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やはり僕は、自分の生まれた町が深川の端っこなんで、昔は深川高橋って言ってたんですけども、今だと森下町って、深川のいわゆる中心地が今の門前中町になってるんですけども、その端っこなんで今はほとんど深川っていう面影ないんですけども、
僕が生まれた、昭和27年の頃ですけども、いわゆる土屋街だったんです。
それはもう三屋と並ぶ東京を二大土屋街みたいなもんで、あの、まああれの話が、戦後、なんかこうぐちゃぐちゃになった東京の町の中で、そういうところから、そういうところに人が割と集まってきやすかったんです。
親父もお母さんもこう焼け出されて、いくつか深川を点々として、最後に落ち着いたのがその高橋っていう町だ。
まあ、日雇い労働者がたくさんいたんです。
まあなんかすごくエネルギッシュな、まあ労働者がたくさんいるからってわけではないんだけども、当時まだその戦後の記憶が少しあって、子供の頃に昭和30年代の初めにもなんかこう生々しい風景があって、
やっぱりなんか、アメリカ人とくっついた日本女性の子供がいるわけですよね。
まあそういうなんとかなんとかのね。
で、どう見てもなんか、俺たち日本人っていうか、違うわけですよ。
これ何だろうと、当時そんなわからないから。
それと、まあ焼夷軍人さんがいたりとか、だからまあなんか喧嘩してるんで窓を開けてみると、ヤクザがこう北東で血だらけになって喧嘩してたりとか、
今思うとちょっと信じられないような、すごいパワフルっていうかエネルギッシュっていうかすごい生々しい町だよね。
でもそこの町の風景がやっぱり最終的にずっと僕はついて回ってる人臭い町の風景ですからね。
あとは川に水上生活の人がいたりとか、
あと町を駆け抜ける大柄のお釜さんのお姉さんがいたりとか、
廃墟ごとを引きながら町を徘徊してるおじさんがいたりとか、
本当に平和ですね。
平和でしょね、完全にね。
天井さじきの人々みたいな感じで、なんかみんなすげえなって感じ。
遊ぶっていうのは子供の頃はゲットして遊ぶって場合は一人で?
当時は下町どこでもそうだけど、めんことか路上の遊びが一番中心だったんですけど、
町中を駆けずり回って逃げたり捕まえたりみたいな、今でいう小学生もやってるような探偵と泥棒みたいな、
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そういう町を全部使って行ったり来たりすると。
他人の家に入っちゃうくらい。
でもお金があっておもちゃ買ってっていうことでもないから、
そうやって体使って遊ぶしかないじゃないですか。
公園ってさって大してろくな公園があることないしね。
だからそういう町に、高度成長の時代にいたから、
日本が所属外交計画で、あるいはオリンピックを旗印にみんなすごい勢いで進んでた時代に、
当然そういう世の中の変革みたいなものが感じてはいたんだけど、
自分の町がいつもそういう状態だったから、それがスタンダードっていうイメージが強かったです。
どこでそんなに変わったかっていう記憶がないまま、
昭和60年代の末になると、当然自分も高校生ぐらいになって、
さあこれからどうしようっていうよりに、やっぱり大きな十年安保というよりも学生運動があったじゃないですか。
そこから町全体がやっぱり変わっていってしまった。
それまでの人はある面で、みんな歯を食いしばりながら頑張って働いて、
豊かさっていうのは別に金だけではなくて、家族の暮らしぶりだったりとか、
町の景気だったり賑わいだったりみたいなものをみんな感じてたはずなんだけども、
それ以降徐々に徐々にそういうものから意識的に遠ざかっていっちゃったなという気がします。
それとともに町内も全部変わっていった。
僕はね、お金持ちじゃなくて貧乏で、そこの町のアパート暮らしをしてたから、
親父も労働者だし、カメラなんて余裕はあるわけないし、
学校行かせてもらって、その周りの土産の花垂れ小僧よりはいいものを着させてもらって、
それほど不自由な暮らしはしてないんですよね。
でもカメラなんて全然、高値の花っていうか全然次元の違う道具で、
たまたま親さんがそのカメラを買ったみたいで、
そのカメラでいろいろ撮ってくれてたんですよ。
その親さんの息子たちと一緒に、子供たちと一緒に。
それが最初の写真の出会いですかね。
最初のフィルムは何ですか?
やっぱり近所ですね。
小学生とか僕より小さい子供が遊んでる風景撮ったりとか、
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氷屋の屋台で氷を削っている現場で子供が氷舐めている風景とか、
遠大将棋してる夏の暑い坂の裸のおっさんたちがみんな遠大将棋を一杯飲みながら。
ちょっとであるとそんなのたくさんあったわけですから。
遠大っていうか普通に自分の周辺をカメラで撮るの面白いなあみたいな。
だんだん十代後半ぐらいになってくると出かけてみたくなるから浅草とか行くわけですよ。
当時やっぱ土田、北千住もそうだけど土田が非常に主要な交通だったんで、
土田に乗ると大体どっか行けちゃうんですよ。一ヶ月塗り替えてもね。
そんな遠くに行くわけ、渋谷、新宿に行くわけじゃなくて、せいぜい浅草、上野とかすぐ行けるじゃないですか。
そうするとそこでカメラを持って同じように、ちょっといいカメラになってるから気分もいいし。
で、うっかりびっくりカメラ構えてみるんだけども、生まれがそういう複雑な土屋街だったから、
例えば浅草行ったってそんなに怖くないわけですよ。
酔っ払いのおっさんいても街と変わんねえみたいな。
だからそういう面ではちょっと探検気分なんだけども、地続きの自分の街のように撮ってましたからね。
たぶんね、何撮ろうかって考えるんだけどね。
なんか考えないで、ほんと。
なんと玄関開けて外行くといっぱい角転がってるって。
はい、何があったんですか。
えっとね、全く別のものではないでしょうね。
映画だから時間は関係してくるんだけど、写真の中にももちろん時間があって、
その時間はブレで表現される時間もあったりとか、
一続きの写り変わりのイメージが一枚で表現されてるかもしれないです。
写真にも時間の要素はあるんですけども、
特に僕の場合は東京の街にカメラを持って出かけると、
意外とちょっとしばらく眺めてることが多いんですよね。
たかれいの写真なんかも、パッといってパッと撮ったわけでもなくて、
たぶん自分の袋から出てきて、
庭で包んでるときにカメラをカゴから出して、
ちょっと見てると、
おじいさんがすごく自分の親父のように見えてくるような、
そんな親近感があったと。
これたぶん2004年だから、親父が1990必要なんで、
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写真を撮る前に眺めつつ、ちょっといろいろ想像するような時間があったと思うんで、
そこにそういう時間が介在してるってことも写真の面白さだと思うんで、
それってでも説明しなきゃ分かんないですけども、
映画ってそのまま時間が流れるじゃないですか。
だからその映画はすんなりそういう時間に付き合えたかなって気がしますね。
最初でも目つきで撮ったりはされないで、やっぱりちょっと…
いやいや、撮りますよ。
特に祭りとか三次祭りとかそういうところでは、
もう全然考えないで感覚的にカメラがポーンと当たってくる。
そういうリアクションとか偶然性みたいな。
それとこういう時間をゆったりと撃ちながらサッカーをチャッチャッと切っていくことの繰り返しですかね。
どっちが自分にとって得意かしたら、やっぱりこういう時間に立ち会うほうが得意ですかね。
初級カメラマンとして祭りだ、何だかんだと現場で撮る音もそれはたまにありましたけれども、
それが専門じゃないんですよ。
そういう動き方ももちろんできるんだけども、
だからそこまでしてなんかやっぱりこう、
カメラマン、カメラマン、ちょっとやりたくないなみたいな感じはある。
えっとね、写真そのものがすごく大きく変わったっていうような印象はあまり持ってないのかなと思うんですよ。
ただその若い人の動き方っていうか身振りっていうか、進化的な身振りなり生き方は変わりつつあるというか変わってきてるなと思うんですね。
撮るものに対して、あるいはそれを写真にしていく表現としての形っていうのは、
実は何かその30年前、40年前に僕らが私たちの頃やってきたことと、
実は本質的に変わってないものがあるかもしれない。
そういう気がするんですよね。
例えばこの前、写真協会の受賞展で六本木のフリーギャラリーで、
作家賞の僕と一人と、それから新人賞のある人が展示したんだけども、
その新人賞のある人の写真というのは、実は何を写すかよくわからない感じなんですよ。
多分人体の一部分を拡大して、フィルムで撮ったやつをスキャニングとかデジタル化して、
いろいろ変容させていったものなんですよ。
それって僕らも70年代の初めに森山大道さんという方が写真に影響を受けて、
複写をしたりとかあるいは現像をするんだけども、
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本当に高音現像で科学的変化というか幕が剥がれちゃうぐらいのことをやったりとか、
いい意味ではわざと無茶ぶりをやった。
それほど実は技法というか、写生を綴り出す方法論って変わってない。
ただ今考えればデジタルがどう影響しているのか確かに、
普段プリントするのも当然デジタルで一発でやっちゃうことも多いし、
ケミカルとはまた違う新たな方法ができたので、
その恩恵に預かっているものも多いです。
ただやっぱり、かつてはフィルム化デジタル化なんて言われてたんだけど、
まあそういう選択自体がちょっとナンセスじゃないけど、
時代遅れだし、フィルムでやっている人もたくさんいるんで、
ただフィルムはどこまでちゃんと供給できるかっていうのはまだ未知数なので、
銘柄がもう無くなってくるし、
インバシっていう人間の自治体がもう高い種類を選べなくて、
僕なんかがしばらく、もう7年くらい陰炎で暗室を離れてしまったっていうのは、
かつては原子炉液とか定着液とかっていう写真薬品を中和させればいいっていうことで、
どんどんどんどん家庭でも捨て捨てあげて、廃液とか。
本当はその時代でもちゃんと廃液処理をやるべきなんでしょうけども、
伝統的に薄めたりとかあるいは中和させればいいんだよみたいなものがあって、
家庭でやる少量だからいいだろうみたいな。
当然教育機関とか、しっかりしたところはちゃんと廃液処理を大昔から続けてるんですけど、
そうするともう家庭でそういうことが環境問題も含めて、
簡単にいいだろうって言えなくなっちゃう。
そうすると関西禁煙の時代って本当にもう追い詰められてるかなって気がします。
でも若い人たちが、かえってそれが非常に新鮮で、
デジタルで写真を撮って面白いなっていう女の子たちが、
マニスの中でじわじわって出てくる写真がすごい面白い、逆転してる。
そういう感じで新規化の人たちが踊ってきて、
それで展示とかしてるんで、結構違和感を感じる。
常に一番熱いから、常に摂取社会とか都議論を探してるわけだ。
最初に表現してるときに。
なんていうんですか。
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戦争カメラマンとかを作ってきたって。
僕はね、昔日本のときはね、全くいわゆる津波の風景を現場で何も見てないんですよ。
僕は津波町が裏石だから、うちも駅上化されたってことだから、
自分のところをまずちゃんと記録したいなと思って。
半年後くらいにチラッと遠くに行きましたけど、
悲惨な現場は全然入ってきてないですよ。
多少は見てるんですけど、そんなワーッとあの最中に、
あっといって何か卒業的な、一つの使命感を掘ろうと。
別にはまあ、まあでもなんかその人の死と、
そのなんかその、瀬戸際ってかその死んだ、亡くなった後のある時間帯の
その家族なり知人なりの体験で大なり小なりいろいろ近いものがあるじゃないですか。
それは何回か僕も経験してましたけど、
自分自身では経験してないけど、すぐ近くからそういう話を聞いて、
亡くなった時間に自分の祖母が家を訪ねてきたりとか、
家に越えてきたりとか、
うちの親父が死んだときに葬式の会場で娘が
トイレでおじいちゃんを見たって言ったりとか、
そういう例って2つ3つちゃんとありますか。
それをこうなんか信じる信じないじゃなくて、
ああそういうこともあるんだなあとは普通に思ってました。
なんか人の心のなんかすごく実は大事な部分なのかなあと思ってました。
怖いとか気持ち悪いとかって言わなくて、
なんか実はすごくいいものなんじゃないかなあ、
そういう思いはありました。
いやあそこなんか新しいことって言うわけでもないんだけども、
僕はねえこの映画をなんかみんなで作って、
まあなんか眠ってた映像作りっていうか、
昔ビデオをね回してた時代があるからかもしれないんだけども、
なんか映像を撮ってみたいという気持ちはありますかね。
僕の場合コマーシャルっていう仕事を全然写真でやってこなかったんで、
じゃあ映像でそういうことができるかって当然写真はやってこなかったことだから、
そのコマーシャルリズムの中で映像を回すっていうことは当然ないんでしょうけども、
なんかちょこっとしたまあどっか田舎の地方のご自治体のあのちっちゃなショートムービーぐらいを、
お金はいらないからなんか何人かでね作ってくれなんていう依頼が来たら面白いなあと思ってね。
ちょっとそういうものに時間をかけてみたいという気がしますね。
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そうしないとやっぱりね、
こういうふうにしてやっぱりそうしなかったら自分を主張してしまうんだけども、
自分を主張してしまう部分ももちろん大事なんですけども、
総合的にいろんな人の意見をやっぱりそこで聞いて施策しながら、
次のアクションをしていくっていう。
まさに多分そうだと思うんで映画作り。
まあ写真を撮るのもなんか複数の自分がいて、
もう今日やめようかなとかね、
まあ金にならないことを撮ってもしょうがねえなあと思いながら、
また歩いて撮ってくるかということも少しは似てるんですけども、
それともまあ具体的に映画作りってやっぱり、
一人でもできるかもしれないけども、
やっぱりこう複数の人間がかかってくると、
大変なんだけどこういろいろしたにとんでもないものがあるなあと思いました。
そうなんですね。
だから当然そんなことを考えて映画を作ろうなんて言い出してみんなでやったけどもね、
やっぱり上映っていうのもちゃんとついて回ってる仕事になったんだ。