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2024-02-12 18:10

読書ラジオ『たゆたう』長濱ねる

いつも聴いていただきありがとうございます。

⭐︎本紹介
たゆたう (角川文庫) https://amzn.asia/d/bGzrSQQ
(配信の冒頭部分は本の説明文・あらすじを読み上げています。)

⭐︎自己紹介
https://stand.fm/episodes/63c3432660a5d6684a4fd590

#読書 #読書ラジオ #読書感想
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こんばんは、ゆうこです。このチャンネルでは、私の読書録や日々の学びを音声配信しています。
今日は、長浜ねるさんの『たゆたう』というエッセイについて話してみようと思います。
稚拙でも、独りよがりでも、矛盾していても、これが私の現在地です。
アイドル活動を経て、ソロタレントとして活躍の場を広げる長浜ねるが、2020年から雑誌ダビンチにて3年にわたって連載をしてきたエッセイから21編を自ら厳選。
日常の出来事や、親友や家族、大切な人たちとのエピソード、時には悩み事まで、行ったり来たり考えながら、それでも歩みを止めずに進んできた日々を誠実に綴った、自身初のエッセイ集ということで。
実際にね、アイドル活動されてた期間ってすごく短いんですね。
4年間、卒業後は文筆の道に行かれたという。
でも俳優だとか、タレントさんの仕事もされているという方ですね。
だからね、この人がどういう人なのかわからないんですけど、すごいなと思った。
初めにという一番最初の章でですね。
自己紹介として私の性格を簡潔に説明しようと試みたのですが、正直自分でもまだ紐解けておらず、うまくまとめられませんということで書いてありまして。
その代わりに、いくつか私の傾向を挙げてみるので、なんとなく伝わりますと幸いですって書いてあってですね。
私はこんな人ですというのがエピソードで書いてあるんですね。
友達と国内旅行した際に、既に自分は訪れたことがあったが、ここ来たことあるよと口にすると、
今日覚めさせてしまいそうで初めて来たフリをした。計画時から気づいていたが黙っていた。
私はこんな人ですエピソードがあってですね。
そしてこんな風にぐるぐる考えながらも何とかやり過ごしている日々ですが、
たまに来ててよかったと思えるようなきらめいた出会いをすることがあります。
そんな瞬間もこのエッセイには書いてきましたということで。
24歳の現在地をあからさまに書いていますという初めにの著者ページでしたね。
読んでみてですね、なんでこの本を読んだかというと、おすすめいただいたからですね。
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前回読んだ配信の中でもレターご紹介したんですけれども、
ねるちゃんの繊細が際立ってきて、そんなに考えなくて大丈夫だよと背中を撫でてあげたい思いに駆られた。
深く掘り下げれば似た感情を20代前半の時には持っていたなと思ったり、
そっと優しさを表す人を見つけてはこの人が幸せになりますようにと祈ってばっかりのねるちゃん。
ねるちゃんが今夜ゆっくり眠れますようにということで、
ご紹介いただいた方のね、タユタウを読んだ感想をお話しいただいたんですけれども。
そうか、20代の頃の自分を思い出したり、ねるちゃんの母親のような心境になる本なのかと思いながら読んだんですけれども、
そうならなかったのがちょっと意外でしたね。
まだ20代の頃にねるさんが思っていたようなことを私も確実に思っていて、
それがまだ現在進行形で続いているんだ私という事実に驚かされたということと、
ただ私の方が大人な分、その心境からちょっと抜け出しているというかは、
20代の頃の自分とかねるちゃんが抱えているものを今の私は抱えながら、
今のステージだったりこれまでの自分のステージ、ねるちゃんはそれをダンジョンって言ってるんですけれども、
なんとかその時の自分で、20代の時の自分も抱えたままのその時の自分で、
このダンジョンをうまくクリアしてやろう、このステージを攻略してやろうと思っている自分が、
少しうまくやっていく術っていうのを身につけているんだなという風に思って、
それはちょっとだけ母親の気持ちも入っていたのかもしれないなと思いますね。
だから、そうやって地説で拙い我が子というのが、かつての20代の時の何も武器を持っていなかった自分で、
それがねるちゃんにも少し重なって、そこから確実にあなたは武器を手にして、
身体も鍛えられて、柔軟性も身につけていくんだよっていう眼差しを向けていた。
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それがちょっと母親の心境だったのかなと思いますね。
いくつか気になった点が付箋を貼っているので、それを話してみれたらなと思いますけれども、
すごく印象的だったのはですね、この人ならではの価値観というか感性を持っているという部分ですね。
島の女というタイトルのエッセイがあるんですけれども、冒頭がですね、
いろんな方のエッセイを読むと自分の文章がとりわけ暗く感じるくらい明るいというのはまた違う気もするが、
悲劇のヒロイン的に物事を深刻に捉えすぎているような、と自分のことを言っている場面と、
あとはもう一つですね、ずらしたい事件というタイトルのエッセイなんですけれども、ここに
私はあることに気づいた。
ひょっとして私は世の中と足並みをずらしたいのか、そういうふうに違和感を感じたという部分がありましたね。
この2つがですね、まさに私が小さい時から20歳の時の自分も、そして今の自分も
思っている、自分自身に対する感想なんですよね。
最近一行日記っていうのをつけてるんですけれども、見返してみるとですね、なんでこんなに暗いんだろう私って思うような、
なんかね、明るい暗いで言うと絶対暗い方に分類されると思いますね。
で、ポジティブかネガティブかでいくと、両方ある。
だからポジティブな内容も私が書くとすごく暗い印象になってしまうんですよ。
それってなんかあの、子供の時は特にそう思ってたんですけど、なんで私はこんなに
悲劇的に考えてしまうんだろうとか、悲劇のヒロイン的なものの見方をしてしまうんだろうみたいな。
要するに、悲劇のヒロインっていうのはどんなことがあったって、自分のスタート位置っていうのは
ぐっと、もう、地の底ぐらいにこう下げるんですよね。
で、そういうところを想定してそこから上がっていく部分をポジティブとして書くとか、
そういうふうに物事を捉えるから、全体感としてはすごくね、暗いんですよね。
世の中は基本的に苦しいことばっかりで、そこから何かちょっとだけでもいいことがあればそれが幸せだみたいなものの見方をしてしまったり、
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少し落ち込むようなことがあると、さらにそこから下の地中のところまで、
まなざしを向けてしまうみたいな、世界を感じてしまうみたいな、その悲劇、世界を悲劇的に捉えるみたいな部分が私にはあったなと思っていて、
私もそうだな、まだ今の私もそうだななんて思いながら見てましたね。
あと、世の中と足並みをずらしたいというのもまさに私が持っている感覚の一つで、
これを原稿化できるのってすごいなと思ったんですけれども、人とは違う自分っていうのをすごく意識するんですよね。
わざとずらしたくなってしまう。
人とは違う自分を見つけるっていうのはすごく自然体なことで、また違う部分があったって思うだけなんですけれども、
逆に一緒だなって思った時にすごく居心地が悪くなってしまうというところがあります。
それは集団行動がなかなかできないっていうことにもつながっていて、
学生の時とか修学旅行で集団で行動したり、
あとはプライベートで友達とグループでどこかに遊びに行ったりすると、
5人10人ぐらい固まって歩くじゃないですか。
あれがすごく苦手で、私結構最高尾にずっと下がっていて、そしてすっとはぐれるっていうのをやっちゃうんですよね。
そういう自分が今もいて、
例えばすごくあるあるで、こんなこと言うのは恥ずかしい。
最近のあるあるで、まだ40になってこんなこと言っちゃう自分がすごく恥ずかしいんですけど、
例えばスタイフとかでライブ配信されている方のところに行って、
コメントしたり聞いたりしている時に、
女性ばっかりの中に私がいて、
この人たちと同じようなことを言っていると思うとすごく恥ずかしくなるんですよね。
この感覚わかる人いるのかな?
なんかですね、
自分の属性と同じ女性とか、
年代もアラフォーとかの人たちがいる中に、
私も同じようにその人たちと同じような顔をしていて、
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同じようなコメントをしているっていう状況がすごく恥ずかしくて、
なんとかこの足並みをずらしたいというか、
集団構造でいうところの最高位につけてはぐれていくみたいなことをやりたくなってしまう、
落ち着かない自分というのがいて、
もしかして、ねるさんがそういうことを感じているんだとしたら、
すごく自分自身で自分のことがめんどくさいって思うんじゃないかなと、
ちょっと同情のようなものを感じてしまったかもしれないですね。
なので、こんな若い方のエッセイなのに、
こんな大人の2倍くらいの年齢の私が、
いや、わかるんだよな、それどうしようって思っちゃうっていう、
すごい不思議な体験をしながらこのエッセイを読みましたね。
このエッセイっていうのはすごく、
長浜ねるさんのみずみずしい感性と言葉で綴られているエッセイなので、
私が配信でね、なんか、
この人はこういう人なんだろうなというようなちょっと解説というか、
解釈みたいなものをするのはあんまり良くないんじゃないかなと思っていて、
ぜひね、読んでみてほしいなと思うんですけど、
ふと思い出したのはですね、
ライトハウスで星野玄さんが言っていた言葉で、
自分は表現でしか世界とコミュニケートすることができなかった。
自分から表現を取ってしまったら、
世界とつながる方法がわからないみたいなことを話していて、
ああそうか、この人はそんな風に感じて、
作曲、作詞、プロデュースということをやってきた人なんだと思ったんですけど、
長浜さんは、
今までアイドルとして、
割と早い段階で世界とつながってるんですよね、この人はね。
でも、
長浜さんはね、
設定やプロトコルではなかったかもしれない。
それを変えたくて、
今こういう、
エッセイを書くとか、
執筆するという活動をしているのかなと、
思っているんですけど、
この人はね、
自分が、
自分が、
自分が、
自分が、
自分が、
自分が、
幸運を祈ったらいい、
自分の働きというのは、
人は人でもありのまま弱さでもあると思う、
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と思いました。
それはですね、
この人はですね、世界に語りかける、
自分の中を自己探索して内観するだけじゃなくて、
世界に語りかける言葉を持っている人だなと思ったからなんですよね。
これはですね、
この人は世界に語りかける言葉を持っている、そういう意識を持っている人なんだ、というのを感じて
その部分に関してはですね、あのなんていうか、すごく大人だなぁというか
大人だなぁというか、そういう意識を持っている人なんだというのを感じて
その部分に関してはですね、あのなんていうか、すごく大人だなぁというか
まだ若いのに、私と比べてって言ってるからなんですけれども
いろんな経験をして、若くしてすでにこの世界とつながっていく
言葉を語りかけるという境地にこの人はいるんだなぁ
自分の中だけで閉じずに、自分の中を見ながらそこで発見した何かを使って
そういう自分で世界とつながっていくということをすごく意識している人なんだなぁと思って
すごく尊敬するというか、素晴らしい考え方と姿勢を持っている人だなぁというふうに思いました
よく表現として、自分というフィルターを通して世界を見るなんてことを言いますけれども
自分自身がどんなフィルターを持っているかとか、その仕組みがどうかというのがわからない状態で
私たちはこう、自分という目とか脳とか体というフィルターを通して世界とつながっていったり、世界を見たりするんですよね
だから、世界を知るということと同時並行して、もしくはそれ以上に自分を知るということが必要になってくる
世界を知りたいと思えば思うほど自分を知らないといけない
そうするとどんどん自意識が高まっていくということにつながるかなと思いますけれども
そういったジレンマと戦いながら、それでも諦めずに世界とつながろうとしている人なんだろうなと思いました
ぜひみんなにも読んでほしい本だなと思います
ということで、今日は長浜ネルさんのタユタウというエッセイについて話してみました
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今日も最後まで聞いていただいてありがとうございました
18:02
ではでは
18:10

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