今から130年近く前に、現代の高度情報化社会を予見した「電気の父」がいます。
志田林三郎(しだ・りんざぶろう)。
佐賀県多久市出身の彼は、まだ「電波」という言葉もない時代に、長距離無線電話、高速多重通信、海外放送受信、すなわち、スマートフォンやラジオ・テレビ放送を予見、録音や録画の技術も科学的に実証していました。
32歳で電気学会を創設し、その設立総会での講演は、今も歴史に残る名演説と言われています。
「電線を用いることなく、数里離れた海外とも、自在に通信、通話できる時代が必ず来る!」
当時は大胆な予測、果てしない夢の世界と思われていましたが、志田は確信していました。
日本は必ず、エレクトロニクス大国になれる、と。
ひとが歩んだことのない道を切り開くのは、並大抵の努力では足りません。
神童、天才ともてはやされた幼少期を経て、異例の抜擢を受け、電気工学の大家になったあとも、いばらの道は続きます。
権力闘争に巻き込まれ、思うように研究ができない。
ひとを説得し、調整するためには、理論を推し進めるだけではなく、柔軟でバランスのとれた人間力が求められました。
志田の心労がピークに達したのは、1891年1月に発生した国会議事堂の火災。
「電気のせいだ!」と矢面に立たされてしまったのです。
それでも、志田は逃げませんでした。
誤解を解くために奔走。
技術革新の芽を摘むような言動を、ひとつひとつ消して歩いたのです。
彼は36歳で亡くなりますが、結核のためと言われる一方で、過労死だったのではないかという説もあります。
何があっても、歩みを止めなかった賢人が夢みた未来とは、豊かなひとびとの暮らしでした。
電気工学の巨人・志田林三郎が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
志田林三郎(しだ・りんざぶろう)。
佐賀県多久市出身の彼は、まだ「電波」という言葉もない時代に、長距離無線電話、高速多重通信、海外放送受信、すなわち、スマートフォンやラジオ・テレビ放送を予見、録音や録画の技術も科学的に実証していました。
32歳で電気学会を創設し、その設立総会での講演は、今も歴史に残る名演説と言われています。
「電線を用いることなく、数里離れた海外とも、自在に通信、通話できる時代が必ず来る!」
当時は大胆な予測、果てしない夢の世界と思われていましたが、志田は確信していました。
日本は必ず、エレクトロニクス大国になれる、と。
ひとが歩んだことのない道を切り開くのは、並大抵の努力では足りません。
神童、天才ともてはやされた幼少期を経て、異例の抜擢を受け、電気工学の大家になったあとも、いばらの道は続きます。
権力闘争に巻き込まれ、思うように研究ができない。
ひとを説得し、調整するためには、理論を推し進めるだけではなく、柔軟でバランスのとれた人間力が求められました。
志田の心労がピークに達したのは、1891年1月に発生した国会議事堂の火災。
「電気のせいだ!」と矢面に立たされてしまったのです。
それでも、志田は逃げませんでした。
誤解を解くために奔走。
技術革新の芽を摘むような言動を、ひとつひとつ消して歩いたのです。
彼は36歳で亡くなりますが、結核のためと言われる一方で、過労死だったのではないかという説もあります。
何があっても、歩みを止めなかった賢人が夢みた未来とは、豊かなひとびとの暮らしでした。
電気工学の巨人・志田林三郎が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
感想
まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!
11:43
コメント
スクロール