仏教にまつわる色々なお話を、分かりやすくお話していただく番組です。仏教由来の言葉、豆知識、歴史、迷信、風習、教義、作法などなど。 出演は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正さん。お相手は、丸井純子さん。
お悩み相談もメールで受け付け中!goen@rkk.jp
▼メール goen@rkk.jp
★地上波ではRKKラジオ(熊本)FM91.4 AM1197で、毎週水曜日 午後6時10分から放送中。是非生放送でもお聴きください。
https://rkk.jp/radio/番組の魅力・推薦
このポッドキャストは未認証のため、最新エピソードのみ表示されます。
【戦争と平和】──真の平和を問い直す教えと「怨親平等」の智慧
🔶原爆投下の日と戦時下のお寺が背負った歴史8月6日の広島、8月9日の長崎への原子爆弾投下、そして8月15日の終戦の日を迎えるにあたり、戦争と平和について改めて深く見つめ直します。第二次世界大戦において、日本全体で約310万人もの尊い命が失われました。当時、全国のお寺も「金属回収令(金属類回収令)」によって梵鐘(ぼんしょう)や仏具の拠出を強要されました。浄土真宗本願寺派においても、梵鐘があったお寺のおよそ9割が供出に応じ、その多くは二度と戻ってくることはありませんでした。さらに、教団自体が当時の国家体制の中で戦争に協力・加担してしまったという重い反省の歴史があります。過去のあやまちを深く省み、二度と惨禍を繰り返さないために平和を求め続けることこそ、現代のお寺や仏教徒に課せられた大切な責務です。🔶ガルトゥング博士が説く「三つの暴力」と積極的平和現代社会における「平和」について考える際、平和学の父と呼ばれるノルウェーの学者ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung)博士(2024年没)の提唱した概念が大きな示唆を与えてくれます。博士は、単に国と国との戦争(直接的暴力)がない状態を「消極的平和」と呼び、それだけでは十分ではないと指摘しました。ガルトゥング博士は、社会の暴力性を以下の三つに分類しています。直接的暴力:戦争やテロ、暴行など、心身に直接危害を加える行為。構造的暴力:社会の仕組みや貧困、差別により、本来助かるはずの命が失われたり人権が侵害されたりする状態。文化的暴力:宗教や思想、伝統、道徳などが、直接的暴力や構造的暴力を正当化・合理化してしまうこと。戦争が終結していても、不当な差別や激しい貧困、不平等が放置されているならば、それは真の平和とは言えません。これら「三つの暴力」を取り除き、環境問題の克服や人権の尊重、飢餓の解消といった「人間の安全保障」が満たされた状態を「積極的平和」と呼びます。こうした意識が社会の当たり前(伝統・慣習)として根付いた状態こそが、私たちが目指すべき「平和文化」なのです。🔶『ダンマパダ』の言葉と「怨親平等」の心完璧な平和文化の構築は一見すると遠い道のりに思えますが、2500年前に説かれたお釈迦さまの言葉の中に、その根本となる智慧が見出されます。最古の仏典の一つである『ダンマパダ(法句経)』において、お釈迦さまは次のように語られています。「実にこの世においては、怨みに報ゆるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である。」仏教には「怨親平等(おんしんびょうどう)」という教えがあります。これは、自らに害を加える「怨敵(おんてき)」であっても、自らに親しい「親しい者」であっても、そこに境界線を引かず、等しく慈悲の心で向き合う姿勢を指します。「やられたらやり返す」「恨みには恨みで報いる」という連鎖の中にいる限り、争いや戦争が止むことは絶対にありません。ガルトゥング博士が目指した平和の究極も、まさに相手を恨まず、報復の連鎖を自ら断ち切るこの精神に通じています。相手を憎む心を離れ、他者への深い理解と慈悲を持つことこそが、真の平和へと踏み出す第一歩となるのです。🔶今週のまとめ【1】8月6日・9日の原爆投下や終戦の日を前に、戦時中の「金属回収令」による梵鐘の供出や、戦争に加担してしまった教団の反省を振り返り、平和への思いを新たにします。【2】平和学の父ヨハン・ガルトゥング博士は、単に戦争がない状態(消極的平和)だけでなく、社会構造や文化に潜む暴力までを取り除いた「積極的平和」の重要性を提唱しました。【3】貧困や医療格差といった「構造的暴力」や、それを正当化する「文化的暴力」を無くし、人間の安全保障や人権が守られる「平和文化」を築くことが求められています。【4】お釈迦さまは『ダンマパダ(法句経)』において「怨みに報ゆるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことがない」と説き、報復の連鎖を断つ永遠の真理を示されました。【5】敵味方の隔てを越えて等しく向き合う「怨親平等」の精神こそが、争いが絶えない現代社会において真の平和を実現するための揺るぎない礎となります。次回テーマは「いのちのご縁(お盆のお話)」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
【仏教とハワイ】──サトウキビ畑から広がるお念仏と支え合いの歴史
🔶ハワイ移民の歴史と「元年者」から「官約移民」へハワイにおける仏教の歴史は、アメリカに併合される以前のハワイ王国時代、サトウキビ農園の労働力として渡った日本人移民の歴史と深く重なっています。19世紀半ば以降、ハワイにはサトウキビ農園の労働力として、中国、日本、ポルトガル、プエルトリコなど、世界各地から多くの移民が渡るようになりました。1868年(明治元年)、約150人の日本人労働者がハワイへ渡りました。日本からハワイへの最初の組織的な集団移住とされ、明治元年に渡航したことから、彼らは「元年者(がんねんもの)」と呼ばれています。その後、日本とハワイ王国両政府の取り決めに基づき、1885年(明治18年)から政府公認の「官約移民」が始まりました。1886年(明治19年)には、日本人移民の待遇や保護などを定めた日布渡航条約が正式に締結されました。出稼ぎを目的とした移民には、広島、山口、熊本など、西日本の農村出身者が多く含まれていました。さらに1900年以降は、沖縄からも多くの人々がハワイへ移住しました。20世紀初頭には、日本人はハワイのサトウキビ農園労働者の中で、最大規模の集団となりました。🔶開教使の派遣とハワイ本願寺の誕生過酷な労働環境に置かれた移民たちの心のよりどころとして、1889年(明治22年)、浄土真宗本願寺派の僧侶・曜日蒼龍(かがひ・そうりゅう)師が単身ハワイへ渡り、日本人移民を訪ねて布教巡回を行いました。1897年(明治30年)には、西本願寺から里見法爾(さとみ・ほうに)師が開教監督として、今村恵猛(いまむら・えみょう)師が開教使として正式に派遣されました。1899年(明治32年)には、本願寺派としてハワイ最初の本堂となるハワイ本願寺が完成しました。これが、後の本派本願寺ハワイ別院へと発展していきます。当初、移民たちは日々の生活に追われ、仏教の教えに耳を傾ける余裕を持てないことも少なくありませんでした。その後、低賃金や厳しい労働環境を背景に労働争議が起きた際には、今村恵猛師らが農園主と日本人労働者の間に立ち、事態の収拾に努めました。こうした活動を通して、農園主側からも本願寺への理解が得られるようになり、各地の農園周辺に寺院や布教所が設けられていきました。本願寺派の公式資料によると、現在、ハワイには32の寺院があります。また、幼児教育から中学校段階までのホンワンジ・ミッション・スクールと、2003年に開校した仏教系高校パシフィック・ブディスト・アカデミーが運営されています。パシフィック・ブディスト・アカデミーは、西洋諸国で初の仏教系高等学校とされています。🔶太平洋戦争の試練と日系社会のアイデンティティ1941年、真珠湾攻撃を契機に日本とアメリカの戦争が始まると、日本人・日系人社会の指導者と見なされた開教使や僧侶の多くが拘束され、アメリカ本土の抑留所へ送られました。ハワイでは、アメリカ本土西海岸のように日系人住民全体が一律に強制収容されたわけではありません。しかし、僧侶、日本語学校の教師、新聞関係者、地域の指導者などが拘束され、残された人々も厳しい監視や差別の中で生活しました。戦後、お寺の活動は再開され、「サンデースクール」と呼ばれる日曜学校や、ボーイスカウト、野球、バスケットボールのクラブチーム、太鼓グループなどの活動を通じて、日系人コミュニティと地域社会を支える文化的な拠点となっていきました。ハワイのお寺では、夏の「盆ダンス(Bon Dance)」やバザーなどの行事が今も盛んに行われています。寺院によっては、バザーで照り焼きチキンなどの料理を販売し、その収益を寺院の維持や地域活動に役立てています。日本の寺院とはまた異なる、地域に開かれた組織的な運営が行われているのです。戦時中、僧侶や日系社会の指導者の一部が抑留され、残された人々も大きな不安や差別の中で暮らしました。それでも、お寺を中心とした集いと盆踊りなどの文化を守り続けた歴史は、異国の地で生きる人々が、自らのルーツとアイデンティティを保つための大切な心の支えとなりました。🔶マウイ島大火災とラハイナ本願寺への支援2023年8月8日、アメリカ・ハワイ州マウイ島で大規模な山火事が発生し、歴史ある港町ラハイナは壊滅的な被害を受けました。この火災によって、ラハイナ本願寺では、本堂、学校建物、事務所、社会活動用ホール、台所、開教使住宅などが焼失しました。開教使や現地の門信徒、地域の人々も避難を余儀なくされました。復興には長い時間を要しており、現在も息の長い支援が続けられています。同じお念仏の教えに結ばれた仲間として、日本からもハワイへ温かな支援の手を差し伸べ続けることが求められています。現在では、日本にルーツを持たない現地出身の僧侶も数多く誕生しています。また、本願寺派の開教活動は、ハワイだけでなく、アメリカ本土の西海岸を中心とする日系社会にも広がっていきました。言葉や国籍、文化が異なっても、お念仏のみ教えを中心に結ばれた人々のつながりは、グローバル社会における共生の姿を、私たちに示してくれています。🔶今週のまとめ【1】ハワイの仏教は、1868年に渡った「元年者」や、1885年から始まった官約移民など、サトウキビ農園で働いた日本人移民の歴史と深く結びついて発展しました。移民には広島、山口、熊本など西日本の出身者が多く、1900年以降は沖縄からも多くの人々が渡りました。【2】1889年、曜日蒼龍(かがひ・そうりゅう)師が単身ハワイへ渡って布教巡回を行いました。1897年には本願寺から正式な開教監督と開教使が派遣され、1899年にはハワイ本願寺の本堂が完成しました。これが後の本派本願寺ハワイ別院へと発展しました。【3】労働争議が起きた際には、今村恵猛師らが農園主と日本人労働者の間に立ち、事態の収拾に努めました。こうした活動を通じて本願寺への理解が広がり、各地の農園周辺に寺院や布教所が設けられていきました。【4】真珠湾攻撃後には、開教使や日系社会の指導者の一部が拘束・抑留されました。戦後、寺院は活動を再開し、日曜学校、ボーイスカウト、スポーツ、太鼓、盆ダンスなどを通して、日系社会と地域社会を支える拠点となりました。【5】2023年8月のマウイ島山火事では、ラハイナ本願寺の本堂やホール、開教使住宅などが焼失しました。復興には長い時間を要しており、ハワイと日本の門信徒や関係者による継続的な支援が行われています。次回のテーマは「戦争と平和」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
【心に涼風を】──蝉の声に映る命の無常と今を精一杯生きる教え
🔶二十四節気「大暑」と土用の丑の日の由来一年の中で最も暑さが厳しくなる二十四節気の「大暑(たいしょ)」を迎え、厳しい酷暑が続いています。この時期の風物詩といえば「土用の丑の日」の鰻(うなぎ)ですが、夏場に鰻を食べる風習は江戸時代、夏場に売上が落ちて困っていた鰻屋から相談を受けた蘭学者の平賀源内が、「本日 土用丑の日」という貼り紙を店先に掲げさせたところ大繁盛したことが始まりとされています。こうした猛暑の中、仏嚴寺の前住職である祖父・高千穂将史(まさふみ)が昭和60年(1985年)頃に遺したコラム「心に涼風を」に触れながら、現代を生きる私たちの命のあり方について見つめ直します。🔶松尾芭蕉の句「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」の二つの味わいかつてお寺で配布していたコラムには、境内で激しく鳴く蝉(セミ)と、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」を通じた二つの深い味わいが記されていました。一つ目は「わずか1週間の儚い命であることも知らず、のんきに浮かれてただワシワシと鳴いていることよ」という自省の味わいです。将史元住職は「自分も時折、『お前さん、もう長い命ではないのだよ。何を呆けて暮らしているのか』と自分自身に問いかけている」と述べています。二つ目は「やがて死にゆく運命であることを知りながらも、蝉は今の今を力の限り命を歌い上げていることよ」という感銘の味わいです。儚い命だからこそ、投げやりになるのではなく「今日の1日を精一杯生きねばならない」という教えを、蝉の声が私たちに届けてくれています。🔶時代が変わっても変わらない「命の無常」昭和60年当時、境内に蝉取りに来る子どもたちの姿が減り、室内遊びや塾へと環境が変化していった様子がコラムに綴られていました。現代ではさらに環境が変わり、気温が35度を超える猛暑日には蝉すら鳴かなくなるような酷暑の時代を迎えています。しかし、2500年前のお釈迦さまの時代から、昭和、そして現代に至るまで、科学技術が発達し平均寿命が延びたとしても、決して変わらない事実があります。それは「人間は必ず命を終えていく(無常)」という命のあり様です。どれほど時代や環境が移り変わろうとも、私たちは限られた時間の中で生かされているという根本的な真理は変わりません。🔶お寺という「心のオアシス」と地域のハブかつてのお寺は、境内が子どもたちの格好の遊び場であり、地域の人々が自然と集うコミュニティの拠点(ハブ)でした。江戸時代には、お寺の軒先でお坊さんとお侍さんが酒を酌み交わして語り合うような、極めて身近で開かれた空間でした。「お寺は敷居が高い」と感じられがちな現代ですが、決してそんなことはありません。都市の喧騒や猛暑の中でふと立ち寄り、冷たいお茶を飲みながら心を静め、句やみ教えに触れて「心の涼風」を感じていただくような、地域のオアシスとして気軽にお参りしていただくことが本来のお寺の姿です。🔶今週のまとめ【1】二十四節気の「大暑」や「土用の丑の日」など夏の節目を迎える中、前住職のコラムを通じて「心に涼風」を届ける命の対話が展開されました。【2】松尾芭蕉の句「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」には、自らの無常を忘れて呆けて生きる自己への戒めと、有限の命を精一杯生き抜く姿という二つの味わいがあります。【3】昭和60年頃と現代では子どもたちの過ごし方や気候環境が変化しましたが、「人は必ず命を終えていく」という仏教の説く無常の理(ことわり)は変わりません。【4】昔のお寺は子どもたちの遊び場や地域の交流拠点であり、現代においても敷居が高い場所ではなく、誰でも気軽に心を調えられる空間です。【5】慌ただしい日々の中で一息つき、自分自身の命の限界と向き合いながら「今日の1日を精一杯生きる」ことの大切さを学ぶことが、心に確かな涼風をもたらします。次回テーマは「仏教とハワイ」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
【お盆の意味】──盂蘭盆会の由来と世界に広がるお念仏のご縁
🔶盂蘭盆会の由来と目連尊者の物語お盆の正式名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、その語源は古代インドのサンスクリット語である「ウランバーナー(ullambana)」に由来します。これには「逆さ吊りの苦しみ」という意味があります。その由来は『仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)』というお経に説かれています。お釈迦さまの弟子で、優れた神通力を持つことから「神通第一(じんづうだいいち)」と称された目連尊者(もくれんそんじゃ)が、あるとき「亡くなった母は今どこでどうしているだろうか」と自らの神通力で霊界を見渡しました。すると、母親は貪りの罪によって餓鬼道(がきどう)という苦しみの世界に落ちており、まさに逆さ吊りのような凄惨な苦しみを受けていたのです。悲しんだ目連尊者が「どうすれば母を救えますか」とお釈迦さまに乞うたところ、「夏の厳しい修行(安居)が終わる 7月15日に、多くの修行僧たちに食べ物や飲み物をお供えして深く供養しなさい。その功徳によって母親は救われるであろう」と教えられました。目連尊者がその通りにお勤めをすると、母親は無事に餓鬼道の苦しみから解き放たれたといいます。これが、私たちが今日営んでいるお盆の始まりです。🔶日本のお盆の歴史と浄土真宗の受け止め方日本におけるお盆の歴史は非常に古く、『日本書紀』には推古天皇14年(606年)にお盆の行事を行ったという記述が残されています。今からおよそ1400年以上も昔から、日本では亡き人を偲び、命のつながりを確かめる大切な行事として全国へ広がっていきました。なお、一般的にはお盆の飾り付けとして「きゅうりの馬」や「ナスの牛」(精霊馬・精霊牛)を用意する風習がありますが、浄土真宗においてはこれらを用いません。これらは日本古来の民間信仰や民俗風習が仏教行事と結びついて生まれたものです。浄土真宗では、亡くなられた方は阿弥陀さまの導きによって即座にお浄土で仏さまとなられている(往生即成仏)と受け止めるため、迷って現世に戻ってくることもなければ、移動のための乗り物を必要とすることもない、という教えの真髄に基づいているためです。🔶「7月盆」と「8月盆」──明治の改暦に隠された財政事情現在、日本には7月にお盆を行う地域(新暦盆)と、8月に行う地域(月遅れ盆・旧盆)が混在していますが、これには明治時代の「改暦」という近代化政策が大きく関係しています。もともとお盆は旧暦の7月15日に行われていましたが、明治5年、明治政府は西洋諸国と暦を合わせるために太陽暦(新暦)の導入を発表しました。これにより、明治5年12月2日の翌日が一気に「明治6年1月1日」となったのです。月の満ち欠けを基準とする旧暦(太陰太陽暦)は1年が約354日であるため、数年に一度「閏月(うるうづき)」が入って1年が13ヶ月になる年がありました。実は、当時の明治政府は極めて深刻な財政難に陥っていました。旧暦のままだと翌年に13ヶ月目が訪れ、官吏や軍人への給料を1ヶ月分多く支払わなければならなくなります。それを避けるために急遽新暦を導入し、1ヶ月分の支給を免れるという財政対策の側面がこの改暦には隠されていたのです。新暦への突然の移行により、本来の7月15日にお盆をしようとすると、農村部では最も忙しい農繁期と重なってしまい、お盆どころではなくなってしまいました。また、昔の農家にとってお盆は、普段なかなか口にできない大切な白米をいただくお祭りのような意味合いもありました。そこで、生活や農業のサイクルに配慮し、1ヶ月季節を遅らせて平穏にお勤めできるようにしたのが、現在の「8月盆(月遅れ盆)」の始まりです。🔶アメリカ日系社会へ渡った盆踊りとアイデンティティお盆の象徴である「盆踊り」は、本来は一遍(いっぺん)上人などが広めた「踊り念仏(おどりねんぶつ)」という別の宗派の文化に由来するため、日本の浄土真宗においては歴史的にあまり馴染みのないものでした。しかし興味深いことに、太平洋を渡ったアメリカやハワイの日系社会において、この盆踊り(Bon Dance)を文化として定着させ、広く発展させたのは浄土真宗の開拓伝道使たちでした。異国の地へ移住した日系移民の方々にとって、現地の開拓寺院(お寺)はみ教えを聞く場であると同時に、同じルーツを持つ仲間たちが集うかけがえのないコミュニティの拠点でした。ハワイやアメリカ西海岸のお寺では、お盆の時期になると盛大なバザーが開かれ、お寺の裏に据えられた巨大な石窯やグリルで「テリヤキチキン」を豪快に焼いて売り出し、みんなで盆踊りを踊って遠い日本の故郷に想いを馳せました。さらに、第二次世界大戦中に日系人の方々が強制収容所へと隔離された際にも、彼らは収容所の中で欠かさず盆踊りを催していました。過酷な逆境にあっても、自分たちのアイデンティティと文化を守り抜き、お念仏のみ教えを心の拠り所として生き抜くために、お盆と盆踊りは彼らにとって絶対に必要な魂の灯火だったのです。国籍や言語が変わっても、お念仏を喜び、ご縁を大切にする心は世界中で力強く息づいています。🔶命のご縁を喜び、本堂へお参りするお盆時代や場所が変わっても、お盆の本質は変わりません。それは、先にお浄土へ還られた大切な方々の命を尊い「ご縁」として、いま生きているこの私が、阿弥陀さまの救いのみ教え(お念仏)に出会わせていただくということです。お盆の時期にお墓参りへ行かれる際は、お墓の前だけでお参りを済ませるのではないでなく、ぜひお寺の本堂へも足を運び、阿弥陀さまの前でお参りください。故人が遺してくれた尊い結びつきに感謝しながら、本堂の清らかな空間で共にお念仏を称え、いつでも私を見捨てることなく包み込んでくださる阿弥陀さまの大いなる慈悲のぬくもりに、改めて出遇い直す素晴らしいお盆をお過ごしいただきたいと思います。🔶今週のまとめ【1】お盆の正式名称である「盂蘭盆会」は、お釈迦さまの弟子である目連尊者が、餓鬼道で「逆さ吊りの苦しみ(ウランバーナー)」を受けていた実母を救ったという『盂蘭盆経』の物語に由来します。【2】日本のお盆は推古天皇の時代(606年)から続く古い伝統ですが、浄土真宗では、亡き人はすでに浄土で仏となられている(往生即成仏)と受け止めるため、精霊馬(きゅうりの馬やナスの牛)などの飾りは用いません。【3】「7月盆」と「8月盆」の混在は、明治5年の太陽暦(新暦)導入が原因であり、当時の明治政府が閏月による給料の重複支給を防ぐという財政難対策の側面も含まれていました。【4】一遍上人の「踊り念仏」に由来する盆踊りは、アメリカやハワイの日系社会では浄土真宗の伝道によって広く普及し、戦時の強制収容所でもアイデンティティを守る心の支えとして踊り継がれました。【5】お盆は亡き人を縁として今を生きる私たちが心静かにお念仏のみ教えに出会う尊いご縁であり、お墓参りと共にお寺の本堂へもお参りし、阿弥陀さまの救いを喜ぶことが本来の過ごし方です。次回テーマは「心に涼風を」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
【法事の意味】──悲しみを癒し、私がみ教えに出会うご縁
🔶年忌の数え方と儒教・十王信仰に由来する歴史私たちが日常的にお勤めする法事は、正式には「年忌法要(ねんきほうよう)」と呼びます。お葬式やお通夜、四十九日の「満中陰(まんちゅういん)」に始まり、その後は一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌と続いていきます。ここで「なぜ一周忌の翌年が三回忌なのか」と疑問に思う方も多いでしょう。これには諸説ありますが、一説には中国の儒教の習慣が元になっているといわれています。儒教の喪服の期間において、亡くなって13ヶ月目を「少祥(しょうしょう)」、25ヶ月目を「大祥(だいしょう)」と呼び、これが日本の一周忌(満1年)と三回忌(数え年で3年=丸2年後)の起源となりました。また、なぜ「3」や「7」のつく年に法事を行うのかという点についても、江戸時代に無著道忠(むちゃくどうちゅう)が編纂した辞書『禅林象器箋(ぜんりんぞうきせん)』などの古書に歴史が記されています。『地蔵菩薩発心因縁十王経(じぞうじゅうおうきょう)』に代表される十王信仰や、中国の故事が日本の伝統文化と融合し、長い歴史を経て現在の年忌のサイクルが定着していきました。🔶悲しみを癒すプロセスと故人の記憶の継承数年ごとに巡ってくる法事のサイクルには、遺された私たちが「悲しみを癒していく大切なプロセス(過程)」としての意味が込められています。身近な人を亡くした直後は深い悲しみに暮れますが、一周忌、三回忌とお勤めを重ねる中で、少しずつ心の痛みが和らいでいきます。そして七回忌や十三回忌ともなると、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんの顔を直接知らない小さなお孫さんが同席することもあります。そうした席で「この家はおじいちゃんが建ててくれたんだよ」「こういう優しい人だったんだよ」と、みんなで思い出話を語り合うことこそが何よりの供養となります。時の経過とともに薄れがちな故人の記憶を家族や友人で共有し、次の世代へと受け継いでいくための、法事は実によくできた尊いサイクルなのです。🔶浄土真宗における法要の四つの意義仏教において法事中にお経をあげることには、大きく分けて四つの大切な意味(意義)があるといわれています。一つ目は「仏徳讃嘆(ぶっとくさんたん)」。仏さまの計り知れないお徳を、声を揃えて褒め称えることです。二つ目は「仏徳領受(ぶっとくりょうじゅ)」。仏さまの尊いみ教えを、自らの心にしっかりと受け入れることです。三つ目は「仏恩報謝(ぶつおんほうしゃ)」。仏さまから注がれている大いなる慈悲に対して、心からの感謝を伝えることです。四つ目は「仏徳奉行(ぶっとくぶぎょう)」。いただいたみ教えを日々の生活の拠り所とし、しっかりと歩んでいくことを誓うことです。この四つの歩みを参拝者全員で共有することが、法事という儀式の本質なのです。🔶追善供養ではなく「私のための法事」ここで最も大切なのは、浄土真宗における法事は「遺された者が、亡き人を迷わないようにあの世へ吊り上げるために行うものではない」という点です。一般的な仏教では、遺族が善い行いをしてその功徳を故人に届ける「追善供養(ついぜんくよ長)」という考え方がありますが、浄土真宗は異なります。亡くなられた方は、阿弥陀さまの導きによってすでに迷うことなくお浄土で仏さまとなられている(往生即成仏)と受け止めるからです。したがって、法事は「これだけ供養してやったからもう安心だろう」と善根を積む場ではなく、他でもない「今を生きるこの私」が、故人を縁としてお念仏のみ教えに出会い、自らの命のあり方を見つめ直すために開かれている場なのです。🔶仏前へのお供え物の心得と「向き」の真実法事やお墓参りの際、仏前や墓石にお酒やタバコをお供えされる方をよく見かけます。「故人が生前に好きだったから」という優しいお気持ちからでしょう。しかし、仏教(特にお浄土の清浄さを重んじる浄土真宗)においては、実はこれらはあまりふさわしくないお供え物とされています。仏前へのお供えの基本は、お香、お灯明(ローソク)、お花、そして仏飯(お仏飯)や果物などの「五聖(五供)」です。故人が欲しがるものをこちらから一方的に送り届けるという「向き」ではなく、仏さまとして完成された清らかな世界に対し、私たちが敬意を持って身構えを調え、み教えに耳を傾けさせていただくという「向き」が大切です。このお供え物の本来の意味を一つ胸に留めておくだけで、法事の合掌の深さは大きく変わるはずです。🔶今週のまとめ【1】法事(年忌法要)の数え方は、満1年目に行う「一周忌」を除き、すべて数え年(三回忌は丸2年後、七回忌は丸6年後)で計算されます。【2】一周忌(少祥)や三回忌(大祥)といった年忌の数字は、中国の儒教の風習や『禅林象器箋』に記される十王信仰などが、長い日本仏教の歴史の中で培われて定着したものです。【3】定期的に巡ってくる年忌法要には、遺族が亡き人を偲びながら悲しみを癒す心理的なプロセスとしての役割があり、故人の思い出を次世代へ語り継ぐ大切な機会となっています。【4】浄土真宗の法事には「仏徳讃嘆」「仏徳領受」「仏恩報謝」「仏徳奉行」の四つの意義があり、故人を追善供養するためではなく、「今生きる私がみ教えに出会うため」に修されます。【5】仏前へのお供えは、故人の嗜好品(お酒やタバコなど)を届けるのではなく、仏さまのお飾りとしてふさわしい五供を調え、私たちが仏さまと向き合わせていただく場であることを心得ることが大切です。次回テーマは「お盆(おぼん)のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
こちらもおすすめ
シットとシッポ
Dos Monosの荘子itと哲学者の福尾匠によるPodcast 毎週月曜更新。 📣有料 / 無料で入れる "疎の街" はコチラから 📍番組のフォローをお願いします https://linktr.ee/shitshippo 📍X シットとシッポ @shitshippo 荘子it @ZoZhit 福尾匠 @tweetingtakumi 📩シットとシッポへの問い合わせはコチラ
近藤淳也のアンノウンラジオ
株式会社はてな創業者であり現在もITの第一線で働く近藤淳也が、京都の宿UNKNOWN KYOTOにやって来る「好きなことを仕事にしている人」を深堀りすることで、世の中の多様な仕事やキャリア、生き方・働き方を「リアルな実例」として紐解いていきます。 . 【ホスト:近藤淳也】 株式会社OND代表取締役社長、株式会社はてな取締役、UNKNOWN KYOTO支配人、NPO法人滋賀一周トレイル代表理事、トレイルランナー。 2001年に「はてなブログ」「はてなブックマーク」などを運営する株式会社はてなを創業、2011年にマザーズにて上場。その後2017年に株式会社ONDを設立し、現在もITの第一線で働く。 株式会社OND: https://ond-inc.com/ . 【UNKNOWN KYOTO】 築100年を超える元遊郭建築を改装し、仕事もできて暮らせる宿に。コワーキングやオフィスを併設することで、宿泊として来られる方と京都を拠点に働く方が交わる場所になっています。 1泊の観光目的の利用だけではなく、中長期滞在される方にも好評いただいています。 web: https://unknown.kyoto/ . こちらから本文を読んだりコメントが書けます! https://listen.style/p/unknownradio
歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO)
歴史を愛し、歴史を知りすぎてしまった歴史GEEK2人と圧倒的歴史弱者がお届けする歴史インターネットラジオです。 歴史というレンズを通して「人間とは何か」「私たち現代人の抱える悩み」「世の中の流れ」を痛快に読み解いていく!? 笑いあり、涙ありの新感覚・歴史キュレーションプログラム! ☆Apple & Spotify Podcast 部門別ランキング1位獲得! ☆ジャパンポッドキャストアワード2019 大賞&Spotify賞 ダブル受賞! ※正式名称は「古典ラジオ」ではなく「コテンラジオ」です ーーー COTEN RADIO is an entertainment radio talk program for history , published by the crazy history geeks group "COTEN" in Japan. ☆Apple & Spotify Podcast in Japan category ranking No.1 ! ☆Japan Podcast Awards 2019 Grand prize and Spotify prize !
IBUKI STATION
ここはアウトドア向けGPSトラッキング「IBUKI」にまつわる人々が集まる場所。 トレイルラン、登山、冒険、ランニング、自転車、ロゲイニング、、 スタイルは数あれど、共通しているのは自然を楽しみ、そして人とのつながりも楽しむ姿勢。 自然を目一杯楽しみ、苦しみながら、人と接する喜びにも気付く。 アウトドアを満喫するみなさんが、ほっとできるIBUKI STATIONです。 IBUKI https://ibuki.run/ 近藤淳也 IBUKIを提供する株式会社OND代表。ポッドキャストプラットフォーム「LISTEN」も展開 桑原佑輔 OND所属。IBUKI事業担当営業・テクニカルディレクター 中川和美 OND所属。IBUKI担当。トレイルランナー
jkondoの朝の散歩
ポッドキャストプラットフォーム「LISTEN」や、GPSトラッキングサービス「IBUKI」、物件メディア「物件ファン」、京都の宿とコワーキング施設「UNKNOWN KYOTO」を運営する近藤淳也(jkondo)が、朝の散歩をしたりしながら、日々の出来事や考えたことを語ります。
LISTEN NEWS
LISTENは、AI文字起こしとコミュニティで、ポッドキャストを「聴く・配信する・つながる」ためのプラットフォームです。 公式番組「LISTEN NEWS」では、開発の裏話や近況も交えつつ、最新情報をお届けします。 LISTENはこちら→ https://listen.style/