幕末から明治時代にかけて、ウイルスと戦い、近代医学の礎を築いた、佐賀出身の医師がいます。
伊東玄朴(いとう・げんぼく)。
彼が生まれた、現在の佐賀県神埼市には、漢方医だった20歳の時に建てた旧宅が保存され、その家は、昭和48年、1973年に佐賀県の文化史跡に指定されました。
旧宅内には、玄朴自身が翻訳したオランダの書物「医療正始」や江戸時代末期の医学書、師を務めた蘭学塾「象先堂」のパネル写真などを展示しています。
薬箱や、薬の壺、ワクチンの注入セットなど、彼が使った医療道具は、当時の治療の生々しさを伝えてくれます。
伊東玄朴が生涯をかけて戦った病は、天然痘(てんねんとう)です。
現在は根絶していますが、古くは紀元前から、世界を恐怖に陥れた、致死率の高いウイルス性感染症でした。
日本では、渡来人の行き来が増えた6世紀、このウイルスの侵入が記録されています。
現在も使われているワクチンという言葉は、この天然痘の撲滅と無縁ではありません。
イギリスの医学者、エドワード・ジェンナーは、あるとき、乳しぼりをするするひとがほとんど天然痘にかかっていないことを知ります。
牛の病気『牛痘(ぎゅうとう)』の飛沫が彼等に付着し、抗原になったのではないかと推測しました。
こうして、牛痘に罹った雌牛から抗体を取り出し、それを人間に注入することで免疫をつくることを発見したのです。
ワクチンの語源は、ラテン語の雌牛。
このジェンナーの提唱を日本に広め、実践したひとりが、玄朴だったのです。
彼は貧しいながらも、苦学を重ね、病に向き合いました。
彼は生涯、国を豊かにするのは庶民であるという信念を胸に、感染症に対抗するワクチンの普及に努めたのです。
我が国の西洋近代医学の道を切り開いた賢人、伊東玄朴が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
伊東玄朴(いとう・げんぼく)。
彼が生まれた、現在の佐賀県神埼市には、漢方医だった20歳の時に建てた旧宅が保存され、その家は、昭和48年、1973年に佐賀県の文化史跡に指定されました。
旧宅内には、玄朴自身が翻訳したオランダの書物「医療正始」や江戸時代末期の医学書、師を務めた蘭学塾「象先堂」のパネル写真などを展示しています。
薬箱や、薬の壺、ワクチンの注入セットなど、彼が使った医療道具は、当時の治療の生々しさを伝えてくれます。
伊東玄朴が生涯をかけて戦った病は、天然痘(てんねんとう)です。
現在は根絶していますが、古くは紀元前から、世界を恐怖に陥れた、致死率の高いウイルス性感染症でした。
日本では、渡来人の行き来が増えた6世紀、このウイルスの侵入が記録されています。
現在も使われているワクチンという言葉は、この天然痘の撲滅と無縁ではありません。
イギリスの医学者、エドワード・ジェンナーは、あるとき、乳しぼりをするするひとがほとんど天然痘にかかっていないことを知ります。
牛の病気『牛痘(ぎゅうとう)』の飛沫が彼等に付着し、抗原になったのではないかと推測しました。
こうして、牛痘に罹った雌牛から抗体を取り出し、それを人間に注入することで免疫をつくることを発見したのです。
ワクチンの語源は、ラテン語の雌牛。
このジェンナーの提唱を日本に広め、実践したひとりが、玄朴だったのです。
彼は貧しいながらも、苦学を重ね、病に向き合いました。
彼は生涯、国を豊かにするのは庶民であるという信念を胸に、感染症に対抗するワクチンの普及に努めたのです。
我が国の西洋近代医学の道を切り開いた賢人、伊東玄朴が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
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