1. BUILD UP LOCAL!! / ビルドアップローカル
  2. #19‐5 【特別インタビュー:日..
2025-05-30 44:22

#19‐5 【特別インタビュー:日本サッカー協会初代フットサル委員長 榮隆男さん】

特別版ゲストは日本サッカー協会

初代フットサル委員長や

東京北区サッカー協会会長も務められた

榮隆男さん!


フットサルの始まりや榮先生の北区との関係性など、

たくさんお話を伺いしましたので楽しみに★


【番組内容】 スポーツ×街づくりをテーマに、30年のスポーツ界でのキャリアをもつ常田幸良が、

スポーツを通じて街を盛り上げる様々な人にフォーカスを当て、掘り下げていく番組です。

番組の感想は各媒体のコメント欄、または X(旧Twitter)で #ビルドアップローカル

でよろしくお願いいたします。

【配信日】  毎週金曜日

【出演】  パーソナリティー: 常田幸良

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サマリー

榮隆男さんは、日本サッカー協会初代フットサル委員長として、サッカーとミニサッカーの普及に対する情熱と取り組みを語ります。特に、子どもたちへの指導と地域サッカーの発展に対する彼の影響力が際立っています。彼は、サッカーの発展における歴史と革新についても語り、ミニサッカーとフットサルの普及が日本のサッカー強化に如何に重要であるかを説明し、教育者としての経験を基にその知見を共有します。 榮隆男さんのインタビューでは、フットサルの普及と大会の開催経緯、また少年から社会人までのサッカー界の連携についても触れられています。このスポーツがどのように発展してきたのか、そして新たな競技名「フットサル」に至った背景が明らかになります。彼は、自らの立場を通じてフットサルの普及に尽力し、その基本が学校体育に組み込まれるべきだと訴えています。彼のビジョンは、子どもたちが自然に楽しめる環境を作ることで、真のスポーツとしての発展を目指すことにあります。

榮隆男さんの紹介
ビルドアップローカル!!
ビルドアップローカル、番組ナビゲーターの常田幸永です。
この番組は、30年のスポーツ界でのキャリアを経て、現在は地域金融機関に勤務している私が、スポーツを通じて、街を豊かにしようという番組です。
さて、今週は特別編【ビルドアップローカルプラス】ということで、
日本サッカー協会の初代フットサル委員長や、東京帰宅サッカー協会の会長も務められた坂井孝夫さんにお越しいただきました。
坂井先生、どうぞよろしくお願いいたします。
はい、常田君、お久しぶりです。
お久しぶりです。よろしくお願いします。
実は私がですね、小学生の頃、先生から英語を教わっていたということもありましてですね、
今も先生は大学で教鞭を振るっていらっしゃるということもありましてですね、
今日は先生というふうにお呼びさせていただきますので、
それでよければどうぞ。
どうぞよろしくお願いします。
坂井先生はですね、本当に長年にわたりまして、
サッカー界で特にミニサッカーの普及と地域サッカーの発展についてですね、
いろんな功績を高められた大きなものがありまして、
今回はミニサッカーの普及と発展の取り組みについてを中心にですね、
お伺いしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
サッカーとの出会い
わかりました。
まず先生、ご出身なんですけどもね、北区というふうにお聞きしておりますが、北区のどのあたり?
北区の堀船。
堀船ですか。
ここで生まれて育って、そして大学まで通いました。
そうですか。
結婚して一時、大塩本町1丁目のマンションに10年ぐらい住んでました。
また堀船に戻りまして、以後ずっと堀船で暮らしています。
そうですか。ということはもう北区生まれの北区育ちで、
全くそうです。
ずっと北区に長年お住まいになっていたということですね。
そうですね。
なるほど。わかりました。
北区でずっと生活されていて、今回のテーマであるミニサッカー、サッカーですけども、
サッカーというのは、いつ、どういったタイミングで関わられたんでしょうか。
僕が小学校を卒業したときに、地元に中学校がなかった。
西日本にある開成という学校へ行きました。
そこへ行ったんですけど、あれは今は全国的な大変な新学校。
名門ですよね。
ところがね、僕は何しに行ったかって言ったら、スポーツばっかりやってたんですよ。
理由はね、1940年に東京オリンピックが予定されていた。
これは第二次大戦で亡くなったんです。
なるほど。
戦争が終わった後、ロンドンオリンピックがあったんですね。
それはね、日本は出られなかった。
まだ敗戦国で。
敗戦の処理ができていなくて出られなかったんですね。
次がヘルシン紀オリンピックだった。
このヘルシン紀オリンピックの時に初めて日本が出場して、メダルを取ってきた選手が何人かいた。
一人だけ金メダル。
あとは体操の選手が取ってきた。
竹本上坂という二人の選手がね、長刃と床運動で取ってきたんですよ。
その一人の上坂先生という方が、実は開成の体育の先生だった。
そうなんですか。
それでメダルを取って帰ってきてね、我々の前で演技してみせたんですよ。
これはね、人間技じゃないような技を見せられて、僕は一も二もなく体操部へ入った。
最初は体操だったんですね。
体操だった。
そうですか。
体操もね、だから一通りやりましたよ。
鉄棒で車輪もやったし、並行棒もやったし、んなことやったんですけどね、足が速かったんです。
そしてね、1年間やったら下級生が入ってきてね、これからマッツアームめちゃくちゃ上手いんですよ。
でね、こいつと一緒にやったんでは、これオリンピック行けないなと思いましてね。
僕ね、何回やるとすぐオリンピック行きたいと思う。
それでね、陸上競技に誘われて、陸上競技に入って中3、高1までやったかな。
で、高校1年の時にはね、東京で決勝まで行きました。
800メーターリレーで決勝まで。
すごいですね。
速かったんですよ。
足が。
ところが隣にサッカー部があってね、サッカー部からこっちへ来いって。
スカウトされたんですか。
そのサッカー部の同級生にサッカー部のメンバーがいっぱいいて、昼休みになるとね、僕らはねサッカーやって遊んでた。
これがあまりに面白くてね。
で、サッカーやるためにお弁当は3時間分と4時間分の休みに食べて、昼休みにサッカーやって遊んだ。
そんなことをやっているうちに、結局サッカー部へ引き抜かれて。
で、始めたのが高校2年ですよ。
あなたもよく分かるだろうけどね、サッカーのスキルみたいなものはやっぱり中学生ぐらいまで。
運動機能の発達する段階でないと筋力がついてきてからダメなんですよ。
そこでね、毎朝1時間早く学校行って、自分で自主練やりました。
そんなことをやっててサッカー大好きになって、そして解説強かったんですよ。
そうですか。
僕らの1年上はね、東京で初めて会った新人戦っていうのがあって、高校2年生がね。
東京で決勝まで行ってるんですよ。先輩たちにも素晴らしい方がいてね。
例えば東大でやってる人とかね、そういう人が教えに来るわけですよ。
そういう方が初めて習ったようなね、ボールの扱い方を教えに来るわけ。
楽しくてしょうがなくてね。
でも大学行ったらサッカーだと。やるなら早稲田だと。
ということでね、結局いろんなことがあったんですよ。
早稲田大学行って、サッカーの方は早稲田の庭根、キャプテン川口三郎がいたんです。
そうなんですか。
それから僕の同級生に松本育夫ってね、メキシコオリンピックの選手になったのがいてね。
強かったですよ。日本一じゃなかったかな。
そうそうたるお名前が今出てきましたね。
出たでしょ。
僕は2年生までやったんですよ。新人戦まで出ました。
メキシコオリンピックの選手って半分ぐらい一緒にゲームやったな。
そうですか。
ところがやっぱり自分が好きなことだけをやってることに疑問を持って、そして辞めたんです。
で、学問に転じた。
そしてね、大学院まで行った。
大学院行ってある日曜日、家でドイツ語の現象を調べてたんですよ。
そしたらね、大寺第三小学校の遠藤先生という人が突然来てね、とにかく来てくれと。
サッカーを一生懸命やりたいって子たちがいるから見てくれと。
いや僕もうやってないんですよって言ったら、いやいや来てくれと。
強引ですよ、車に乗せられて。
大寺第三小学校行ったら20人ぐらいの中学1年生がいてね、目を輝かして待ってたわけ。
でね、1年生ですからね、まだ基本もできてないでしょ。
そこでね、ボールを蹴る、止める、運ぶ、それをやってみせた。
彼らの目の輝きが違うんですよ。
この子たちを週に1回、悪いけど1時間見てくれないか。
1時間でサッカーを知らないじゃないですか。
見ることにしたんです、日曜日。
で、この子たちが集まってたのが富士見中学校だった。
でね、行ってサッカー部が初めて富士見中学にできた。
初めてできたら第一サッカーブームですから、1年生から3年生まで100人を超える生徒が集まった。
すごいですね。
でしょ。
そのブームがまずきっかけというのがあるんですね。
きっかけですね。
地域サッカーの発展
で、ブームに僕も引っ張り出されたわけだから。
なるほど。
それでね、子どもたちは中学へ行ってサッカー部に入ったけど、
100人にゴム製のボールですよ。サッカーボールなんて買わないんですからね。
10個しかなかった。
それで、練習なんかできないでしょ。
もうパラタマ広い。
で、彼らはもちろん不満ですよね。もっとちゃんとやりたいと。
で、小学校の先生に泣きついてね、大地大3小学校で日曜日やらし菅祭が始まった。
それが柔情少年サッカークラブだった。
今の柔情FCですね。
柔情FCです。
そうですか。
それで、この子たちの親御さんたちがね、やっぱり理解があって、
特にその中に一人ね、昔ひとつばしでね、ラグビーやってた人がいて、
そしてその人が会長になってね、このクラブができて、
そして20人ぐらいいましたかね、日曜日練習をしているところへ、
そこへ僕が呼ばれて行って、教え始めたわけですよ。
そしたらこの子たちのものすごい熱心でね、日曜日朝9時からというのに、
8時から行ってね、門をよじ登って開けて練習してた。
その熱心さにね、彼らの目の輝きに惹かれてね、
そしてまた体育会のサッカーってすさまじいからね、
すごい人たちと一緒にやってたわけだから、
僕は辞めた後も実はね、安田で辞めたんですけど、
ちょうど辞めた年にね、安田大学の中にね、同好会ができた。サッカーの。
でね、週に1回くらいはね、健康のためにと思って同好会行ったんだ。
で、それがね、稲穂キッカーズって。今もあるんだよ、もう。
もう60年ぐらい経ってんのね。その稲穂キッカーズというのがあって、行ったらね、
半分ぐらいしかサッカーやったことのない人たちの集まりでね、
で行ったら当然ね、僕はね、練習からないから指導することになったんだ。
それでね、合宿もやった。で、初代のキャプテン。
なるほど。大会系から行かれて、擦られて。
そうだったんですね。
それでね、日本のサッカーが、世界のサッカーでね、唯一名を成した大会があるんだね。
それはね、ベルリンオリンピックの時に優勝候補のスウェーデンと当たって、勝ったんだよ。
本当ですか?
勝った。
この時のフルバックをやってた人が、大学のサッカーの圧縮修行部というのが、
OBでね、経済学部の教授だった。
この先生にお願いして、こういうわけで、どこかへ行ってきましたので、
先生、顧問になってくれませんか?ちょっとね、厳しいこと言われて。
君はね、厳しいことやめてね、楽なこといくのか?って。
でもね、いい先生でね、楽しむのもいいよって。
で、まあそういうことでね、大学の4年間はとにかくサッカーに関わってたので、
だから子どもたちに教えてもね、すぐ体はできてましたから。
大学に行ったばかりでしたからね、子ども相手に今度は教えることになったわけです。
それが始まり。
なるほど。
それでね、十条少年サッカークラブというのが、東京でもね、今一番古いクラブじゃないかな。
おそらくそうでしょうね。
下田雅博って知ってるでしょう?
はい、知ってます。
日本協会の技術選手をやって。
彼はね、隣の豊島区から来たんだ。
サッカーやりたくても、小学校でやれるところがない。
で、十条クラブに来た。
そうですか。
そういうことがあって、今、北区のサッカー協会の会長のね、山田一則君ね。
これもこの十条フットボールクラブの僕が教えた。
ご出身なんですね。
そうです。
そんなことでね、サッカーは長くなりましたけど関わっていて、
そしてその富士見中学へ行った子どもたちはね、またたくまに上手くなって、
そしてね、中学2年生の時には東京でベスト3まで行った。
強かったんですね。
北区のサッカーの歴史
1年半でそこまで行ったんだ。
すごいですね。
で、子どもたちも良かったけど、実はサッカー部を作った時に、
顧問になった先生がね、野球の専門家だった。さすがだね。
1年生から3年生までやってる練習を見て、しばらくするうちに1年生を見て、
お前たちどこかでやってるだろうと。
つまりやることが違うと、他の子たちと。
で、教えてる人がいるということを聞いて、
隣のね、大和小学校の中村先生という人を通じて会いたいと言ってこられて、
それでお会いして先生がおっしゃるのは、やっぱり優れた方だったなと思うんだけどね、
立派な方だったと思うんですけどね。
1年生が日曜日にやってる練習をサッカー部でね、1週間後にやるから、
それを教えてくれと言われて、そしてカルキュラムを渡したんです。
でもそんなことがあってね、1年生はますます強くなって。
で、ベスト3まで行った子たちの、今度は弟たちがやりたいと。
実はね、十条少年サッカークラブの子は、夏、春ずっと合宿やった。
そこへ自分たちも行かしてくれと。
洗濯でも何でもすると。そんなことさせないよ。
でも、ついてきて。で、どんどんどんどんね、そうやって下の学年が入ってきたわけ。
で、今の教会のサッカー協会の会長の山田君も、そうやって入ってきたんだ。
そうなんですね。坂井先生、北区のサッカーの歴史というかですね、原点と言いますか、
少年からあるいは中学、先ほどね、藤見中学の話も出ましたけども、
そこからずっと今まで繋がっている、今の十条FCのお話も出ましたけども、
歴史あるクラブチームのいわゆる出発点、そこもずっと見てこられているってことですよね。
そうですね。それでね、実は北区のサッカー協会というのはね、小学校の先生たちが作ったんだよ。
そうなんですか。
それはね、東京都のサッカーの大会って、都民大会というのが戦後あってね。
その都民大会にいろんな種目があったわけ。で、北区にサッカーのチームなんかないじゃないですか。
東京都から案内が来るわけ、国。で、それを受けたのが小学校の先生たちだった。
小学校の先生たちがサッカーチームを作って、そしてサッカー協会を作ったわけ。
そのチームの名前は北州って言うんだよ。北のケル。北州という先生方のチームがあって、
その北州の先生方を中心にしてサッカー協会ができた。
なんで僕が引っ張られたかというとね、北州とね、あと2つチームがあった。3つ。北区に。
企業チームが2つあって、日産科学ってあなた方も知らないだけど、大塩町目団地。
あれ日産科学の跡なんだよ。跡地なんだよ。そこにね、大きなサッカー場があった。
で、日産のサッカー車があって、隣にね、日本有志という会社があって、これもサッカー車があった。
で、この2つの日産と日本有志と北州で北区大会やってたんだよ。
でね、たまたま僕は先生方に引っ張られて、北州に入って試合やったことあった。
そういうことがあって、その子どもたちのところへ先生が知ってて引っ張っていった。
ああ、そうなんですね。
だからサッカー協会といっても先生方のチームと社会人が2つあって、それが年に2回ほど大会をやって、
で、その先生方が自分たちだけじゃなくて子どもたちにやらそうと。
で、やってる子どもたちを今度は大会やろうと。
ミニサッカーの普及
始まったのが北区の少年サッカー大会です。
わかりました。すごい歴史だな。本当にもう生き地引きと言いますかですね。
先生がいらっしゃらなかったら、もしかしたら北区のサッカーがこんなに発展していなかったかもしれません。
それはよく言われます。
冗談抜きに本当にそう思いますね。
そう言われます。
そしてですね、北区のサッカー、地域のサッカーの振興にも携わって、サッカーフットボールということに関して言うと、
ミニサッカー、フットサルですね。
こちらの普及の方にも非常に力を入れられて、
全国的にね。
されたというお話も色々お聞きしてるんですけども、
その辺のお話もですね、まずなぜミニサッカーの普及に勤められたのか、
いつ頃からこういった普及をさせなくてはいけないというふうに感じられたのか、
この辺のお話を先生にちょっとお聞きしたいです。
わかりました。
十条少年サッカークラブは唯一のクラブでしたから、
十条地域を中心にサッカーをやりたい子たちが集まってきてたわけですよ。
その初代の最初に教えた子たちの兄弟とか、それからずっと続くわけですけれども、
僕は週に一回ですから、練習をね、本当に考えました。
子供の指導なんていうものは、指導書なんて一冊もなかった。
そもそもね、サッカーについての書物ってね、
オーブン社から出てるスポーツシリーズでね、サッカーという本があって、
竹信重丸という東大の先生です。
日本協会の技術委員長もやった方が書いた本一冊しかないんです。
これしかなくてね、子供の指導なんてもちろんない。
だから自分で考えた。
それからね、いくつかある国際試合を全部見に行きましたよ。
で、感じたことがあるのね。
世界のサッカーと日本のサッカーがあまりにも違う。
なんでこんなに違うんだろう。
それから子供たちを教えてね、こういうことがあったんです。
いい練習を、子供が楽しいだろうと思うような練習を工夫した。
そしてね、2時間ぐらいあるでしょ、日にね。
最後の15分か30分にね、必ずゲームを取り入れたんです。
試合をね。
で、終わって、今日何が楽しかったかっていうとね、ことごとく子供がゲームって言うんです。
こっちが1週間考えた練習がいいなんて一つも言われない。
これはね、何か違うぞというふうに思ってたのね。
それからその、いわゆる日本の代表チームがね、国際試合の中ではなかなか勝てない。
それどころか、ワールドカップっていうのが始まったでしょ。
それを見るとね、何かね、違うんだなやってることが。
で、そういう疑問を持っていて、日本ミニサッカー連盟っていうのができてた。
で、これはね、日本のサッカーを強くするのにはどうしたらいいか。
それにはね、子供たちからサッカーを変えなきゃダメ。
で、子供たちをどういうふうに変えるか。
南米では子供たちはいきなり11人のサッカーなんかやってない。
ストリートサッカーでしょ。
確かにそうですね。
それから腹っぱで遊んでるわけでしょ。
そこでやってるのがね、サロンフットボールだったんだよ。
そのサロンフットボールという競技があると。
で、それをね、各地にね、日本のサッカーを良くしようと思う。
特に少年サッカーを良くしなきゃいけないと思ってた人たちがいて、
そういう人たちが集まってね、そして初めてそういう子供たちを集めて、
室内のミニサッカーね、つまりサロンフットボール。
外でやる。これ5人制ね。南米でやってるわけでしょ。
それから室内では日本でボールを蹴れないから、屋外でやろうって。
6人制のね、ガーデンフットボール。
それから11人制で子供をやるのは無理があるんですよね。
その人たちは8人制のミニサッカーを始めたんだ。
その全体を含めてミニサッカーって。
なるほど。
そういう普及のための連盟ができたんだ。
連盟が作ったときに名前がミニサッカー連盟だと。
そうなんですね。
連盟の名前をミニサッカー連盟。
競技の名前はサロンフットボール。
サロンフットボールって名付けたのはこれはね、
ブラジルではフチボルでサロンね。
スペイン語ではフチボルサラ。
いろんな言い方でバラバラに言ってたんだけど、
特に南米から日本リーグにスケットがいっぱい来てたでしょ。
来てましたね。
彼らがやってみせたわけだ。
何が違うかって言ったらね、
子供の時からやってることが違うわけね。
これはね、日本のサッカーのためにならないと。
つまりミニサッカーの普及こそね、
日本のサッカーの将来だと。
なるほど。
全国大会の開催
いうふうに考えた人たちが1977年に連盟作ったんだよ。
なるほど。
日本のミニサッカー連盟ってね。
で、次の年か。
初めて子供たち集めて、
全国小学生総合ミニサッカー大会っていうのを始めたの。
それが第1回が三菱大和であったんだ。
で、なんで総合かっていうと、
屋内の5人制、屋外の6人制、
そして外での8人制、これ3つ合わせてね。
で、格拳対抗みたいにやったわけね。
実はそこへね、十条少年サッカークラブがね、
ひょんなことから呼ばれたんだよ。
で、チーム連れて行ったのね。
その時に、ラモス、マリーニョ、
それからね、ジョージ・ヨナシロ、セイハン・ヒガ、
そういう選手たちが集まって、
そしてね、日本のちょっとできると思ってたね、
学生たち、相手に試合やったんだよ。見せたの。
もうこれはね、子供と大人、相手にならない。
その時に指導者研修もあった。
そして指導者研修でね、
僕はもういっぱい疑問持ってたからさ、
いろいろぶつけたんだよ。
この競技がね、どういうふうに行われてるのか。
初めてそこで、サロンのボール見たんだ。
白い。ブラジル製の。
弾まないじゃない。
ボールって弾むもんだって僕たちは思ったんだけどさ。
そういうボールを使ってね、やるプレーね。
一番驚いたのは、足の裏の使い方よ。
それとトーキック。
ちょっと巧みなドリブルね。
あっけに取られて見てた。
終わった後ね、ジョージ・ヨナシロに聞いたんだ。
これ、土の上でやっちゃダメって言ったらね、
このボールは平らなところがいい。
できれば板の上がいいって言われてね。
で、君たちが西川岡でサロンフットボールやっただろ。
そこに繋がるんだ。
なるほど。
そういう繋がりですか。
そう。それで、いち早く北区へ持ってきたんだ僕は。
で、十条フットボールクラブがめちゃくちゃ強かったでしょ。
それはね、選手たち呼んで、ラムスを呼んだりね、見せてもらって。
そしてね、それを一生懸命やったわけ。
なるほど。
だから、ミニサッカー、フットサルもね、北区の草分けだったんだ。
なるほど。
それがね、発展していってね、全国で広まっていったわけ。
で、その広まっていって、日本ミニサッカーレベル主催の
全国小学生ミニサッカー大会、10年やった。
これをやりながらね、東京でやり、静岡でやり、千葉でやり、栃木でやり、
そういうふうにして、地方で大会持ち回りでやったんだけどね、
連盟でやってるとね、やっぱり限度があるもんね。
金銭的なことも、それから組織的なことも。
で、それを10年やって、いよいよこれでは駄目だと。
日本協会主催にしなきゃいけないという話になったわけね。
でね、日本協会に申し入れたんだ。
連盟は1977年にできた。
で、10年やった。
フットサルの普及の道
ぜひね、日本協会主催にしてくれませんかと、いうふうにしたらね、
2年間ね、トライアルの大会をやれって言われた。
で、トライアルの大会2年間やったんだ。
そしてね、初めて今度は日本サッカー協会の主催の全国大会になってた。
そうなんですね。
で、その時に僕は連盟のリージョンになってた。
ミニサッカー連盟の。
トライアルの少年大会2年ほどやれってことでね、やったわけね。
それ来たくてやったんだよ。
でね、最後はね、堀倉小学校一番大きいからね、
あそこともう一箇所、滝の川体育館使った。
で、1回目にやった時に出てきてたのが、
フロクっていうチームがあったんだよ。
府中大陸小学校。
そこにね、見てたらね、
あれ女の子じゃないかっていう選手がいたんだよ。
男の中の。
全然遜色ないのね。
男の子を指示して動かしてるんだよ。
それがサワー・ホマレだった。
おお、すごいですね。
サワーはだから、僕らがトライアルでやった大会の第一回目の選手だった。
で、2回目ね、今度は滝の川体育館を借りてさ、
決勝やったんだ。
その時に出てたのは沼津から聞けたのがね、
小野真司。
で、そういう大会があって、
そして、81年から、
少年の今のバーモントカップ。
それをミニサッカー大会ってやってたんだよ。
ああ、そうなんですね。なるほど。
場所もね、文京区。旅館街。
4、5、6かな、借りて、
小学生全部集めて、
で、体育館も文京区の中学校の体育館ね、
をいくつか借りて、
そして最後は三菱養和の体育館で決勝をやるという風にしてね。
で、そうやって普及をやりながら、
やがて教えてる今度は大人の方が大会を始めた。
で、それがね、第一回大会が1985年。
連名の全日本選手権をやった。
全日本選手権というとね、
予選やってこなきゃいけないから、
全国選抜大会でやったのね。
もうその時には僕は全部ほとんど中心になって、
連名の理事をやってたから。
いろんな方と力を合わせながらね、
大会運をやった。
でね、この時にもう一つ言おうか。
北区で少年サッカー大会、
それからフットサンド大会をやった時にね、
レフリーがいないだろう。
その当時、社会人の方がね、
少年大会を先行してやってたわけ。
でね、10チームぐらいチームがあったのね。
だんだん増えてきて20チームぐらいになってね、
結構社会人が年に1回の大会で嫌だから、
リーグ戦やりたいとまで言い出したわけ。
この選手たちの試合を、
少年の大会の時は全部止めて、
社会人がレフリーをやる。
つまりね、社会人というのは、
ただ大人になったってことじゃないぞと。
社会人には社会人の責任があると。
だからね、社会人の持っている物理的な時間ね、
それから経済的なものね、
1割ぐらい少年のために避けと。
言ってね、少年大会をやったんだよ。
それで今の少年大会が相手に盛んなった。
日本サッカー協会との関わり
素晴らしい仕組み作りもやられたってことですね。
いろんな地域で見ててね、
いつも問題になるのはね、
例えばね、少年と社会人がやるとグランドないでしょ。
取り合いになるんだよね。
よく聞くのはね、
社会人のサッカーの連盟と少年がぶつかったりうまくいかない。
これはね、悪いけどね、野球にもそういう問題が起こった。
僕はそれはダメだと。
要するに全部一つになってやる。
だから少年からね、社会人まで一つの組織としてみんなが協力し合う。
これ徹底させた。
なるほど。
だからそれは帰宅のサッカー協会が発展する大きな意味だ。
いやー、分かりました。
今ですね、坂井先生の方から帰宅サッカー協会の発展ということで
いわゆるピラミッドというか、一つ一体となった組織づくりということで
今私も帰宅サッカー協会ですね、委員会がすごく充実されてますよね。
シニアがあって社会人、それから少年少女、ユース、それからいくつかあると思うんですけど
女子がね。
女子がありますね。
そういったところの組織体系、その強さというか
これがすなわちこの帰宅のサッカー協会、サッカーの強みというかですね。
そういうふうに率直に感じました。
ああ、そう。はい。
坂井先生、改めてお伺いいたしますが
日本サッカー協会の理事にもご就任した、ご経験があるかと思うんですけども
その経緯はどういう経緯だったでしょうか。
これやっぱり大きかったですね。
僕がサッカー、いわゆるサロンフットボールに関わっているのをずっと見て知ってたのは
チェアマンなんですよ。
私が1年生の時のキャプテンだった。
私は大学を辞めた後もつながりがあってね
先ほど言ったように日本協会で少年大会を始めた。
連盟の大会をやった。
そういうことを見てて、チェアマンがですね
お前がやってることはサッカー連盟だけでやるのはいいけれども
本当はサッカー協会の中でやらないといけないと
だから理事会へ入れと言われたんですよ。
呼ばれたんです。
特任理事という形でフットサルの担当者として
分かりやすく言うと、民作家というのは
11人制以外のさまざまなサッカーを全部民作家と言ってたわけね。
そこにはビジサッカーなんかも入ってくる。
その11人制以外の責任者をやれと。
特任理事として、その時一緒に特任理事になったのは
その後会長になった第2国役だよ。
そういうことがあって、日本サッカーのJリーグね
1993年にスタートしたでしょ。
僕は要連に呼ばれたんだ、その翌年。
そして理事会に行った。
そして何をしたかというと
初めて民作家の委員会ができた。
これができないと全国に普及できないわけね。
サッカー協会には第1部が社会人、大学生ね。
2部が高校生。
3部が中学生。
4部が女子。
こういうカテゴリーがあるわけ。
そこに5つ目2つあるが入ったわけ。
そうすると全国に委員会を作ってもらう。
そういうことになったわけ。
大きいですね。
これが大きかった。
だから連盟だけでは連盟に関われるところと関わってないところがあるでしょ。
でもサッカー協会だったら
全部に広げるためには
全協会が委員会を作ることになる。
さらに民作家委員会を作れと。
嫌悪なしに作らなきゃいけなかった。
その47都道府県の民作家委員会の僕が初代の委員長だった。
そして委員長になって10年こうやって携わりました。
その普及と同時に日本の代表チームが
もうすでに大会に出てたわけ。
フットサルの名称と国際的な発展
サロンフットボールの世界連盟っていうのがあって
これはFIFAと関係なく
初めて世界選手権をブラジルでやったの。
サンパウロで。
その時に僕らはチームを送らせてくれって言ったら
日本協会から直総省と言われちゃった。
役員だけならいい。
ところがセルジオが大学生を集めて
特別参加で行ったんだよ。
そしたら日本代表になっちゃったんだ。
チーム作って準備して行く2週間前に
FIFAからストップをかかった。
FIFAの考えは1国1協会なんだよ。
ところが民作家をやってる人たちからすれば
サッカーじゃないじゃないか。
だから自分たちは世界連盟を作って
フチボル・デ・サロンの世界連盟を作って
1回大会をブラジルでやり
2回大会を香港かな。
3回大会を今度スペインでやるんだから。
スペインのオリンピック委員会は
バルセロナオリンピックの公開競技として
この競技を入れてあった。
行く寸前になってそういうことがあって
僕は困っちゃってね。
大会本部へテレックス
ファックスと電報が一緒になったやつ。
テレックスで言ってね。
これFIFAとの問題が解決しないと
日本に行けませんって言ったら
すぐ返事が来た。
解決したから来いって。
ブラジルもアルゼンチンもイタリアも
みんな来ますって言うんだよ。
行くしかないでしょ。
行ったんだ。
行って国際会議出た。
そしたら案の定何の解決もしてなかった。
そこでミニサッカーに関わる人たちは
国際会議をやった。
初めての大きな。
何が問題になったか。
一つはFIFAがこうやって干渉してきてる。
その干渉に従って
FIFAの中でやるか
あるいは独自にやるか。
それから名称が
競技の名称がみんな違う。
日本、アメリカはミニサッカー。
スペインはフットボールサーラー。
ブラジルはフットボールでサロン。
チリはベイビーフットボールとか
いろんな言い方がある。
統一しようと。
で、出てきた名前がフットサル。
フットはFUT。
ポルトガル語、スペイン語ね。
サルはサロンね。
女性はすぐ分かるね。
ネイルサロン、ヘアサロンね。
部屋でしょ。
つまり室内のサッカー。
インドアサッカーを
スペイン語、ポルトガル語にした
頭だけを取って
FUTとSALをくっついて
フットサルって言葉ができた。
で、その会議の最後にね
この競技を
自分たち独自にやるということとね
名称をフットサルにするということでね
参加者たちが全部
議定書にサインした。
で、面白いことがあった。
みんながずっとサインしていって
最後に僕の番になった。
アルファベットって書くのか?
漢字で書いてくれって言うんだよ。
僕だけ漢字で書いた。
みんな大喜び。
それでフットサルって言葉ができたの。
なるほど。
だからこの競技名を作る場に
いらっしゃったってことですね。
日本人がいたんだよ。
ただね、その大会に行ったということでね
ちょっと敬遠されたんだな。
10年くらいその後遺書残ったね。
で、Jリーグが始まりました。
1993年。
93年ね。
その翌年ね、僕が呼ばれたわけだよ。
そしたらね、
FIFAがね
FIFAと別でやると言っていた
サロン・フットボールの協会が
FIFAと競技して一緒になったんだ。
FIFAの民作家大会始めたの。
サロン・フットボール協会別にね
入ってこないから。
それがね
ファイバーサイドフットボールって言うんだよ。
字の通り。
ワンサイド5人でしょ。
それを2年ほどやったの。
2年ほどやった後で
ついにね、合体して
1993年に僕が呼ばれた時にはね
もう合体してたんだ。
そしたらね、94年に
フットサルの歴史と変遷
僕が連盟の協会の理事に呼ばれた時に
もうFIFAがこの民作家を
フットサルという名前に変えたと。
だから日本語を変えたらどうかって
締めたと思ったんだよ。
でね、その場でね
競技名は変えますと。
ただ連盟はね
全体の測らなきゃいけないから
連盟の名前を半年分待ってくださいと
言って
フットサルという名前が
大手を振って使えるようになった。
初めてのアジア選手権が
アジア選手権が1999年にあった。
これは代表選手に
ラモスを呼んで
クアラルンプールで試合をやった。
非常に歴史の重みというかですね
その当時の話を聞くと
まだまだ日本がですね
民作家あるいはフットサル
その分野、領域に対して
どういう方向に行くのかというのが
なかなか掴めなかった
そういった時代の中で
坂井先生自ら
そのことを切り開いていったという
そういうような印象を持ちましたね
フットサルの将来への展望
そうですか
いろんなご苦労をされたんだなという風に
思いました
ありがとうございます
最後先生
日本のフットサル
どういう方向、どういう風になってほしいかという
ちょっとその思いだけを聞かせていただけないでしょうか
1点だけあるんです
日本の全てのスポーツはね
あなた方がね
どこで始めてました?
学校の体育でしょ
学校のスポーツの中にね
体育の中に
この競技を入れてもらわないと
本当の意味での
発展にならない
もちろんね、フットサルのクラブがあちこちにできて
できればね
ブラジルのように
そのプロチーム
Jリーグの中に
フットサルのチームができるのがね
これが理想ですよ
だけど学校の
スポーツの中に入っていかないと
これは実は
やったんです、僕は
ところが
上手くいかなかった
昔OK出したんだよ
ところがね、なんとね
最後に
サッカー協会がビビっちゃった
サッカーって言葉がなくなるのが
嫌だ
今そういったお話がもし
なければ
学校の教育の中に
入ってですね
フットサルがどんどん発展していったかもしれませんね
サッカー協会は
理事会で一旦変えたわけだよ
ミニサッカーやめてフットサル
なのに
ミニサッカーって言葉にこだわる人がいた
これで
僕はもう10年遅れたな
と思っているのね
なんでそれを言うかというとね
高い山、富士山見てください
高い山はね
広い裾野を持っている
でしょ
その広い裾野のところで
やることを考えないと
普及にならない
ですよね
子どもたちが日常的に
楽しめる
勝手に自分たちで遊べる
グランドで
ルールに沿ってじゃなくてね
自分たちでルール作って
遊べるようにならないと
本当の意味でのね
スポーツにならないと
先生、フットサルに関する
次世代の
メッセージということで
捉えさせていただきます
まだもうちょっと命が続きそうなんでね
もう一回
試びてみようかと
それはぜひ
お願いしたいところですね
今回はですね
特別編ビルダップローカルプラス
ということで
日本サッカー協会の初代フットサル委員会委員長や
東京北区サッカー協会の
会長も務められました
坂井たかおさんにお越しいただきました
坂井先生本当にありがとうございました
ありがとうございました
常田幸永がお送りしている
ビルダップローカル
本日はここまでとなります
番組の感想は
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ビルダップローカルをカタカナで
よろしくお願いいたします
そして
いつも番組をお聞きくださっている
スナー様に素敵なお知らせ
上北信用金庫
上北アスリートクラブ様より
プレゼントをいただきました
上北アスリートクラブ
オリジナルマフラータオルを抽選で
計5名様にプレゼントをいたします
詳しくは
渋沢くんFM
公式Xをご覧ください
皆様のご応募
ドシドシお待ちしております
お相手はビルダップローカル
番組ナビゲーターの
常田幸永でした
それではまた
44:22

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