりフルタイムで働くというのは、
厳しいものがある。
だって何らかの事情があるから辞めてるわけで。
中間地帯として、
非雇いとか一日単位とかで仕事をするとか、
あるいは自分の経験を増やすという意味も、
多分あるでしょうし。
それで、
生活保護とかの問題解決するとは思いませんけど、
労働の緩和剤として、
僕は有効だなという気はしましたね。
下手に失業手当みたいなことを考えるんだったら、
経済効果としても、
非常に優れているやり方だなという印象も受けたし、
労働力経営者みたいな悲惨な言い方もありつつも、
こういうやり方もあったりして、
あとヨーロッパ的な働き方とか価値観とかっていうものが、
日本だとやっぱりアメリカの影響がすげえ強いんだな
ということをすごく感じたりもして。
近年かな、おそらく。
2000年よりこっちはそうでしょうね。
明治以降は知らないけど、
平成ぐらいからの影響は多分かなり大きい気がするね、
印象として。
例えばなんですけど、ヨーロッパ圏、ユーロ圏とかだと、
謎ルールがめちゃめちゃいっぱいあって、
なんだっけ、USBはCにしないといけないみたいなルールとか。
半分ぐらいはこの人たちおかしいことやってるなって思ったりはするんだけど、
知らないだけであることがすごくあるなという感じもして、
アメリカの価値観しか我々基本的に経験していないんだなっていうことを、
こういうものを見てもちょっと思い知らされたような感じがしますね。
一番最後がAI時代の労働っていうので、
AI時代の労働に関してはページも短かったこともあるけど、
結局何が言いたいのかよくわからなかったっていうのと、
その説にデビッド・グレーバーの名前が出てきていて、
ブルシッド・ジョブの話ですね。
個人的にそれってAI時代の労働とあんま関係ねえんじゃねえのかっていうような感じがしたり。
労働になるのか、AIロボットになった時にというようなことを考えられるけど。
でもブルシッド・ジョブしか残らないって言いたいのかな。
いろいろ理論は立てられるけど、無関係ではないと思うけど、
もうちょっと整理はしてほしいなという感じがします。
最後はページ数とか分量とかも、
やっぱり著者の知識量の限界とか、ページ数の限界、時間の限界みたいなものは、
最後の方は感情労働の話とかシャドーワークの話とかも、
ページ数的にはバランスがあんまり良かった感じはちょっとしないかもしれない。
つけ足しといてくださいという編集者さんのお願いがあったかもしれないけど。
そういうふうに深読みできるぐらいではあった。
とはいえ一応、大体のことが書いてあるので、
結局ここから問題を見つけていって、
現代の労働の良し悪しというか、いろんな問題点とか課題みたいなものを見つけるきっかけとしては非常に良かったのではないかなというのと、
やっぱり目次だけで大体誰のこと学んだらいいとか、
結局大きな概念がわかることが一番経験として非常に良かったかなと思っていて、
さっき言ったオーギュストコンとかウンデュンとか、
やっぱり全部覚えられないので、そんな1回や2回では。
という意味で有名どころを抑えつつ、こういう人もいたんだなっていれば、
わかれば後から調べられるという意味で、
最初の頃にいろんな思想化を学ぶという導入としては、
簡単とは言わんけど非常に良い本なのではないかなというのが、
2冊読んだ段階での感想です。
確かにね、例えば哲学史とかっていうのをいきなりバーンって出されても、
この人たちは何をしてたんだって全然わからないわけですが、
こうやって労働とか技術とかの文脈に置いた上で紹介されると、
その人の役割というか、この思想の歴史の中でどんな位置づけにあって、
どんな文脈の中にあったかっていうことが示されたほうが、
理解はしやすい気がしますね。
ニーチェとかやっぱり大評価なんじゃないかと思うんですけど、
そういう凝り固まった中のニーチェだからいいんだよっていう。
確かに確かに。
今出てニーチェと同じことを言っても別に何も新しくないですからね。
やっぱりそういうことなんだよね。
それがやっぱり現代だと分かりにくい。
その歴史の中でどういう位置づけでどう言われていたのかっていうのが、
やっぱり大事なのかなと思います。
ということで、Book Catalystはサポータープランというものを募集しておりまして、
毎月読書会とかアフタートーク等々色々お聞きいただけるようになっておりますので、
詳細等概要欄からご覧いただければと思います。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
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