00:02
木島和恵さん、こういう一面もあるんだみたいなね。めっちゃ素。素。
俺なんて、中学の時に陸上部でグルグル走ってるぐらいの時に、南フランスの曲書いてる人がいるみたいなね。
それ、すごいよね。とっても思い出深い。未来へという曲がありました。これ、ZUSHI中学校のね、歌い継がれて。そうなんです、あの
伊関くんの話。あ、伊関ね。伊関って呼んじゃったけども、はい。
あ、雅氏のやつって。誰見たい?みたいな感じのことを言ってて、え、いいの?みたいな感じで。そうだね。
はい、どうも。ZUSHIレコ編集長の木島雅氏です。この番組、ZUSHIレコラジオは、
図志の暮らしに身近なワクワクを、がコンセプトのローカルメディア、図志レコが毎週お届けしているポッドキャスト番組です。
図志に暮らす人たちがちょっとワクワクするような身近な話題や、ゲストをお招きしてのローカルトーク、図志周辺の地元情報などを発信しています。
さて、今日は第9回ということなんですけども、前回のね、予告でもお伝えした通り、今日はゲストをお招きしています。
はい、早速登場してもらいましょう。今日のゲストは、はい、湘南ビーチFMのフォレストジャズという番組のパーソナリティをしているピアニストの木島和恵です。
木島雅氏の姉をやってます。はい、はい、こんばんは。よろしくお願いします。よろしくお願いします。なんかね、こうやって姉と弟でこうやって賢まって喋るっていうのは初めてですね。
普通、兄弟でこんなことしないよね。気持ち悪いよね。気持ちが悪いよね。そんな感じで、お互い図志出身というか図志育ちということで、今日はね、図志レコーラジオってことで図志のこととか、湘南ビーチFMとか、いろんなことを聞いたりとかしていきたいなと思っております。
はい、じゃあ第9回スタートします。よろしくお願いします。お願いします。さて、姉をお招きして何を喋るのかっていうところは全く何も決めてないままスタートしてるんですけど、今ね、こうやって木島和恵.comっていうウェブサイト。まさしが作ってくれたね。僕が作りましたね。
そのサイトをね、見ながらちょっとね、木島和恵さんの紹介をちょっとしていきたいなと思っております。はい、木島和恵さんでね、ピアノアレンジコンポーズラジオパーソナリティという肩書きで、4歳よりピアノ、8歳より作曲を学ぶってことでね、4歳ってことで、4歳ぐらいから始めるとどんな感じでピアノやるんですか。
まさしも知ってるように、私たちの母親がピアノの先生でしたので、家にピアノがあって、赤ちゃんの頃からそういうピアノがある環境という中で育ったので、特にピアノを始めたっていう感覚はなくて、しかも4歳の時の教室っていうのが、いわゆるヤマハの幼児科コースみたいな感じで、お母さんと一緒に体を揺らしましょうみたいなところから入っているので、
03:18
わりかし自然な流れで音楽を始めて、ピアノを弾くことも始めたみたいな感覚よりも、普通にラッパーのおもちゃを吹くのと同じような感覚でピアノを触ってたので、とっても自然な流れでしたね。
日常にもうね、ピアノがドーンと置いてあるみたいな。
そうそうそうそう。
触ったら音が出るみたいな。
そうそうそうそう。
そういうところからのスタートだったみたいな。
はい。
幼少期に自身の曲がね、ヤマハのJOC優秀作品集CDに収録されたりとか、教材のテキストや楽曲提供とかレコーディングとか日本各地のコンサートということで、ここだけ見ると振動感みたいな感じの。
どんな流れでこういうことになったんですか?
これは母親も教える方で携わってたヤマハの中で、自分がこう習っていくうちに、だんだん初めは住んでいる場所の近くのヤマハ音楽教室だったんだけど、横浜に小学生になると通いだして。
通ってましたね。
毎週毎週電車に乗って行っていて、そこでこの目黒のヤマハの本部から偉い作曲の先生が教えに来るっていう、とっても自分にとってはラッキーな出来事だったんだけど今考えると。
そういう先生が来るということをきっかけに、きちんと作曲を習うように小学生の時になったんですね。
はいはいはい。
だからそこから本格的に作曲を始めたみたいな、そんな感じでしたね。
音楽テレビ番組にも出演っていう風に書いてありますけど。
これもまさしくヤマハ生まれヤマハ育ちみたいな感じで、ヤマハの音楽番組があったり、ヤマハの中でさっきも全国各地って言っていたのは、ヤマハの中でのコンサートが各地であって、そういうのに選ばれて連れて行っていただいたみたいな、そんな感じでしたね。
いやー懐かしいね。
懐かしい。
なんだっけ、ジュニアオリジナルコンサート。
ジュニアオリジナルコンサート。
テレビ朝日でやってた。
大名のない音楽会とか、仙台ものの裏番組みたいな、日曜の朝。
あれに姉が出るってなった時にね、家にテレビの取材みたいなのが来た。
来たね。お菓子作りをなぜかピアノで出るのにお菓子作りをしてると撮影して帰ったよね。
テレビの人たちに。
テレビの人なんてね、そんな子供が出会うことないからすごい人だって思うけど、今考えればディレクターとカメラマンとか、そういうポジションの人だったのかなとか。
大人になると分かってくるね。
当時作った曲とかって何か覚えているのありますか。
ヤマハの中で一番いい感じに選ばれて、すごく夢見てたコンサートに自分が出れることになったっていうのが、スニーカーで出かけようっていう曲で、バイオリンとの出を。
06:10
それが今でもバイオリンの曲を大人になってからもよく書いてたんですけど、バイオリンの曲を初めて書いた曲がそれで。
でも、もともとはジーパンで出かけようっていう題名だったの。
お母さんにちょっとジーパンかっこ悪いから直しなさいって言われて。
プロデューサーがね。
そう、うちのね。
プロデューサーが入った。
私たちのプロデューサーが入って。
そこはね、ちょっと路線違うから。
そう、スニーカーにして。
もうちょっと清楚で行こうってね。
そうそう。
で、そっから始まって、多分今考えるとあれはね、魔女の宅急便の影響だと思うんですけど、中学生ぐらいで、ちょっとこうああいう港町の雰囲気に憧れて。
あのテレビがどこの題材にしたものかはちょっとわかんないんですけど、自分の中で南フランスに目覚めて中学生の時に南フランスの空の下でっていう曲を書きましたね。
ありましたね。
結構南フランスに取り憑かれたというか。
そう、南プロバンス地方に取り憑かれた。
それをテーマの曲っていうのをね、結構作ってたりとか。
そう、フランス語のイマージュっていう曲を書いたりね。
でもそれよく考えると、当時中学生とか高校生みたいなわけでしょ?
そう。
でね、俺なんて中学の時に肉ジョブでぐるぐる走ってるぐらいの時に南フランスの曲書いてる人がいるみたいなね。
そうだよね。
すごいよね、よく考えると。
なんかあんまり同級生と遊んだ記憶がないくて。
我々図書学校の、その当時の私たちの世代だと、チビレストっていう遊具があったんだけど。
あんまりチビレストで遊んだ記憶がなくて。
結構やっぱりいつもピアノを弾いたり、週に1回横浜通ってたっていうのもあるし。
でもそういう中でいたので、割とその時、同世代の人たちと一緒の遊びをしてないという感覚がどっかにあったかも。
なるほど。
やっぱり毎日ピアノ練習みたいな、何時間?
すごくやってた気がする。
人生の中で一番頑張ってたのはその頃なんじゃないかなと思います。
でもその頃頑張ったから基礎的なところというかね、クラシックピアノの。
やっぱりジャズとかポップスをやるにあたっても、そこは本当に自分のベースとなる部分なので、しっかりやらせてもらったのは本当に感謝してて。
なるほど。
ラジオっていうのを忘れて普通にタメ語で喋っちゃいますね。
喋っちゃいますよ。それでいいと思うんですけど。
そうですね。
でも湘南ビーチFも聞いてくださっている方がもしこのラジオを聞いたら、木島和恵さんこういう一面もあるんだみたいなね。
めっちゃ素。
素。
深夜ラジオみたいな感じの湘南ビーチのザッピングしてて、深夜2時くらいに聞こえてきたみたいな。
ありそうありそう。
おまけみたいな感じで、ちょっと聞けたら嬉しいみたいな。
09:02
そんなノリでいこうかなと思ってるんですけど。
中学時代にね、自分のクラスのために曲を作ったと。
そうなんです。中学の先輩に詩を書いてもらって、自分のクラスの合唱子のために自分が曲を書いて、それをみんなが歌ってくれて。
その曲で優勝をその年できたという、とっても思い出深い未来へという曲がありました。
これ寿司中学校のね、歌い継がれて。
そうなんです。なぜかというと、合唱子ではなく、私の一つ下の世代から卒業生の歌として卒業式で10年くらい歌っていただいて。
10年くらいって今知ったけどすごいよね。今考えると。
だから自分のことを知らないちょっと下の人も、未来への木島さんっていうのでわかっていただけるような時期がありましたね。
ありましたよ。僕もね、寿司中卒業するときに、やっぱり未来へを歌うっていうのがなって。
誰が弾くんだみたいな。
結局あの僕ね、その時あのキーボードバンドで文化祭バンドとかやってたけれども、そんなにねクラシックもすごい難しい曲だから。
当時ね、弾いてた女の子、同級生の子もねすっごい練習してた。
そうなんだ。そういえばあの我々の家のプロデューサーの母親の木島恵美子さんは家でもピアノを教えていて、
当時私たちが卒業した後に中学寿司中に在籍している生徒さんがいて、その生徒さんが未来へを卒業式で弾くことになったから、
先生のとこにその曲を持って練習しに来たっていう面白い現象がそういえば。
それね、習う相手間違ってるよね。
あ、お母さんじゃなくて私にね言ってくれればね、しますよ。
うちのお母さんが未来へ弾けないでしょみたいな。
面白かったな、あれは。
でも血は繋がってるから何かね、ファッションとか何かね。
エッセンスとかね。
エッセンスとかね、育ってきた環境とかを吸収しながら弾くみたいなのね。
結構意識高いよね、それは中学生。
意識高いね。
そう、だから10年ぐらいね。
だから俺も卒業して何年も経って社会人ぐらいになった時にまた未来へみたいな話が歌われてるっていうのを風の噂で寿司のどっかから聞いて、
すげーなって思って。
本当に人生の宝物の出来事です。
そのね、詩を書いてくれた先輩っていうの妹が僕の同級生を書いてるからもう狭いね。
狭い。
狭い狭い。
家も1分ぐらいだしね。
そうそうそう。
家から1分といえば、いせきくんの話。
あ、いせきね。
いせきって呼んじゃったけども、はい。
いせきっていう男がね、いましたね。
いましたね。
あのいせきもうちの家から1分ですね、そこ。
狭いね。
俺のちょっと話をすると、
12:00
姉がこんな感じでピアノの活動を中学校高校とかやってて、
すげーピアノ弾けるお姉さんがいるっていう、家にピアノあるって感じだったんですけど、
僕も家にピアノあるんで、エレクトロンとか習ってたし、ピアノちょっと弾けるっていうので、
同級生からバンドに誘われたんですよね。
キーボードやってくれって。
懐かしい。
ザ・イエローモンキーのキーボードやってくれって。
懐かしい。
で、いやいやながらやっていって、のめり込んでいくんですけど、10代後半。
で、中学3年の文化祭でコピーバンドをやって、文化祭デビューみたいな感じでやってたんですけど、
そこでバンドの先輩というか、バンドのお兄さんがいまして、そこで出てくるのがいせきさん。
なるほど。
いせきさんということでね。
中学3年でバンドやってて、まだライブハウスでライブもやってることのない、自分が文化祭に向けてライブやってるって時に、
夏に、中3の夏に、あれですよ、ホットウェブ。
横浜スタジアムであった、ペインテッドウォールっていうバンドね。
懐かしい。
で、それでね、いせき弾きいる、いせきたちの、なんだっけ、同級生かな。
そうだね。
オッパマ高校とかね、いろいろな。
そういうね、同級生のバンドで出場して、いせきがベストボーカル賞を取るみたいなね。
その当時のホットウェブがね、TBKで放映されててね、結構見てたよね。
見てた。
すっごい俺見てた。
懐かしい。すごいザ青春だよね。
ザ青春だね。だからもうそのホットウェブに出たグループとか今でも覚えてる。
そうか、自分の。
どんぐりとか。
なんかね、すごいグレイとかラルクとか流行ってたところとか、そういうバンドもあったりとかしてね。
そんなホットウェブでベストボーカル賞を受賞したいせきはやっぱりそこで終わらず、
その後、バンドをやりながら食えないふぐな時代、コンビニでアルバイトして深夜の、
その代わりになぜか家じゃなくてうちの家に帰ってきて玄関で朝起きたら遺跡が寝てて悲鳴をあげるようなこととかもありましたが、
ある日とんでもないことを思いついて、一緒にラーメン屋に二人で横浜の一覧に食べに行ったんですけど、
その帰りの車の中で、俺海の家やろうと思ってるんだって打ち分けて。
何を言い出すんですか。
打ち分けてくれて、お金もないのに何売ってんのって言ったら、
こここう出て、すごい汚い手帳を見せてくれて、そこには海の家のレイアウトとかが書いてあるんだけど、
いろんな他のお金をどうするとか、こうする、ああするっていう具体的なことは何一つないんだけど、
レイアウトだけ先に決まってて、こういうことがやりたい、ちゃんとでもまあビジョンが先にあって、
それを先に打ち明けてくれて、でもやめなよって言ってたんだけど、
15:00
でもその遺跡は今もそうだけど、話してるときの真剣なまなざしに、
幼馴染で小中高ずっと一緒だったにもかかわらず、なんかあの目にこうやられて、変な意味でじゃなくね。
カット見開くよね。
そうそうカット見開くあの遺跡。
どうこう開いてるよみたいな感じの顔するよね。
あれを見たときに、当時お姉、お姉ってラジオでした。
私は普通にOLをして働いてたんだけど、これは遺跡の夢に私も乗ってみようって思って、
自表を次の日に出したという、私まで衝撃な。
すごいね、ドラマだね。
それがやっぱり多分遺跡にとってもそうだし、我々この兄弟にとっても、
結構音霊に向けて、音霊というか私たちがやっていたのは1年目の課なんだけど、
あの出来事っていうのは人生を左右してた。
そうだね、人生を狂わせたじゃないけど、結構方向性を影響を受けたというかね。
言ってしまえばね、僕も大人まで出会った女の子と結婚してるから。
そうだ。
うちの奥さんね。
やりおるな。
ほんとに人生、遺跡に変えてもらいましたみたいなね。
バンドでも影響を受けてみたいな。
ちゃんと結婚式でもね、歌ってくれたしね。
そうそう、なんかね、いやー懐かしいな。
だからなんか図志っていう町は私たちが生まれ育った町であり、
小さい頃の思い出はなんかほんとに田舎町で育ったみたいな感覚だったんだけど、
その頃からある日突然何かが変わったよね。
そうだね。
なんか毎日徒歩10分とかで海に行ったら、すごい有名な人がライブやってるみたいな。
ね、そうそう、その感覚。
都内のライブハウスみたいなものが図志にできちゃったもんだから、
普通は電車に乗って湘南新宿ラインで1時間かけて見に行くアーティストが、
家から10分のとこに来ちゃうみたいな。
その感覚がやっぱやってても、
やってる方はすごくそれどころ見るとか感じるとかいうところまで行かないぐらい、
なんか釈迦力のなすだったけど、
でもそれが多分その時賛否両論の意見、
いろんな人にもご迷惑もかけた部分もあるから、
自分の周りにもいろんな意見を持ってる人いるけど、
そんな見れちゃうんだこんな家の近くでって思って、
ラッキーって思った人絶対たくさんいるよね。
絶対いるね。
ね。
そうそうそう。
いやもう本当に伊関が、
アーティストをブッキングというか呼ぶときに、
マサシややつって、
誰見たい?みたいな感じのことを言ってて、
え、いいの?みたいな感じで、
クラムボーンとか見たいなとか、
でね、もうなんか実現しちゃうしみたいなね。
ラレッツね、リスト見してもらったら、
何のフェス?みたいな感じの、
そういうようなことをね。
1年目のあの伊関の夢のリストは、
全部は叶わなかったけど1年目には、
でも多分何年か後には全て叶ったんじゃないかなっていうぐらい、
すごいアーティストがたくさん来たね。
18:02
そうだよね。
だから当時20代とかだった伊関とか、
我々とかも、
図志ってすごい田舎だなって思ってたけど、
あれこんなに面白いことできるし、
都内からもお客さん来て注目されるしみたいな、
そういう街になれるんだみたいな、
可能性を見せてもらったっていう。
それこそ逆を言えば、
悪い治安がどうなっていうこととか、
事件があったりっていうこともあったけども、
そういう悪い歴史っていうふうに表向きにはなってるけども、
その裏では我々のような影響を受けて、
ニュースにならないようなものもたくさん含まれてたり、
実はしていてね。
そういう面では貢献した部分もあるよね。
だからやっぱり何回か前の放送で、
僕も大人物の話したけど、
そこでも言ったのはやっぱり、
そこで音楽と図志っていう掛け算で、
ネガティブな方向性にイメージを持っちゃってるのが、
なんか嫌だなと思ったから、
図志の地域イベントとか、図志コミュニティパークとか、
いろんなところの音楽のイベントとかで、
PAとかやってるとか、
音楽で盛り上げたいなって思いがあって、
地域活動とか始めたっていうその現体験だから。
なるほど。
そういえば図志映画祭の1年目の時って、
まさし、長島玄ちゃんに頼まれてPAやってたんだよね。
PAというか上映とね。
今考えると。
西村さんっていうPAの人と。
そういう単位でいろいろとやっていくうちに、
図志にあるイベント自体が育って、
音霊もそうかもしれないけど、
玄ちゃんの映画祭もそうだし、
他のまさしが今やってるコミュニティパークもそうだし、
あと池子の森音楽祭もそうだけど、
イベントがどんどん育っていって、
結果的に小さい単位のものがいろいろなものを巻き起こしているっていう感じが、
それと一緒に共にして生きてるから、
音霊をやる前は図志は何もない街みたいなイメージは私たちあったけど、
音霊やってその後図志やったフェスティバルとかが始まって、
なんか図志元気になってきて、
普通の人たちがそういうものに携わって、
あと何か特技を持ってる人たちが、
なんか仕事それが本業だったりしても仕事とは別の気持ちで、
そういう人たちのプロの人たちの技術が集まってきちゃって、
結果的になんかすごいイベントが出来上がっちゃったみたいな、
なんかそういうのが今すごくあるよね、図志。
すごい盛んになってるなと思って、
やっぱりはその音霊もそうだけど、
海で映画見れちゃうの?とか、
こういうことできちゃうの?っていう前例ができちゃうと、
それを見た他の人たちも、
21:02
図志っていう真っ白なキャンバスというか、
真っ白ではないけども、上の世代とかがいろいろ培ってた。
ユージロウさんもそっから始まりね。
そうそうそう、そういうのあるけれども、
近い世代がそういう楽しいことやってるっていうのを見てると、
自分もできるんじゃないか?とか思って、
神社でイベントが、
神奈川八幡宮とかイベントとかそんな昔なかったからね。
なかったなかったなかった。
だからコミュニティパークとか、
それより前だと心の祭りっていうイベント、
手伝ってたりとかしてたけど、
そこでげんちゃんと出会ったけどね。
で、そういうのがあって、
神社でイベントやっていいんだというか、
できるんだっていうところがあって、
自公会の人とかにイベントやりたいんですけど、
っていう人が増えてきたみたいな。
この前の海町コーヒー祭りも。
それもそういう流れを組んでいっているから、
ますます図紙が面白くなっているというか。
そうだね。
新しい人が入ってくるよね。
本当にそうだね。
あと受け入れ側っていう意味で、
神社の自公会の皆さんとか、
あと鎌倉もそうだけど、
県庁寺でフェスを、
お姉妹全フェスっていうフェスをやらせてもらったりもあったんだけど、
普通お寺とか神社って、
そういうことをするための場所ではないから、
そういう方たちが受け入れてくださるっていう、
そこもやっぱりすごいなって思うよね。
だからそこでイベントやるとか、
人を集めるっていう上では、
場所に対するリスペクトというか、
やっぱり全フェスもね、
県庁寺って全の発祥のお寺っていう風に言われているから、
全のテーマにしたイベントっていうことで、
あそこで普通に音楽イベントやるって言ったら、
多分大きいは出なかったんじゃないかなと思うし。
ちょっと裏話だけど、
あの全フェスをやった実行委員長の今村康彦という、
私の元バンドメンバーでもあり、
今鎌倉で、
存じております。
すごいものを作って、
クラウドファンディングで何千万も集めちゃった男がいるんですけども、
その彼が全フェスをやりたいっていうのに、
私たちは捕まったわけなんですけど、
遺跡の時と同様。
それも彼はやることにこぎつく前に、
半年か1年かは座前会にずっと通ってて、
別に全フェスをやりたいからっていうのを抜きにして、
やっぱりそこに自分がまず寄り添って体験してみて、
その中でいいと思ったからそのフェスをやりたいっていう、
きちんと踏んでいて、
なんか間違えちゃいけないのは、
そういうものすべて決して箱貸しみたいな形、
場所貸しをするっていう感覚でやってはいけないとすごく思っていて、
そういう意味合いで借りちゃっている人っていうのは、
多分その場所は1回限りだと思うんだよね。
なぜかというとその場所を貸してくれる人と心がつながっていなかったり、
やっぱり両方にウィンウィンでないと、
やっぱそういうのっていけないと思うから、
24:00
ただ単にライブハウスとかそういう短いパーティー場とかだったら、
お金を払ってそこの場所を貸しますでいいなと思うんだけど、
やっぱり多分図志のコミュニティパークもまさにそうだと思うし、
終わった後、次の日の朝全部掃除チェックしに行ってね、
そういうのを毎回やってるっていうのを聞くと、
やっぱりその場所にリスペクトがあるからこそ使わせてもらうことにもなるし、
続くっていう意味では、
そういうところもやっぱりイベントを作る側の見えない、
お客さんの見えないそういう心っていうところが、
やっぱりイベントが続くキーポイントなんじゃないかと思うんだよね。
そうだね、やっぱりライブハウスでイベントをやるとかだとね、
場所を変えてとかっていうふうにできるけども、
その地域でね、出入り禁止とかになったら、
もうね、コンセプト良くてもできなくなっちゃうとかあるから。
そんな感じでね、音霊に関わって、
その後、バンドを結成したということで、
どんなメンバーとどんなバンドを結成したんですか?
そうですね、踊れてキュンとする究極の1曲を作るというのが目的の、
ドン・ウルトラというバンドを作りまして、
R&B、ポップ、ジャズが組み合わさったような、
いわゆるメジャーシーンで売れるのが目的というバンドだったんですけども、
当時ミクシーというSNSが出たばっかりで、
あとは館内にあるカモメという場所でのソイル&ピンプセッションズの元ピンプさんが、
開催していたセッションがあって、
それね、兄弟でもいつも行ってたりしてたんだけど、
そこで出会ったボーカルの子だったりとか、
そういうリアルな現場で出会ったのと、
SNSで出会ったメンバーが集まってバンドをやりました。
そこをきっかけに実は私は一度図志を出るんですけども、
当時やっぱりまださっき話したように、
図志には何もないし、図志で音楽やってても何もできないし、
限界を感じるっていう思いが、
やっぱりそれは音霊もやった後だったんだけど、
遺跡たちは遺跡で、まだキマグレンとかがバーンっていく前だったし、
図志でこういうのをやったっていう一つの成果はあっても、
じゃあ今度自分が図志でなんか音楽やりたいなって思ったら、
図志じゃないなっていうことで、やっぱりその時は一回都内に引っ越しをして、
その後メジャーデビューをすることになったんですけど。
控えめに言ってるけどすごいことですよ、それ。
頑張りました。
頑張ってね、2008年、ユニバーサルミュージックよりメジャーデビューということで。
結構キャッチーなバンドだったね。
そう、すんごい効いてましたよ。
ありがとうございます。
ツインポーカルだったんですけど、男の子の方はR&B系で、
女の子の方はですね、さっき言ったセッションで出会った、
27:03
ゆりえというLA育ちの、
職師女。
ジャズが本当はやりたいっていう状態の時だったんだけども、
それを無理やりポップな曲を歌わせてたっていうのもあり、
でも、ジャズもやりたいし、
私はクラシック上がりだしとか、
いろんな要素の人たちの集まりだったので、
片谷R&Bの男の子はアパレル系で、
いろいろそういう人に見せる、見せ方が上手だったり、
あとさっき全フェスの話で出てきた人がドラムでバンドリーダーだったりとか、
あとは別のヘッドホンの会社で働いてる人とか、
いろんなことを、
同じジャンルじゃない人たちが集まって、
講師ともにみたいな感じで、音楽のジャンルだけじゃなくて、
っていう人たちの集まりだったので、
そういう意味では一つのバンドをやりつつ、
一つの会社をやってるみたいな感じで、
広報担当とか、経理担当とか。
別に楽器担当してる以外のこともやってるみたいなね。
まさにそういう感じでした。
広報とかプロデュース的なところも。
だから今でこそすごく当たり前になっていると思うんだけど、
事務所に所属せず、自分たちでバンドを運営したりするっていう、
走りの時代だったのかな。
なんかそれを実践してたかも、今考えると。
確かにね。今だったら多分ね、
YouTubeとかあるから、自分たちで曲作って、
ミュージックビデオ作って、YouTubeというか配信して、
それが話題になると、プロの道がみたいなのが当たり前だったけど、
まだそれがないというか、YouTubeもね、そこまでこう。
全然だった。
日常にテレビでYouTube見るみたいなのとは、
まだ別のね、そこまで行ってない時代だったから。
時代がね。
ミクシーとかだったからね。
そうそう、男性ミクシー出会いですから。
そういえばね、思い出した。
ドーンウルトラやる前に、音霊とかね、
2000何年かね、2003年とか、
それぐらいの時に一緒にバンドやってたよね。
そうだ、忘れちゃいけない。
忘れちゃいけない話よね。
兄弟で同じバンドを組んでましたね。
そうなんですよね。
かぜさんはピアノで、僕はドラムで。
それでオーストラリア人のサックスと、
のばの先生。
そう、のばの先生。
それもうちの母親が連れてきてくれたんだよね。
何かしらね。
何かしら、うちの母親、プロデューサー。
そうそうそうそう。
いろいろやっぱ親だもんね。
いろいろやってくれて、遅い出会いをくれたり。
図志ののばの先生でね、
サックスを吹く面白い人がいるっていうのはね。
そうそう。
で、当時私がさっき自表を出したって話した会社で、
私のパソコンの前に座ってたお姉さんがボーカルなんだけど。
そうだね。
そういうメンバーでね、いろいろやったよね。
やったね。
音霊に結局、その1年目私たちが関わってるときに、
30:04
遺跡たちの気持ちもそうだったんだけど、
本当は自分たちがうまくやりたいから海の家やって、
だけどなんか自分たちの気持ちとは裏腹にどんどん大きくなっちゃって、
自分たちが出るような箱じゃなくなっちゃったみたいなところで言うと、
私たちも無理やりその中、遺跡たちもだけど、
ブッキングね、自分たちのバンドを入れて。
当時、そのバンドは私が大好きだったエゴラッピンのカバーバンドみたいな感じでね、
始まったね。
エゴラッピンのバックバンドというか、サポートメンバーの人たちが別のバンドを組んでいて、
要は歌とギターが入ってないエゴラッピンみたいな言い方があって、
どうにかその人たちをブッキングすることができて、
しかも自分たちの私たちのバンドと対バンっていう。
そうだったっけ?
今考えると何やってんのっていう。
ところが、その日台風が来て中止になっちゃったんだよね。
その時私が思ったのは、まだお前はこのステージに上がったり、
エゴラッピンの人たちと演奏するのはまだ早いってストップがかかったって。
台風が。
そう思ったな、あの時は。
なるほどね。
そうは上手くさせないよって言われた気がする。
それはあると思う。
あるよね。
そういうところね、偶然というかあるよね。
あると思う。
こんなトントン拍子にいろいろいかないよって、
やっぱりそういうのもありつつ、きっとイセキたちもそうだと思うんだけど、
いきなりポンポンポンって何でも成功したわけじゃなくて、結構いろいろあったもんね。
そうだね。
だから私たちのそれぞれの音楽活動もそうだけど、
音霊は派手にバーンといったけど、自分たちの音楽活動はいろいろうよ曲説あり、
でもまた私の話になっちゃうんだけど、
そのラフラフというバンドをやりながらその時は音霊の1年目をやって、
で、さっきほどのデビューしたドンウルトラっていうバンドで音霊に帰ってきたんです。
あー。
イセキからオファーをいただいて。
オファーをいただいてね。
それはね、やっぱりすごく嬉しかったな。
アーティストとして戻ってきた。
ここに立てるっていうのはすごく嬉しかった。
スタッフとかじゃなくて。
じゃなくて。
それは嬉しいね。
当時自分がやってた時は自分が広報だったから、いろんなアーティストのマネージャーさんとかと広報としてやり取りするんだけど、
そのドンウルトラで出た時は、その時に広報だったスタッフの人とこっち側でメールをやり取りするっていう。
あー、なるほどね。
それもちょっと面白かった。
面白いな。アーティストですみたいな。
だからなんか、まさしもそうだし、私もそうだし、結構音楽活動とかを表現する側とそれを支える裏方とイベントを作る側と、
両方を行き来する、表裏を行き来するスタイルで活動しているっていうのがやっぱり面白いし、強みだったりとか。
33:04
あとお互いの気持ちがわかるから、やりやすいと思ってもらえたりするんだよね。多分いろんなところで。
マネージャーさんともね、やり取りしやすいしっていう。
そうだよね。
そんな風に兄弟で一緒にそういうスキルを高め合って生きてきたかもしれないね。
確かにね。
俺も表舞台でドラムとかやって、バンドでインディーズデビューでCD出したりとかしてたけど、そのレコーディングとかも自分でやってたりとかして、
自分のバンドのレコーディングがしたいから、レコーディングエンジニアを目指して音響の専門学校に入って、
それで入ったんだ。
そこでね、PAとかいろんなこととか、音楽業界の裏方のことを学んで。
はじめそうだったね、私。
だから野外でね、ちょっとしたイベントのPAとかだと自分でやっちゃうというか。
普通あんまできないことできるもんね。
そうだね。
そういう意味では結構木島まさしはホームページも作れたり、そういう面で見せることのプロだったり、今働いてるかやくという会社もそうだし、
自分が音楽活動する側も、そのイベントを作る側も、なんかいろんなところをオールマイティに行き来できて、
多分私とまさしもバーター的な感じでお互いのこう…
そうだね、ホームページ作るから。
作るからこのライブ出てとか、キーボード貸してとか、機材貸してとか、今でもそうだけど、
大人になってからすごいそういうバーター的なこう、意味合いっていうかそういう協力し合う関係も確立し、
それがいつの間にかこのまさしとかずえだけの間じゃなく、ずしっていう街の中で結構それが応用されて、
情報がられて出るときが、それが面白いよね。
そうだね。湘南ビーチFMのパーソナリティとしての姉がいて、弟はなんか一家に一代みたいな感じで、
俺がいればなんか地域イベントちょっと裏方的なところは結構回るよっていうような感じあるよね。
別にそこを目指せたわけじゃないし、なんかガツガツした気持ちがあってっていうわけじゃなく、
自然とこういう風になった、この今の感じってすごくいいね。
そうだね。
気に入ってるし、なんかすごく周りの人たちあってのことだから感謝もしつつ、
いい感じに育ってきた感じがするね、私たち。
表舞台だけ立ってたらね、なんかちょっと天狗じゃないけど、なんか失礼な感じになったりするかもしれないけど、
裏方のね、ちゃんとお客さんのこと考えたりとか。
そうだね、お金の周りのことも気にしたりとか。
でもやっぱ一流のミュージシャンって、やっぱりそういう裏方的なところまで配慮してくれるっていうのはない?
あるかも。
なんかすごく売れてる人ほど、スタッフの人に対しての態度だったり、
ちゃんと鈴木さんっていう名前で呼んだり、なんかそういうところあるかも。
そうだよね。謙虚なみたいなね。
そうそうそう。
そういうところも、普通に生きてたらなかなか見れない場所を見ながら来れたっていうのもやっぱり遺跡、
36:06
そこは遺跡たちのおかげかな、とか思ったりもするよね。
そうだよね。
姉がそういう感じで、いろんな広報とかで、超有名なミュージシャンとか、
そういったサポートメンバーとかと仲良くしてる中で、
僕はおこぼれで、その人のライブに見に行かせてもらったりみたいなことがあって。
そうだよね、いろいろあったね。
そういう意味ではすごい楽しかったなって。
本当にね、そういうことが仕事に結びついたりとかしてることも幸せだなと思うね。
いい体験をしてきましたね。
本当ですね。
でもそれを自分たちが得するだけじゃなくて、
まさしんみたいにそうやって、今から育つ寿司の子供たちに還元をしようとしたりとか、
そういうことにちゃんと結びつけてることが素晴らしいなとやっぱ思うというか、
私たち自分たちで褒め合わされてて気持ち悪いけど。
気持ち悪いね。これを聞いてくれてる人は何なんだ。
ありがとうございます。すいません。
でもそういうところはね、的には偉いなというふうにやっぱ思うし、
そのための協力だったらこの間の池子の森での子供たちが、
音楽祭の。
おもちゃをいっぱい叩いて遊んでっていうところにも、
1号機は貸せないけどこの鍵盤だったらいいよみたいな感じでね。
2号機とかね。
貸したりとか。
でもそれはやっぱりなんか、弾かないで眠ってる楽器よりも、
運とやっぱりそれをきっかけになんか楽器を習うことになった子供とかいたりすれば、
それだけで本当にその楽器も喜ぶし、
なんかそういうところにだんだんこう目線が変わっていく年代でもあると思うし。
そうだね。下の世代とか子供とかそういうなんかね、
引き継いでいくみたいなのを意識するっていうか、
やっぱり図志で育った子は音楽センスがいいとか、
なったら嬉しいなとか。
嬉しいもんね。
はい、ということで今回は湘南ビーチFMのパーソナリティでピアニストの木島和恵さんをお招きしてのトークをお送りしてきました。
いやー最後はね、なんかお互いに褒め合ってましたね。
ちょっと気持ち悪い感じでしたけど。
はい、全然酔っ払ってもないのにね。
はい、まあちょっとすいません。多めに見てください。
今日はね、木島和恵さんをゲストにお迎えしての回、
前半として自身の幼少期から社会人の大人になっていくまでの音楽活動を中心にお話を聞かせてもらいました。
来週もですね、木島和恵さんとのトーク後編をお送りしたいなと思っております。
10代からね、表舞台とか舞台裏での音楽活動を経験してきた和恵さんが、
ソロアーティスト木島和恵としての活動を開始しようと思ったきっかけのお話ですとか、
アルバム制作の裏話、そして、
寿司葉山ローカルのコミュニティラジオ局湘南ビーチFMのパーソナリティとしての番組を担当することになるまでのエピソードだったり、
39:05
ラジオ番組の裏話なんかも盛りだくさんで聞かせてもらいましたので、
来週の配信にご期待ください。
次回は来週の木曜日、11月の28日の更新を予定しております。
予告するのは初めてですね。
ということで、番組の最後になりましたが、いつものお願いになります。
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それでは今日はこの辺で失礼させていただきます。
お相手はゲストの木島和泰さんと、ずしレコの木島雅史でした。
また来週!