00:00
(♪ BGM)
健康のアレコレの健康のアレです。よろしくお願いします。
ちょっと、いささかごぶさたをしております。
あのですね、市町村の勉強がなかなかちょっと進んでいなくてですね、
シリーズに沿った回を上げるのにはちょっとまだ時間がかかっちゃいそうなんですね。
それで、あんまり時間をかけずに上げられるような番外編でちょっと時間稼ぎをしようと思っています。
それで、私いろんなポッドキャストを聞く方もすごく好きで、好みのっていうかお気に入りのポッドキャストがいっぱいあるんですけど、
その中でも一つのジャンルとして、ひとり語り系のポッドキャストってのは結構あるんですね。
かなり有名なやつは、有名だと勝手に思ってるんだけど、
どれくらい、私の身の回りにそんなにポッドキャストを聞いてる人が多いわけでもないから、有名かどうかわかんないけども、
「樋口清則の世界」っていうやつですね。
これは有名な古典ラジオ、アワードを取ったりしている番組のパソナリティの人、樋口清則さんがひとり語りをしているポッドキャスト。
その他にも、そういうんじゃなくて、私みたいな一般ピープル的な人がひとり語りしているポッドキャストもあって、
私が聞き始めた頃から聞いている番組は、「牛を忘れる」っていうムロさんっていう方がやってるやつとか、
あと「ラーメン餃子半カオス」っていう八番さんっていう方がやってるやつ。
それと、あと最近知ってずっと聞いてるやつがひとつあって、
「すべてにビビって気を使う」っていう岩谷さんっていう方がやってるポッドキャストで、
いずれも主に日常に感じたことを綴っていくような、まさにブログに近いような音声版のブログみたいな印象を受けるようなポッドキャストで、そういうの好きなんですよね。
今日はそんな感じで、私の日常で思ったことを、ずらずらっと喋っていくっていうことをやりたいと思います。
テーマ的なものはですね、特に私が今回のエピソードに影響を受けているのは、
「すべてにビビって気を使う」岩谷さんの、これ略して「全ビビ」って読んだと思ってたんですけど、
よく聞くと「すべビビ」みたいですね。「すべビビ」の岩谷さんのポッドキャストは、
03:03
結構生活と人の心に密着して着目したような、こんなことがあったんだけど、あの時こうすればよかったなーとか、
あのコンビニの店員さんにこう言っちゃったんだけど、あれは間違いだよな、もっとこういうふうに応答すべきだったなとか、
結構ですね、センシティブにも感じるかもしれない。だけど、丁寧な人との付き合いとか、人とのやり取りをする、したいと思う上で、
あのこういうふうにすればよかったなーっていう話とか結構あったりですね。
あと、お子さんにこんなこと言っちゃったんだけど、あれはまずかったなーみたいなこととかもあったりして、
非常に親しみのある内容なんですけど、私の今日の話はですね、どんな話かというと、
最初にちょっと結論っぽいところ言っちゃうと、
まず子供、子供ってすごいなーと思って、子供に尊敬したっていう、私まだ子供いないんですけど、
世の中のね、世の中の子供たちにちょっと尊敬を感じたっていうことと、
それの裏返しで、じゃあ大人ってなんだろうなーとか、大人になるって一体なんだろうなーってことを思って、
そんなエピソードを話したいと思います。
というわけで、参りたいと思います。
まずですね、出来事がありまして、どんなことかというと、ちょっとしたことなんですけど、
あのー、あれは休みの日だったと思うんですけど、
うちの外に出かけた時に、家のすぐ近くで、3歳から4歳ぐらいの男の子が転んで泣いてたんですね。
で、そばにお母さんとお母式人がいて、で、ほら、立って行こうって言って促しているって感じ。
立ち上がって、どこに向かってたのか、お家に帰るのか、どっかに出かけるのかわからないですけど、促しているって感じ。
それがまず、私の見た光景です。
で、ここからちょっと考察なんですけど、その男の子をチラッと見ると、どういうポーズをとってるかというとですね、
前のめりにバタンって倒れてるんですけど、首は上がってて前を向いてるんですね。
で、片方の膝はこう曲がってて、パッと見、私の思い違いかもしれないけど、立ち上がる予備動作に入ってるような状態。
よっこいしょってもうすぐ立てそうな状態。
なんだけど、あの、お母さんの方を見ながら泣いてるんですね。
泣いてるのも、こう、ちょっと様子を伺いながら泣いてるように私は見えたんですね。
で、ここから何が言いたいかというと、その男の子が、あの、転んで痛くて泣いてたのか、その日夏だったんで熱くて泣いてたのか、理由は分かりません。
分かりませんけど、世の中一般の話ね。
世の中の子供たち一般に言えるんじゃないかと思った一つのアイディアがその時ポーンと生まれて、
何かというと、痛くて泣いたりとか、熱くて泣いたりとか、そういうことはあると思うんですけど、
06:10
子供が泣く理由の大きな、なんていうか、ものの一つに、納得がいかないから泣くっていうパターンって結構多いんじゃないかなと思って、
例えば、その男の子がどうなったか分からないけども、あり得るパターンとして、熱い、足も痛い、歩きたくない、だけど歩かなきゃいけない、
お母さん抱っこしてくれない、みたいな、でも歩きたくない、歩かなきゃいけないけど歩きたくないっていうこのジレンマに対して納得がいかないっていうか、
そのジレンマを消化しきれなくて泣く、もしかしたら混乱してるかもしれないですよね、どうすればいいか分かんないって言って泣いてるみたいな、
そういうパターンって結構あるんじゃないかなって思って、特に子供が大きくなってきて、あんまりもう抱っこするにも重たい体重になってきたりとかってありますよね、歩けるようになったら歩いてもらったりとか、
もちろん疲れたら抱っこしてあげたりとか、いろんな対応があるとしても、子供が泣く理由って遊びたいけど、夜になってもう寝なきゃいけないとか、
私も小さい時お風呂入るの嫌いだったんですよね、つまんないじゃないですかお風呂って、テレビ見てたりとかね、おしゃべりしたり遊んでる方が楽しいのに、
わざわざ服脱いでお風呂入らなきゃいけないのすごい面倒くさいと思ってましたけど、それも一つのジレンマになりうるかなと思って、
お風呂行きたくないとか歯磨きたくないとか、そういう理由でね、それは何か痛いとか外的なその辛さというよりも納得いかなくて泣いてるってパターンかもなと思ったんです。
で、そこで一転して、じゃあ大人はどうなんだと、私たちはなんで歩きたくない時に泣かずに歩き続けれるのかなって思ったんですよね。
私たちも歩きたくない時ってありますよね、暑かったり寒かったり足が痛い時とか、やりたくないこともありますよね。でもなんかやりたくないこともやらなきゃいけなかったりとかするじゃないですか。
で、そういう時に、そういうパターンを取る人もいるかもしれないけど、嫌だって言って泣いてダダをこねる、歩きたくない嫌だって言ってその場に立ちすくんだりしゃがみ込んでダダをこねるっていうことを、
人はだんだんやらなくなっていくと思うんですよ、成長するに従って。小さい時はやっていても歯磨きしたくない嫌だって言って泣いてた人が、いずれどっかのタイミングで徐々に歯を磨くように、だわって歯を磨くようになるんだと思うんですよね。
自分もなったのかもしれないなと思うんですよね。それはなんでなんだろうって、なんでそれができるようになるのかなと思って。
それでちょっと思い当たったのが、たぶんなんですけど、なんで私たちはダダをこねないかっていうと、ダダをこねても何も起こらないってことを知ってるからなんじゃないかなって思ったんですよね。
09:14
経験的に何度かトライをする結果、泣いても結局解決がしないということを経験的に学んで、泣いても解決しないからやらなきゃいけないことをやるみたいな風になってくるかなと思って。
その変化って面白いなって思ったんですよ。
で、ここでですよ。大人はそれができると。要はまあ、ロジック、論理的思考なのか、良識なのか、教養なのか、なんかわかりませんけど、
何かを学んで身につけて、黙って歩きたくなくても歩き続けられるようになる。それが大人だと仮にすると、
じゃあ、逆に子供はなんでダダをこねるのかっていうのをもう一回通ってみたんですよ。
大人がダダをこねない理由はわかったと。じゃあ子供はなぜダダをこねるのかと。
さっき説明しましたね。納得がいかないからしてるんですけど、納得がいかないっていうのはもうちょっとブレイクダウンできるような気がして。
っていうのは、こういう言い方もできるかなと思って。子供が泣く理由、納得がいかなくて泣く理由っていうのは、諦めてないからっていう風にも言えるのかなって思って。
要は歩きたくないっていう気持ちに素直に従って、要は子供にはわからないわけですね。
このまま泣き続けてたら解決するかもしれない。するかもしれないとは思ってないかもしれないけど、でも解決しないとは思ってないっていうか、
でも結構その辺の難しい混沌としたところにいて泣くんだと思うんですけど。
だから何だろうな、そうなんですよ。何も起こらないとは思ってないっていうか、そこを受け止めてはいないっていうか。
で、別の言い方をすると、そう考えると子供たちが泣く時っていうのは、彼らの発展途中の理解力とか論理性とか、
あと少ない経験をベースにどうしても諦められないわけですね。歩きたくないっていうその心を諦めずにいるっていうことは、
我々大人からするとものすごいジレンマと戦ってるってことかなって思ったんですよね。
私たちはもう理解できちゃうから諦めて歩き続けることができるけど、彼らはそこがわからないから、
そのわからないなりの心の中で歩きたくないっていう思いと、なんか知らんけど歩かなきゃいけないらしい、
暑いのに足痛いのに、何なんだこれはっていうそのジレンマって、なんか想像するとすごい辛いんじゃないかなと思って。
12:05
なんかね、居合焼きって言葉とかありますよね。
そう、すべビビの岩谷さんも居合焼きっていう表現についてちょっと疑問を提出するようなエピソードもあるんですけど、
居合焼きの子供っていうのは、彼らなりに一生懸命考えて、一生懸命なんとかしようとして、
だけどどうしても納得ができないし、どうしてもその発展途中の彼らには諦めきれなくて、
それでそのジレンマですごいレベルで戦って、それで泣いてるんだなと思うと、
私はね、子供、全世界の子供に頑張れってエールを送りたい気持ちになったっていう、そういう話なんですね。
今日の結論でも、オチもなんもないんだけど、子供すげえなって尊敬しちゃいましたね。
すごいレベルで戦ってるんじゃないかなっていう気がする。そんな気がする。
それと、あと、まあここからはちょっと余談みたいなものなんですけどね。
仏教では、理解をする、分かるっていうことと、諦めるっていうことを、
なんか結構類似のものとして扱うみたいなんですよね。
諦めるって言葉自体が元々諦む、明らかとか、そういうものと語源を逸にしているみたいな感じなのか、なんか分からないですけど、
諦めると理解するって、仏教の中では、なんか近しい概念で語られたりするっぽいんですよ。
確かに、私たちはダダをこねずに歩き続けられるっていうのは、ある種、メタ認知みたいなもんですよね。
ちょっと引いて考えたら、そこで立ち止まって泣いても何も起こらないっていうことを客観的に見て知っているから、
だからそれをせずに歩くっていう、辛いけど歩くっていうことを継続する。
そういう判断をする、そういう選択をするっていうことだと思って。
確かに、メタ認知って引いてみて、そんなことしても意味ないぞとか、こっちの方が効率がいいぞとか、他者に対してはこの方がいいぞ、ポジティブだぞみたいな、
そういう客観的判断で自分の行動を選ぶっていうのは、世の中に対してもいいかもしれないし、
変な心のリソースを割かなくてもいいから楽かもしれないんですよね、メタ認知をして。
なんかそこで踏ん張ってもしょうがないとか、片肘張ってもしょうがないとか、例えばね。
そういう意味で、仏教の理解って面白いなと思うんだけども、一方でそれやりすぎると、
なんかもう自分の心をどんどんどんどんないがしろにするっていうか、大事にしない方向になっちゃうような気もして、
なんかメタ認知は素晴らしいと思う一方で、自分の本能も大事にしたいなっていうか、感情も大事にしたいなっていう、
15:07
なんか両方、相反する両方のことを思ったんですよね。
もっと言い切っちゃうと、子供のように、ダダをこねるように、自分の本当に思ってる嫌だっていう気持ちとか、
これをしたいって思ってる気持ちとか、なんかそういう、なんだろうな、感情か、自分の感情っていうものを、
不要意にコントロールしすぎずに、時には観察をするみたいなことっていうのも、なんかいいのかなっていうふうに思って、
理解できる私たちの発達した、理解力と論理性を元に感情を大事にするみたいな。
それは子供の彼らには難しくてできないかもしれなくて、ジレンマにとらわれて泣くしかないっていうふうになるかもしれない。
けど大人がそれをやると、ある意味冷静に自分のやりたいことを発見したり見つめたりできるかもしれないなと思って、
メタ認知をしたり、自分の感情にダイブしたりとかいうことを両方できるようになると、
ややこしい社会の中で、なんか生きやすくなったりするんかなみたいなことを、
ちょっと転んだ子供からスタートした一連の思考を持ってですね、感じたということでした。
取りとめもなく話してまいりましたけれども、
ちょっとたまにはこんな感じで、建設コンサルタントとは関係ない日々の話なんかも、
ちょっとたまに盛り込んでいきたいなと思っております。
最後まで聞いていただきどうもありがとうございました。
(♪ BGM)