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依談
Tale-JP
ごきずれ
自分の家の中の光景
あなたが思い出せる限り鮮明なものを思い浮かべてみてください
今あなたが住んでいる家でも、いわゆる実家でも構いません
おそらくほとんどの人が昼間かもしくは夕方あたりの、たとえ夜だったとしても光光とした電気のついた明るい光景を想像したことと思います
家というものは特別な思い出は残らなくとも日常的に目にし、記憶に残っていく場所です
あなたが今までに過ごしてきた生活の中で、記憶として占める割合の最も多い場面が思い出されることが一般的でしょう
そして私の場合、それはいつも真っ暗です
自分の家と聞いて想像する私の記憶は電気もつかず、昼であってもどこか薄暗い
それが私の家であり、私が日常的に目にしてきた風景でした
それは余剰程度の和室の中での記憶です
夕方ぐらいでしょうか、薄っぺらい布団だけが敷かれた暗く殺風景な部屋
電気はついておらず、障子の向こうからわずかに漏れ出る赤い太陽光だけが部屋の中を照らしています
私はそこでただ座っている、何の音もなく
ただ私は薄暗い和室にポツンと座っているのです
家の中の光景と聞いて私が思い出すのは主にこのような場面です
季節はいつなのか、私が何歳ぐらいの頃のことなのか
それらは半然としないのですが、なぜかそんな場面だけが私の中に焼き付いて残っています
いや、そんな場面だけというのは少し正しくないかもしれません
それだけではないと言ったらいいのでしょうか
その薄暗く狭苦しい和室に女の子が一人寝かされています
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私が和室におそらく正座で座っているのです
その膝の先、拳二つ分くらいの間を開けて
女の子の顔の右目側が手前に見えるような形で
薄っぺらな布団が敷かれ、その子が横になっていました
夕焼けが漏れ出た障子がその女の子を隔てた向こう側にあり
逆光のようになっているために顔はよく見えません
そして、その子が一体誰なのかを私は全く思い出すことができないのです
ただそういった場面だけが自分の記憶の中に残っていて
それが自分の家であること
敷かれた布団の中に女の子が寝かされていることは覚えているのに
それがどんな人でどんな声をしているといった詳細は
思い出そうにもどこかでつっかかったように
記憶が出てこなくなってしまいます
そもそもその記憶には声といった音の情報が欠落しているのです
それこそ一枚の写真のように場面の情報だけがあって
その前後のあらゆる情報が抜け落ちてしまっている
簡単に言えばそのような一場面としての記憶だけが
自分の家に関する記憶として私の中に居座っているような
そんな状態なのです
思い出すたび不思議な気分になります
私は何をしていたんだろう
何を話しただろう
おぼろげながら何かを話したような記憶はあるのです
ただどうしても思い出せない
しかし不思議とそれに対して悲しいとか寂しいとか
あるいは恐怖症のような
そういった感情はあまり湧いてきません
不思議と言うならそれは恐怖です
恐怖というのが一番近い感情かもしれません
私の中でその思い出は理由もわかりませんが
恐ろしい記憶としていつまでもこびりついています
怖い
それはとても怖い記憶なのです
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とても嫌な記憶なのです
そんな嫌だったという感触のようなものだけが
私の中にいつまでも残っています
私の家は宮崎県の山合いの小さな村の中にあります
すすけたような色合いをした木造の平屋で
河原吹きの屋根の上にはところどころに大きな石が乗せられていました
これは私の家に限らず
周りにあるいくつかの家でも同じようなことが行われています
雨風に耐えきれず落ちてしまった屋根瓦の代わりに
手頃な大きさの石を乗せて対処するのです
本当は応急処置的な意味合いが強かったのでしょうが
ここらではわざわざ屋根を施工し直すような家の方が珍しいと言っていいと思います
もちろん長い目で見たらそんなことをしている方が不便なことは多いのでしょう
現に私の家でも屋根は石を置いているところから痛み
天井には人の頭ほどの大きさの黒ずんだ点がいくつもできています
雨漏りによって木でできた天井は底の部分からじゅくじゅくと腐っていくのです
だから私の家の中はいつも湿っています
ジメジメとした空気がいつでも充満して息苦しいような感じがします
日本家屋なのですから本来は給放湿性もそれなりにあるはずなのですが
服がなんとなく肌に張り付いて寝転ぶと畳や垢などの粘ついた感触がまとわりつくような
じっとりとした湿気をいつでも感じているのです
多分湿気を調節するとか空気を入れ替えるとか
家が家として持っているそうした機能がこの家にはもう失われているのだと思います
例えるなら死んでしまった人が退社も何もせず腐っていくような感じでしょうか
おそらくもう家として死んでいるのです
暗くて湿っていて臭い和室の畳のイグサの香りなんてものはとうに失われています
土や木の刺繍とそれから何とも言えない人間の生活臭がこもってドロドロと発光しているのです
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玄関の前に立ちます
扉は引き戸になっていて木枠の中にもやもやとしたすりガラスがはめ込まれています
取ってというよりも指をかけられる程度のへこみが扉の右側についていて
それを左方向に引きます
ガラガラと気持ちよく開くことはまずありません
どこかで引っかかるような感触がするので力を込めて半ば無理やりに開けなければなりません
扉を開けて家の中に入るとそこは狭い玄関です
至るところにクモの巣が張られており
砂や綿ぼこりが隅の方に溜まっています
あがりかまちの角の部分が一箇所だけ削れたように凹んでいて
すすけた茶色の色合いの中でその部分だけが薄暗く変色していました
靴箱などもないので靴がいつでもぐちゃぐちゃに置かれています
玄関に入って左の隅には乾ききった泥がこびりついた黒い長靴が並べられているのですが
使われているのを見たことは一度もありません
きっとあの長靴の中にはクモの巣や砂やそんな汚らわしいものがじめじめと堆積しているのでしょう
もしかしたら気持ちの悪い虫なども入っているかもしれません
家の中の埃や髪の毛に混じってよくザトウムシの足や黒虫の死骸が落ちているのです
靴を脱いで玄関から廊下に上がります
廊下は板張りでなぜか所々にデコボコとした凹凸があります
掃除などがされているはずもなく裸足で歩くとじゃりじゃりとした感触がします
昔はそれなりに綺麗だったのですが
暗くて足元のあたりはよく見えないのだけれど
もし明かりをつけて廊下を見たらさぞ汚いのでしょう
羽ばきの上には埃が積もり
壁などは手垢がついて変色しているかもしれません
廊下をまっすぐ歩いた途中
左側の壁には木製の扉が一つついており
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そこは台所につながっています
なんというかとても神奇臭い場所でした
私が炊事をすることはほとんどなかったので台所もあまり使わないのですが
あれでは料理もしづらいだろうことは素人めにもわかりました
油のカスが至る所に散らばっているせいで
流しも鍋の周りもねちゃねちゃと汚れています
まな板の周りには小さな野菜くずが吹きもされずに溜まっていたため
常に嫌な匂いを放っていました
魚も野菜も何を切っても
あの酸っぱい腐敗臭と生臭さが混ざった何とも言えない匂いがします
小さな豆電球がまな板の上に一つついているのですが
料理中の講演としては非常に心もとないものだったでしょう
壁にぽつりと設置されている黄土色の突起をパチンと押すと
数秒の間を空けて電気がつくのですが
それもなんだかどんよりとしていました
卵の黄身が腐ったみたいな
淀んだ橙色の明かりが
臭い調理場の上にどろりと広がっていくのです
包丁やまな板にもきっとあの匂いは染み付いているのでしょう
あんな台所にずっと放り出されているんですから
たとえ硬い金属なんかでできていたとしても
少しずつあの空気がじわじわと中に入り込んでいくんです
たとえ丁寧に洗っても
そこに染み付いている淀んだ空気はきっと取れません
だから母の霧傷も治らなかったんだと思います
台所の先にはオフ錠とお風呂があります
このオフ錠がそれは臭いのです
私の家のそれは汲取式で流しなどもありません
ただ垂れ流されるものを受ける器としての役目だけを持っています
その器は私の家には一つしかないため
台弁も小弁も一緒くたに垂れ流されることになります
狭くて暗い穴の中から
思わずクラクラとしてしまうような臭気が吹き出して
そこら一帯に充満しているのです
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換気のための小さな窓は開いているのですが
そんなものでは気休めにもなりません
ものを食べて飲んで
味や栄養といった良いところだけを吸収して
残った絞りカスを排泄しているのでしょう
それがドロドロとした暗い穴の中に堆積して発酵して
そしてまた堆積するのでしょう
そんなもの恐ろしくて仕方ありません
そして祖父が聞かせてくれたお話です
この世界にガキとして生まれてしまったものの中には
どんなに担えていても
糞便しか食することのできないガキがいるそうです
飢餓と苦しみに喘ぎ
臭い臭いと泣き喚きながら
ウジのうごめくクソを咀嚼し
小便や下痢の混じったそれらをぐちゃぐちゃとすする
だからオフジョウとはガキの型代でもあるんだと
シワの多い顔を悲しそうに歪めて話してくれました
もしあの穴の中にそんなガキがいたら
暗い暗いよどみ切った穴の底で
骨と皮だけになって腹が不自然に膨れた者たちが
涙を流してもだえ苦しんでいたら
そう思うとあまりにも怖くて恐ろしかったのでした
だから幼い私が便を垂れる時は
いつも目をつむっていたことを覚えています
ただ隠して自分の心の外に追いやる
恐ろしいことに対して
あの頃の私にできた対処法はそれだけしかなかったのです
そんなオフジョウそして台所につながる扉の向かい側にも
先ほどの廊下を隔てて一つの扉があります
つまり玄関から廊下を見ると
両側の壁に扉が一つずつ向かい合わせて設置されているような形です
左側の扉は台所でしたが
右側の扉は仏間につながっています
扉を開けると真正面に貧相な仏壇が見えます
そして仏間に入って右側の壁には薄間があるのですが
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そこを開けたことはありません
あまり仏間には入りたくなかったのです
仏間にはいつも祖母がいました
祖母はいつもボロボロの古着布を着ています
このあたりではしっこと呼ばれる綿梨の座布団を仏前に敷いて
昼も夜もそこに背中を丸めて座っていました
時折祖母は思い出したかのように歌を歌います
丹の絡んだガラガラの声で
何を歌っているのかはほとんど聞き取れないのですが
おそらくは何かの童謡だと思います
調子も外れていて正直聞くに絶えないものでした
祖母は毎日毎日そうやってデタラメに歌を歌っては
一晩中そこで泣き明かすのです
とうに肌も髪も油などなく
かさかさに乾いているのに涙は枯れないのでしょうか
とうに声も舌も潰されているのに
祖母はまるでダダをこねる子供のように
おうおうと泣き喚いています
なんだかその声を聞いているとこちらも悲しくなってしまうので
いつも仏間の扉の前を通るときは早足で歩きます
扉一枚を隔ててもその泣き声や叫び声はこちらに聞こえてくるのです
そしてそれら台所と仏間につながる2つの扉を通り過ぎた先
廊下の突き当たりには4枚の薄汚れた襖が立っています
2枚ずつの襖が真ん中にある太い柱で仕切られているような形です
これらはすべて襖につながっており
この襖が私の家の中では一番広い場所なのです
ただ広いと言っても鷹が知れています
壁にはいくつもの茶段数が並んでいたり
長餅が積み上げられていたりするので
むしろ狭苦しいような圧迫感さえ覚えるほどです
あの長餅には一体何が入っているのかと
幼い私はとても気になっていました
幼子から見たら木製の重く大きな長餅は
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それだけで興味を引くものだったのです
何度か父に聞いたことがあるのですが
結局教えてくれることはありませんでした
あれの中を見ようとすると
どこから見ていたものか
父が血相を変えて飛んできて
私を殴って叱りつけるのです
なぜかいつもあと少しのところで気づかれてしまうのでした
今にある家具はそれらのタンスと長餅と
あとは部屋の中央あたりに置かれたこたつだけでした
こたつは季節を問わずそのまま出されています
こたつ布団もずっとそのままです
もしかしたら何かの刺繍が施されていたりしているのかもしれませんが
今は色も抜けて
手垢や汚れが染み付いて
よくわからない肌色と黄土色のマダラ模様になっています
人間の油と土砂物と
それからこの家の刺繍の
とても嫌な匂いがします
こびりついた土砂物が固まって
布団のところどころでザラザラとした感触がしました
洗えばいいのにといつも思うのですが
このこたつはいつまでもぐずぐずと今にとどまっています
昔はこの今でよく遊んだものでした
シャレた遊び道具などは昔からありませんでしたが
ただ走り回っているだけでも非常に楽しかったのです
私には1歳年下の弟がいました
私にとって年下の家族はその弟だけだったので
私が特に彼を気にかけていたのを何となく覚えています
弟は私と違って運動ができたため
木登りでもねんがら打ちでも
体を動かす遊びをすれば彼は夢中になり
そしていつの間にかどこかへ行ってしまうのでした
山を分け入って夕暮れの森の中を探し回ったことも
幾度となくありました
今はもう見る影もありません
体を動かすどころか物をはむこともできないのです
だからいつからか母は弟のために
特別に料理をこしらえていました
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納豆冷えと
あとは少しの麦味噌を雑炊のように茹で炊いて
それをぐちゃぐちゃと潰したものだと思います
ひとさじずつ冷まして
弟の口に押し込むようにして与えるのです
母は食事のたび
芋や米粉の粥を甘味がするからと
お腹いっぱい食べていたかつての弟の話をしては
大粒の涙を流しながら笑います
私はいつも目をそらしていました
祖母の姿を思い出してしまうからです
ただやはり私にとっても弟は大切な存在だったのです
弟を除いたら私の家族は祖父母と両親しかいません
だからこそ私はどこか漠然と感じていた寂しさのようなものを
弟と話したり遊んだりすることで紛らわせようとしていたのだと思います
だから私は
私の
私の家族は
あの女の子は一体誰なんでしょうか
考えてみれば不思議です
私の家族構成は先日の通り
祖父母と両親
そして私と弟
この6人家族であり
私の物心がついた頃からそれは変わっていません
そして私はあの夕焼けが障子から漏れ出た薄暗い和室の
布団だけが敷かれた殺風景な部屋のあの記憶を
私の家の記憶だと認識しているのです
だとしたら
私の家に敷かれた布団に寝かされていたあの子は
一体誰だったのでしょう
少なくとも親戚筋ではありません
私が知る限り
親類縁者にジョジと言える人は一人もいなかったと思います
親類の中では私と私の弟が一番に若いのです
その次に年齢が近い人はというと
おそらく一回りほど上になると思います
では近所の誰かか
いいえそれもおそらく違うのです
そもそも私の家に親族以外が招かれることなど
ほとんどありませんでした
だから誰か別の家の人が来ていたのなら
それを忘れているなんてことはまずないと思います
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あの記憶は一体何なんだろう
一番信憑性が高いのは記憶の祖母でしょう
親戚かあるいは友人か
とにかく自分が会ったことのある誰かの姿を再構成して
自分の記憶の中でのみ作り出した
一種の幻覚のようなものであると考えれば
筋は通るのかもしれません
しかしそれにしては記憶があまりにも鮮明なのです
一場面の記憶でしかないのにもかかわらず
自分の中で奇妙なほどに生々しい質感を持って
あの光景がいすわっています
畳と畳の間に挟まっていた綿ぼこり
布団の向こうに見える障子のさらに上
投げしのあたりから垂れる雲の巣の影
掛け布団の端に留まったハエ
普通の思い出でもなかなか想起できないような
露骨なほどに詳細なところまで
私は鮮明に思い出すことができるのです
それに記憶の中での私は確かに
あの子と会話をしています
いや最初に書いた通り声や音に関する情報は
この記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっています
私の中でその場面はとてもとても静かなものなのです
ただ何かを話したのだという記憶というか
実感はしっかりと残っています
そしてその感触は私にとってとても恐ろしいものなのです
例えるなら夢の記憶でしょうか
何か怖い夢を見た後に目が覚めたとしましょう
心の中には先ほどまで見ていた夢の後味が残っている
そんな時このようなことがあったから怖い思いをしているんだ
という因果は多くの場合で抜け落ちてしまっているのです
ただ恐ろしいという感情だけが一つの実感として残っている
いわゆる悪夢を見た後のようなそんな感じに近いです
鮮明でありながらどこかぼんやりとしている
これらはまさに私にとっては遠い夢のような記憶なのです
あの子は誰なんだろう
あの子と何を話したんだろう
30:00
私は何を言ったんだろう
そしてあの場所は
障子から赤い夕日が漏れている薄暗く狭苦しい和室
どこまでも静かなあの部屋は
ぶつま
そういえばあのぶつまにあるふすまの向こうにあるあの部屋はどうだっただろう
そう考えたところで私は自分の考えを打ち消します
そもそも私はあの部屋に行ったこともないんだから
祖母がいつまでも座っていて泣き喚いているのが嫌だったんだろう
それにあの和室がぶつまに隣接しているのなら
薄っぺらな汚れたふすま越しにその泣き声が漏れ聞こえているはずじゃないか
そんなに静かな記憶として残っているわけがない
そこで私は思い出したのです
私は一度だけあのふすまの向こうに行っています
少しずつ遠くにあった記憶を手繰り寄せる
あれは私が小学6年生の時のお盆のことでした
夏の終わりの着ていたまぶりが背中に張り付くような
ひどくじめじめとした日です
西の林を越えたところにある恩母のお堂から戻ってきた私は
家の玄関の前に立ちます
私の家は宮崎県の山合いの小さな村の中にあります
すすけたような色合いをした木造の平屋で
瓦吹きの屋根の上にはところどころに大きな石が乗せられていました
これは私の家に限らず周りにあるいくつかの家でも
同じようなことが行われています
雨風に耐えきれず落ちてしまった屋根瓦の代わりに
手頃な大きさの石を乗せて対処するのです
本当は応急処置的な意味合いが強かったのでしょうが
ここらではわざわざ屋根を施工し直すような家の方が
珍しいと言っていいと思います
屋根を直してはいけないのです
もやもやとしたすりガラスのはめ込まれた玄関の扉は
たてつけが悪いのか強引に力を入れないと開きません
利き手を扉の右側のへこんだ部分にかけ
力を込めて左側に引くのです
33:02
ゴトゴトと引っかかるような音を立てて扉は開きます
雲の巣が張りほこりをかぶった玄関が見えました
履いていた造理を脱いで廊下に上がると
ギシリという床板の軋む音とともに
じゃりじゃりとした感触を裸足に感じます
廊下の両側の壁には木製の扉が一つずつついており
左は台所とオフ城に
右は仏間につながっています
その扉の前まで歩いて右を向く
目の前には仏間につながる扉が見えます
なんだかとても静かです
祖母のガラガラの泣き声も
丹が絡んだ歌声も何も聞こえません
仏間に人がいる気配すらしませんでした
案の定扉を開けても祖母の姿はなかったのです
薄っぺらい座布団だけが仏壇の前に残っていましたが
その上にいつも背中を丸めて座っているはずの祖母はいませんでした
仏間に入りそして後ろ手に扉を閉めます
扉を閉める直前
台所とオフ城につながる扉の向こうから
かすかに祖母の泣き喚く声が聞こえてきた気がしましたが
扉を閉めると再び何も聞こえなくなりました
仏間に入って右側の壁には薄間が取り付けられています
正面にある仏壇や座布団から目をそらし
右の方を向き私は薄間の前に立ちます
薄間は今につながるそれとは違い不自然に感じるくらいに綺麗でした
汚れていたり色褪せたような印象はほとんど感じません
私は取っ手に指を引っ掛けするすると薄間を開きます
玄関の引き戸とは違いそれは拍子抜けするほど簡単に開きました
薄間の先には四畳ほどの薄暗い和室が広がっていました
向こうの壁は障子になっています
電気はついていませんが不気味なほどに赤い陽光がぼんやりと障子越しに差し込んでいました
36:05
その薄暗く赤黒い和室の中心には色の褪せた汚くて薄い布団が敷かれていて
中に小さな女の子が寝かされていました
私は和室の中に入り薄間を閉めてその布団の前に座ります
正座をしたその膝の先 拳二つ分くらいの間を開けて女の子の顔の右目側が手前に見えます
夕焼けが漏れ出た障子が逆光のようになり顔はよく見えませんでした
私もその子も何も喋りませんでした
しばらく私はただそこに座っていたのです
女の子はこちらに気づいていないのかあるいはこちらのことをまるで意に返していないのか
私の方を見向きもしませんでした
とても静かでした
おそらくは数分長くても10分程度だったのでしょうが
とても長い時間が過ぎていったように私には思えました
そうしているうちに目が慣れてきたのですが
暗闇の中で見たその女の子の顔は私の知るどんな人とも異なっていました
記憶違いではなかったのです
5歳か6歳くらいでしょうか
私や私の弟よりもずっと小さいのでしょう
彼女はずっと目をつむっていました
眠っているのでしょうか
それとも私はとてもとても長い沈黙の後でその女の子に話しかけました
君はどこから来たの
彼女はゆっくりと目を開いて首だけをこちらに傾けて
私を見ました
遠い夢のような記憶の中にいた
ずっと開けたことのなかった襖の向こうにいた
薄暗い部屋の中で敷かれた布団に寝かされていた
私よりも弟よりもずっと若い
私の知るどんな人とも違う顔のその女の子は
39:00
白くただれた口を開けて
お前も連れて行こうかと言いました
私はあまりにも怖くて恐ろしかったので
立ち上がって後ろの襖を開けて和室を出て
その記憶を遠くに隠して忘れました
ただ隠して自分の心の外に追いやったのです
幼い私にできることはそれしかありませんでした
もうあの子のことを知っている人はいないのでしょうか
そう思うと少し寂しいような気もします