山梨県出身の建築家に、東京タワーを設計した、「塔博士」「耐震構造の父」と呼ばれる人物がいます。
内藤多仲(ないとう・たちゅう)。
1925年に、東京、愛宕山の鉄塔を設計して以来、彼は、全国におよそ60基のラジオ塔を手掛けました。
1954年には、我が国最初のテレビ塔、名古屋テレビ塔を設計。
180メートルは、当時としては破格の高さでした。
1957年春。
早稲田大学の教授を70歳で定年退職した内藤に、あらたな仕事が舞い込みました。
エッフェル塔の324メートルを越える、世界一高い電波塔を設計してほしい、そんな発注。
内藤は、すぐに首を縦に振りません。
それもそのはず、日本には、うかつに高い塔を建てることができない、地震と台風という深刻な天災があります。
フツウであれば断るそのときに、彼はこう答えました。
「日本は、世界のどの国よりも鉄塔建築の条件が悪い。それだけに、独創的な構造を思いつかなければなりません。この大工事は、困難なものになるでしょう。でも、不可能ではありません。やってみましょう」
当時はまだ、パソコンも電子計算機もない時代。
内藤は、計算尺だけを頼りにして、構造計算だけに数か月を費やしました。
作成した設計図の数は、一万枚にも及んだと言われています。
全ての工事が終わったときの気持ちを、彼はこんな言葉で残しました。
「今まで肩にのしかかっていた重荷がほぐれたような安らぎの気持ちで、しばし瞑目して、感激にひたった」
内藤多仲は、特別な人間だったのでしょうか?
おそらく彼は、ただただ自分の仕事にひたむきだったのです。
あなたは、全てが終わったあと、感激にひたれる仕事をしていますか?
あえて困難な仕事を引き受け、常に自らを律した建築家のレジェンド、内藤多仲が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
内藤多仲(ないとう・たちゅう)。
1925年に、東京、愛宕山の鉄塔を設計して以来、彼は、全国におよそ60基のラジオ塔を手掛けました。
1954年には、我が国最初のテレビ塔、名古屋テレビ塔を設計。
180メートルは、当時としては破格の高さでした。
1957年春。
早稲田大学の教授を70歳で定年退職した内藤に、あらたな仕事が舞い込みました。
エッフェル塔の324メートルを越える、世界一高い電波塔を設計してほしい、そんな発注。
内藤は、すぐに首を縦に振りません。
それもそのはず、日本には、うかつに高い塔を建てることができない、地震と台風という深刻な天災があります。
フツウであれば断るそのときに、彼はこう答えました。
「日本は、世界のどの国よりも鉄塔建築の条件が悪い。それだけに、独創的な構造を思いつかなければなりません。この大工事は、困難なものになるでしょう。でも、不可能ではありません。やってみましょう」
当時はまだ、パソコンも電子計算機もない時代。
内藤は、計算尺だけを頼りにして、構造計算だけに数か月を費やしました。
作成した設計図の数は、一万枚にも及んだと言われています。
全ての工事が終わったときの気持ちを、彼はこんな言葉で残しました。
「今まで肩にのしかかっていた重荷がほぐれたような安らぎの気持ちで、しばし瞑目して、感激にひたった」
内藤多仲は、特別な人間だったのでしょうか?
おそらく彼は、ただただ自分の仕事にひたむきだったのです。
あなたは、全てが終わったあと、感激にひたれる仕事をしていますか?
あえて困難な仕事を引き受け、常に自らを律した建築家のレジェンド、内藤多仲が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
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