開運ラジオの1周年
五感でつながる開運ラジオ、はじまりはじまり。 このラジオは、聞くだけで運が開けていく。
今、そこにあるものに気づいていく。 人生の可能性を開くコミュニティ、Vision Quest主催のココノ・アキラ。
そして、その仲間たちが気づきや学びをシェアするラジオです。 実は、このラジオを企画しているユキちゃんから、
大変重大なニュースが舞い込んできました。 1年経ったそうです。開運ラジオをはじめて。
すごい。 一応、各週月2回配信のペースで、やってきてちょうど1年ということは、
結局、何? 24回? 25回目ぐらいになっているってことだと思います。
それを聞いてくれている人たちに、本当にありがとうという感じなんですけど、
28回目だそうです。 ユキちゃんからコメントが入りました。
28回目なんだけど、27回、開運について話をし続けてきたわけですよ。私たち。
開運ラジオ。 五感でつながる開運ラジオ。 五感でつながってきたわけで、開運してきたわけですけど、
実際、私たち開運しているのか?ということを検証するのも大事なんじゃないのかな?っていうのが、今回、
28回目。 8年経って、五感でつながって。
開運してなかったら、何のためにやってるの?みたいな感じになりますので。 そもそも開運してるってどういうこと?みたいなところの話にまたつながりながらやけど、
この1年の変化のエピソードなんかもちょっとね、話しながら、
振り返りながら。 開運ってどういうことなのかな?ってことをもう一回振り返ってみたりとかしてみるべき回なんじゃないのかな?っていうところです。
シェアハウスの経験
はい。 じゃあ、小野さんから。
いつも先に振るね。 振るね。
なんなんそれ。 前回、俺は喋った。
まあいいや。はい。ということで言うと、いろいろあるんだよね。いろいろあって、開運って言うと、やっぱりどうしても人って、わかりやすい、
あれがこうなった。これがあなった。っていうことを、開運って言いたくなるんだけど。
上手くいった。みたいなね。 そうそうそう。何かが当たった。みたいなね。って感じになるんだけど、
私がそれを感じるっていう、自分の中にあるいろんな気持ちに感じられていく、つながっていくっていうことで、
何が一番大きかったかなーってちょっと思った時に出てきたのがあったので、
それはでもすごく大事なことだったような気がするので、それをお伝えしたい、お話ししたいなっていう感じなんだけど、
それはどこから話そうかな。
東寿司で、シェアハウス拡大加速を中心に置いたシェアハウスを運営してるじゃないですか、私たち。
それで言うと、シェアハウスの形態で当たり前で言うか当たり前なんだけど、
新しい人が住人さんとして入ってきてくれて、すごい豊かな時間なり、いろんな時間を過ごしながら過ごして、
ある一定期間を経て、いろんなタイミングでみんなが育っていくっていう流れを繰り返しているわけですよ。
それぞれの人生のタイミングがあるからね。
やっぱり拡大加速ってことを中心に置いているから、私たちって割合と濃い関係性を作っているじゃない。
一緒に、ただただコスパ良く、家賃も安く、でもいろんなものを共用しているから安くで済むよねっていう暮らし方とは全然違う、
個人を大事にしながらも、共にいる時間も大事にするっていうことをテーマに置いたりとかしてるわけで、
そうなってくると、一人一人の絵の思いだったり、実は大きいんだよね。
これは私の個人の特性もあると思うんだけど、
少なくとも数ヶ月から数年を過ごしてきた人たちが退去していくのって、私にとっては結構寂しい感じなことなんですよ。
別に二度と絶縁するわけではもちろんないし、何かのタイミングで戻ってきてくれるし、実際戻ってきてくれてるし、
退去してからも、むしろ新しい関係性がつながったりとかしてるんだけど、
中林さんがね、ここのさんって言って、お話があるんですじゃないけど、
実はフラミンゴって、うちらの中で退去することをフラミンゴっていう、退去する人、退去することをフラミンゴって呼んでたり、
名詞であり動詞なわけだけど、フラミンゴを考えてるんですっていう時が、私にとっては一番の恐怖な時みたいな。
来てしまった、みたいな感じなんですよ。
だから極端な話、誰かから、例えばここのさんちょっと相談があって言われると、
もしや、みたいなドキドキしちゃうぐらい、その日を恐れてるんだよね、私にしてみたら。
だけど、あんまりにもそれが恐れているもんだから、その時が来たとしても、
自分としては、その恐れだったり寂しさだったりを感じないようにして、
そっかそっか、そうだもんね、みたいな感じで、明るく見ないようにしてきたの。
自分のその寂しさだったりっていうことを。
ごまかして。
そう、ごまかしてきた。
それは、言ってみたら10年前に、党民第1号の某大臣と呼んでた人とか、
次のね、生き出身のね、島ちゃんとかね、
そういう人が、いつかは退去していくってことがわかっているにもかかわらず、
こういうことなのか、みたいな。
それを味わった10年前から多分、今何人ぐらい?40人?50人ぐらい?50人ぐらい?
5、60人いるのを、今10人ぐらいいるとしたら、50回ぐらい繰り返してきたわけですよ。
で、その50回ぐらい繰り返してきた、その一旦のさよならを、
本当にこの寂しさがあるのにかかわらず、全然見ようとしてこなかったなと思って。
で、それがやっぱりこう、積もってきたっていうこともあるし、
最近のここの都道はやっぱり前にも増してどんどん関係性が、やっぱり私たちがさ、
自分開けば開くほどみんなも開いてくるっていう不思議なこの相互関係もあるから、やっぱりすごく
濃い、その表面的に楽しいねとか、いい時間過ごしたねとかっていうこのパーティーな感じじゃない、
じっくりした時間を過ごすようになってきてるから、余計にこのなんか、
人の大挙っていう、10人の大挙っていうことが、まあまあ重くてさ。
それをちゃんと表現するようになったもんね。
いや、表現するようになったっていうか、自分でそれに気づいたってことは大きかったと思うよね。
そんなにも寂しかったのかって、自分で自分のその寂しさに直面したときは、愕然とした。
感情の表現とつながり
表現する前にそこに気づいてたから表現できたとか、順番でいうと。
気づけてなかったからね。自分で見ないようにしてきたし、何なら、
その寂しさを紛らわせるために、
じゃあ、何か楽しいことを企画しようとしたりとかさ、
逃避してたわけですよ、完全に。
でも、こんなにも自分は、人との別れが寂しくって、
いつだって会えるし、別に未来、英語の別れでも何でもないっていうのがわかっていながら、
寂しいんだっていうことに気づいて、それを表現できたっていうことは、
自分の中でものすごい大きな変化だったと思うし、
住人さんたちにとって見ても、
ココナさん寂しいんじゃないのかなって、やっぱりみんなわかってるわけよ。
全然わかってるんだけど、私がそんなふうな素振りをしないから、
そうでもないのかなとか、そんなことを見せようとしないってことは、そこに触れるのは
アンタッチブルなんだろうね、みんな察するさ。大人な察しで、触れないまま来てたんだけど、
それが表現、感じられるような出来事もあったりとか、やっぱり流石に寂しいみたいな。
実際の月一回の時に、それぞれ今感じてることを分かち合いをシェアする時間があるけど、
そこで話しして、表現して、涙も流してみたいな時間があったことが、ココナさんにとってもみんなにとっても
すごい大きなインパクトがあったよね、あれは。
たぶんね、私は自分の気持ちに本当にそのまま繋がるっていうことが、どんなに自分の癒しになるかっていうのはすごいね。
やっぱりそれを自分の中にある気持ちをそのまま表現するっていうことが、なんだろうね。
自分にとっても繋がりになるし、人との繋がりにもなるっていう体験だった。
あれはでもね、みんなに言えたのは、こんなにも実は寂しいんだっていうことを言えた体験は、
すごい許されているっていう感覚に繋がったんだよね。
よく風通しがいいとかって言うけど、それこそ境がなくなった感じ。
筒で風通しがいいとかじゃない、本当に繋がった感じがあったから、
あれは一つ今から思うと、あの一つのエッジを乗り越えた感じは、怖いものがなくなった感じはあるかも。
まさにさ、開いたというか、全開に。
そうすると隠す必要もないし、ただありのままっていう。
一番自然体で一番強いというかね。
そんな感じはあるな。
今から思うとね、何を守ってたんだろうなっていう感じがあるんだけど、
そこに繋がっちゃうと、終わっちゃうみたいな気持ちだったんだろうねって思うよね。
何かを恐れているというか、
それが、どことんまで行った時に反転したのかね。
多分、だからそれを認めちゃうと、足元が崩れちゃうみたいな気持ちでいたんだと思うんだけど、
今から思うと、それを認めたことによって、すごい強くなった感じをするわけよ。
うん。
そうね、だから、
繋がるっていうか、
認めるっていうか、そこにあるねっていうものに、
向き合うっていうと、対峙するみたいな感じになるから、
違うんだけど、そこにあるものを本当に、
あったねっていうことをそのまま受け取ることっていうのは、
自分が、もうちょっと大きい自分になる感じがあるね。
そこでこう、自分の中にあるものがあったねっていう風に受け取って、
それを受け取るだけじゃなくて、やっぱり表現するっていうことが、
自分にとっても周りにとってもやっぱり、大きい。
で、俺も、
言いたいことが出てきちゃったの?
いやいや、もともと話すつもりだったけど、だいぶの尺食われたから、
なくなってきたなと思いながらさ、
話したいことがあるんだね、いいよ。
俺はどっちかというと、仕事の方の話なんだけど、
仕事の時もやっぱり同じように、
仕事の時の方がよっぽど大すべきというか、
求められてることに答えようとするとか、
やっぱり正しさを探すみたいなモードになりがちで、
それを評価されるためにとか、
そういうモードが働きやすいし、前面に出るので、
自分がすごくなんか、
自分自身の繋がりながらやってるのか、
なんとなく繋がりきれてないままやらなきゃいけないからやってるのかって、
自分との繋がり
結構わかんなくなる。
でもそれって大きな違いがあって、
でもある、この1年実は、
営業分畑でずっと私やってきたんですけど、
人事畑に役割が変わった1年だったんで、
そこでなんとかキャッチアップしながら、
なんとか期待に、求められてることに答えようとしてた自分がいて、
でももともとそのフィールド自体、人とか組織っていうフィールド自体が
自分の興味関心のど真ん中やから、
すごく自分自身と繋がりながらやれると思ってたんだけど、
求められることに答えなきゃみたいなところが先に立ちすぎていて、
何かようわからないようになってきたみたいなことがあったんで、
でもそれを自分で認められないまま、
期待に答えようとしてるっていうところがあったんやけど、
なんていうかな、物を前に進めていくっていうことで日々は過ぎるんだけど、
改めて何を大事にしたいのか、じっくり話しませんかみたいな、
そういう場を取締役とか執行役員の人たちを集めて、
自分の場を作ったときに、何かを決める場じゃないですと、
この場をという話で動いていた中で、
皆さんの話を聞きながら、俺の中から出てきたのが、
おもないねん、みたいな。
実際、おもないねん、みたいな声が出たよね、その場で表現。
出てきたんだ、内側から。
やっぱりおもない仕事がしたいねん、みたいな、
そんな思いが出てきて表現したのね。
その表現したことで、
何かがその場で、じゃあこうしましょうとかっていうぐらいの話になったわけじゃないんだけど、
表現できたことで、自分も変わった、繋がり直したし、思い出したし、
それを聞いてた人たちの中にも、何かが起こっている感じはしたのね。
その後、世界があらどかれましたとか、そんな単純な話は無情じゃないんだけど、
日々仕事の中で起こっていることが、
自分の外にあるんじゃなくてというか、
何かが来る期待に応えようとしてた感じがあったので、
自分自身がその世界に何か入ってないというか、
向こうから来るんだもんね。
外からその世界に関わっているみたいな感覚が、
すごい感覚的な表現になるんじゃないかなって。
でもそれ以降は、世界の中に自分もいて、
その世界の中にいながら、
こうしようあしよってしているっていう、
立っている場所が違うので、
全然違うよね。
世界の見方が変わった感じをするんだよね。
内側から見てるもんね、だってね。
そう、内側というか、
その世界とともにいてる感じやから、
やっぱりリアリティが違うというか、
だから立っている場所が違うということ自体に気づいた。
それはだから表現、
自分の中にある感情が溢れてきたんやけど、
表現できた。
皆さんの前で。
っていうのは、やっぱり自分にも周りにも影響を与えてるなという気がするんで。
なるほど。
私とあきらさんの共通のって、
今の話だけでいくとだけど、
まず自分の中にあることに気づいたんだけど、
それをちゃんと言葉にして発するっていう、
やっぱりこう、
気づいたのと表現するのは、
もうあんまタイムラグはないかもしれないけど、
でもやっぱり気づいたからこそ、
それが言葉として外に出てきた。
言葉として出てくることによって、
やっぱり人と、
それはもしかしたら、
日本語が分からない人ももしかしたら分かるかもしれない。
響きみたいなものでつながるみたいな。
そこで何か関係性なり、
何かが変わっていくっていう、
変化のきっかけっていうか、
何か世界が変わっていくような、
変化の糸口みたいなものって、
やっぱりこう、
気づいて、
自覚なのかな?
して、やっぱり表現されるっていうところから、
起こっていくんだね。
表現する言葉として、
あり方として表現することで、
まさに響きとなって、
点発するというかね、
共振が起こったりするわけで、
思いましたっていうだけだと、
いやいや、でもやっぱりこういうふうに思われると嫌やしとか、
思ったことすぐ打ち消したりするわけじゃん、頭の中に。
でも思ったことを表現するっていうのが、
自分の覚悟というか、
世界に対して自分がここにいるんだっていうことを表現することで、
その世界の中に自分の存在っていうか、
ちゃんと自分で宣言するというかね、
その力強さが結局、
自分も自覚するし、
周りにも伝わっていくしっていう、
思ってるだけで表現するっていうのは、
天と地ほどの差があるっていうことなんだよね。
それがだから、そうなるっていうのは感じているからこそ自覚して、
そのエネルギーとともに表現する、
覚悟を持ってみたいなところに繋がるのかなっていう気がするね。
やっぱりその最後の表現するっていうところまでがセットで大事なことだね。
思っているだけで言わないとね。
宣言。
やっぱり世界を揺るがすようなものになっていくんだね。
ちゃんと伝えていくっていう。
その時に何かしら思いも、ちゃんと込められるもんね。
自分が世界の一部であり、
世界が自分だったりするみたいなことが、
頭で理解しているのと体験として、
そういうことなんか知れへんなっていうのの違い。
それがやっぱりこの1年の中で、
このラジオも表現やからね。
めちゃめちゃ表現だよね。
そういう表れ方が自分のお互いそれぞれの中に生まれたのかもしれん。
1年経って振り返ると。
だから日々でこう、
今一つのエピソードだけど、
いろんなことが起こってて、いろんな表現を結局してるわけやろうかね。
だいぶ荒れちゃう。
実は世界に影響を与えているのかもしれん。
ということで。
25分も経ちました。
ちょっと暑くなりましたね。
君が来た尺が長かったよね。
そう?暑い思いが。
私も短めにしようかなと全然短くなりませんね。
暑い思いは。
すみません。
じゃあ、2年目もますます世界に発信していこうという。
発信というか表現していきましょう。
そうだね。あるものをね。
あるものにちゃんとしっかりつながって、
それを響きとして出していきたいねと。
そうしたら何が起こるかはわからないけど、
ただただそれをしていきたいねっていうところだね。
はい。
2年目もよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
表現の力
ありがとうございました。
じゃあねー。
ぷちぃ。