けがれ
いぶき山 江口海斗が木々の間の細い土の道を登ると、
冷たい春の風が山の深い緑を撫で降りていった。
彼は八つの輪がついた石状に寄りかかった。
それは彼の父から渡され、父もまたその父から渡されたものだった。
海斗は何代も続く僧侶の家系の出身だが、その職業の他の者とは違い、所属していると言える寺はなかった。
彼の寺は開けた空だった。
海斗は反り上げた自分の頭を撫で、山道を遠く見上げた。
彼は四十代だったが、活動的な生活により引き締まり屈強な体型を保っていた。
彼の袈裟はおおむね伝統的なものだったが、長く垂れ下がる袖は切り落とされていた。
そのため、冷たい山の空気が彼の剥き出しの腕を撫でた。
ルローの僧侶である海斗は、行く先々で託発をし、しばしば家々に一晩か二晩、宿を借りてから再び旅した。
そうしたなりわいにより、彼は日本の端から端まで、時には一年に二度以上旅した。
彼の勤めは、このような道なき場所、関西地方、滋賀県の息吹山の山腹の土の道へと彼を誘った。
海斗は空を見上げ、正午数時間過ぎたところか、と見積もった。
そこで釈状を近くの木に立てかけ、風呂敷包みを背中から下ろして開け、
糊で包まれ、いぶした魚の入った握り飯をいくつか取り出した。
午後の日差しの中で、琵琶湖を見下ろす漁船を睨みながら食事をした。
ふいに風向きが変わり、腐った落ち葉と湿った土の匂いを運んできた。
食事を終え、彼は釈状を取り上げ、再び山道を上り始めた。
一歩進む度に、釈状の頂上の八つの鉄の輪が鳴り、彼の歩みに簡素なテンポを付け加えた。
一時間の後、彼は巨大な石の鳥居に縁取られた、急な石段の麓に立っていた。
鳥居は濡れて苔むしていた。
彼は境界を越え、落ち葉の積もった石段を上り始めた。
上るにつれて、両側の木々は近くなり、夜のように暗がりを作っていた。
石段の終わりでは、木の扉が砕けてぶら下がり、開いていた。
湿気に腐っていたが、最近蒸気を逸した力により打たれてもいた。
カイトは釈状を握り直し、開いた扉に近づいた。
しかし、彼が到達する前に、二つの明るいオレンジ色の光が重さなく飛びすぎていった。
彼は飛びずさり、枯れ果て滑りそうになった。
カイトは二つのひと玉が木々の間を抜けていくのを目で追った。
その小さな火の玉は、死んだばかりの体から飛ぶ抜け出た魂だと言われていた。
彼は扉に向き直り、二つの魂が浄土へと至れることを祈って阿弥陀教を唱えた。
壊れた扉の向こうは、荒れ果てた伝統的な木の柵の残骸で囲まれ、石畳で舗装された小さな中庭だった。
石は緻密に組み合わされ、枯葉が散らばっていた。
中庭の反対側は、三つの荒れた神社の建物が放棄されていた。
かつては、息吹山に棲む神を祀っていたものだった。
時と風雨が建物に与えた損傷は明らかだったが、
そのように放棄されてなお、山の清烈な空気の中に立っていた。
建物は彼に向かって、定鉄型に配置されており、その内側に中庭を作っていた。
カイトは石畳の上を進み続け、中央の建物の砕けた引き戸の前に立った。
老朽化した建物に入ると、彼には落ち葉と他にいくつかのものが見えた。
内部には家具も、通常神社が備える装飾品もなかった。
奇妙で、不可解な音が中庭の方から聞こえた。
そこで彼は建物の背面の古ぼけた木の階段を登った。
上階からは修理のために瓦吹きの屋根へと出れるようになっていて、
夏の日差しに開けていた。
霧が中庭にかかり、さらには山肌へと登っていた。
カイトは屋根の端に近づき、見下ろした。
神社の石畳の上に横たわっていたのは、2つの死体だった。
若い男と中年の女。
血が石畳の上に流れ、また飛び散っていた。
死体は胴体と頭に恐ろしい打撲傷を受けていた。
死体の上にのしかかっていたのは、
そやでもつれた頭髪、
前頭部から突き出た角、
非人間的なくすんだ赤色の肌、
唇から飛び出た牙を持つ巨大な姿だった。
鬼の顔は血で覆われていた。
彼は女性の腕を持ち上げており、
濡れた牙は空いた口の中で赤く染まり、
彼女の肉をもう一かじりしようとしていたところだった。
クリーチャーは立ち上がった。
背は大邸宅の屋根で頭をすくことができそうなほど高く、
肩は水牛とぶつかり合っても問題なさそうなほど広かった。
突然、鬼は腕を落とし、
カイトが立っている屋根を見た。
おお、坊主、いい天気だな。
鬼は煙くじゃらの前腕で口を拭い、
拭き終わると着ていたボロ布とゴワゴワした服の袖を下した。
反告ほどしてまた来てくれねえか?
飯はゆっくり食いたいだろう。
俺とお前は古い仲だ。
ちょっとした頼み事をするくらいいいじゃねえか。
鬼の日本語は荒っぽく、音節ごとに唸るような響きを伴った。
しかしカイトはその妖怪のことをよく理解していた。
ダメだ。お二人から離れろ、鬼め。
するわけがないだろう、坊主。
鬼は長い鉄の棒に手を伸ばした。
全体は六角柱型であり、その上半分には金属のソヤの刃がいくつも突き出ていた。
その柄は骨でできていて、雑に切られた皮が巻かれていた。
それはカイトの身長の半分くらいの長さだった。
カイトは二枚の札を帯から取り出し、一枚を尺状の先端に巻いた。
言霊がカイトの唇から流れ出すと、それは鉄の輪の下の軸にきつく巻きついた。
もう一度言うぞ。
手を引け、鬼よ。
争う必要はない。
私に使者を委ね、自分の領域に帰るがよい。
ダメだね、虫けらめ。帰るはずがないだろう。
争わないと言いつつ、武器を構えている。
そもそもなぜお前がここに来た、坊主。
ここはお前たちの寺ではないぞ。
鬼はそれだけ言うと梱包を構えた。
使者に、すべてのものに安寧を。
それが私をここに導いた。
これは武器ではない、道具だ。
私はお前と争いたいわけではない。
こうして喋るうちにも、不可思議なもの、素晴らしいものは消えてゆくのだ。
領域は薄れ、魔法は働かず。
そして神はそのやしろを捨てる。
お前はここのために戦うというのか。
うっせえろ。神はこの場所を捨てたわけではない。
そして私も主上を見捨てぬ。
この二匹の虫けらがか。
鬼は足元の死体を指し示した。
お前はこの場所とは違う匂いがする。
こいつらはお前の言う主上ではないぞ、坊主。
日本のすべての人々が、我らが神徒だ。
人殺しめ。
人殺しだとは。
二人ほど死んだところで何になる。
人間どもは信長の時代から何百倍も何千倍も増えて血を満たした。
奴らは海を怪我し、生き物を亡くし、
臭い薬を燃やして大気を怪我す。
ゴミで大地を満たし、決してやめない。
奴らのせいなど、いくらでも代りがいる。
言葉はもう十分だ、鬼よ。
下がれ。
吠えながら、鬼は小さな中庭の分の距離を詰め、
金棒をカイトの胴体に向けて振った。
金棒の軌跡を飼いくぐり、カイトは距離を取るため後ろに下がった。
鬼は鍵爪の生えた手を振り回し、老朽化した屋根を一部破壊した。
カイトには建物が倒れないとする軋みを感じた。
そこで彼は河原の端へと滑り、石畳へと滑らかな動きで降りた。
彼の膝は着地の衝撃に不平を言ったが、彼は移動を続けた。
鬼は吠えて、再び彼へと突撃し、彼の頭へと金棒を振り下ろした。
カイトは横にステップし、粗雑な鉄の道具は彼の横を通り抜けた。
そして石状を伸ばし、札に包まれたその先端と迫りくる武器をかすめさせた。
鐘の音が中庭に響き、閃光が瞬き、
そして鬼の巨大な鉄の金棒は、それが玉石を打ったかのように弾き返された。
鬼は飛び下がり、両手を交互に振った。
今のは痛かったぞ、坊主。前に会った時から新たに何か身につけたようだな。
俺の名を覚えているか?
お前の何など興味はない。争うつもりはないが、お前など知ったことか。
見知った気はするが、二度とは言わぬ。
この領域を去り、私に死者を弔わせろ。
お前の体を夜食にしてくれるわ。
鬼は宙に飛び、巨大な金棒をカイトに振り下したが、カイトは横に走り、石状を振った。
金棒はカイトが立っていた石畳を砕き、カイトの石状は鬼の踏みしめた左のすねを打った。
大きな破砕音がして、札の巻かれた先端から再び閃光が瞬いた。
鬼は痛みに唸り、金棒を取り落として左の足を抱えた。
カイトは苦悶する巨人へと進み、それは僧侶が近づいてくるのを見ると金棒に手を伸ばした。
カイトは石と網だけを音に乗せ、言霊を大きな声で唱えた。
中庭は天井の鐘の音で満たされ、金棒は力に打たれ、思い吹きは鬼の手の届かないところへと滑った。
痛みに満ちたため息が、禍々しく牙の生えた口から漏れた。
魔法が消える時、我らが領域は空となり、我らは全て死ぬ。
全ての妖怪と闇のこの場はしぼむ。
お前の言葉はその意味を失い、お前の呪符もただの紙となる。
その時、お前は何を目的とするのだ、鬼狩りよ。
鬼は答える代わりに、カイトは前へと駆け、巨人の額を手のひらで打ち、さらなる札をその肉へと刻んだ。
もう一度、長く澄んだ鐘の音が響いた。
鬼は口から煙を吹き、悲嘆の叫びを上げた。
白い光がその姿を溶かした。
光が止むと敷石に焼けついた印だけが残った。
金棒は午後の光の中で砂漠に照りつける熱のように揺らめき、そして物資使いから形をなくした。
カイトは鬼の影響が消えると霧が晴れていくのに気づいた。
彼は大きな息を吐き、アドレナリンに震えた。
石状の先端に巻きついた札を剥がすと、それは崩れて塵となった。
その中の力は使い果たされたのだ。
彼は杖に寄りかかり、息を吐いた。