天候と会話
日中は暖かいけど夜は寒いよねって会話あるじゃないですか。
あれ僕、毎年毎年、春と秋に2回、まるで新発見みたいな感じで話しちゃってて、ちょっと問題意識が今あるんですけど。
こういう天気の話とか年齢の話とか、あとニュースの話って、他人と会話する時のチューニング的な役割を果たしてて、
そこが共有できるとね、なんとなくあったかい気持ちになると言いますか、なんかこう、次話すことの道筋見えてきたなーみたいな、次話しやすいなーって思うんですけど、
そのメリットを差し引いても、こういう日向は暖かいんだけど日陰に入ると寒いとか、風がなかったら暖かいんだよねーとか、
動いたら暑いんだよねーみたいな、なんかああいうトピックあるじゃないですか。 もうこれ僕は一体死ぬまでに何回発見したみたいなノリで、そんなテンションで話すことになるのかって、
それを想像するとちょっと怖くて怖くて、 だからといってこう、こういうのをね、全く話さずに、先日旅行に行ったんだけどって出し抜けに話すのもね、
リズムが狂うというか、以前ね、あの一流の雑談術みたいな本読んだ時も、 社交辞令じゃなくて、自己開示から始めなさい、みたいなことを書いてたんですけど、
いきなり自己開示してくる人って、ちょっと怖ーってなるじゃないですか。 だからちょっとどうしたもんかなーって考えてたんですけど、
この日中暖か夜寒い話って、もう昔から行われていたはずじゃないですか。 多分ね。人類が言語を持ってからずーっとこの話題で盛り上がってきたんだと思うんですよ。
だとしたら、その営みの中で、このワンパターンな会話をどうにか面白くできないかって、 まあそう考えた人もいたはず。
そんな感じで改めて考えてみると、俳句とか詩って、この当たり前の感覚を研ぎ澄ませていった結果、
俳句の力
生み出されたものなんじゃないかなーって考えつきまして。 だってね、そんな知らないですけど、松尾芭蕉とか正岡敷みたいな人が人と会った時に、
最近寒暖差が激しくて体調崩しちゃうよねみたいな、もうみんなが100万回話している話題を改めて話したりしないと思うんですよ。
毎年の季節の移ろいだとか、そういう当たり前の情景も限界まで深掘りして、 新たな一面を見出すんじゃないかなーって思ったんです。
だから僕らも恐れ多いですけど、そういったね偉大な俳人詩人のように自分の感性を見つめ直して、それを磨いていきさえすれば、
毎年行われる同じような会話の中でも心が湧き出すような新発見だとか、 物事すべてに対する愛おしさみたいなものが生まれてくるんじゃないか、
そういうのに出会える気がしてて、 出会えたとしたらなんだかそれってめちゃくちゃいいことじゃないですか。
ね、毎年毎年日中暖かいけど夜寒いっていう話をする人生から、その日中暖かくて夜寒い中でも何かこう、
自分の感じたことだとか、まあそれを考えるに至った経緯とかね、きっかけみたいなものを深掘りすることができれば、それを言語化することができれば、
なんか素敵だなぁと思ったんですよ。 でね、あの調べたところ、
余った寒さって書いて、予感っていう春になった後の未だ残る寒さを表す記号がありまして、 それを使った俳句もいっぱいあるんですよ。
一つご紹介しますと、 鳥獣、声、ほのかたき、予感かなっていう俳句がありまして、
鳥獣は自然界に住まう者たちをね、まとめた呼び方らしいんですが、 そんな鳥獣が春の暖かさを感じて本能的に安堵しているようだけれども、
そのあげる声はね、ほのかたく感じられて、未だ残る寒さを私も鳥獣も感じているんだなぁ、みたいな句らしいんです。
これすごいなぁと思って。 鳥獣、声、ほのかたき、予感かな。これいいですよね。
俳句のその技術的なところは全然わかりませんが、 同じね、今のような春咲きでも見えている景色が違うんだなって。
だから僕がここでね、ブーブー文句たれてポッドキャスト配信している間にも、 俳人の方たちはその同じように思われる感覚にもきちんと向き合って、
日常の深掘り
素敵な一個を生み出しているわけですよ。いやこれちょっともったいないなと思って。 このまま死ぬまでね日中は暖かいけどって話してる場合じゃないなって思ったんですよ。
であの少しだけ話はそれるんですが、 ハイレがあって哲学者がいるらしくて、その方曰く
この世の営みはね目的と手段の関係に支配されていると。 目的と手段ですね。
例えば北海道から東京へ出張するっていう目的が決まった時に、 そのための交通手段は短ければ短いほどいいじゃないですか。
徒歩で行ってもいいし電車で行ってもいいし飛行機でもいいって言うんだったらみんな 飛行機を選びますよね。
可能だったらどこでもドアみたいな感じで道のりがね全くない方がいいわけじゃないですか。 同じように生きるっていう目的までねこう
遡って考えた時、この生きるっていう目的のため 労働っていう手段を選んでいるんだとしたら、この労働も少なければ少ないほど
可能ならない方がいいわけじゃないですか。 まあね働かなくていいんだったらそれが一番いいと。
でもこうして考えていくと、生きるために行うすべてのことって少なければ少ないほどいいんだから、
僕たちの行うすべてのことって無意味だってことになっちゃうんじゃない?みたいな。 だからそういう概要っぽいんですよ。
で、この状態から抜け出すためには死を自覚することが重要とのことで、 病床に伏してね死を目前とした人間が今までの人生を振り返るように
その手段とされていたもの一つ一つにね気持ちを向けて大切さっていうのを感じたとき、 初めて人間は本来的な生き方ができるみたいな。
なんかそんな哲学らしいんですよ、どうやらね。 まあこういう一つの哲学があったんだとしたら、この精神って
俳句や死を作る人にはね、備わっているのかもなーって、そんなこともちょっと思ったりするんですよ。
何が本来的で何が非本来的なのかっていうのはちょっとわかんないですけど、 このハイデ側が言うような本来的な生き方っていうのを目指すんだとしたら、
これ俳句とか死みたいな感じで、自分の身の回りにある当たり前のこととか自然の情景みたいなものをきちんと言語化してそこ深掘りするっていうのは
一つの豊かな生き方になるのかなって思ったんです。 プレバトっていう俳句のね、あの番組ありますけど、あの中で藤文子と藤原の藤本さんが
秋雲に名を付け窓に貼る付箋っていう 子供と一緒に窓越しに雲を見ながらその一つ一つに付箋で名前をつけていったっていう俳句を読んでた
ことがあったんですよ。 これ見たとき、こういう豊かな感性があれば人生全然もう2倍3倍に楽しくなるだろう
なーって漠然と思ったんですけど だからこういう俳句が作り出せなくても雲の名前をね
付箋でつけて子供と一緒に遊ぶみたいなそういうめちゃめちゃ豊かなセンスは欲しいんですよ だからちょっと僕この少し序章的な何か
感じ取ったことを深掘りして話すみたいな風潮を広めていきたいと思ってて 日中あったかいけど夜まだ寒いねと思ったとしてもそこにもう一マインド
を付け足す感じ それをね日常会話で繰り広げれればちょっと豊かな会話ができるんじゃないかなって思ってて
だからいくつかね最近あった出来事とか過去の思い出みたいなものを序章的に話すんで 一つ会話のねシュミレーションを今からしたいと思います
最近は日中あったかいけど夜はまだ寒いねー スーパーでもこの時期桜色のものがたくさん並び始めるからいいなーってついつい買っちゃうん
だけど帰ってきていざ食べようとした時には外がしんと静まっていて 少し肌寒い中食べることが多くなるのでより一層温かさっていうのが恋しくなるんだ
よね 確かにそうだよね僕も車の中が日差しであったかくなるもんだから
上着を脱いで運転するんだけど 車から降りると襟首から冷たい風が入ってきて慌てて上着をね着直すんだよ
僕もどれだけ日中あったかくてもその裏にね寒さが潜んでいるっていうそんな気がして 冬に使っていた回路いつまでもカバンから取り出せずにいるんだよね
僕も最近あったかいから散歩することが多くなったけど強風で林が音を立てて揺れるのを 見るとなんだか背筋がゾクッとするような気がするんだよね
僕も春服を選んで着ることが多くなったのだけれどまだまだ肌寒いのでね 夜は余計に冬らしいダウンジャケットを着たりとかしちゃうんだよね
僕も寒い中トイレの便座が異様に温まっていると便座って関節お尻だから もしかしたらおじさんと関節お尻していることもあるのかなーって考えちゃってそれ以来ね
便座を拭かないと座れなくなったんだよね 僕も後輩に最近ホットなものあるって今年の初めに聞いたら
tiktok で成人式の時に花束を渡すんじゃなくてネギの束を渡す動画がバズっています って言われてそれは何どう面白いのって聞き返しちゃったもんだから
まあなんとなくですねって答えられて年始なのにまだ年を超えられてないような気持ち になったなぁ
僕もお暇な時にイラストやの音マイナーなイラストをよくぽーっと見ているんだけど 瞼を裏返した人のイラストとかを見つけて面白くて共有したくなるんだよね
でも誰にどう共有したらいいのかわからなくなってそういう日に限って青空が綺麗なもの だからこのわざとらしい青空がね恨めしく思えてより一層寂しさが増すばかりなんだよね
僕も中学生の時アルミの鍋でねあのポップコーンを作る皿みたいなのって売ってるじゃん あれって基本的にガス火で作ると思うんだけどガスがその時ね実家が引っ越したばかりで
なくて ih に変わったばっかりだったんだよね でも当時僕はねそれがどうしても食べたかったから買ってきて
ih にそのアルミ皿を押し付けて作ろうとしたんだよね あのそしたら