阪神タイガースの暗黒期
はい、冬のライオン。お後がよろしいようで、2つ目。文ガチャ、そして、つばき庵を配信しております。日本ポッドキャスト協会、つばき雷道です。
えーっと、今回は野球に関する話をしていこうということなんですけれども、今言ったように、いくつかの番組を、ポッドキャストをやってるんですけれども、ほとんど野球の話をしたことがなくて、
唯一思い当たるのは、38年ぶりのあれのあれの後ぐらいにちょっと話してるかなぐらいですね。
ですので、ほとんど話したことがないのに、38年ぶりのあれのあれを話してるということは、阪神タイガースのファンなんですけれども、そもそも阪神タイガースのファンになったのが、
これがファンと言っていいのかって話になってくるんですが、子供の頃、小学生の時だったので、1980年、81年、82年ぐらいかなに、クイズ番組で、
日本のプロ野球が2リーグ制になっていこう、日本一になってないチームはどこでしょうみたいな問題の答えが阪神タイガースだったんですね。
その当時ということですけれども。で、僕全然野球に興味なかったんです。で、父親は巨人ファンということで、巨人が一番有名なチームで、
多分次に有名なのが阪神だなぐらいの印象しかなくて、で、その阪神が日本一になったことないんだっていう意外性というのがあったのと、
ちょっとかわいそうだなと思って応援しようかなって思ったのがきっかけなんですが、先ほども言いました通り、野球にそもそも興味がなかったので、
ただ一方で野球が好きな人が当たり前に多い時代でもあったので、どこのファンって聞かれることはあるのが当たり前という時代でもありました。
なので、どこかと聞かれれば阪神ファンと答えるという程度だったんですね。で、その程度のまま85年を超えてしまいまして、
38年前のあれのあれを超えてしまいまして、気づけば世の中ファミコンブームで、ファミスタ、当時の名前でいうとファミリースタジアムというのが1986年に発売されて、
翌年にファミスタ87というのが発売されました。僕が多分やり始めたのはファミスタ87からで、そこからだんだん阪神をちゃんと応援するようになるんですね。
そのちゃんと応援した期間というのは大体10年間ぐらいで、その後は元に戻って聞かれれば阪神ファンと答えるという程度のファンとなっていきました。
で、僕が積極的に応援してた1987年から1996年ぐらいっていうのは、阪神タイガースの暗黒期です。
厳密に言うか、もう少し言うとその後6年間ぐらいなので、全部で16年間ぐらい暗黒期が続いております。
この期間のペナントレース、セントラルリーグでの順位というのがですね、順位だけ言ってきますね、87年から。
6位、6位、5位、6位、6位、2位、4位、4位、6位、6位、5位、6位、6位、6位、4位。
2003年に優勝してるんですけれども、その間Aクラスに入ったのが一度だけという暗黒期。
僕が応援してた時期の中で唯一Aクラスに入ったのが1992年ということになるんですけれども、
暗黒期の順位と若手選手
この暗黒期の阪神タイガースってどんな感じだったのかっていう話をしていこうかと思うんですが、
僕が割とちゃんと見るようになった前年の86年に、3番バース・4番カケフが相次いで、9弾を去りました。
ちょっと正確じゃないかもしれないですけど、確かそのはずです。
1985年の優勝した年に、監督の吉田義雄が言っていたのが、野球の好きな方が聞いてると思うのでわかる表現だと思うんですが、
勝率5割よりも上に来てる部分のことを貯金という言い方をするんですけれども、貯金は若手の育成に使っていくみたいなことを言っていて、
その時の阪神タイガースの若手というのは、王の久し、和田豊、中野下の名前忘れちゃいましたね、という3人がいました。
中野王の和田ですね。背番号が026ですか。
この絵が阪神少年隊と言われてたんですけれども、この3人プラスアルファでヤギヒロシがいるというような感じでした。
ヤギは後々4番も打ったりするような選手ではあったんですけれども、
僕が応援しだした頃っていうのは、1番王の2番和田で中野が6番あたりを打ってるか代打で出てくるかという感じで、
吉田よしおが育てるとした選手は割と小ぶりな選手が多かったなというような印象があります。
本当に6位、6位、5位、6位。最初の6位、6位が村山実っていうね、ザトペック東宝の長島茂雄のライバルだった男という言い方でよろしいでしょうかね、が監督してたんですけれども、
その後は中村監督、中村勝博監督というのが長年監督をやったんですけれども、この方の時はずっと負けっぱなしというチームで、三担たるものだったんですけれども、
私が大学に入ったのが1991年で、実は僕大学東京の、僕自身は山梨県の出身なんですけれども、東京の大学に進学したんですが、
その大学、幼稚園から大学まで一緒で、僕は1年浪人してるので、大学では1個先輩になったという同級生がいまして、
彼の家が神楽球場の山梨側の内屋席に、シーズンシートっていうのかな、年間シートとかそういう言い方すると思うんですけど、席を持ってまして、
半身制の時は時々その友人が、ペアシートなんで2席あるので行くから行かないみたいな感じで誘われて、結構行ってたんですね。
そんな感じだったのは1991年、92年。私が大学1、2年。その友人が学年が1個上になっていたので、大学2年、3年ぐらいの頃ということになるんですけれども。
どん底ダメダメだったんですけれども、1991年にはそれまでにドラフト1位で獲得してきた選手がみんなピッチャーだったんですよ。投手力を上げたかったんですね、半身体がずっと。
なのでドラフト1位はずっとピッチャーを取ってきていて、ただそれなりにいい選手なんだけど、いいピッチャーなんだけれども、チーム自体が強くないので、あまり結果を出せてないというような感じだったんですが。
この1991年という年には、中込、ゆふね、野田、猪又、笠井というドラフト1位。これがこの年までのドラフト1位かな。ゆふねが多分この年のドラ1位だと思うんですけど。
この5人が連続関東勝利をするという、結果的にこのシーズンも6位だった年ではあるし、当時130試合か135試合だったと思うんですけれども、80に敗してるという。
たぶん武士軍団に軟式野球で負けたりしたのもこの頃じゃなかったかなと思うんですが、そのぐらい弱かった時なんですけれども、この時の唯一の巧妙と言えるのがこの5人のピッチャー。期待してドラフト1位で取ってきたピッチャーが連続で関東勝利をしたという。
本当に心に残る僕にとってはですね、5試合があったなというのがあったのと、それが巧妙になったというか、翌年1992年には暗黒期に唯一2位にまで行った年があるんですけれども、この年は皆さんご存知の新庄、そしてあの当時を知っている人はみんな覚えているであろう亀山という2人の外野手が大変活躍して、
椿雷道の応援離れ
非常に盛り上がって、さらに当主人は先ほど言った5人もいましたし、お妻に田村という絶対的なお妻のピッチャーもいましたので、結果的に2位にまで至るという、すごいこの前後5年間ずつぐらい地獄のような思いをしていた私にとってこの年だけは楽しかったなというシーズンになりましたね。
ちなみにこの後も4位、4位、6位、6位となっていくんですけれども、1995年にはですね、さっき言った1991年、ドライチ、ゴース、ピッチャー、連続関東勝利のあったにも関わらず82敗した年を上回りまして、84敗という記録を出しているんですけれども、この年ぐらいから多分気持ちが離れてきていたと思うんですけれども、
1985年は先ほど言ったように、僕個人の個人史としては社会人1年目という感じなので、高校大学はわりとしっかり野球半身戦を見てきてたのが、飲みに行ったりとかも増えてきたりとかで、だんだん関心が薄れていったかなというような時期になって。
僕の中でも2000年までには1回ぐらい優勝するんじゃないかと思っていたのが、全くダメな感じだったので気分も離れていって、ずーっと離れてしまったんですけれども、ここ最近はね、佐藤テルとかが入ってきて面白いかなと思ってたら、それが去年で今年、38年ぶりのあれのあれということになったので、
久しぶりにリアルタイムで野球を観戦し、優勝した日の翌日のデイリースポーツを買いに行きみたいな、半身タイガスファンになった時にはもう85年より前だったので、一応優勝はあったんですけれども、ちゃんと意識して見てた初めての優勝になったなっていう話ですかね。
ただ、応援してましたよこの頃。一番オーノ、二番和田、三番がオマリーとかのイメージかな。四番がオマリーかな。ヤギがいたり、シンジョウがいたり。一番オーノが途中でホークスに移ったりして、亀山が一番打ったりみたいなこともありつつで。ピッチャーはさっき言ったような面々がいて。
87年、8年、9年ぐらいのところで言うとセシルフィルダーとかね。バースがいなくなった直後はデュパートジョーンズって日本のプロ野球で背番号00を初めて付けた選手ですけれども、そんな選手がいたりとか。その頃はまだキイオがいたのかな。ピッチャーではね。
そんな感じで。85年の優勝を経験してる。今回の優勝の監督、優勝監督になった岡田明信さんも四番で打ってたのかな。この87、89ぐらいは。みたいな選手がいたりとかね。ヘッドコーチの平田もいましたし。懐かしいですね。名前出してるだけですけれども。
ただもうこの暗黒の10年を応援してきて優勝を見ずに阪神タイガースから気持ちが離れてしまったんですが、その後ね。ご存知の通りリーグ優勝は星野監督と野村監督の時ですか。ちょっとわかんないな。違うかもしれないな。何分見てなかったんでわかんないんですけれども。2回リーグ優勝は遂げてるんですけれども。
そこの時はやっぱり気持ちが離れてて。85年の優勝と一緒で、僕はあまり野球に興味を持ってなかった時代なので見てなかったんですけれども、今年は見れてよかったかなということと、その背景にこの10年があればこそ離れた時期があるので、あのディープな阪神ファンの人にはもう何も言えない恥ずかしくてこんなの配信に載せてる場合じゃないって感じなんですけれども。
まあでも面白かったんですよ。弱いは弱いなりにね。芸人で引退された神岡龍太郎さんが熱心な阪神ファンで、よく阪神が弱いけど応援してるっていう話をよくしていて。
孫の幼稚園の運動会を見てるようなもんで、走っただけで嬉しい。転んでも心配しながらも立ち上がったって喜ぶみたいな。それで結果的にビリでも全然よくやったっていう気分だというようなことを言ってたのを聞いて、分かるような分かんないような気分もあったんですけれども。
まあでもそれでも応援してたなーっていうのはなんか非常に懐かしいね。20世紀の話ですよ。まあそんな感じでいいですかね。15分ぐらい話してるのかな。
気持ちをね、新たに来年からの新しいあれに向かってね、僕もファンとして応援していきたいかなと思います。阪神タイガースファンとは言っちゃいけないかなっていうぐらいの応援度合いの椿雷道でした。ありがとうございました。