今日はですね、国立ハンセン病資料館から来たということで、ハンセン病の患者だったり、回復者って治ってる場合、回復者っていう言い方をすることも多いんですが、
ハンセン病文学の中でも最近新しい一冊の刺繍が出てたので、それを簡単に紹介したいのと、
実は私は一応アイドル大好きな人なんですが、ローカルアイドルを追いかけていても、いつの間にか仕事になったり、いろんな方とそれこそつながったりというのを、
ちょっと町田を事例に、東京の町田市を事例に、ちょっと話してみようかなと思ってます。
ではまず先に、その5本のご紹介の方を。
そうですね。
はい、これは7月に発売されたんですけれども、
柏処房という出版社から、船地としみ刺繍。船地、ちょっと難しいですね。船に白に、年。
年、ミドルですね。
美しい刺繍。どこかの遠い共にという刺繍なんですけれども、実はこれちょっと前段の話をすると、
国立ハンセン病治療館で2年前、1953年の刺繍に関する企画展が、その刺繍も復刻されたんです。
1953年ってどういう年かというと、日本国憲法が制定されて、ハンセン病の患者もしくは治った回復者も、いろんな希望が持てるんだという時代だったんですね。
つまり戦前はもう希望がない。このままその療養所の中でずっと生きていくのかというような、例えば有名なところでは法上民謡の文学とかあるんですけれども、
それが、そういう戦前の文学はもういいと。とある療養所の外の詩人が、このハンセン病療養所にいる若い詩人たちの刺繍を出そうと言って、命の芽という刺繍を当時出したんですね。
それを複数人が共作という。
全国の療養所の中で文学活動をやっている人たちの詩繍を出したんですけれども、そのうちのお一人がこの船内敏美さん。
その時にこの詩繍の偏者である千村哲也さんという学名医の方が、プレス公開があるんですね。企画展の前に。
船内敏美さん、実はその療養所の中でも女装をして歌う、あるいは踊る、そういったことで生前はとてもかっさりを博していた方で。
エンターテイナーみたいな感じですね。
その方で、今回改めて詩を読んだら、どうもこの方はセクシュアルマイノリティであろう。
なぜかというと、ご本人が明示的にあまりそういうのを書いたテキストというのはないものですから。
ただこれはちょっとすいません、千村さんの解説を引用しますと、戦前に入っているんですね、療養所の15歳で。
その時は、療養所ってもう別の名前を持って、それまでの名前がわからないようにすると。
それをペンネームにする方も多いし、ペンネームと療養所の中の名前、使い分ける方とかいろんな方がいらっしゃるんですが、
当時は療養所で沼を実るという名前で詩作をしてたんですが、戦後になって、この船木としみという男性だか女性だかがわからないような名前に変えて、
その後は亡くなるまでずっとこの船木としみで詩作をやっているということなんですね。
そういうことを含め、この方はその療養所の中で、周りの方も女装で歌ったり踊ったりということで、もう皆さんわかっていたということで、
その方に注目を私しているんですという話だったんですが、たぶん鹿島処房さんが目をつけたのが、それが詩集ということで。
この解説をちょっとだけ引用すると、自身のセクシュアリティについて明示的に語ったテキストは、官権のために見当たらないと。
ただし大胆で性的な表現も厭わない独自な作風で友への恋恋情を歌ったり、ゆきずりの男性へのそういうものを歌っている。
異性愛者とは明らかに異なる表現の詩を多数。
どこか遠い友人っていうのは好きな相手っていう感じですか?
どこかの遠い友人の詩はね、どちらかというとこの方はずっと社会問題に興味を持っていたらしい。
例えばアルジェリアとか。
1960年代か。
そういったものに連帯の。
ハンセン病の文学ってどうしてもやはり隔離されている。
隔離されていて、その中で自分がどうやって生きていったかみたいなものを歌った詩とかが多いとは言われているんですけれども、
必ずしも戦後はその外の情報が入ってくるようになってますので、
普遍的な遠くのマイノリティへの連帯とかも詩にしたり単歌にしたり文章にしたりという方が様々いらっしゃって、
その中の一人ということなんですね。
それは面白そうですね。
ハンセン病文学の中でそういう試験ってこれまであまり注目されてこなかったのは、
たぶんこれでは詩集の出版に引き付けたというのもあるんだと思います。
なかなかそこに注目する方もいなかった。
この偏者の木村哲也さんの生前人をお会いして、詩歌版の詩集は出してたんですけれども、
一般的な出版はやってないんですけれども、
詩集に自分がその療養所の中でのイベントで歌ったり踊ったりという写真をたくさん載せていたりして、
その時は何かピンとこなかった。
でも今になって改めて注目すると、そういったことがあるんだろうなと。
ちなみに戦後すぐぐらいまで、
多摩禅師小屋というハンセン病の療養所、
そこでは入所者の歌舞伎が行われて、
そこでも女方として大変活災しちゃったという方なんですね。
見てみたら、写真これ逆に入ってないんですね。
写真は入ってないですね。
ただ、遠古者ももはやわからない。
1953年に出された詩集に土地事件で生まれたとか、そういったことは最低限書いてあるんですけれども、
結局どうしてもこれは隔離政策のためではあるんですが、
親族とは縁が切れている方が多いので、この方も遠古はたどれないんですね。
この詩作っていうのは公表を前提に皆さん作られているんですか?
さっき言ったように1953年に出た詩集は一般的な出版として、
ある詩人の方が全国の領事館から集めて、三一書房ですけれども、
この方の詩、そうやってごく一部は一般的な出版なし、詩の雑誌とかに載ったりはしてるんですが、
ほとんどはいわゆる園内雑誌。
多摩全書院の場合は多摩という雑誌があるんですけれども、
多摩という雑誌にずっと載せ続けていると。
だから一般の目の人に、そもそも一般の人の目にはほとんど触れない。
そういう形なんですね。
でもよく70編ね、これもう多分選ばれてたと思うんですけどね。
70編は何編だったかな。
多分300編弱ぐらい、4倍ぐらいの中から選んだということなんですけれども、
確かに私もずっと阪神名誉療養所で取材、療養所だけじゃなくて、
外に出た方とも含めて取材してきてるんですけれども、
こういうのは初めてというか、そういう視点は確かに言われるまではなかった。
できればこんな感じの詩だよっていうところがあれば、
これがなかなかっていうのがあれば何か教えてもらえるんじゃないかと思ってるんですけど。
あまり読み込んでは。
でもさっきちょっと自分見ていて、気になった詩があったので紹介していいですか。
もうさっき気になってて。
この人が気になって。
だからセクシュアルマイノリティであるっていうところを、
あらかじめ事前に情報として仕入れると、これってそういうことなのか。
さっきペラペラに向けていたときにちょっと気になったやつがあって。
雪ずるいの人にっていうやつですね。
ちょっと読みますが、
雪ずるいの人に、これは1957年6月の作品ですかね。
あなたの落とした切符を拾ってあげた。
あなたは私に握手した。
私がレプラとは知らずに、レプラと知ったらその手を消毒したろうか。
年寄りを外れた小駅の寒い風景の中で、私の肌は人恋しさに震えていました。
あなたは自分の生活の匂いを背中いっぱいに貼り付け、
わくわかしい靴音を響かせて安っぽいネオンの揺れる街路へ消えていきました。
私が雪ずるいのあなたにこんなに惹かれるのはその生活の匂いなのです。
私は鎖のように取り巻いているひいらぎの垣根をくぐるとき、
雪ずるいのあなたの強靭な太ももごと欲しがることだろう。
なかなかいいですね。
面白いのは語弊があるかもしれないですけど、
ハンセン病者であるというところで、レプラがハンセン病だと。
ハンセン病であるということを相手方は知らないというところで、
まずクローゼットがある。
それプラスさらに性的マイノリティであるというクローゼットがある。
二重のクローゼットがすごい象徴的に描かれている。
そういう意味だと思って。
最後の強靭な太ももって、
ちゃんと効いている感じがしますね。
最後の最後でガツンとくる。
これが面白いなと思いました。
この方はレプラとかライという言葉、
今はライと言わずハンセン病と言いますけれども、
あまり使わないんですけれども、
この時はあえてレプラという言葉を使っているんですよね。
そうですね。