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真の愛のある皆様、アロハです。
今日は3月1日。あっという間に3月になりましたね。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
いやー、もうそろそろ春かなって思ってたら、カナダのバンクーバーは3日前くらいから大雪警報で、結構これ50センチくらい積もったんじゃないかなという感じです。
昨日の朝までね、しんしんこんこんと雪が降ってたんですけど、今朝はね、だいぶ溶けて道路が見えてきたかなというところなんですけど、
カナダの天下なんでね、道が凍っててね、ツルンって滑るんですよね、歩いてたら。
わたしそれがすごい嫌で、もうツルンってなったらイラってするんですよね。
イラチ。関西人のイラチなのか何なのか。なんかこう自分のペースで歩けないっていうのがすごいね、ストレスだったりします。
なんか北海道のね、お姉さん達は雪道でもね、ハイヒールで活歩できるという噂を聞いたことがありますけど、あれは何なんでしょうか。
都市伝説なんでしょうか。真実なんでしょうか。はい、誰か教えてください。
はい、というわけでね、今日は私の火踏み仲間であり中二仲間である綾子Pのね、ニュースレターリベルタス。
秩序と混沌の間からというニュースレターと、それとバンドルして配信されている無限島の秘密というポッドキャストのエピソードを、
最近のエピソードについてすごいね、感じることがあったので、ちょっとね、それについておしゃべりしてみたいなと思います。
そのタイトルが、幸せを奪った罪を許せるのかというタイトルだったんですけど、
まあとあるね、映画を紹介されていて、その映画についてのね、あの綾子Pの感じることを語られていたんですよね。
その映画っていうのが、今日本でね、公開されている対峙、対する向き合うという対峙ですね、向き合うの対峙ね。
英語のタイトルがマス、マスシューティングのマスなんですけど、これがまさにですね、
フィクション、ドキュメンタリーではなくてフィクションなんですけれども、
まあアメリカのね、高校だったかな、銃乱射事件の被害者の夫婦、お父さんとお母さん、
そして被害者のお父さんとお母さんがとある教会のそばのね、椅子室で対峙する、向き合って対話をするっていうね、
そういうフィクション映画、そういうストーリーなんですよね。
私はまだその内容を見ていないし、予告編しか見ていないんですけど、
もうこれがね、なんか想像するだけで想像絶するというか、いろいろ感じることがあるなというふうに思ったんですよね。
この物語が2時間にわたって、2組のね、夫婦、事件によって命奪われた息子さんのお父さんお母さん、
そしてその被害者事件の党本人である息子さんのお父さんお母さん、
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ちなみにこの被害者の犯人のね、男の子もたくさんの人をね、
銃で乱射した後に自分自ら命を絶っているということなんですよね。
その2組の夫婦と、あと教会の神父さんなのかな、そういう方が、仲介役の方がいらっしゃるということで、
ほぼこの4人、そしてこの密室の中で、2時間繰り広げられる映画ということで。
実際これフィクションなんですけども、本当にね、
最近ここ1年で一体何件起こったんだっていうぐらいね、
銃の乱射事件、アメリカでも起きておりますし、
実際にこういうシチュエーションね、あると思うんですよね。
被害者の家族と加害者の家族が向き合って対話するっていうシーンが、
本当にリアルの世界でもあると思うんですよね。
そこでどんな対話が行われているんだろうと、
私はまだ映画見てないので想像するんですけども、
やっぱり何かこう、なんだろう、こういう何か悲劇のようなことがあった時って、
加害者が悪であり、被害者が、
なんだろう、全悪じゃないけども、加害者が悪いっていう風にね、
思ってしまいがちだと思うんですよね、どんな事件でも。
もちろんそれはそうだし、本当にその綾子Pのタイトルの通りに、
幸せを奪った罪っていうね、何の罪もない人たち、
人の命を奪ってしまう。
その残された、奪われた人たちは残りの人生、
その悲しみに喪失と共に生きていかないといけないわけで、
何か理由が欲しいわけですよね。
なぜ殺されなければならなかったのか、この子が。
なんでこのことが起きたのかっていうね、本当に理由が欲しい。
そうじゃないとね、いてもたってもいられないっていうかね、
どこにそのね、怒りとか悲しみをぶつけていいのかわからないっていう。
そういう本当になんていうのかな、苦しみ。
苦悶というか苦しみというかね、
苦しみという言葉を超えたものに抑えたまれながらね、
生きていかないといけないっていう現実がね、あって。
でも一方で、そのじゃあ犯人がただ単なる悪だったのかって言ったら、
やっぱりそうではないと思うんですよね。
っていうのはやっぱりそこにね、登場しているのがその、
私は犯罪者を産んでしまったっていうね、
あのお母さんがそこのね、登場人物でいて。
そう、で、ちょっと想像すると、
あやこPがさ、あやこPとそのね、一緒に見に行ったイクちゃんがね、
ただ号泣していたっていう話聞くんですが、
私見てないけども想像するだけで涙が出ちゃうっていうね。
っていうのは、やっぱりね、私は息子だから分かりますけど、
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赤ちゃんの時から犯罪者だった人ってね、いないわけで、
もうただただね、ピュアなね、命、生命体として生まれてくるわけで。
で、どんな理由があったとしても、
どんな理由でね、この世界に生まれてきたとしても、
やっぱりこのお腹の中でね、10ヶ月、11ヶ月ね、
お母さんのお腹の中で育まれていたっていう、
そしてそのね、痛み苦しみとともにね、
生まれてきたっていうのはね、
もう、絶対的に愛されているっていうね、ことなんですよね。
そう、すべてのね、赤ちゃんは。
で、すべての生命体、すべてのね、人類、
全人類元赤ちゃんって私よく言うんですけど、
全人類元赤ちゃんでね、愛されずにね、生まれた人はいないし、
で、その生まれた瞬間に悪だった人、何かのね、
何だろう、そう、悪だった人、何かの罪をね、犯している人っていうのは、
いないわけで、じゃあそのピュアな赤ちゃんが、
祝福と愛とともにね、生まれてきた赤ちゃんが、
なんでそのね、銃をね、たくさんの人でね、
銃をね、銃でたくさんの人を殺めて、
そして自らのね、命まで経ってしまったかっていうね、
そこに至るまでに一体何があったのかって言ったら、
それはもうその子だけのね、責任ではないですよね。
でも責任を誰がなすりつけるっていうわけではなくて、
なぜそうだったのかっていうことに、
ちゃんと目を向けないと、
それはね、終わらない、その悲しみ、その苦しみっていうのはね、
終わらないなっていうふうに思うんですよね。
だからそれはね、もちろん教育だったりとか、
もちろんね、そのお父さんお母さんのね、
その子の絵のせいし方だったりとかね、愛情表現だったりとかね、
生学校とかそういう社会のシステムだったりとかね、
いろんな、いろんなね、その環境っていうものが、
その子をね、そこまで追い詰めてしまったっていうことになると思うんですよね。
じゃあ、でもそれが誰のせいだったかっていうのは、
別にそこに、じゃあその子のせいじゃなかったったら、
誰のせいだったのかって言ったらまた犯人探しになってしまうわけで、
で、まあもちろんそこに目を向けるのは大事なんだけど、
誰のせいだったか、誰のせいだったんでしょうかね。
って思いません、本当に。
いろんな要因が、もう因果関係がね、
どこの、もう何かこじれまくった系統みたいに、
どこに糸口があるのか、どこがどう引っかかっているのかってわからないぐらいね、
ぐっしゃぐしゃになっていると思うんですよね、その因果関係が。
で、どこからほどいていったらいいかわからないぐらいになっている。
で、でもそれがもうね、犯罪として、事件として、
人の命をね、あやめてしまったっていうことが起こったっていうならば、
じゃあこの子が悪かった。
まあ例えばその子は、まあ自ら命を経ちましたけど、
じゃあこの人が悪かったっていう風にして、
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でまあ、あの二方まだね、死刑っていうものがありますけど、
まあそういう何か罰に、罰を処するっていうね。
まあそれも一つのね、あの抑止力というか、
そういう犯罪をなくす、少なくするための、
抑えるためのあの一つの方法だと思うんですけども、
じゃあそもそもそれがどこから来たのかって言ったら、
本当にいろんな要因があると思うんですよね。
だからね、なんだろうっていうのと同時に、
じゃあ私が被害者の立場だったらっていう風に考えると、
いやもうそんなもん知るかと、
そんなもん知るかと息子を返せという風になると思うんですよね。
私がなんだろうな、
それこそ宇宙に向かってチャブ台ひっくり返すじゃないですけども、
学んできたこととかなんだろうな、
そういうね、論理とか思想とか宗教とか、
神様がどうちゃらとかも全部ひっくり返して、
もしかしたらね、もしかしたら私が犯罪者の鬼になってしまうかもしれない
っていうぐらいの怒りと悲しみに、
私を人間じゃなくさせるかもしれないなって思うんですよね。
それぐらいの悲しみを背負って生きている人が、
もちろん映画の中の被害者の親御さんもそうだし、
だと思うんですよね。
そうなんですよね。
だから私も、今4歳の息子がいますけど、
キャッキャッとね、ピュアな生命体ですけど、
でもこれがね、ティーネイジャーになった時に、
何かね、反骨精神が生まれて、誰かを攻撃したいっていう風にね、
思ったり、もしくはそういう攻撃したいって思っている、
誰かの標的になってしまったりっていうことがね、
被害者になりうる確率もあるし、
同時に加害者になりうる確率っていうのもね、もちろんあるんですよね。
うちの息子だけじゃなくて、私自身もそうだし、
みんなそうだと思うんですよね。
それは何かっていうと、
やっぱり自分の中に種があるっていうことなんじゃないかなって思うんですよね。
教育がダメだとかね、親の質疑がダメだとか、
社会の仕組みがなってないとかね、政府が動いてないとかいうことじゃなくて、
私たち一人一人の中に、加害者の種みたいなものがあって、
その絡まった系統をね、絡まりまくった因果関係のね、
系統の中に自分自身もいるんですよね。
なんかこれめっちゃ絡まってるなーって解いてあげないとじゃなくて、
自分自身も絡まっているんですよね。
だから、私たち一人一人が被害者であり加害者であるっていうことをね、
いつも思うんですよね。そうなんですよね。
だから、やっぱりなんでこれが起こったかっていうところを考えると、
やっぱりなんか私たち人間がね、本当にその意味みたいなものを失っているからじゃないかなっていうふうに思うんですよね。
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何が本当のね、命って何なのかとか、愛って何なのかとか、
私って誰なのかとか、幸せって何なのかとか、
そういう根本的なもの、根本的なことをね、
人間ってずっとずっと昔からね、考え続けて、
太古昔から考え続けていて、追い求め続けていて、
それがまあね、哲学だったりとか宗教だったりとかっていうものに昇華されていくわけなんですけども、
でもその、まあある程度ね、その完成された哲学とか宗教っていうものもやっぱりその時々のね、
なんだろうな、社会の仕組みみたいなものにね、
ちょっと歪んでね、伝えられてしまっているっていうのもあったりして、
なんか真実を語るよりも議論に勝った方がね、偉いとか、
なんだろう、愛を追求するよりもお金をね、追求した方が幸せになれるとかね、
そういうふうに少しずつ少しずつね、私たちの本質みたいなものが歪んで伝えられてきていて、
それがもうどうしようもないところまで来ているっていう、そういう現状が今あるんじゃないかなって思ってて、
でも決して絶望することはなくて、だからこそね、人類学ぶんですよね。
人類というか、学ぶんですよね。なんかこれじゃいけないんじゃないかなって言って、
そういうね、反対側のカルチャーが生まれたり、ヒッピー文化が生まれたり、戦争が起きたらヒッピー文化が生まれたり、
まあどっちが、どっちがどうっていうのはないんですけど、
マインドフルネスとかね、そういうヨガとか瞑想とか、やっぱり自分の中心に戻ろうっていうような動きが出てきたりとか、
なんか日本でもね、いろんなコミュニティがね、やっぱりみんなで、みんなと一緒につながっていきようというような、いろんなコミュニティがね、
出てきたりとか、みんながね、真実を探している、本当の意味を探しているっていうふうに思うんですよね。
だから私もね、ハチドリアンとかリュウゲンさんね、お書さん呼んでね、オンライン創印やったりとか、企業皮膚未熟もそうですけど、
みんなのあらゆる人の一番の幸せってなんだろうみたいなことを、みんなで一緒に考えたりとかね、しているわけなんですよね。
あと言葉でそれをね、自分が研究してきたことを表現したりとか、一人一人がそれをやっていくしかないし、
自分の中に誰かを助けるとか、世界を救うとか、なんだろう、そういう悪を正すとかではなくて、
自分の中にね、自分もその一端になっているっていうことなんですよね。
っていうことを常に忘れずにいることしかないのかなっていうふうに思います。
本当にそういうね、犯罪悲しい事件をなくすとか、社会のシステムを変えるって大きなことに思えるし、
そしてじゃあその自分をね、自分のマインドを変えるっていうことも簡単ではないですよね。
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でも諦めずにそれをね、やり続けていくっていうことなのかなって本当に思います。
なのでこの映画ね、ちょっとめちゃくちゃ見てみたいんですけど、
もうなんか想像するだけで涙が出ちゃうっていうか、
すいません、ちょっとね、機会があればね、こっちでも見るチャンスがあればね、ぜひ見てみたいなっていうふうに思います、皆さんは。
はい、いかがお考えでしょうか。
というわけで、ちょっとね、涙声になってしまいましたが、
いやあやこPのニュースレターとね、ポッドキャストめちゃくちゃ面白いので、
なんかね、私こういうふうにちょっとふんわり話しがちですけど、
結構ガチでね、システム関係とかね、いろんなね、面白いプロジェクトに関わっているやこPなので、
すごいね、皆さんにとってすごい新鮮な視点とかね、
そういうものが、世界観が得られるんじゃないでしょうか。
というわけで、最後にお勧めしておきます。
はい、というわけでね、皆さんまだまだ寒いですが、
カナダは今日も良い一日をお過ごしください。
じゃあね、バイバイ。