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【浄土真宗と菊(聴く・聞く)】──菊の花に学ぶ「聴聞」と阿弥陀さまの救い
2026-10-21 09:03

【浄土真宗と菊(聴く・聞く)】──菊の花に学ぶ「聴聞」と阿弥陀さまの救い

🔶日本人に馴染み深い「菊」と仏花の歴史

毎年秋(10月中旬〜11月頃)になると、西本願寺をはじめ各地のお寺で「献菊展(けんぎくてん)」が行われます。菊はパスポートや皇室の紋章(菊花紋章)にも用いられるなど、日本人にとって非常に格式高く馴染み深い花です。一方で、菊といえば「お葬式やお墓にお供えする仏花(ぶっか)」というイメージを持つ方も多いでしょう。

しかし、お葬式などで菊が仏花として定着したのは、実は戦後(昭和時代)になってからのことです。昔の葬列では、その季節の野の花など、自然の中にある花が使われていました。戦後になり、温室栽培などの技術発展によって一年中安定して菊が栽培できるようになり、日持ちの良さも相まって仏花として広く用いられるようになったという歴史があります。


🔶花の終わりを表す「菊が舞う」という風流な表現

日本には花の終わり(散り方)を表す美しい言葉の文化があります。例えば「桜は散る」「梅はこぼれる」「椿は落ちる」などと表現されますが、菊の場合は「菊が舞う」と表現されます。

菊は枯れても花びらがバラバラに散って落ちることがなく、花全体が垂れるように枯れていきます。その姿が、まるで風に吹かれて舞い踊っているように見えることから「舞う」と表現されました。こうした風流な表現からも、日本人が菊という花に特別な感情を寄せてきたことがわかります。


🔶「聴」と「聞」の違いと浄土真宗の「聴聞」

浄土真宗において、お寺で阿弥陀さまの教えを聞くことを「聴聞(ちょうもん)」といいますが、この「聴」と「聞」の二つの漢字には明確な違いがあります。

「聴(耳へん)」は、自分から意識して自発的に聞こうとすること(例:ラジオを聴く)を指します。一方、「聞(門がまえ)」は、聞こうとしなくても向こうから自然に耳に入ってくること(例:救急車のサイレンが聞こえる)を指します。

浄土真宗では、この「聴聞」という言葉について、「『聴』は仏さまにお許しをいただいて聞かせていただくこと、『聞』は仏さまの教えを疑いなく信じて聞き入れること」と深く味わいます。最初は自分の意志で教えを聞きに行き、やがて阿弥陀さまの呼び声(教え)が私に至り届き、それをそのまま信じて受け入れる身になるという、仏法との尊い出会いが表されています。


🔶親鸞聖人が説く「聞」──仏願の生起本末を聞く

浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』において、「何を聞くのか」という問いに対し、次のように示されています。


> 「聞(もん)といふは、衆生(しゅじょう)、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」


「生起(しょうき)」とは、なぜ阿弥陀仏が私を救おうと本願を起こされたのかという理由です。それは、私が自己中心的な煩悩にまみれた存在であるからです。

「本末(ほんまつ)」とは、そんな迷いの命である私を、必ず悟りの仏へと成らせるという阿弥陀さまの確かな働きのことです。

つまり、私のありのままの醜い姿(生起)と、私を絶対に救い取るという阿弥陀さまの広大な慈悲(本末)を、私の都合や計らいを交えずにそのままお聞かせいただく(疑心あることなし)ことこそが、浄土真宗における「聞(聴聞)」の本質なのです。


🔶色眼鏡を外して「ありのまま」をお聞かせいただく

菊の花の本質は同じであるにもかかわらず、ある人は「格式高い尊い花」と愛で、ある人は「お葬式の縁起の悪い花」と避けます。それは、私たちが物事を自分の都合や価値観という「色眼鏡」を通してしか見られないからです。

聴聞とは、そうした自己中心的な見方しかできない煩悩具足(ぼんのうぐそく)の自分自身のありのままの姿に気づかされ、そんな私こそが阿弥陀さまの救いの「目当て」であるとお聞かせいただく尊い時間です。菊の花を仏前にお供えするたびに、自分の色眼鏡に気づき、教えを聞き受ける「聴聞」の大切さを味わうご縁としたいものです。


🔶今週のまとめ

【1】西本願寺の「献菊展」や皇室の紋章など、日本人に馴染み深い菊の花が「仏花(お葬式の花)」として定着したのは、栽培技術が発展した戦後になってからのことです。

【2】日本の言葉の文化では、花びらが散らずに垂れるように枯れていく菊の美しい姿を、風に吹かれる様子に見立てて「菊が舞う」と表現します。

【3】自発的に聞く「聴(耳へん)」と、自然に聞こえてくる「聞(門がまえ)」を合わせた「聴聞」は、教えを許されて聞き、信じて聞き入れるという浄土真宗の要の歩みです。

【4】親鸞聖人は『教行信証』において、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と記し、仏さまが私を救う理由と確かな働きをそのまま受け入れることが「聞」であると説かれました。

【5】菊の花を「縁起が悪い」と決めてかかるような自分の色眼鏡(煩悩)に気づき、そんな私こそが救いの目当てであるとお聞かせいただくことが聴聞の真髄です。


次回テーマは「お布施の心とキャッシュレス」です。

どうぞお楽しみに。


お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。

お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。

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