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建コンのアレこれの建コンのアレです。こんにちは。
暑いですね。暑いですね。世の中、世の中というか関東圏は35度を超える猛暑日が続いております。急に暑くなりましたね。
1週間前ぐらいは、ちょっと雨が降って涼しい日とかが交互にあるような感じで、
あっちの方が体にはちょっと、私はきついなーって思いながら過ごしてましたけども、暑いは暑いで大変ですね。
今日とか37度、明日は38度の最高気温が予報されておりますが、このポッドキャスト番組は建設コンサルタントという分かりにくく、つかみにくい業界について、あれこれと語っていく番組です。
アップルポッドキャストなどのポッドキャストアプリのほか、YouTubeでもご視聴できます。
最近ちょこちょこですね、アレのアレこれという私の個人的なエピソードを語っていく回というかシリーズをアップしてるんですけれども、今回もその流れでですね、アレのアレこれ第4弾をお届けしたいと思います。
エピソードを1,2,3,4と順番的には第4弾になるんですけれども、時系列的にはまたちょっと戻ってですね、就職活動の話にちょっと関係するところなんですけども、
アレのアレこれの第3弾は、もともとODAに私、関わりたいと思って就職活動をしていて、それでODAの担い手として建設コンサルタントという業界を志望した。
だけど、実際には国内の部署に配属をされて、16年間国内の技術者として働いてきて、それで16年目の今年、今年というか去年ぐらいからそういう海外の案件、ODAに携わる機会を得て、それで思うことみたいなところをちょっと話したりしてきたんですけれども、
実はですね、その就活の裏エピソード的なものがありまして、内定をね、私がもらった直後にある全く別の企業を知って見つけて、で、しまったって思ったんですよね。私がやりたいことはODAじゃないかもしれない。
この会社がやってることこそ私がやりたいことかもしれないと思ってね、すごく後悔をしたっていう、それがマザーハウスっていう会社なんです。
マザーハウスっていう会社は、一番大きな商品はバックのブランドなんですけどね。
なんでバックのブランドにそんなに私が憧れたかとかいう話をちょっとしていきたいと思うんですけど、本当にね、内定を、私が今いる会社の内定はもう承諾をしてたんですけどね。
その内定を辞退してこっち行こうかなんてこともね、ちょっと考えたぐらい、そのビジネスモデル、マザーハウスっていう会社のビジネスモデルに強烈に魅力を感じて、
実はそこから内定があって、そこから内定があってってごめんなさいね。
健康の会社の内定をもらっている状態で、実際に入社するまでの間に、そのマザーハウスの社長さんと話す機会があって、
イベントに来てた社長さんにちょっと声をかけて、実はこんなこと悩んでるんですけど、みたいなことを話して、
それでちょっと迷いが晴れて、やっぱり健康の技術者、開発コンサルタントの技術者になるぞーって言って入社をしたみたいなこともあるんですけど、
その辺の出来事の話をしたいと思います。
マザーハウスの誕生
まず、マザーハウスという会社はどういう会社かというと、都城国から世界に通用するブランドを作るっていうことを理念に掲げている日本の会社です。
出発点としてはバングラデシュという国。バングラデシュはね、ご存知の人もいるかもしれませんが、インドの東側にある国ですね。
ベンガル語っていう言葉が話されてますけど、そこでジュートっていう風に呼ばれるアサを使った生地のバッグを作って売り出したのが出発点です。
2006年に創業しています。
その後バングラデシュで獲れる牛の皮を使ったレザー小物、皮製のバッグとか皮製のお財布とか小銭入れとか、そういうものに商品展開をしていって、
今ではそのバッグとかレザー小物に加えて、お洋服とかジュエリーとか、あと最近ではスイーツ、チョコとかアイスとかも手掛けているようなブランドです。
ちなみに私の結婚指輪もこのマザーハウスで買いました。
この指輪はね、インドネシアで作ってます。
インドネシアのジョグジャカルタの方で金細工、金って言ってもね、15金っていう、
いろんな国でバングラデシー以外に、生産地もバングラデシー以外にネパール、インド、それからインドネシア、それからスリランカ、ミャンマー、主にアジア圏の国で作ったものを届けてると。
理念がね、最初に言ったみたいに、途上国から世界に通用するブランドを作るぞっていう理念でやってる会社で、実際、発展途上国と言われる国の中にある魅力的な素材ですね。
これは山口恵理子さんっていう創業者兼、今社長の、ずっと社長の山口恵理子さんっていう人のポリシーの一つでもあって、
眠っている素材、本当は価値があって魅力があるんだけど、その高い価値を見出されてない、認められてないようなものを見つけて、
それをデザインをもってして、美しくてかわいくてかっこよくていいものに仕上げて、そうすることによっていいプロダクトを世界中に届けたいっていう、そういうことでですね、やってるんですけど、
いろんなアジア圏の国の素材を使ったいろんな商品を作ってるということですね。ネパールとかインドだったらコットンの生地による洋服とか、
インドネシアはさっき言ったみたいに金細工の技術が昔から、伝統的な金細工の技術があって、それを応用した金のジュエリーですね、指輪とかネックレスとか。
スリランカは宝石ですね。宝石もね、本当に宝石の希少価値として高いものではなくて、宝石市場、木金属?宝石の市場ではちょっと安めに扱われているような価値が低いって言われているものなんだけど、
よく見ると色が可愛いねとか言って、それをデザイン性を持って2トーンカラーの綺麗なイヤリングとかにしてるのがスリランカのプロダクトですけど、ちょっと語りだすと長くなっちゃうんですけど、
店舗は都内の各省にもあるし、横浜、札幌、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、広島、福岡と日本中にお店がありますので、
これを聞いている皆さんのお住まいの近くにもマザーハウスっていうお店あると思いますので、興味があったら見てみていただきたいんですけれども、そんなマザーハウスにね、
なんで私が魅力を感じたかみたいな話をちょっとここからしていきたいと思うんですけど、まずマザーハウスとの出会いは、私が内定を承諾した2008年の5月ぐらいだと思うんですけど、
当時、私が最速の先行に乗ってたわけじゃないのかな、5月に内定を承諾したってことは。面接4月にした記憶があるんだけど。
その翌月の6月ぐらい、2008年の6月ぐらいに新聞記事で知ったんですよ。私当時、新潟日報を公読してまして、そこにね、多分共同通信の記事が新潟日報に載ってたのかな。
で、一面、一面って本当に一面のその新聞の一番表の一面って意味じゃないんだけど、真ん中のどっかの一面か半面ぐらい使ってバーンって結構大きくね、マザーハウスの紹介をしている記事で、
当時のバングラディッシュの工場で川を対面する山口恵子さんの写真がドンって載ってたような記憶がありますけど。
でね、そこで私が見たのはどういうメッセージかっていうと、山口恵子さんっていうその創業者の人は、そのODAのような援助ではできないことがある。
で、私たちはその途上国っていうのが、助けを借りなくてももっといいものを作って世界に届けることができるっていうその可能性を信じてるので、
バングラディッシュの中途っていう素材に着目をして、これを使って素敵な可愛いバッグを作って日本に届けることから始めるんだ。
そういうことを言ってたんですよ。援助じゃねえぞと。ビジネスの世界でできることがあって、ビジネスの世界で価値を発揮することの方が現地の途上国のためになるでしょ。
彼らの力で価値を作って、彼らの力で市場経済の中で価値を発揮していって、自立をしていくっていうことができるはずだ。
それを信じてるんだっていうことを語ってたんです。記事の中で。私は本当に胸を打たれたか頭を打たれたかっていうようなショックを受けて、もう当時も私も短絡的で。
やべえ、ODAじゃない。援助じゃないじゃん。やるべきことは。みたいに思っちゃってね。すごく影響をその時受けて、どうしようって泣いてもらってね。
来年から社会人として、当時私は国内に配属されるって知りませんから、技術者としてね。ODAやっていこうって思ってたんだけど、違うかもしれない。私の選択が間違ってたかもしれないみたいなことを思ってね。
ちなみにそういう山口恵理子さんのそのフィロソフィー考えは、裸でも生きるっていう山口さんの著書がありますんで、興味がある方は読んでみてください。
で、なんかね、私がこう、助けてあげたいみたいな気持ちになってたわけですね。日本は先進国であると。
バングラデシもはじめインドなにやり、いろんなアジアに、アジアじゃないとこも含めてアフリカも含めて、発展途上国という国々があると。
彼らを助けてあげなきゃいけない。助けてあげたいって思ってたんだけど、山口さんの視点には、助けるとかじゃないじゃんみたいな。
助けなくたって彼らは自分でできるじゃんっていう、その力を信じる気持ちっていうものがあって、それに強い魅力を受けたんですね。
で、その年のお盆です。私が帰省した時に、私のおじっかは神奈川なんですけど、東京のマザーハウスのお店に行きまして、
当時はイリアテンっていうね、イリアテンも旧イリアテンっていう、1号2号ってあるんですけど、旧イリアテンに行きまして、夏の暑い日でしたね。
マザーハウスのビジネスモデル
で、柔道に作られた柔道のペンケースを買ったんですね。懐かしいですね。すごく狭いお店でした。倉庫をちょこっと改造したぐらいの感じの狭いお店だった記憶がありますね。
でも狭いお店の一角に、それでも品物を並べるだけじゃなくて、バングラデシの現地の工場の写真とか、様子を貼ってね、やっぱ土壌国ってこんな場所だよっていうものを伝えようとする意思を感じるっていうかね、そういうコーナーがあって。
あんな狭いお店なんだけど、商品を並べていないコーナーがあって、入ってって奥の左手ぐらいだったと思いますけど。
そういう感じだし、なんかね、ちょっと記憶曖昧なんですけど、ペンケースもオリーブ色のちょっと緑っぽいやつありますか?みたいな色のバリエーションをいくつか聞いたときに、そういうお店の作りなんでね、全部置いてるわけじゃないみたいな感じで。
でもその時の入屋店っていうのは、すぐそこがお店の倉庫だったんですよ。バングラデシから届いた商品をまだ詰めた状態で置いてある倉庫があるらしくて、ちょっと倉庫にはあるかもしれないんで見てきますとか言ってたたたたってね、倉庫に走って取りに行ってくださったんですよね、スタッフの人が。
懐かしいなぁ、あの真夏の、今みたいなね、暑い日だったっすよ。の路地にトーンって飛び出していった後ろ姿を覚えてますけど、確かそれで倉庫にはありましたって言って、緑色のペンケースを買った記憶があります。
そこでね、ペンケースを取りに行ってくださったスタッフの方は、実はもうそのマザーハウスを卒業していて、スリランカでタギルっていうアイルベーダーを使ったライフスタイルをちょっと体験できるようなリゾートホテルをスリランカで営んでるんで、タギルって全部小文字のアルファベットですけど、興味がある人は見てみてください。
アイルベーダーってマッサージのイメージありますけど、食事とかヨガとかね、いろんな体系のパッケージというかな、総合的な、医療の言葉なんですよね、現地では、らしいんですよ。
で、その体の調子を整えますみたいな、そういう感じのリゾートホテルを挑んでらっしゃいますけども、あのね、そういうのもあって、最初はフィロソフィー、哲学とかビジネスモデルに魅力を感じたんだけども、
そのうちね、スタッフの魅力にも取り憑かれていくわけですね、私は。どのお店に行っても、その視点、発展途上国の可能性を信じるっていうような視点に共感した人がスタッフをやってるんでですね、
どこに行ってもお話が面白くて、私こんな風に考えてるんですけどどうなんでしょうか?みたいなのとかね、現地で物を作るってどういう感じなんですか?とかね、そういう話聞くのがすごく楽しくて、一層素敵だなぁと思ってね、
オーディエの技術者なんかやってる場合じゃないのかもしれないみたいなね、そんな気持ちを徐々に抱きながら過ごしたんですけど、そういうモヤモヤをね、実際創業者である山口恵理子さんにぶつける機会がありまして、それが2008年の年末、本当に年末だったと思います。12月の暮れの方だと思います。
で、新潟の三越で、私当時は新潟の大学に行ったんですけど、新潟の三越でマザーハウスがイベントをやるって言うんですよ。もうドキンとしましてね、絶対行くって思ってね。まあもう年末でね、研究室とかもお休み入ってた時期だったと思うんで、もう速攻予約をして、予約必要だったか必要じゃなかったか覚えてないです。
行きましてね、これもね、確かね、JR東日本のシステム障害かなんか、新幹線のシステムの障害かなんかが起こって、上越新幹線が確か止まった日だったんですよ。それをまた高速道路に切り替えて駆けつけてくださったんですね、社長山口さんが。
そう、そんな記憶があります。あれもね、もし何かまた違って間に合いませんでしたとか来れませんでしたって言って、その時も山口さんと話せてなかったら自分の人生が変わったとは言わないかもしれないけど、変わったほどではないかもしれないけども、なんかちょっと疲弊をね、感じますね。
で、山口さんにさっき言ったみたいに聞いてみたんですね。記事を読みましたと。本も読んだかな、確か。その時、裸でも生きるって本が出てたか出てなかったか覚えてないな。でも少なくとも記事を読みましたと。あとね、ホームページに当時山口さんのブログがバーって載っててね、考えもいっぱいそのブログに書いてあったんですね。
こういうことをこういうふうに考えて、これからODAを担っているような会社で技術者としてやっていきたいって思った矢先だったんだけど、でもビジネスの可能性って言葉に強く影響を私受けて、ODAのような現状じゃない方がいいのかもしれないなって思ってるんですけどどうなんでしょうかと、そんなふうに聞いたんです。
そしたら山口さんが、記事でも講演でも確かにそういう発言を私知ってるとしているし、ただそれっていうのはどっちかというと、一部のその箱物のプロジェクトで、実際にねハードウェアとしての病院とか学校は作ったけども現地でなかなか機能が継続して発揮できてないと。
例えば先生がいなくなっちゃうとかね、医療現場としてなかなか活用されていないみたいな、そういうことをお見聞きして感じた危機感から、私はビジネスでやりたいと思ったんです。山口さんなんでそういうことを知ってるかっていうと、国連のインターンシップとかに行ってて、この創業する前にね。
だから日本のODAについてそう感じたということ以上に、UN、国連も含めた世界の援助っていう枠組みに対する疑問感だと思うんですけどね。私はそういう道を選んだ。
だけど、でもアレさん、あなたは機械の技術者としてODAに関わるんだとすれば、私がなんとなく感じた、発言の背景にあるね、その箱物っていうものとはまた別の場所で、別の技術で、きっとその現地の暮らしを良くするプロジェクトに関われるはずだと思いますから、私の言葉にそういうふうに惑わされないで、自信を持って技術者になってくださいって、そういうふうに言ってもらったんですよ。
私が今言った言葉は、山口さんの言葉をどれくらい再現しているかも20年近く前のことなんで、ちょっと自信はないんですけど、趣旨としてはそういうふうに背中を押してもらって、私はそれでね、すごく嬉しくなって、あ、間違ってなかったんだみたいな。
マザーハウスの成長とビジネスの可能性
なんていうか、16年経って思い出すと、自分可愛いなって思いますけど、もうウキウキしてね、あ、これでいいんだ、頑張るぞって言って、投資を燃やして、メラメラと、よし、じゃあもう素晴らしい技術者になってやるってこう思ってね、逆にこう気持ちがパーンって触れてね、あのウキウキして入社したわけです。
まさかその時私が国内配属になるとは知らないわけですね。数ヶ月前の冬の出来事なわけですね。そう、残念ながらそれで蓋を開けてみたら、はい、あれさん君は国内の部署ですとこうなったっていうのが話なわけなんですね。
で、どんな風にこれが続いていくかって言うと、結局ね、自分は途上国の暮らしに貢献したいなっていう気持ちを抱いたまま国内の部署に配属をされて、しかもね、皆さんもこれ聞いてる皆さんも、なんていうか実体験があるかもしれないけど、
あの、会社に入って直ちに技術者にはなれないんですよ。技術者にはなれないってどういう意味かっていうと、まあ、健康に入ってね、10年経ってようやく一人前だとかって言われたことある人いますかね。私は言われたことあるんですけど、あの言葉もすごい嫌いで、もう早く一人前になりたいんだけど。
でもね、やってもやってもなんか自分が一人前って思えない。もどかしい。頑張って学んで頑張って仕事しても知らないことがいっぱいあってできないことがいっぱいあってね、もやもやもやめするわけですよ。しかもそれで私は海外途上国の役に立ちたかったのに国内かと思ってね、このもやもやした気持ちである。
そんな、まあ2009年に私入社したのかな。2009、2010と過ごしてて。で、当時一方でマザーハウスはどういうフェーズだったかっていうと、2006年に創業をして、その新聞記事で知ったのが2008年。私が入社して東京に来たのが2009年なわけですけど、その頃ね、確かマザーハウスは入谷と戸越と、あと多分大歓山。
その3店舗ぐらいしかなかったんですね。皆さん、入谷、戸越、大歓山行ったことありますか?東京に住んでる人とか首都圏に住んでる人とか。いや私はマザーハウス以外の用事では行ったことないですね。入谷、戸越、大歓山、そういうようなマニアックな場所にしかお店がまだなかったっていう、そういう時代なんですよ。
それが2009年の私が入社した頃に、ちょうど新宿のルメネの中にお店ができて、池袋の東武百貨店の中にお店ができて、そっから横浜、表参道、銀座みたいな感じで、どんどんどんどん都内にね、お店が増えていったんです。
でもビジネスが拡大していったの。これまた面白い話なんだけど、本当に現地で手作りしてるんで、バングラディッシュで。当時まだバングラディッシュでしか作ってなかったんだけど、そのね、お店増えるのはいいけど生産体制が追いつかないみたいなことよく言っててね。新商品は発売するんだけど、このお店ではもう売り切れちゃってないですかね。よくあったんですけどね。
そう、それぐらいね、もうどんどん人気が出て、注目されて。当時社会起業家の代表っていうかね、典型例みたいな感じで、結構取り沙汰されてたと思いますけどね、山口さんね。本もポンポンと出したりなんかして。
そう、追い風が吹いていたと言ったら逆に失礼かもしれませんけど、世の中の注目もあったし、それもあって、どんどん拡大して。マザーハウスがどんどん頑張ってるなーって私の目に映ったんです。自分はウジウジウジウジと技術者にも慣れてない。国外の何かにも携わってないっていう一方でね。
そういうモヤモヤをね、マザーハウスを応援することで晴らすようなね、応援というかもはや追っかけですね、当時。だから新しい店舗が開店したら必ず行って、こんにちはとか言って。
そう、いつもは新宿のルミネ店でちょこちょこ顔出してるんですけどとか言って。またね、行ったら行ったで、皆さんスタッフの人が素敵だからね、いろんな話聞いてくれてね、こんな風にモヤモヤしてるんですみたいな悩み相談ももうあっちのお店でもこっちの店でも聞いてもらった記憶があります。本当に感謝しかない。
そうなんですよ。そんな風にしてマザーハウスをもたれかかるような感じで応援をしたりして、バッグもいっぱい買ったですね、当時ね。お財布も買ったりね。
あとそのユーザー参加型のイベントなんかもあってね、座談っていうシリーズでね、バッグの企画にちょっと携わったりとかね、応募して当選した人がグループミーティングを2回か3回かやって、それでバッグの企画、どんなビジネスバッグだったらいいかみたいな考える企画にも参加してみたい、応募してみたいとかして。
そんなんでマザーハウスに絡んでたんですけど、これがまた不思議なことにね、私がだんだんと技術者として自信をつけるに伴ってマザーハウスに強めに肩入れして、ちょっとこう中毒みたいになって追っかけしてた気持ちから自立していくっていうかね、だんだん自然と足を運ぶ頻度が減ってったっていう、そんなこともありましたね。
でも初期の頃はね、昔私のこのポッドキャストのエピソードでもインドに一人旅に行ったエピソードとか語りましたけど、マザーハウスのスタッフの人にもね、インド一人旅経験した人がいっぱいいて、どんなルートでどこから行きましたかとかね、宿とかどうしましたかとかね、旅の相談もいっぱいしましたね、そういえば。
とかいう感じで、時は経ちまして、直近のあれのあれこれで語ったように、私は16年目にしてODAに携わる機会に恵まれたんですね。
で、このエピソードを話そうと思ったきっかけは、その時を同じくして、当時よくお話をしに行った。もうね、別に商品を買うでもなくフラッと行ってお話ししてたんですよ。
当時お店も増えてたけど、そんなに人がごった返すほどお店にお客さんいなかったんで、私しかお客さんがいないみたいな時間がちょこっとあって、そこで無駄話とかよくしてたんですけど。
当時よくお話ししてたスタッフさんが、旦那さんのお仕事の関係とかで辞めてたんですけど、10年ぶりぐらいに復帰するっていうのをちょっと知りまして、
で、あの人マザーハウスに帰ってくるんだーなんてことを思ったらね、いろんなことがバーッと思い出されて、あ、そういえば自分16年越しの思いかなってODAに今ちょうど携わり始めたところだーとかね、いうのと、そのスタッフさんが戻ってくるっていうのがちょっと重なるところもあって、
あのー、ちょっとポッドキャストで話したいなーと思ってちょっと撮り始めたって心があるんですけど、その16年とかね、17年の変化っていうのは、やっぱそのスタッフさんとね、ちょっと個人的にもちょっと連絡取る手段があって、ちょっと話したりしてみると、やっぱ同じことを感じてて、何がっていうと、私もその前回のあれのあれこれの話したみたいに、
土壌国っていう言葉の意味ってやっぱ変わってるんですよね。もう16年で全然違ってるんですよね。で、日本という国のポジションも変わってる。昔は明確に日本は発展した国、バングラデシュは発展土壌国、みたいな感じで、まあ今でもねバングラデシュは発展土壌国ですっていうことかもしれませんし、日本は経済発展した国っていうことで、間違ってないのかもしれないんだけど、距離感がやっぱ違うんじゃないかなー。
みたいなことはすごく感じる。で、日本はそのうち助けられる側になるかもしれないし、土壌国から世界に通用するブランドを作るっていうのがマザーハウスの理念なわけですよね。
で、土壌国から世界に通用するブランドっていうのは、なんとなく当時ね、私には下から上っていう矢印を感じてたんです。上とか下っていう言い方をするのは非常に失礼かもしれないけど、でも発展していく過程をね、上に登っていく軸線上に捉えた場合に、すでに発展している国は上にあって、
その途中の国っていうのは下から上に段々段々発展しているその途中ですよっていうのが発展土壌という言葉の意味だとすると、その発展土壌にある国から世界に通用するっていう言葉は、なんとなく下から上に向かう矢印のイメージを感じてたんです。
で、逆に私がやるとか当時特に今とはまたさらに違った気持ちで憧れていたODAというのは、上から下っていう矢印を私は感じてたんです。すでに発展した国が発展途中、発展途上の国を助けてあげるっていう上から下の矢印を感じてたんです。
その前も話したし今でも思ってるんだけど、その上とか下っていう矢印の向きはすごくぐちゃぐちゃになってきてるというか、そんなシンプルではない感じになってきてるなーってちょっと私は感じてるわけですね。
で、それに比べてもインドとかインドネシアっていう国はGDPでも明らかにすごく上がってきているし、一方で日本のGDPは今後おそらく下がっていくであろうと。人口の減少にも伴って。いや下がんないかもしれませんけど。
マザーハウスの歩み
だから上とか下っていうね。じゃあGDPランキングバーって一から順番に並べたときに、それでも上と下っていうふうに見えてくるわけだけど、その上とか下のポジショニングって全然変わってくる。インドなんていうのはもう抜いてんのか?ちょっとわかんないんだけど。日本のGDPとインドのGDPってどうなってるんですかね。
そういうことを考えると、私が16年前にマザーハウスに感じた胸を打つような、頭をガツンと殴られるようなショック。都城国の力を信じて、都城国から世界に通用するブランドを作るっていうそのショックはまたね、色合いが違って感じるんですよ。
今、捉え直すとね。今の世界の環境で捉え直す。今の日本のポジションで捉え直すと、色合いが違って感じて。
改めて、昔の大世話になったスタッフの人が戻ってくるっていう時に、私は子供も生まれて、あんまりマザーハウスのお店に足を運ばなくなったんですけど、これからのマザーハウスってどうなっていくんだろうなって感じて。
ついこの間、最近私はODAってこれからどうなっていくんだろう?みたいなことを考えてたわけなんですけど、そっか、同じ流れでマザーハウスってどうなっていくんだろう?ってすごくそこに興味を感じてね。
で、その昔を知るスタッフの人が戻ってきたことで、きっとそのスタッフの人も考えて、そして戻る決断をしたんじゃないかなって思ってね。またね、もう一回その話聞きたいな、話したいなっていう気持ちが今湧いてるんですね。
裸でも生きる、もう一回読みたいなと思ったんだけどね。誰かに貸しちゃったのかってなくなっちゃってね。ちょっともう一回買うかな。そう、当時のマザーハウスってやっぱりね、変化しているはずだし、また求められるんだと多分思うんだよね。
でも、何だろうな、価値がなくなるとか減るとかって意味じゃなくて、間違いなくまず遠くにあるもの、アジア諸国の発展途上国、今のマザーハウスの生産地ね、と日本を繋いだり世界を繋ぐっていう、その繋ぐということそのものの価値は変わらないし、もしかして増えていくような気がするんだけど。
そこに、ま、わざわざ途上国っていうレッテルを貼ることがちょっと余計な色付けになったりするのかなーみたいな気持ちだけど、いやーでもそんな単純じゃないかもしれない。生産地もいっぱいある中で、全然フェイズがね、フェイズも特徴も違う。そんなことはマザーハウス自身がよく、もっと私なんかよりずっとよく知ってることだと思うんだけども。
とかいうことをね、もやもやもやもや考えたら、いやー面白いテーマだなー、ちょっと引き続き考えていきたいなーというかね、気になるなーと思って、私のその世界に対する理解、自分のODAに取り組む姿勢にも参考になるし、うん、ビジネスシーンでね。
2006年だからもうすぐ20周年なんですかね、マザーハウスは。そう、その20年の歩みの中でマザーハウスが世の中をどう捉えているかっていうことをね、ちょっとまた改めて気になるなーと思ったりして、そうか、これは私のあれのあれこれの一つの大事なマシンだったそういえばと思ってね、このエピソードを話してみたいと思った次第でございます。
えー、ちょっと語ってきて取り留めもないですけれども、あのマザーハウスというブランドのご紹介でした。私の会社にもね、いっぱいいます実はマザーハウスのバッグで通勤してる人、電車でもよく見るしね、あの、あ、これあのバッグ、たぶんね、ちょっと特徴、色合いも特徴的だし形もちょっと特徴的でね、あ、あそこで見たあのバッグマザーハウスなんだって思うんじゃないかって私思うんで、
あのバッグとかね、そういう小物に興味がある人はぜひちょっと見てみてください。どういうもの、どういうバッグを売ってるのかね、あの本当に街でよく見かけますから、あの、あ、私が気になってたやつマザーハウスだったわーって人もいるかもしれませんので、チェックしてみていただきたいなーなんてことを思ったりしまして、えー、今日は終わりたいと思います。最後まで聞いていただいてありがとうございましたー。