あれですね、この前バスの回でお会いさせてもらって、
そうですね。
結構お話しさせてもらって、先生がやってらっしゃること面白いなと思って、
ありがとうございます。
今回出ていただいたんですけど、
ジャパンコードのエッセイもいくつか共有していただいたんですけど、
あれも面白いですよね。
短くてすごい読みやすい分量ですし、あれいいですね。
ありがとうございます。
読者がなかなか特定のところにしか配られない雑誌なので、
一般には出回らないんですよね。
なので、読んで感想いただけるとすごい嬉しいです。
あれはオンラインで手に入らないんですか?
だと思うんですよ。
金融財政ビジネスって特定のところしか配布されないみたいなので、
そうなんだ。
そうなんです。
だからコメントいただけるのすごい嬉しいんですよね、とっても。
僕らがアメリカに行くからこそ、
そういうアメリカと日本の比較っていうのは、
僕らからしても面白い分野かなっていうのは思うんで。
そうですよね。
ぜひ公開してほしいですね。
ウェブサイトには一定期間過ぎれば、
ウェブサイトにはアップできたらいいなって思ってるんですけど、
私は本当にパソコンが苦手なので、アップの仕方がわからないっていう。
今、日本の所属が明治大学の国際日本学部。
そうです。タイトルもね。
結構あれですね、矛盾されてますよね。
国際なのに日本っていう。
そこフックにね、オープンキャンパスとかではね、
お話させていただいてるんですけど、
そうなんですよ、一応ね、元祖なんですよ。
今ね、国際日本学部っていう名前の学部が結構あって、
でもここの学部が元祖なんで、
学部長には元祖というようにっていうお礼が。
あれですね、YouTubeでもなんか。
YouTubeに出てました?
共有してもらったホームページのところにYouTubeが埋め込んでありました。
なるほどね。あれですよね、国際日本学部って一体何?ってね。
たぶん合格した学生もそういうふうにね、
親戚から国際日本学部ってとかね、聞かれたりよくするので。
3年生くらい、今2年生くらいでインターンとかいろいろやりますけど、
その頃にも国際日本学部って一体何?みたいなね。
国日って訳すんですけど、学部では。
国日不安って私名付けてるんですよ。
国日不安はね、結構あるんですよ。
要するに、私って何?っていうね。
ここでもね、国際日本って何すかっていう話で、
結局それね、キノコの山に問えるんですけど、
国日不安っていうのは何かっていうと、
キノコの山がですね、ほら、先ほどNAKAMURAさんおっしゃったでしょ。
国際なのか日本なのか、何なのかってね、おっしゃってくださったじゃないですか。
キノコの山で、頭にはチョコが乗っかってて体はビスケット。
自分はチョコなのかビスケットなのかなんだろうって悩むあれなんですよ。
明治の板チョコを見ると、あの人いいなってどっから見てもチョコレートなのにってね。
マリーのビスケットを見ると、あの人どっから見ても正真正銘なビスケットなのに
私の頭にはチョコがくっついてて、
あら、ビスケットどっちかなーっていう国日不安が、やっぱりオーカリスクでですね、
出くわすテーマなんですよね。
ただ、なんでキノコの山がチョコとビスケットなのかって、
本当にチョコとビスケットが食べたければ、
明治のチョコレートとマリーのビスケットを食べればいいのになぜか
キノコの山っていうのはアメリカにも売ってますよね。
アメリカのコンビニにもありますよね、キノコの山って。
キノコの山じゃなきゃいけないんですよ。
キノコの山はチョコとビスケットじゃなくてキノコの山なんです。
要するに日本というものを知るには世界を知らなきゃいけないですね。
世界というものを知るには日本を知らなきゃいけない。
それがキノコの山であって国際日本楽部なんですよ。
なるほど。両方必須なんですね。
で、実は私の研究テーマってまさにそれなんですよね。
要するに日本を知るっていうことは世界を知るっていうことで、
世界を知るっていうことは日本を知るっていうところが、
もう軸にあるのが国際日本楽部で、
私のやってる国際的日本研究っていうのもまさにそれなんですよね。
そういう先生がなんでそもそもそういう文化というか、
その違いに興味を持ったきっかけとかなんかあったんですか。
そうそう。私ね、カルフォルニアは実は小さい頃すごいよく訪れてたんですよ、シリコンバレー。
私のビジネスで、本当に言うか多分年に何回も来てたんですよね、シリコンバレーに。
だから未だにね、私が小さい頃に家族ぐるみでお付き合いしてた家族がロスアルトスヒルズにおられて、
だからもう何十年ぶりに私再会したんですよ、その家族と。猫家族と。
そうしたら、こんなに大きくなって、私もこの歳でまさか言われるとは思わなかったっていう、
まさかに大きくなってっていう感動の再会をしたりとか。
ここね、だからセンチメンタルジャーニーなんですよね。
スイーズキャンディーもよく私も小さい頃の思い出にありますし、
だから非常に懐かしいところに帰ってきたっていう感じなんですよ、実は。
思い出の地なんですね。
そうそうそうそう。なので、家族でよくここに来てたので、ベールにスキーとかも行ってたんですよ。
レイクタホーとかね、ヨセミテとかいろんなところに行ってたので、
だから私にとってはセンチメンタルジャーニーだけじゃなく、
私が比較文化論を始める発祥の地と言いますか、ここで始まったっていう感じなんですよね。
やっぱりたしたような人種がいてみたいな。
小さい頃たしたよう、この国はたしたような人種がいてっていう認識にはならなかったんですけど、
私がすごく衝撃を受けたのは、やっぱり空港にね、空港の匂いが違うじゃないですか。
もうね、今は違うかもしれないですけど、
サンフランシスコの空港を降り立った途端に、すごいクッキー、チョコチップクッキーの香りとか、
リタージェントの香りとか、やっぱり小さい頃の私にとっては衝撃で、
いろんなご家庭にもお招きいただいたりしてるところで、
どうしてこんなに同じ人間で同じ地球上に暮らしていて、
どうしてこんなに違うんだろうって文化がね、それが私の原点なんですよね。
で、特に父がアメリカのビジネスパートナーがたくさんいたんですよ。
で、こちらに来れば、いろんなホームパーティーに呼ばれたり、
あとあれなんですよね、こちらってビジネス一緒にやるのに、
なんか、USバージン諸島とか、2週間家族ぐるみでみんなで行くみたいな、そういうのもあるんですよ。
で、みんなでベールに好きに行くとか、
それで昼間、お父さんたちは会議して、
お母さんとか子供たちはそれぞれ楽しんで、夜はパーティーやってみたいな、
そういうあれがあったんですよね。
だから小さい頃の記憶って、やっぱりそういうのがすごく多くて、
彼らが東京に来た時は私たちが接待するんですよ。
だからそういう時にね、本当に小さい頃、いまだにイースターの時で、
私がね、たぶんね、本当に小さかった頃なんですけど、
今もロスアウトヒルズに住んでるね、私にすごく大きくなってって言ってくださった方ね、
その方がイースターの時に、新宿のセンチュリーハイアットかな、
そこで会った時も今でも強烈に覚えてるんですよね。
私にね、大きなウサギのチョコレートくださったんですよ、イースターだったから。
その時に、両親が私に向かって、サンキューって言いなさいって言ったんですよ。
このイースターのウサギの大きいチョコレートくれたから。
それを持ってる私にね。
その時に全てが変わっちゃったというか、その時が人生の衝撃で、
なぜかというと、いや、待てよと。
私たちがアメリカにいてサンキューと言えって言うんだったらわかると。
しかしながら、今回はアメリカの方がですね、
新宿に来て、娘にチョコレートをくれたのに、
日本の両親がなんでサンキューと言いなさいと言うんだというところにね、
私ね、すごいね、刺さっちゃったんですよね。
すごいですね、子供なのに。
多分、ウサ通りに分かれると思うんですよ。
満面の笑顔でサンキューって言って終わり。
私はそこにちょっと刺さっちゃって、
それで、小語科なんかの時に、
私、日本英語排斥論みたいなのを書いたんですよね。
とにかくこの日本に蔓延している英語問題をどうにかせなあかん、みたいな。
っていうのを書いたんですよ。
それが三つ子の魂100までで。
そういうのもありまして、それ一つ。
で、もう一つは、
だから小さい頃から日本と米国行き来してたんで、
なんでこんなに同じ人間なのに、こんなに全てが違うんだろうってすごく興味があったんですよ。
で、多分中学2年生かなんかの時に、
エッセイストの富山茂彦先生っていう先生が原石国語小説に関するエッセイを書かれたんですよ。
それね、教科書に出てたんです。
ご覧になりました?って、ちょっと年代違いがあるかもしれないんですけど。
そこで書かれていたのは、
原石国語小説っていうことわざは、
どこにでもあるんだけれども、
特に英語ね、英語でもあるし日本語でもあるんだけれども、
もう私のライフワークみたいになってるっていう、
やっぱり幼少期の体験が大きいですかね。
そういうちっちゃい頃から、
そういう思いがあって、
大学院まで行くわけじゃないですか。
で、それで大学院に行って、
たぶん就職、普通に企業に就職するっていう道もあったと思うんですよ。
それこそ、そういう出版業者とか、
ただそこで出版の会社行かずに、
研究者の道に行くっていうのは、
それはどういう、
なんで研究者の方を選んだんですか。
そうですね。
私もともとエッセイストになりたかったっていうのがありますし、
研究者っていうと、
すごい頭のいい人がやる職業なんじゃないかなって、
思いますんで。
確かにイメージとしてはそうですね。
私、とても研究者になりたいとか、
発想を持つほどそんなに、
あれではなかったんですけど、
私の師匠、いろんな師匠がいるんですけれどもね、
一人の師匠が、
私は博士論文を書いてたときに、
博士論文ってちょっとしんどいじゃないですか。
たぶんすごいしんどいですよね、あの頃って。
そうですね。
だいぶ暗闇ですよね。
皆さんそうじゃないかもしれないですけど。
メンタルきますよね。
メンタルきますし、
やっぱり人物系って輝きのある将来が待ってる可能性が
すごい高いと思うんですけど、
人物系ってやっぱりね。
そうなんですか。
どうか問題っていうのがありますし、
やっぱりだいぶ暗闇だったんですけど、
私の一人の師匠は博士論文でだいぶ苦しんでるときに、
けっこう真顔で、
今これを書いてるのは、
博士になるためでも、教授になるためでもないって言ったんですよね。
マジマイユになるために今書いてるんだって言ってたんですよ、
私の一人の師匠は。
しかも、
その師匠がですね、
これアメリカの留学なんで留学っていうのが
多分テーマになってると思うんで、
シェアさせていただくと、
そもそもですね、私、日本研究、
日本人が、私純情はですよ、
帰国師匠じゃないんで、教育も日本ですから、
帰国師匠でもない日本研究をやっている人間がですね、
フラブルのポスト読を受けるっていう発想自体、
通常運転だったらないわけですよ。
だってアメリカのポスト読って基本的にはやっぱりアメリカで学位取った、
特に人文社会系って、ステム系は違うかもしれないんですけど、
人文社会系は特にそうなので、
そういう発想自体ないですよね。
なんですけど、その師匠が、
結構師匠お酒好きだったんですよね。
私にですね、何度か、
何度か、これ酔っ払いの戯言だと思わないで聞いてほしいって、
必ずハーバードの来週はのポスト読受けてくれってずっと言ってたんですよ。
で、また先生酔っ払って、
それ以外覚えませんから、はい、はい、はい、はい、みたいな感じだったんですよね。
それ何度か先生おっしゃってて、
私ドクター取ってからね、いただいてから。
あれって、ドクター取ってから5年っていう期間があるんですよ。
受けれる資格が、ドクター取ってから5年未満とかなんですよね。
確か5年未満だったんです。
で、それで何回も言われてたんですけど、
そんなの受かるはずないでしょ、みたいにね。
私もバカじゃないですから、
また先生って。
そしたらちょっと先生が亡くなっちゃったんですよ。
急にね、60で。
結構ね、それしんどいことなんですけど、
今もね、思い出すと結構涙出ますけど、
それで亡くなっちゃって、
それで本当につらいことだったんで、
やっぱり師匠がすごく応援してくださってたんですよね。
私が水虫研究ってポスドクの時にやってたんですけど、
水虫の国際委員会から日本っていうものを考えるっていうのを、
師匠の共同研究から始まったことなんですよ。
共同研究をやっていて、
その先生が世界の中の日本っていう視点でね、
日本研究を極めるっていうことをやってらっしゃった先生なんですよね、ずっと。
それで共同研究で、逆結晶の時点から日本を考えるっていう理論を考えられて、
その逆結晶っていうのは、要するに日本にあって世界にないもの、
世界にあって日本にないもの、
そこから日本というものを多角的に捉えるっていう試みをなさったんですよ。
それで共同研究では、その逆結晶の視点から、
世界にあるものは日本にあるかっていうところでね、
逆結晶の日本生活文化っていう論文集にもなってるんですけど、
そこで私、水主研究っていうのを初めてやったんですよね。
それも多分、共同研究のメンバーって本当に名だたる方々もばっかりで、
私本当に一番下っ端で、あんた誰?みたいなね、あれだったんですよ、
ドクターとったばっかりで。
私も発表するなんておこがましいっていうふうに思ってたんですけど、
そのメンバーになったからにはですね、発表しなきゃいけないっていうのがあって、
それで最後に、私どうしようって、このまま逃げれないかなと思ってたんですけど、
先生が東京いらっしゃったときにどうすんだと、
東京駅の大使館っていう喫茶店があったんですよ。
今ないですけど、先生が京都に戻られるその前に、
どうすんだと、最後の京都研究会だし、
何すんだって言われて、水蒸しやりますって言ったのが水蒸し研究の始まりで、
それで、この水蒸し研究をやって、一本論文出した後に先生亡くなったんですよね。
亡くなる前にも、ばかりの戯言だと思わないでほしいって、
ハーバードの来週のポスト必ず受けるから受けてくれって何度もおっしゃってたんですよ。
それで、たぶん私が亡くなる直前かな、
先生がそこまで言うんだったらと思って、考えなきゃいけないなと思って、
周りのハーバード出身の方に東京で聞いたら、
受かるわけないでしょって何人の方にも言われたんですよ。
受かるわけないからって、まじまが受かるわけないからって言われて、
そりゃそうだよなって思って、そしたら先生亡くなって、
それがハーバード受けられる最後の年だったんですよね、5年目で。
最後の年で先生亡くなって、もう先生の言い言と思うしかないかなって、
先生の学問に報えるためには受けるしかないやって思って、
本当にそれしかないと思って受けたら採択いただいて、採用いただいて、
それでハーバード行くことになったんです。
ハーバードの大シャワーっていうのは、そういう文学研究ではやっぱり。
日本研究所なんですよ。
日本研究所なんですね。
北米の日本研究所っていう研究所はかなり少ないんですよね。
ハーバードとかミシダンとかUCLAとか、今何個かでき始めてますけれども、
死にせの一つではあって、
大シャワー日本研究所のポストクっていう、この師匠はそれでおっしゃってて、
本当に受かるわけがないっていうふうに周りにもお住みつきいただきましたし、
ただ師匠の学問に報えるためだけに受けたら、本当に師匠の言うとおり、
採用していただいたっていうところで、今に至るっていうところですかね。
それは何で、何か増島先生の強さが、
ハーバードの人たちに見出されたっていう感じなんですか。
それとも何か特別なことをされたんですか。
いや、水虫研究で採用いただいたんですよ。
なるほど。恩師の先生との研究が認められたっていう。
そういうことになりますよね。
常識的に考えてですね、水虫の国際比較から、
特に水虫に対する振る舞いの国際比較から日本を考えるって、
常識的には考えないですよね。
面白い視点です。なかなかない視点ですよね。
やっぱりその師匠は独創的な日本研究っていうのにすごく価値を置いてたんですよ。
そこからどれだけ日本とは何かということを問えるかっていうところを、
すごく重きを置かれていたんで、
通常では水虫からって、
いまだに水虫研究やってますって言うと大丈夫かなって思われるのが大半ですから、
特に水虫研究でいろいろ発表とかするとですね、
水虫研究のまじまじゃなくて、水虫のまじまさんとかって言われるようになって、
なんで研究を省くんだろうとかって思ううちに、
私もですね、あ、そうですそうです、水虫のまじまですとかって、
学会の帰りの電車の中でとか、
もしかして水虫のまじまさんとか言われて、
水虫のまじまですとかって、電車の中で盛り上がったりとか。
それ嫌ですね。
でも慣れちゃって、
そうすると講演活動とかで大体最後に聞かれるのが、
私は水虫なのかとか、水虫の直し方とかで一般向けの講演とか。
そんなこと聞かれるんですか。
聞かれたりするんですけど、してた時もあって、
とにかく水虫の支援から、
日本を考えるっていうところで採用いただいたんですよね。
だからね、師匠の酔っ払いのタワゴトツじゃなかったんですけど、
そんな感じです。
師匠は専研の命があったわけですね。
そうかもしれないですね。
橋本先生の可能性を見出してたっていう感じですね。
私の可能性っていうよりも水虫の可能性っていうか、わからないですけど。
ハーバードの人ってあんまり会ったことないんですけど、
ハーバードってどんなところなんですか。
ボストンにあるってことぐらいしか知らないんですけど。
厳密にはですね、ボストンじゃなくて隣町のケンブリッジにあるんですよ。
ただね、ケンブリッジって言うとイギリスのケンブリッジって思いやすいじゃないですか。
なのでボストンとか行っちゃったりするんですけど、
ボストンのエリアってご存知のように大学が密集してるんですよね。
MITとかありますもんね。
しかも電車もあるので、車なくても生活できるところなんですよ、場所によっては。
なので電車で通ってましたし、私。
学園都市みたいな感じなんですね。
そうですね。今バイオテクとかも強いですけど、
集中してるところなので、
ボストン日本人研究者交流会もすごい密ですよね。
未だにご縁もありますし、
あそこでね、めずむすと日本人も発表させていただいてたんですよ。
で、先ほどトップオブトップっておっしゃってて、
確かにトップオブトップの方々ばっかりですし、
大学もそうだと思うんですけど、
アメリカの大学の特徴って、
それこそね、私の師匠、東京大学問題っていう論文書かれたんですよね。
逆欠乗の論文でね。
それ何かっていうとね、
日本では何が何でも東大が一番っていうね、
ハイアラキを抱いてる方多いじゃないですか。
もちろんそういう面もあると思うんですけれども、
アメリカってやっぱりね、分散されてるんですよね。
どこどこ大学だからといって、