1冊目が哲学の始め方ということで早川新書の本でして、山口翔さんという哲学者の方が書かれた本です。
1978年生まれということなので、僕らよりちょっとだけ年上の方ですかね。
大雑把に同世代ですかね。
そうですね。僕、山口さんの本結構好きで、全部とまではさすがに言いませんが、結構ちらほら読んでおりまして、
以前、本の読み方を紹介する回で、難しい本を読むためにはというちくまポリマー新書を紹介しまして、解釈学的循環かな。
あー、なんかありましたね。
全体と細部を交互に確認しながら読み進めていくというような読み方を紹介している本で、読書の最初の一歩として、読書術の最初の一歩かな。
そして、読むには適切な本じゃないかなと思うのと、あと面白いこと言うと日本哲学の最前線というこれも新書がありまして。
あれ、これは知っているぞ。読んだぞ。というか難しい本も読んでいるな。
結構だからね、この辺の日本で哲学的な。
これは知らんかも。
知ってるけど読んでない。
多分僕がどっかで紹介したんかな。読書界がどっかで紹介したかもしれませんけど、現代の日本哲学になっている人たちを紹介するとか、あともっと大きく現代日本哲学史という本も書かれていて、これはもっと射程が長い日本の哲学の。
そのような哲学研究をされている方が書かれた本で、早川書房の早川新書のレーベルから出てまして、発売が2026年の6月17日なので、最近に出た本です。
全般的にあれですね、全般を扱っている本が多い。
哲学的な研究というか、哲学史の研究とか日本哲学について研究されている側面も結構ありますね。
自由意志とか意味とかについても結構書かれている本があり、僕は結構それが好きなんですけど。
幸福と人生の意味の哲学という本は、トランスビューから出ている本なんですけども、これ結構面白かったですね。
僕らにとっての自由意志を考えたときに、どのようにその生きる意味というのが立ち上がってくるのか。
一見そんな自由意志がなかったときに、生きる意味なんていうのはないように思えるが、果たしてそうだろうか、みたいなことを考えていける本ですね。
この本自身の目次がだいたい6章縦になっておりまして、全部読み上げるとあれなんですけども。
副題の方に行くと、知識をめくる解義論、実在をめくる解義論、他者をめくる解義論、道徳をめくる解義論、自由をめくる解義論、意味をめくる解義論ということで、全部解義論の本なんですけども。
哲学の始め方という、哲学入門のように読めますが、実はこれ哲学史の本。
僕らが例えば哲学入門って聞いたときにパッと思い浮かべる、その哲学史の入門、つまり古代技術者にはソクラテスとなる人物がいて、みたいなことを順に追っていくタイプの本ではないんですね。
例えばさっき言ったプラトンとかを、プラトンは何を考えてこういうふうに生きてきたという特定の哲学者の人生を追いかけていくタイプの本でもなくて、
著者はこの1章から6章すべてを使って、例えば解義論というものについて試弁している、思考している、解説しているということなので、
僕風に言うと知識としての哲学の本ではなくて、行為、営みとしての哲学の本、哲学する本というふうに受け止めればいいと思います。
入門みたいな感じ?
入門ですらない。
タイトルで勝手に俺入門だと思ってたけど、そう言ってないですね。
哲学はこう始まるし、こう行われるというところで、門をくぐってどうのこうのというよりも、いきなり現場に凍り込まれる感じですね。
関東の言葉として有名なんですけども、人は哲学を学ぶことはできない、哲学することを学ぶだけであるという言葉があるんですけども、
まさにこの著者が1章から6章までずっと哲学されているので、それを読みながら哲学しているなっていうのを見る本です。
なんとなく違うんだけど、タイムリーなこともあって、戸田山さんの哲学入門みたいなやつと近い入門書というか、入門書じゃないんだ。
だから入門書と見せかけて騙しているんやっていうか、騙してないけど。
戸田山さんの本は自然主義に重点を置いた哲学という営みを紹介するので、
戸田山さんの本はもうちょっと哲学者の名前とか特定の概念とかが紹介されていると思いますけど、
基本的にこの本は哲学者の名前がほぼ出てこないです。
そういう意味でも特徴が強いんだ。
本だから一切考える、考えという営みを本の中で行うというタイプの本なので、
これ例えば240字とかで要約しても何の意味もないタイプの本でして、
ひたすら著者がどう考えているのかを追体験していくというタイプの本なんですが、
会議論がテーマなんですけども、
結構会議論というか、哲学はそもそも何かについて疑うところから始めるわけですけど、
疑いが暴走すると非常に苦しいことになってしまうという問題がありまして、
考えるのは好きだけど、考えすぎてしんどいというような人に、
本集は処方箋ではないですけど、
一つの薬というかな、この本によってその苦しみから逃れるヒントというか、
方向性みたいなのを感じれるんじゃないかなと思うんで、
知識としての哲学が好きじゃなくて、考えることが好きな人がはまりやすい罠があるんで、
この本はそういう方に向いているんじゃないかなと思います。
考えることが好きな、はまりそうな罠から抜け出すヒントみたいなものが見つけられるのではないか?
そうですね。そのヒントがドバッと書かれているというよりも、
著者がこう考えたその道筋が自分の思考にもおいても、
多分使える武器として増えていくんじゃないかなという予感があるんで、
僕20代の頃、哲学とか大好きだったんですけど、
本書で書かれているような苦悩みたいなのをまさに味わってきたので、
これは若い方向けに非常に良いなというところで、
これは余談になりますけど、早川新書から出てるんですけど、
そこの企画の切り口かな、こういう本を書いてくださいと、
山口さんに依頼した編集者さんすごいなというふうにはちょっと思いましたね。
1冊目がそれで、2冊目がバラバラな世界で共に生きるリチャード・ローティの哲学ということで、
これNHK出版新書から出ておりまして、
これいつも路列が回らないんですけど、
チュ・ヒチョルさんが書かれている本で、
ヒチョルさんはNHK100分で見えちゃうかな、テキストの
偶然性アイロニー連帯を解説した本を書かれている方で、
日本でローティといえばっていうところで名前が上がってくる方だと思います。
僕実はあんまり良い読者ではなく、
書かれている本でいうと、ザイヤ研究ビギナーズという本に
1個原稿寄せておられるんですけども、それ以外は読んだことがなく、
名前としては、公正・フェアネスを乗りこなすという本が、
いろんな人の感想から聞こえてるんで、読んでみようかなっていうのと、
最近注目のキーワードである、ネガティブ・ケイパビリティで生きるという本が、
この前ちくま文庫から出たんで、それも興味深いんですが、
その方が書かれるローティの哲学を、
現代の人に向けて紹介するのがこの本でして、
発売が2026年の5月11日ということで、これも今年出たばっかりの本でして、
大きく3部立てで6章構成になっておりまして、
時系列がはっきりしてるわけではないですけども、
ローティの哲学の起こりからその後までを流れた後に、
現代でローティがどのように授与され批判されているのかというのを、
紹介していくタイプの本ですが、
単にローティって人がいたんだよってことではなくて、
現代の問題意識からローティの意義を再確認するというタイプの本でして、
確か小林さん読まれたと思うんですけど、
すこぶる読みやすい本に仕上がっておりますね、この本は。
そうですね、何て言うんだろうな、自分の感想としては、
ローティのことを今の切り口で紹介している、
今の問題意識を重ね合わせてローティがやってきたことを紹介しているという上に、
こんなクソ真面目な良い子ちゃんな話なのに、素直に良いと思ってしまった。
なるほど、良い子ちゃんっていうのは、
ある種ニーチェ的な破綻がないというか、
それはそうだよね、そうあってほしいねってことを提案されている。
そういうイメージですね。そんな面白くないでしょうって、
平均的には思ってしまいそうなものって自分は結構多いんですよね。
そう感じるものって。
そんな上手くいくわけないみたいなのっていうよりも、
そんな堅苦しいことをやれないでしょうって思いがちというのかな。
一見するとそう思えそうだけど、そう思わなかった。
それは著者の腕の腕前というところは多分大いにあるんでしょうね。
多分そうでしょうね。
偶然というか、自分の問題意識とかなり近いことを語ってくれていたというのは大きいとは思います。
なるほどですね。
ちなみにこの本は、バラバラな世界で共に生きるということで、
連帯的なものの回復ということが施行されてまして、
当然ローティンの偶然性アイロニー連帯の最後の連帯があるわけですけども、
結構最初の方に会話というものがキーワードとして出てくるんですけど、
別にローティンは会話を主な主語というかオブジェクトとして活動していたわけではないので、
ある種、ローティンの中の会話成分を取り出して提出しているということで、
もう既にこれ自身が著者の仕事というか、著者の解釈による仕事で、
それ自身は全然良くて、まさにそれがローティンが望んできた主張だと思うので、
会話という言葉を吹き継いでまた誰かが語っていくという連鎖があるんですけど、
一応ローティンは別に会話の哲学者ということではないというのは一応踏まえておいてほうがいいとは思いますね。
どちらの本も非常に面白いですが、ローティンの方はローティンに興味がある、
あるいは現代的な、いわゆる改革付きの分断と呼ばれているようなものに対して、
どのような手当が可能なのかを考える本でして、
1冊目はいわゆる思考を考える詩弁というのが好きな人が、
常備役として持っておいた方がいいのではないかという考え方が紹介されている本です。
一応哲学の本ですけども、片方は会議論で、片方は会話ですから、
違うと言えば違うわけですけども、
数ページ読むと似た話題が見つかるなということで、
共通的なものを探していきたいんですけども、
まずその哲学の始め方ですが、先ほど目次も述べたように、
基本的に会議論をテーマにした哲学の入門書、
入門書って書きましたが、実践書ですか。
会議論ってちょうど前回、
メインテーマが前回、会議論ですよね。
会議論とは何かは145回を聞いていただければいいんですけども、
その間にも少し似た話をしましたが、会議論というのは、
僕らの日常の前提となるようなものについて、
その存在は知られないとか、それは存在しないと主張する立場なんですね。
つまり疑っているようなものについて疑うことではなくて、
僕らが無意識に正しいと思っているかどうかすらももう考えていない。
それはそこにあるという前提で、
日常的な生活を送っているようなものについて、
クエスチョンマークを貼り付けるようなものが会議論。
だからそもそも、僕らの認識にとっての言論にとってのそもそもを問うこと。
その会議論というのは哲学の花であると、花っていうのは中華の花ですね。
それも成果であると。成果というのは要するにエッセンシャルなものであるということなんですけど、
これは日本の哲学者で有名な長井さんの言葉として紹介されていますが、
結局哲学って真理とは何かとか、存在とは何かって考えるわけじゃないですか。
基本的には。そもそも問うわけですね。要するに。
僕らが当たり前とお認識している、いくつかの概念とかっていうことを掘り下げるということで、
そもそも問うっていう活動とその会議論的なスタンスっていうのはかなり似かってるし、
そもそもそれがやってることが哲学であるとすら言えると。
本書ではさっき言ったように、知識とか実在とか他人の心っていうようなもの。
これは結構哲学において非常に主題となるトピックなんですけど、
それについての会議論が交差されると。会議論の本ではないんですね。
こういう会議論がありますというカタログではなくて、
こういう会議論が起こった時にどうアンチ会議していくか。
会議論に対抗、カウンターしていくかっていうことを考えるんで、
本書の方向性としては反会議論として位置づけられると思います。
なぜその反なのかっていうと、先ほども言ったんですけど、
会議論って真剣に会議論を考えれば考えればと、
深刻な苦しみが生じてしまうと。
例えば知識、確固たる知識とは何かって考え始めると、
前回も145回でも言いましたけど、そもそも正しい知識が言えなくなってくるね、だんだん。
何をしても正しいということが言えない状態で、
日常生活を送るのってかなり難しくなってくるんですね。
もっと言うと、他人の心みたいなものが本当にあるのかどうかっていうことを
真剣に考えてしまうと、これも日常生活って怪しくなるんですよね。
例えば僕は今、五力さんがそこに人気とであり心があるという前提で話をしてますけど、
その前提がなくなるということは、周りの存在全てがゾンビ、
哲学的ゾンビだということになるわけですね。
その中で日常生活を送るのはどう考えても無理なわけですよ。
だからこの、自分以外の人間も心を持っていないんではないかっていうのを
遊びとしてじゃなくて、真剣に、誠実にそれを問おうとすると、
僕たちの心がそれについていかないという状態になってしまうと。
なので本書としては、著者自身もそういう怪異論で苦しんできた経験があるので、
怪異論というのが哲学の花だったとしても、
それに負けてしまって苦しみを背負うことがあった時に、
そこから回復ではないですけど、
ある程度苦しみを絶つことを目指すのがこの本なので、
怪異論が起こる、その怪異論をどう打ちまかせるのかという知的な格闘が
本書では扱われています。
面白いんですけど、これ文体がいわゆる哲学書の論文のような
語りというか議論のような形にはなっておらず、
著者である僕が読手である君に語りかけるというスタイルを採用しています。
その別にかぎかっこつきで会話文があるということじゃなくて、
読手の人間がそこにいて、著者がその人に向けて自分の考えを語っていくという
文体というかスタイルを採用しておりまして、
それは他にも選択肢があったからそういう例なんだということではなくて、
そうする必要性があるからと著者が述べてまして、
それはこの本の主張内容と整合している、本書が主張していることと
その文体の選択が合致している、整合しているからということなんですけども、
ここでもう一気にこの本の内容を全部紹介したら無理なので、
ピンポイントでいきますけども、
その基本的に怪異論に対しては超越論的証明で応じられることが多いんですね。
一番簡単なのは神という存在を持ち出すことで、
私たちありとあらゆる怪異を跳ねのけることができる。
私たちは存在するかどうかっていう問いを神という絶対者が言えば、
納得するしかない。
納得はできる。
本書も似たような超越的なものを持ち出す。
ただしそれは神のような絶対者ではなくて、
会話が一つの鍵になるということで、
著者自身が自分の立場を仮にまとめるとしたら、
超越論的会話主義であろうと、
会話っていうの、神じゃなくて会話みたいなのを持ち出すのがポイント。
だから本書も会話のスタイルで書かれているというのが、
内容と形式の整合ということですね。
怪異論を乗り越えるためのヒントが会話だから、
この本自体も怪異論を乗り越えるために会話で書かないといけない。
そうでないと整合しないということですね。
これは非常に面白いんですけど、
しかしなぜ怪異論を乗り越えるために会話を持ち出すのかと。
例えば道を尋ねられて答えるシーンが描写されるんですけども、
著者は京都の大学に行っておられたんで、
例えば京都駅にいて京都大学にどう行ったらいいんですかと、
誰かに聞かれた、尋ねられたとしますよね。
そこで知識に対する怪異を持っている人がいたとします。
何かを知っているとはどういうことだとか、
人が何かを知ることはありえないみたいなことを思っている人がいたとしますよね。
道を尋ねた著者は自分が京都大学に行った経験があるんで、
例えば202号のバスに乗ってほにゃらで降りるっていうことを知っていたとしても、
知っているということに確実性がないと思うんで、
分かりませんって答える。
めんどくせえやつですね。
その時に分かりません知りませんって答えるのと、
自分がその曖昧な知識のままで、
曖昧だと自分が思っている知識の中で知っていると答えるの。
どちらが知識や誠実な態度か、
あるいは責任ある回答かっていうことを問われるんですね。
で、自分の知識がそれはその、
例えば夢に見ただけであって、
そのバスに乗ったのは夢に見ただけであってとか、
悪魔に植え付けられた知識だから正しいとは言えない。
だからここは知らないと答える方が、
誠実だという考え方もあるかもしれませんけど、
そうではないと著者は言うわけです。
あるかもしれんけどね、ですね。
で、結局、さっき言ったとおりめんどくせえやつになりましたが、
あくまでコミュニケーション的行為の一部として捉えたら、
少なくとも自分がその経験があるという知識があって、
そういけば自分が京都大学に行けるということを知っている。
その水準で知っていると言えば、
そう答える方が責任ある回答をしているのだと。
対すると知識の確実性を問うたときには、
知らないと答える方がベターな気がしますけども、
コミュニケーションを行っていて、
コミュニケーションをそれぞれ答える人、
尋ねる人を答える人って持っている責任を根本原理としたときには、
むしろその自分の確実性が100とは言えない分野で、
こう行きますと答える方が責任ある答え方になると。
僕はこういうふうふうと思ったんですけども、
僕らの性の在り方ということで、
なぜなら夢の可能性すら完全に消去できない不確実の世界において、
人々はお互いに知っていますかと尋ね合い、
知識を伝達することでそれぞれ直面する問題に対照せんと
努力するというのが僕らの性の在り方だからということで。
つまり考えすぎなわけですね。
本当それだけだけどね。
だからその知識の確実さを求めている人にとって、
誠実な態度が知らないと答えるのが正しいように思えますけども、
そもそも僕らの日常の会話は、
確実性が100%の知識を交換し合っているわけではないですね。
コミュニケーションというのはそういうものではないんですね基本的には。
グルーミングですからねそもそも。
その人が知っていると思う範囲で答えてくれたらいいというもので、
自分が知っているという範囲で答える。
責任という言葉が出てきますけど、
例えばですけど、
京都大学に行くまでのバスが202なのに203と答えたとするじゃないですか。
記憶なんで間違っている可能性があるから。
そうするとその責任は答えた人にありますよね。
間違ったことを言ったわけですから。
ここでポイントはだから言わないという発言は、
そのような間違いの可能性を一切引き受けたくないという態度なんですね。
でも会話っていうのはお互いがそのような絶対とは言えない、
ある種の家計をお互いにやっているものである。
人間の言葉を使ったコミュニケーションというのは基本的にそういうものであって、
何かを言うことと何かの発言に責任を負うことはセットなのに、
確実性というものを追い求めている姿勢は、
その責任を一切拒絶する態度になっている。
それで会話に参加しないことはむしろコミュニケーションとしてみた時には、
むしろ無責任な、あるいは責任ない対応になっているという指摘が載されていると。
同じく引用ですけども、
そもそも人生においてはいかなるものについても完全な確実性は得られないと。
それゆえ自覚的であろうがなかろうが、
人は誰しも自らの責任を落としながらほにゃららを知っていると主張しているのであると。
だから知識の会議論的立場でほにゃららを知っているということは言えないわけですけど、
僕らの日常生活ではあるいとあらゆる場所でほにゃららを知っていると言ってるわけですね。
そういうのを会議論的な立場から、
あの人たちは不誠実なことを知っているなんて本当にいい気なんじゃないかなっていうのは、
プレイするゲームを間違ってるわけですね。
コミュニケーションというのはそもそも不確実性の中でやり取りされるものだと切り返した時に、
確かな知識がないから言えないという会議論はそもそも意味をなさない。
人と人が会話している中において、
そのような厳密な知識の確立性を問うことは別に必要なくなってしまう。
そういう会議って別にいらないよねってなる。
これがだから一つ会話っていうものを鍵とした会議論からの脱出なんですけども、
哲学者はややこしいので、
でもそもそもそこに人がいるって本当なの?
訪ねてきた人がいるって本当なの?って考えて会議論を展開していくわけですね。
これはさっき言った他人の心なんてあるのかっていう、
他人の存在なのってあるのかっていう問いと繋がってきて、
さっきはだから会話している主体がそれぞれが責任を持つからこそ、
知識の会議論は知り遂げられたわけですけど、
目の前にいる人っていうことそのものの存在が不確かじゃないか。
じゃあそんなものの会話に対して責任を持つことは不要ではないかみたいなことを考える。
めんどくさいように2段階ぐらい込めてきましたね。
こんな感じで基本的にある会議が片付いても、
より大きな根の深い会議が立ち上がってきて、
それに立ち向かっていくというふうに本書は進んでいくんですけども、
しかし他人の存在を疑うと、
そもそもこの本が想定していた僕が読み手に、
あなたに語りかけるということはそもそも成立しなくなる。
すべては独り言になるわけですね。
だって他人がいないんですから。
そうするとこのような自分以外は存在しない、
すべては哲学的にゾンビであるという、
独我論というものにはまってしまうと、
もはや他人の助けを借りることができなくなるわけですね。
意味のある思考は自分の思考しかないわけで、
そうするとその人の中では、
他者の考えとか会話というのがなくなり、
どんどんどつぶにはまっていくわけですけど、
独我論を徹底した後にものすごく考えて、
このような理由から他人という存在はあるんだと、
立証する道はないと著者は言うんですね。
他人の存在を疑っていって先に先に先に、
いや、他人はこのような理由からあるのだ。
だから私は他人を認めることができるという理論は行き止まりと。
だからむしろ逆だと。
僕らはそのような思考をする時に言葉を使ってますよね。
そこに戻ってくるんだ。
言葉っていうのは何のために生まれたかっていうと、
会話のために生まれるんですよ。
だからそもそもたった一人で言葉を使って考えるということそのものが、
もはや間違った道に入っているわけですね。
言葉っていうものはそもそも人と人がコミュニケーションを取るために生まれた。
つまり僕という単数の次元じゃなくて、
会話は常に僕らという次元で動いているわけですよ。
そういうものを本来僕らで動いているものを僕だけで考えたら、
空回りするわけですね。
なんか会議法みたいな理屈ですね。
感じがしますね。
なので他人の存在というのは言葉を使って会話するというものがある以上、
もうあって当然。
そこからもう話は始まるんだというふうに考える。
だから会話が聴取的な存在、会話というものを聴取的に置くということは、
言葉を使って考える以上、会話っていうのはあって当然。
他者の存在はあって当然ですよね。
というところからいけばこのような会議っていうのを
しりづけることができるという理論があります。
これは言語をなくしたらやっぱり考えるという行為はできなくなると言えるんですかね?
少なくともこういう会議論はそもそも言葉だけでしか構成できない。
こういう会議論か。
会議論そのものが、そもそも論ですから。
論はロゴスですよね。
論だから、だからやっぱり言語なんだ。
それがそもそも。
面白いのは、もちろんだから人間の言語っていうのは、
その会話から始まってはいますけれども、
これまた引用ですが、
すなわち人は他人と言葉を受け渡しすることをやめ、
自分のために言葉で世界を描き出さんとすることができる。
この際言葉は僕らの間で言葉が投げ交わされる会話ではなく、
むしろ僕が世界を描き出す記述に転じる。
これが会議論を招き寄せる決定的で致命的な一歩だと書かれてまして、
確かに言葉っていうのは会話として始まったが、
道具としての言葉っていうのは他者抜きで扱うことができる。
例えば様々な紙面的なものっていうのは、
まさにその働きによって発展していくけれども、
しかし言葉、他人の存在があっての言葉なので、
何かしらの根拠を問ってきたときに、
読画論で考えると永遠に答えが出ない。
一旦そこに戻るためには、会話の次元に戻ってくる必要がある。
ということが本書の終身的な主題で、
それをキーにいろんな会議論について、
こういう切り返し方があるぞって言われてますけど、
つまり僕らの言葉は基本的に会話的である。
会話的がスタートであって、
それを抜け出して、
道具的に自分と言葉の関係性を結ぶことができるし、
哲学的な営みとか思想的なものっていうのは、
その言葉の道具としての力を使ってはいるものの、
一歩間違えると、
言葉を現実に繋ぎ止めていく他者の存在がなくなるし、
他者の存在が消えた状態で、
紙面だけで他者があるとは言えない。
それはもう絶対に言えなくなってしまう。
他者の存在を回復させるためには、
そもそも言葉は会話の道具ではなかったかと思い出すことが必要だという。
この会話の次元に留まることというのが、
本書の中心的なメッセージで、
ちょっとだけ脇道ですけど、
コミュニケーションにおいて人が提示する言葉は、
感覚、思考、言語という連動システムの働きの一部なのであると。
何かが感覚されて、思考みたいなのがあって、言葉に発されると。
だから僕たちは受け取った言葉から、
そこにどんな思考があって、
その裏にどんな感覚がうこめいていただろうかということを把握すると。
だからこの感覚、思考、言語、言語、思考、感覚っていうのを
やり取りしているのがコミュニケーションであると。
で、先生AIは残念ながら感覚の部分がないんですね。
もしかしたら思考もあんまりない。
だから彼らとやり取りしていると、
本来そこにあるはずの感覚がないから戸惑うんですね、あれ。
先ほど言った言葉、先生AIは言葉で返しますけど、
例えばプログラミングがエラーメッセージを発したときには、
この感覚、思考、言語のシステムの一部としては僕らは受け取らないので、
そこの後ろに感覚の不在を受け取らないんですけど、
中途半端な先生AIとのやり取りって言葉だけがあって、
なんか感覚がありそうに見えるけど、でもないみたいな感じで
すれ違い続けているっていうのがあるかなと思いますね。
これは脇道ですけど、ちょっと読んでて感じたことです。
感覚がそもそもディープラーニングみたいな概念であって、
あれ分かってないっていうところが実は俺は感覚に近いんじゃないか
みたいなところを思ったりはするんだけど。
これは1冊目の本で、この会話に返ってくる、会話に留まる言葉、
言葉の道具性だけに頼らない会話の時系に戻ってくるとか留まる
ということが抽出されたわけですけど、ローキーですね。
1個聞いていいですか?
この1個目の本、これは今の1個の切り替え方以外の
その会議を跳ねのける考え方は出てくるんですか?
出てきます出てきます。
基本的にはその会話というのをキーワードとはしていますけども、
道徳とか自由とか意味とかはまた別のこの論立て以外が出てきます。
別の切り口でさっきの、だから会議論はこの辺で止めとこうと言えるということ?
言えるということ。
しかし基本的な軸としては他者の存在、会話、言葉と会話の繋がりということが
軸になっていて、切り口は違う。問われている問いが、疑念が違うので
当然切り返しも違う。
軸はだいたい一緒で、切り口をそこからいろいろ切り分けられる?
5章6章はかなり話がでかいので、自由とか自由意志があるのかないのかっていうところと
自由というのがどう考えるのかっていうのはちょっと話は大きいですけども
基本的にはここの軸が動いていると思っていいと思います。
2冊目なんですけど、さっきはこの会議論に対して反会議論でしたけども
ローティは哲学者と言われていますけど、思いっきり反哲学という風に位置づけられると。
哲学的な営みをしていないというよりも、これそれまでの西洋哲学っていうものに対して
お前らちょっとそれは違うんじゃないかということを言ったということで
例えばですけども、その西洋の科学というか地位を高く見て
例えば南アフリカとか南米を軽んじるっていうことに対して
人類学的な視点からそれは違うんでしょって言ってきた人たちはいたわけですけども
哲学者が、しかもパリッパリのそれまでは哲学をやってた人が
それはどうなのかといったという意味で、かなりでかい杭を打った人だと思うんですけども
それまでの西洋哲学というのは基本的には真理を探求するものとして扱われていたと
ローティに言わせると真理を探求するのは結構なことですが
探求が終わったらどうなるんですかと
一文、哲学とは人類の会話が途絶えることのないように守るための学問であるというふうに
ローティが言ったわけですけども、この人類の会話っていうものが必要であるけども
伝統的な哲学はそうではなくむしろその会話っていうのを終わらせる働きを
外を目的としているみたいな
あるいは本当にそれが真理とか見つかったとしたら
もうそれは神給が絶対的な神給が見つかるわけで
何かがあったらそれは正しい、何があったらそれは正しくないって言ってもう終わるわけですね
それ以上切り返すことがもうできなくなってしまう
そういうような断罪が生まれてしまうことは恐らく好ましくはないだろうと
それよりもずっと人々が何かについてああだこうだと
訂正可能性の会話を続けていくことこそが重要ではないか
それこそが本来の哲学の役割ではないかなと言ったんで
だから真理を探求するものとして自覚していた哲学者は
それはブチ切れだと思うんですけども
その意味で真理の探求ではなく人類の会話という意味では
プラグマティックな思想だなとは思うんですけども
その真理の探求から会話という切り替えは客観性ではなく連帯をという言い方もされてるんですけど
真理の探求は基本的には客観的なものが絶対的なものであるとした時に
主観的なものっていうのは客観的じゃなくて絶対的なものではなくて
そんなの追求しても無駄だよねということになるわけですけど
そもそも哲学だってある種その時代時代の歴史性を背負っているものだし
ある種そんなに絶対的かなっていうことも言えてしまうと
科学哲学とか前回もこの科学哲学の話しましたけど
知識社会学とかっていう関係もあるんですけど
西洋の一部で行われている知的な営みにつきないとしたら
そんな真理いけます本当にみたいな感じのことが言えてしまうと
会話っていう人類の会話というコンバーセーションという言葉が選択されてまして
議論でもないし対話でもないということが特徴であると著者が言うわけですね
ローティというよりも著者の取り出し方だと思いますが
議論っていうディベートみたいなもの
対話っていうものでもいいですけど基本的に何かしらの目的が設定されて
勝ち負けか身取りある議論かは別にしても何か目的っていうのがあって
それに向かって行われるものよりも会話ってもっと広いよねと定義としては
カンバセーションっていう言葉の語源で言うと
共にある共に行うみたいなぐらいのニュアンスでしかなくて
別に言葉を使ってやり取りするローグ性っていうのはそこまで強くはないと
お互いにそこにいて何かしらのやり取り
例えばアイコンタクトするのもある種の会話みたいなところで
より広い概念として会話っていうのが位置づけられていると
さっきグルーミングってゴルフさんおっしゃってくれましたけど
話していることそのものが目的だったりするわけですね会話っていうのは
友達と会ってお茶して会話して帰るっていうので
何も得られたものはゼロやけども楽しかったっていうことが普通にあるし
それが人類が行ってきた多くの会話であると
話していることがそのものが目的っていうのは
カウンセリングとは何かという本で第何回か調べてるのか覚えなさい
カウンセリングも基本的に話していることそのものが目的なところがあって
例えばある会があって終了しましたと
次回予約取りますとこの次回の予約があることによって
そのカウンセリングを受けている人がある種の希望
その次の時間までの希望を持つことができると
話して会話して問題がすっきり解決しました
解決することを目的にしたらうまくいかないとか
いかない場合も多分ある
ただ話してこちらが話をして向こうが聞いてくれる
その時間というか時空間というのが持つ力がおそらくあるだろうと
目的的なものではなくて非ゴール的なあり方を
強要するのが会話であると
そのような例えば地球全体で見たときに
そのような会話こそが言葉でやり取りされることのほとんどで
哲学的にその議論を精緻に詰めていくものはものすごく
あるのはあるけど特殊な形態でしかないという見立ては
一冊目の本とかなり重なるものがあると思います
そのような言葉のやり取り
心理に向かっていく定義を突き詰めていくようなものじゃなくて
むしろそのときそのときその局面で使われている
具体的な言葉遣いに注目しようぜと
面白い話がデカルトという人がいるわけですけど
彼が心を発明したという言い方がありまして
それより以前までは心という概念そのものが
あんまり共有されていなかったんですけど
デカルトが精神と肉体というのは別に分けて
私たちが心を持っているとかその心が理性的であって
すごく超越的な人間性と解釈にあるという風に定義した
以降僕たちは心という言葉イコール概念というのを定義したと
そのような言葉遣いが新しく始まって認識が広まったと
だからそれ以前まではなかった心が発見発明された
だから言葉遣いそのものが僕らの認識を変えてしまう
変えていく力を持っているという段取りの後に
ここ一番僕が好きなんですけど
孔子を分けることをローティは肯定したと
孔子というのはパブリックとプライベートということですけど
これは非常に有名ですけどバザールとクラブという2つが出てくると
バザールというのは市場みたいなもんで
雑談人たちが一つの場所に集まっていると
敵というかあんまり好ましくない人もいれば
好ましい人もいればいじまっている
Twitterのタイムラインのような場所だったとしたときに
もう一個機密のクラブ
簡易性クラブというのがあって
そこは好きな人たちが集まって
公けでは言えないようなことを言い合うことができる場であると
TwitterとDiscordみたいな感じ
これはクリス・フォード・ギアツという方がこの例を出してきた
それに対してローティが返したという話が紹介されてますけど
確か本のこの新書の中では出てきませんでしたが
ローティの本の中ではハーバーマスとニーチェというのが
対比的に挙げられていて
塾技を重視したハーバーマスは
国公的なもの バザールに貢献するものであって
ニーチェ 市的なものを扱うのはクラブ側のものであると
対応つけられると思います
ここでちょっと思い出したいのは
初めての単価という本を僕が131回で紹介しましたが
そこで僕生きると生き延びるの2つの言葉使いを
区別するという話をしたが
まさにこれが対応するなというふうに
読んでて思うんですね
バザールの言葉っていうのは
仕事をするための
自分を殺すための言葉であり
それとは別に公にはできひんけど
人間の暗い部分とかを受け入れるクラブの言葉
これが生き延びるための言葉
だからこれを仮に統一したと
つまり公の言葉こそが正しい
他は認めてはいけないのでは
生き延びるが消えますし
生きるが消えますし
かといってクラブだけであれば
僕らは生きていくことができないわけで
生きると生き延びるの両方
公的なものと市的なものの統一を目指すんじゃなくて
中間を目指すんでもなくて
2つあっていいよと
人間が使う言葉遣いイコール思考イコール原理性みたいなものが
二重に存在していいんだとローティは肯定したんですね
僕はこれが非常に実践的であり
倫理的であるなと思うんですけど
そうなんですね
人間のアルゴリズムは単純ではないわけなんですよ
そんなあれですよね
俺がよく言ってる
そんないい子ちゃんであり続けられるはずがない
かといっていい子ちゃん性がゼロは困るわけです
それは北斗の剣の世界になってしまうわけですから
だからその二重性を持っておくこと
例えば公的なものの中で市的なもののミニクスが出てきたときに
ここには出てきてもらっては困るけど
あなたの心の内であるのはいいですよって言えることが
人間的であり倫理的な態度ではないかと思うんで
だから僕は裁判所って
法律があるのに法律を適用するだけで終わらせないわけじゃないですか
解釈がありますね
性の生活の状態を加味した上で
市的なものの揺り返しがあった上で
公的なものの判断を下すわけで
仮に法律に照らしてアルゴリズムで判断を下すだけだったら
裁判所はいらなくなるわけですけど
それは結局公の方しか残らないわけで
一人一人の性の事情っていうのは一人一人違うわけですから
そのパターンをアルゴリズムで列挙するのは多分不可能で
してもいいですけどすごいデータベースになりますけど
だから人間が解釈する場があることによって
公的なものと市的なものが2つがそこで調停されるという風に
僕は思うんで
社会でうまくいっているメカニズムは
必ずこの二重性を背負ってると思うんですよ
怖いのはそれを取り払ってしまって
公的な方を公立化するために
市的なものはノイズだとして切り捨てるのも怖いですし
市的なもので公的なものはないっていうのは
科学を否定するような立場と多分似てると思うんですけど
自分の考えだけで盛り上がってしまって
公の場でどうすべきかとか
みんなが共通して持っている考え方はこうだっていうことを
一切無視してしまうのはやっぱり間違ってるんで
両方があるとした上で
それぞれの異なる原理で生きていく
1回1回の自分の人間の判断が
その2つの綱引きの中で
毎回毎回どうするのかが考えていくということが
人間らしい生き方ではないかなという風に思います
ローティはその市的な部分
プライベートな部分っていうのを育む時に
例えばあの人が倒れている
かわいそうだな痛いんじゃないかなって考える
その感受性というか共感性っていうのは
文学とかジャーナリズムで
鍛えられるんではないかと提案していて
なんか哲学書ばっかり読んでたとか
科学書ばっかり読んでると
その公的な方の原理性言葉遣いだけが
強まってしまうわけですけど
全体を担保する共感性みたいなものは
文学とかによって育まれるんではないか
これも結局両方必要だという風に
話はまとめられると思うんですけども
だから先ほどの哲学の言葉遣いで
特殊だと言いましたが
やっぱり会話の次元で扱う言葉と
私と言葉が向き合う特殊な言葉遣い
哲学とかのある種会議論にはまってしまう
怖い言葉遣いもやっぱり
両方あっていいと思うんですよね
あるべきだと思うんですよ
それも結局一緒のことで
両方役割が違うんで
会話の言葉がベースラインだとしても