わかりました。
まず先生、ご出身なんですけどもね、北区というふうにお聞きしておりますが、北区のどのあたり?
北区の堀船。
堀船ですか。
ここで生まれて育って、そして大学まで通いました。
そうですか。
結婚して一時、大塩本町1丁目のマンションに10年ぐらい住んでました。
また堀船に戻りまして、以後ずっと堀船で暮らしています。
そうですか。ということはもう北区生まれの北区育ちで、
全くそうです。
ずっと北区に長年お住まいになっていたということですね。
そうですね。
なるほど。わかりました。
北区でずっと生活されていて、今回のテーマであるミニサッカー、サッカーですけども、
サッカーというのは、いつ、どういったタイミングで関わられたんでしょうか。
僕が小学校を卒業したときに、地元に中学校がなかった。
西日本にある開成という学校へ行きました。
そこへ行ったんですけど、あれは今は全国的な大変な新学校。
名門ですよね。
ところがね、僕は何しに行ったかって言ったら、スポーツばっかりやってたんですよ。
理由はね、1940年に東京オリンピックが予定されていた。
これは第二次大戦で亡くなったんです。
なるほど。
戦争が終わった後、ロンドンオリンピックがあったんですね。
それはね、日本は出られなかった。
まだ敗戦国で。
敗戦の処理ができていなくて出られなかったんですね。
次がヘルシン紀オリンピックだった。
このヘルシン紀オリンピックの時に初めて日本が出場して、メダルを取ってきた選手が何人かいた。
一人だけ金メダル。
あとは体操の選手が取ってきた。
竹本上坂という二人の選手がね、長刃と床運動で取ってきたんですよ。
その一人の上坂先生という方が、実は開成の体育の先生だった。
そうなんですか。
それでメダルを取って帰ってきてね、我々の前で演技してみせたんですよ。
これはね、人間技じゃないような技を見せられて、僕は一も二もなく体操部へ入った。
最初は体操だったんですね。
体操だった。
そうですか。
体操もね、だから一通りやりましたよ。
鉄棒で車輪もやったし、並行棒もやったし、んなことやったんですけどね、足が速かったんです。
そしてね、1年間やったら下級生が入ってきてね、これからマッツアームめちゃくちゃ上手いんですよ。
でね、こいつと一緒にやったんでは、これオリンピック行けないなと思いましてね。
僕ね、何回やるとすぐオリンピック行きたいと思う。
それでね、陸上競技に誘われて、陸上競技に入って中3、高1までやったかな。
で、高校1年の時にはね、東京で決勝まで行きました。
800メーターリレーで決勝まで。
すごいですね。
速かったんですよ。
足が。
ところが隣にサッカー部があってね、サッカー部からこっちへ来いって。
スカウトされたんですか。
そのサッカー部の同級生にサッカー部のメンバーがいっぱいいて、昼休みになるとね、僕らはねサッカーやって遊んでた。
これがあまりに面白くてね。
で、サッカーやるためにお弁当は3時間分と4時間分の休みに食べて、昼休みにサッカーやって遊んだ。
そんなことをやっているうちに、結局サッカー部へ引き抜かれて。
で、始めたのが高校2年ですよ。
あなたもよく分かるだろうけどね、サッカーのスキルみたいなものはやっぱり中学生ぐらいまで。
運動機能の発達する段階でないと筋力がついてきてからダメなんですよ。
そこでね、毎朝1時間早く学校行って、自分で自主練やりました。
そんなことをやっててサッカー大好きになって、そして解説強かったんですよ。
そうですか。
僕らの1年上はね、東京で初めて会った新人戦っていうのがあって、高校2年生がね。
東京で決勝まで行ってるんですよ。先輩たちにも素晴らしい方がいてね。
例えば東大でやってる人とかね、そういう人が教えに来るわけですよ。
そういう方が初めて習ったようなね、ボールの扱い方を教えに来るわけ。
楽しくてしょうがなくてね。
でも大学行ったらサッカーだと。やるなら早稲田だと。
ということでね、結局いろんなことがあったんですよ。
早稲田大学行って、サッカーの方は早稲田の庭根、キャプテン川口三郎がいたんです。
そうなんですか。
それから僕の同級生に松本育夫ってね、メキシコオリンピックの選手になったのがいてね。
強かったですよ。日本一じゃなかったかな。
そうそうたるお名前が今出てきましたね。
出たでしょ。
僕は2年生までやったんですよ。新人戦まで出ました。
メキシコオリンピックの選手って半分ぐらい一緒にゲームやったな。
そうですか。
ところがやっぱり自分が好きなことだけをやってることに疑問を持って、そして辞めたんです。
で、学問に転じた。
そしてね、大学院まで行った。
大学院行ってある日曜日、家でドイツ語の現象を調べてたんですよ。
そしたらね、大寺第三小学校の遠藤先生という人が突然来てね、とにかく来てくれと。
サッカーを一生懸命やりたいって子たちがいるから見てくれと。
いや僕もうやってないんですよって言ったら、いやいや来てくれと。
強引ですよ、車に乗せられて。
大寺第三小学校行ったら20人ぐらいの中学1年生がいてね、目を輝かして待ってたわけ。
でね、1年生ですからね、まだ基本もできてないでしょ。
そこでね、ボールを蹴る、止める、運ぶ、それをやってみせた。
彼らの目の輝きが違うんですよ。
この子たちを週に1回、悪いけど1時間見てくれないか。
1時間でサッカーを知らないじゃないですか。
見ることにしたんです、日曜日。
で、この子たちが集まってたのが富士見中学校だった。
でね、行ってサッカー部が初めて富士見中学にできた。
初めてできたら第一サッカーブームですから、1年生から3年生まで100人を超える生徒が集まった。
すごいですね。
でしょ。
そのブームがまずきっかけというのがあるんですね。
きっかけですね。
で、ブームに僕も引っ張り出されたわけだから。
なるほど。
それでね、子どもたちは中学へ行ってサッカー部に入ったけど、
100人にゴム製のボールですよ。サッカーボールなんて買わないんですからね。
10個しかなかった。
それで、練習なんかできないでしょ。
もうパラタマ広い。
で、彼らはもちろん不満ですよね。もっとちゃんとやりたいと。
で、小学校の先生に泣きついてね、大地大3小学校で日曜日やらし菅祭が始まった。
それが柔情少年サッカークラブだった。
今の柔情FCですね。
柔情FCです。
そうですか。
それで、この子たちの親御さんたちがね、やっぱり理解があって、
特にその中に一人ね、昔ひとつばしでね、ラグビーやってた人がいて、
そしてその人が会長になってね、このクラブができて、
そして20人ぐらいいましたかね、日曜日練習をしているところへ、
そこへ僕が呼ばれて行って、教え始めたわけですよ。
そしたらこの子たちのものすごい熱心でね、日曜日朝9時からというのに、
8時から行ってね、門をよじ登って開けて練習してた。
その熱心さにね、彼らの目の輝きに惹かれてね、
そしてまた体育会のサッカーってすさまじいからね、
すごい人たちと一緒にやってたわけだから、
僕は辞めた後も実はね、安田で辞めたんですけど、
ちょうど辞めた年にね、安田大学の中にね、同好会ができた。サッカーの。
でね、週に1回くらいはね、健康のためにと思って同好会行ったんだ。
で、それがね、稲穂キッカーズって。今もあるんだよ、もう。
もう60年ぐらい経ってんのね。その稲穂キッカーズというのがあって、行ったらね、
半分ぐらいしかサッカーやったことのない人たちの集まりでね、
で行ったら当然ね、僕はね、練習からないから指導することになったんだ。
それでね、合宿もやった。で、初代のキャプテン。
なるほど。大会系から行かれて、擦られて。
そうだったんですね。
それでね、日本のサッカーが、世界のサッカーでね、唯一名を成した大会があるんだね。
それはね、ベルリンオリンピックの時に優勝候補のスウェーデンと当たって、勝ったんだよ。
本当ですか?
勝った。
この時のフルバックをやってた人が、大学のサッカーの圧縮修行部というのが、
OBでね、経済学部の教授だった。
この先生にお願いして、こういうわけで、どこかへ行ってきましたので、
先生、顧問になってくれませんか?ちょっとね、厳しいこと言われて。
君はね、厳しいことやめてね、楽なこといくのか?って。
でもね、いい先生でね、楽しむのもいいよって。
で、まあそういうことでね、大学の4年間はとにかくサッカーに関わってたので、
だから子どもたちに教えてもね、すぐ体はできてましたから。
大学に行ったばかりでしたからね、子ども相手に今度は教えることになったわけです。
それが始まり。
なるほど。
それでね、十条少年サッカークラブというのが、東京でもね、今一番古いクラブじゃないかな。
おそらくそうでしょうね。
下田雅博って知ってるでしょう?
はい、知ってます。
日本協会の技術選手をやって。
彼はね、隣の豊島区から来たんだ。
サッカーやりたくても、小学校でやれるところがない。
で、十条クラブに来た。
そうですか。
そういうことがあって、今、北区のサッカー協会の会長のね、山田一則君ね。
これもこの十条フットボールクラブの僕が教えた。
ご出身なんですね。
そうです。
そんなことでね、サッカーは長くなりましたけど関わっていて、
そしてその富士見中学へ行った子どもたちはね、またたくまに上手くなって、
そしてね、中学2年生の時には東京でベスト3まで行った。
強かったんですね。
1年半でそこまで行ったんだ。
すごいですね。
で、子どもたちも良かったけど、実はサッカー部を作った時に、
顧問になった先生がね、野球の専門家だった。さすがだね。
1年生から3年生までやってる練習を見て、しばらくするうちに1年生を見て、
お前たちどこかでやってるだろうと。
つまりやることが違うと、他の子たちと。
で、教えてる人がいるということを聞いて、
隣のね、大和小学校の中村先生という人を通じて会いたいと言ってこられて、
それでお会いして先生がおっしゃるのは、やっぱり優れた方だったなと思うんだけどね、
立派な方だったと思うんですけどね。
1年生が日曜日にやってる練習をサッカー部でね、1週間後にやるから、
それを教えてくれと言われて、そしてカルキュラムを渡したんです。
でもそんなことがあってね、1年生はますます強くなって。
で、ベスト3まで行った子たちの、今度は弟たちがやりたいと。
実はね、十条少年サッカークラブの子は、夏、春ずっと合宿やった。
そこへ自分たちも行かしてくれと。
洗濯でも何でもすると。そんなことさせないよ。
でも、ついてきて。で、どんどんどんどんね、そうやって下の学年が入ってきたわけ。
で、今の教会のサッカー協会の会長の山田君も、そうやって入ってきたんだ。
そうなんですね。坂井先生、北区のサッカーの歴史というかですね、原点と言いますか、
少年からあるいは中学、先ほどね、藤見中学の話も出ましたけども、
そこからずっと今まで繋がっている、今の十条FCのお話も出ましたけども、
歴史あるクラブチームのいわゆる出発点、そこもずっと見てこられているってことですよね。
そうですね。それでね、実は北区のサッカー協会というのはね、小学校の先生たちが作ったんだよ。
そうなんですか。
それはね、東京都のサッカーの大会って、都民大会というのが戦後あってね。
その都民大会にいろんな種目があったわけ。で、北区にサッカーのチームなんかないじゃないですか。
東京都から案内が来るわけ、国。で、それを受けたのが小学校の先生たちだった。
小学校の先生たちがサッカーチームを作って、そしてサッカー協会を作ったわけ。
そのチームの名前は北州って言うんだよ。北のケル。北州という先生方のチームがあって、
その北州の先生方を中心にしてサッカー協会ができた。
なんで僕が引っ張られたかというとね、北州とね、あと2つチームがあった。3つ。北区に。
企業チームが2つあって、日産科学ってあなた方も知らないだけど、大塩町目団地。
あれ日産科学の跡なんだよ。跡地なんだよ。そこにね、大きなサッカー場があった。
で、日産のサッカー車があって、隣にね、日本有志という会社があって、これもサッカー車があった。
で、この2つの日産と日本有志と北州で北区大会やってたんだよ。
でね、たまたま僕は先生方に引っ張られて、北州に入って試合やったことあった。
そういうことがあって、その子どもたちのところへ先生が知ってて引っ張っていった。
ああ、そうなんですね。
だからサッカー協会といっても先生方のチームと社会人が2つあって、それが年に2回ほど大会をやって、
で、その先生方が自分たちだけじゃなくて子どもたちにやらそうと。
で、やってる子どもたちを今度は大会やろうと。
始まったのが北区の少年サッカー大会です。
わかりました。すごい歴史だな。本当にもう生き地引きと言いますかですね。
先生がいらっしゃらなかったら、もしかしたら北区のサッカーがこんなに発展していなかったかもしれません。
それはよく言われます。
冗談抜きに本当にそう思いますね。
そう言われます。
そしてですね、北区のサッカー、地域のサッカーの振興にも携わって、サッカーフットボールということに関して言うと、
ミニサッカー、フットサルですね。
こちらの普及の方にも非常に力を入れられて、
全国的にね。
されたというお話も色々お聞きしてるんですけども、
その辺のお話もですね、まずなぜミニサッカーの普及に勤められたのか、
いつ頃からこういった普及をさせなくてはいけないというふうに感じられたのか、
この辺のお話を先生にちょっとお聞きしたいです。
わかりました。
十条少年サッカークラブは唯一のクラブでしたから、
十条地域を中心にサッカーをやりたい子たちが集まってきてたわけですよ。
その初代の最初に教えた子たちの兄弟とか、それからずっと続くわけですけれども、
僕は週に一回ですから、練習をね、本当に考えました。
子供の指導なんていうものは、指導書なんて一冊もなかった。
そもそもね、サッカーについての書物ってね、
オーブン社から出てるスポーツシリーズでね、サッカーという本があって、
竹信重丸という東大の先生です。
日本協会の技術委員長もやった方が書いた本一冊しかないんです。
これしかなくてね、子供の指導なんてもちろんない。
だから自分で考えた。
それからね、いくつかある国際試合を全部見に行きましたよ。
で、感じたことがあるのね。
世界のサッカーと日本のサッカーがあまりにも違う。
なんでこんなに違うんだろう。
それから子供たちを教えてね、こういうことがあったんです。
いい練習を、子供が楽しいだろうと思うような練習を工夫した。
そしてね、2時間ぐらいあるでしょ、日にね。
最後の15分か30分にね、必ずゲームを取り入れたんです。
試合をね。
で、終わって、今日何が楽しかったかっていうとね、ことごとく子供がゲームって言うんです。
こっちが1週間考えた練習がいいなんて一つも言われない。
これはね、何か違うぞというふうに思ってたのね。
それからその、いわゆる日本の代表チームがね、国際試合の中ではなかなか勝てない。
それどころか、ワールドカップっていうのが始まったでしょ。
それを見るとね、何かね、違うんだなやってることが。
で、そういう疑問を持っていて、日本ミニサッカー連盟っていうのができてた。
で、これはね、日本のサッカーを強くするのにはどうしたらいいか。
それにはね、子供たちからサッカーを変えなきゃダメ。
で、子供たちをどういうふうに変えるか。
南米では子供たちはいきなり11人のサッカーなんかやってない。
ストリートサッカーでしょ。
確かにそうですね。
それから腹っぱで遊んでるわけでしょ。
そこでやってるのがね、サロンフットボールだったんだよ。
そのサロンフットボールという競技があると。
で、それをね、各地にね、日本のサッカーを良くしようと思う。
特に少年サッカーを良くしなきゃいけないと思ってた人たちがいて、
そういう人たちが集まってね、そして初めてそういう子供たちを集めて、
室内のミニサッカーね、つまりサロンフットボール。
外でやる。これ5人制ね。南米でやってるわけでしょ。
それから室内では日本でボールを蹴れないから、屋外でやろうって。
6人制のね、ガーデンフットボール。
それから11人制で子供をやるのは無理があるんですよね。
その人たちは8人制のミニサッカーを始めたんだ。
その全体を含めてミニサッカーって。
なるほど。
そういう普及のための連盟ができたんだ。
連盟が作ったときに名前がミニサッカー連盟だと。
そうなんですね。
連盟の名前をミニサッカー連盟。
競技の名前はサロンフットボール。
サロンフットボールって名付けたのはこれはね、
ブラジルではフチボルでサロンね。
スペイン語ではフチボルサラ。
いろんな言い方でバラバラに言ってたんだけど、
特に南米から日本リーグにスケットがいっぱい来てたでしょ。
来てましたね。
彼らがやってみせたわけだ。
何が違うかって言ったらね、
子供の時からやってることが違うわけね。
これはね、日本のサッカーのためにならないと。
つまりミニサッカーの普及こそね、
日本のサッカーの将来だと。
なるほど。