アルキシロスの参加
アカデメイア派、テツセカ。
この番組は、哲学を知りたい3人が知らないながらも知ろうとあがく番組です。
ハイミソです。
モーです。
トモキです。
なんかね、今の最初のやつを考えてないから、普通でいきますって宣言したと思ったら、なんかアカデメイア派ってついてるってよくわかんないですね。
だから普通に、今回話す話を大人に言っただけみたいな。
そういうこと、そういう普通。
なるほどね、テツセカ。
アカデメイアとは何かっていう話ですよね。
スタンダード、オーソドックス、よくわかんないけどね。
わかんないですけどね。
そうですか、そうですか。
アカデメイアの話をすると。
そうですね。
アカデメイア派メインというか、ストア派もすでに混じってきちゃうんですけど、
前回ね、アレクサンドロスの統制に参加したと言われるピュロンの弟子がアテネに渡ってきて、そこで結構活躍してたと言われていてですね。
その同じ頃に、アカデメイアの当時の学徒、校長先生みたいな、ザワ・アルケシラオス人だったんですね。
この人もこのアカデメイア派の中では、結構軍王といって有名ぐらいの人なんですけど。
結構実はこの間に時代が経っていて、前250年、そのぐらいに活躍した人なんで、これ第一次ポエニ戦争とか、その頃の人なんですよ。
ごめんなさい。前回のピュロンって多分アレクサンドロスの時代だから、ちょっと今見ながら見てますけど、そっから70年間ぐらい一気に開いたってことですね。
アカデメイア派とストア派の論争
一気に開いた、一気に開いた。ピュロンの直接の弟子じゃないかな。孫弟子ぐらいだった気がしますね。
ごめんなさい。ピュロンの孫弟子が今の学徒のおっさん?
違う違う違う。ピュロンの孫弟子がアテネに渡ってきて、アテネでも何も判断すべきじゃないですよみたいな、あの哲学をいろいろ説いて回ってたんですよ。
それと同じくらいの時期にアカデメイヤーの学徒だったのがアルケシラウスだよっていう説明を今しただけなんですけど。
だから、直接的にアルケシラウス、そのアカデメイヤーの人たちとピュロンの弟子筋が直接なんか関わったかどうかは、正直何ともわかんないというか。
わかんないんだけど、なんか似たようなことを言い出すみたいな感じになっていくんですね。
だからその判断・保留・エポ系みたいなことをアルケシラウスも言い出すわけですよ。
それこそプラトンに遡れば、イデアとか言ってた人たちが判断・保留・エポ系なわけですから。
やっぱ影響を受けてんじゃねえのかなみたいな。
それなりにピュロンの弟子たちの言説っていうのも、当時それなりに流行ったみたいな記述もあった気がするんで。
多少は取り入れたんじゃないのかなと思いつつ。
ただこのアルケシラウスっていう人も、もともとアテネ人じゃないんですよね。
イオニア地方だったかな。アイオリスとかなんで。
あっちのほうの人なんですね。
だからこの時代の、この第一次ポエニ戦争とか、アレクサンドルス以降のアテネっていうのは、
特にこういう国際的な都市みたいな感じになっていって、
ギリシャ中のいろんな人がほんと集まってくるし、ギリシャ以外からも人が集まってきて、
いろんな考え方のるつぼみたいな感じになって、
まさにコスモポリティスみたいな国際地位みたいな、世界市民みたいな。
そういう感じの都市になってたイメージがあるらしいんですよね。
だからどこからどう影響を受けたとかは正直わかんないんですけど、
アカデミー派も同じようなことを言い出したんだよっていう話ですね。
プラトンにしてもアリストテレスにしても、
本人たちが生きてる間に思想の変遷があるわけじゃないですか。
我々は哲学というものを後世学んでるから、
プラトンっつったらイデアだよとか哲学王だよとか、
そういう話とかが出てくるわけですけど、
プラトンのアカデミー派で学んでいた人たちは、
思想っていうのはどこを根幹としてアカデミー派っていうふうに言ってるんですか。
まさにそこですよね。
プラトン界でも言ったとおり、
プラトンの前期中期後期でだいぶ思想的な変遷があって、
イデアイデア言ってたのは、わりと中期の頃とか中期の後半がメインで、
これ以外はだんだん言わなくなってるとか。
前期の頃に逆に注目すれば、
ある意味ソクラテスのちょっと生っぽい情報みたいなところでもあるわけなんで、
プラトンを飛び越えてソクラテスに注目するみたいな意味合いもあると思うんですけど、
やっぱ無知の自覚とか不知の自覚を強調してたわけですよ、あの頃は。
そんなイデアなんてものは出てこないで、私は何も知らないし、あなたも知らないんだから。
それは判断・保留っていうところにつながっていくのは何かわかるかなみたいな感じがするんですよね。
だからアカデミー・アルケシラウスは、
当然フィロンの弟子筋たちに影響を受けたみたいなこともあるんでしょうけど、
普通にプラトンの前期に注目すれば、
判断・保留っていうエポケみたいな考え方が出てくるっていうのも割と自然なことなのかな。
あなたがそういうふうに決めつけてるのは思い込みだし、思い込みドグマみたいなね、
ドグマに過ぎませんよと言ってるつもりになってませんかみたいな。
論争の展開と影響
私も知らないしあなたも知らないし、確かなことはなかなかないし。
だから基本的には何事にも判断をくださずに保留していくみたいな。
アルケシラウスは深酒で死ぬんですけどね。
また面白い死に方の人が来た。
そこは判断・保留しなかったんだみたいな。
そりゃそうなるよね。
すげえソフィストチックな感じの話になってきたぞっていう感じがしないでもないんだよね。
そうそうそうそう。
なんかこう戻ってく感じも面白いですよね。
あんだけプラトンがバキバキに批判してたのに、行くんかいみたいな。
あとさ、我々って例えばプラトン、アリストテレスとか学ぶ時とかって、
その人たちが生きた時のことを学んでどういう思想を出したかっていうのを言うわけじゃないですか。
アカデメイヤに哲学者たちが集まって何を勉強してんすかね。
そのときの人たちって。
本当にいろんなことを学んでたんだと思いますけどね。
プラトンだけじゃないと思うし、
いろんな人たちを逆に呼んだりとかもしつつ、論戦してたんだと思うんですよね。
これってアカデメイヤってこれは何年経ったぐらい?
プラトンから何年経ったぐらいなの?
100年ぐらいかな。
100年ぐらいです。
2、3代ぐらいの人たちがいる感じかな。
アルキシロス何代目だっけな、5代目とか6代目とか、そんぐらいだった気がしますけどね。
まあ多分普通にググればすぐ出てくるぐらいの情報だと思うんですけど。
あ、そうなんだ。
だと思いますね。
でもそっか。
でもね、だんだんね、どうでもよくなってきちゃった。
どっちでもその判断を保留しようが。
しようが、あるはあるでも。
どっちでもよくなってきちゃったんだし、どうしよう。
ちょっと待ってください。ここからの論戦が始まるんで。
そうなの?なんかどっちでもいいや。
プラトンの前期に戻ればとかさ。
まあまあその辺はね。
でもだからそれは後世我々が、ミストさんがさっき言った通り、後世の我々の見立てなだけであって。
アルキシロスはアルキシロスで自分なりの考えがあって、そういうふうに考えたんだと思うし、
時代的な要請みたいなのもあったんだと思うんですけど。
アルキシロスはね、アカデメイヤに入る前には、
それこそアリストテレスのペリパトス派からも学んだりとかもしてたんで。
そもそもアテネ人じゃないみたいなところからも、
そんなに凝り固まったプラトン主義者みたいな感じではなかったんじゃないかなっていう部分もあって、
普通に判断保留エヴォケイっていうのを選んだというか、
彼の中では自然だったんじゃないのかなっていうふうは思っています。
というか、私の感想ですけど。
アカデメイ派はこんな感じ、アルキシロスっていう人がいたんですよっていうところで。
これに対して後に、次回かな、詳しく説明するストア派は、
そんな判断保留してたら何も決められないでしょ。
そもそも生きることもままならないし、
それこそピュロンみたいに崖から落ちるでしょ。
そういうふうに反駁してくるわけですよ。
しかもあなたたち、アカデメイ派とかいう立派な学園を作って、
少なくとも知者だっていうふうに辞任してるんでしょ。
その知恵のある者たちだっていうふうに辞任してるんでしょ。
知者であるというなら、ちゃんと判断しなさいよって言ってくるっていう。
本格的なストア派のバトルは次回やるとしてですね。
こんな感じで、ストア派とアカデメイ派で、
確かなことはあるのかないのかでバチバチにやり合うっていう感じになってるわけですよ。
あるはあると言い切れるのか、あるはわからないのかみたいな。
しかもそうやってバチバチに論争してたら、
お互いがお互いに影響し合って、だんだん似たようなことを主張してきて、
もはやアカデメイ派も最後のほうにはあんまり判断保留とか。
アカデメイ派とかピューロンって会議主義って言われ方もするんですけど、
疑うからね、あらゆるもの。
その会議主義的なことをメインに主張しなくなってくるんですよ、後々には。
この部分では確かなこともあるとも言えるよね、みたいな主張になってきたりとか。
確かなことはないんだけど、確かなことに近づいていく努力は必要だよね、みたいな。
ストア派のほうもそうなんですけど、だんだん論戦してる中で主張が似てくる。
もうめんどくさくなっちゃったんだよ、きっと。
いいかなって思っちゃったんじゃないの?
まあまあね、それもあったかもしれないですけど。
この時代の哲学者たちっていうのって、相変わらず哲学を生業にして生きていける人たちなんですか?
暇人なんですか、みんな。
そうだと思いますよ。この時代もまだゴリゴリに奴隷を使いながら、哲学者は哲学のことだけやるところはあったと思うよね。
なんかやっぱこう、あれがないですよね。生きる中での真剣味がないと、
結局的には運命論とかどうでもいいよみたいな、そういう方向に生きがちみたいな、そんなような印象がきました。
ほんとごめんじゃあ、それで。私が言ってることがそういうふうな感じで、ごめんなさいねって感じだね。
生きることに真剣じゃないみたいな。
いやいやいやいや、そこに自分を当てはめないでください。
その感じだよなと思って。
それは僕はもうさんのそういう部分は知らないので、別にもうさんを批判したつもりは全くないですけども、
なんていうかね、やっぱこう、君主とかさ、立場ある人間とかだとやっぱそういうふうに結論に落ち着いたら死ぬっていうのがあるから、
なんかやっぱ落ち着けないような気がするんですけど、なんかね、なんかちょっとそういう結論に陥るっていうのは立場的な部分っていうのもあるのかなーみたいな感じでちょっとふっとね、思ったっていうんですね。
全然批判とかをされたと思ってなくて、私そうだなって思うからさ。
だからめんどくさくなっちゃうわけでしょ。こんなんもういいじゃん、どっちでもいいじゃんって思っちゃうわけじゃん。
それこそ、だんだん怪獣されてお互いに恩犬になっていくのに対して、いややっぱ違うみたいな人たちがボンって出てきたりするわけですよ。
全1世紀ぐらいになってくると、アカデミアの中から、やっぱり確かなことなんてないってみたいなことを言い出す。言い切れないってみたいなことを主張する人たちがピュロン主義っていう、ピュロンの名前を掲げてそこで復興してくるみたいな動きがあったりして、会議主義をさらに先鋭化させていくみたいな。
どこの組織でもこういうのあるよなみたいな。
宗教革命の現実感って感じですよね。
だんだん恩犬になってきたと思ったら、路線対立分派が出てきてみたいな。先鋭化するみたいな。
仏教とかでもそういう話ありましたよね、確か。
ありそうですね。
そういう解釈とかの違いとかっていうところで殺し合いにまで発展したりもするわけだから。
ある種人間の毒みたいな部分なのかもしれないなみたいな感じのことも思ったりもしますね。
そうか。ごめんなさい。
次回ストア派触れるって言ったんですけど、ここでストア派さらっと触れたいんですけど。
どうぞ。
いいですか。
どうぞ。
ストア派の誕生と世界観
ストアっていうのは、さっき名前出したっけな。キティオンのゼノンっていう人が始めたと言われていて。
この人は全341年とかに生まれてるんで、結構前の人が始めたんですけど。
それこそソクラテシの弟子筋のキュニコス派とかメガラ派とかね、いろんな人たちからいろいろ教わって。
結構当時としても独自の考え、アカデミア派とかとは明らかに違うような考え方を言い出すみたいなのがこのゼノンですね。キティオンのゼノン。
その弟子、孫弟子かな。クリュシッポスっていう人が、ストア派ではやっぱり有名な人でいるんですけど。
この3代目の学頭が大きくストア派を広げるという感じになってくるんですよ。
ゼノンの時点でアテネには行っていて、アテネのストアポイキレっていうね、柱楼っていう綺麗な柱がある廊下で教えをしてたんで、
ストア派と言われるようになったんですけど。だからクリュシッポス自身もアテネでやってたわけですね。
さらっと彼らの世界観というか、自然学的な、ある系は何だろうみたいな、そういう方面の理解を先にさらっと言っておくと、
この世界はあらゆるあるもので満たされているというような感じなんで、これはパルメイデスに応えてるんですね。
つまり原子論とか認めない立場なんですよ。一応世界の外部は空虚っていうもので覆われている言い方をしていて、
世界の外部は空虚なんだけど、少なくともこの世界の内部は全てあるもので満たされてる考え方。
だけど、それでもパルメイデス的な、あるはある、不動で動かない世界じゃなくて、
ちゃんとこの現実の世界の生成変化とかも含めて、いろんな出来事をちゃんと説明したいみたいな気持ちがあったんじゃないかなっていう感じなんですけど。
この辺はプラトンみたいにイデアとかも持ち出さずに、ちゃんと現実世界を説明しようとしてて、
アリストテレスの系層とかも持ち出さないで、あるはあるっていう、そのあるは質量だっていうんですね。
アリストテレスをここで引用してくるわけですけど、アリストテレスは系層がメインで、あるっていうのは系層のことなんだよ。
エイドスのことなんで。ある意味イデアっていう。イデアが目の前にあるんだよってことを言ってるわけですけど。
そうじゃなくて、質量なんだよっていうふうに言ってくると。だから、物が大事なんだよみたいなことを言ってくるんですね。
ただ別にこれ、何ていうのかな、優位仏論的な考え方とも必ずしも違って、別に神を否定してるとかでは全然なくて。
神とかね、ゼウスとかダイモンとかね、ストア派はゴリゴリに出してくる。ある意味神様とかも物だよみたいな言い方をしてるし、魂とかも物だよみたいな言い方をしてるよね。
たぶん現代の我々が考える物っていう感覚とだいぶ違うんだろうなっていう。言わせるんですけど、たぶんその実体があるんだよっていう。手に掴める何かなんだよみたいな。そういうニュアンスなのかなっていう感じなんですけど。
だからちゃんと神様とかもあるんだよみたいな。意味合いに近いのかもしれないですけど。だからその神こそが最も純粋な物体であって、
アリストテレス寮の質量であって、その神であるものが万物の原理であって、いろんなものに神のロゴスを行き渡らせる、そんな世界観。ロゴスっていうのはいろんな意味合いが含まれていて、
もともとは言葉みたいなニュアンスで使われることが多かったんですけど、秩序とか理性とかね、意味と根拠とか。そういう意味合いがロゴスには、そもそもいろんな多元的な意味合いが含まれてるんですけど、
ある意味神から流れ出るロゴスが、あらゆる質量ものに行き渡っているんだ。だから系層と質量じゃなくて、ロゴスと質量みたいな関係になるというような考え方が、ストア派の考え方だよみたいなことが言われることがありますぐらいの感じなんですけど。
それも、だけど原子力論とかみたいに細かくしていくっていうことをしなかったってことね。しなかったしなかったしなかった。そうなんですよ。それいいやあたし、そっちのほうがいいやあたしでしょ。確かにね、お散歩にかもしれない。感じはした。
自然法則と善悪の判断
だからロゴスによって調和の取れた、この世界全体自然法則、ある意味自然法則みたいな。自然本性に支配されているこの世界はもう、それだけで善みたいな。もうちゃんと秩序だったものであって、それだけでもう善なるものなんだ感じで。
だから逆に言うと、自然法則とか自然本性に逆らうようなことは悪っていうような倫理観なわけですよ。だから彼ら的には、人間には動物や植物とは違って、理性が備わるように自然とできてるというか、自然がそういうふうに作ってくれたんだから、理性を使わないのは悪なんですよというロジック立てをしていくわけですね。
え?善とか言っちゃっていいの?もうここで初めて善って出てるね。
そうそう。だからストア派は、善とか悪とかをちゃんと判断しろっていう立場の人たちなんですよ。明確じゃんっていう。自然本性に従ってないんだからお前悪だよっていうふうに普通に言えてしまう。元の考え方がこういう自然学の根本にあるんだよっていうことを今言ってるって感じなんですけど。
攻撃的だよね、ストア派って。
攻撃的ですね。ちょっと独善的な感じはしますけど。
本当は言ってることは私しっくりくるけど。
まあまあなんかここだけだったらそんなに、まあそりゃあねこの世界は秩序だってね、なんかしんないけどすごい植物もあるし、動物もいるし、そりゃあ善でしょっていう感覚的な部分はありますけどね。
でも何、論破の仕方とかが攻撃的なの?ストア派っていうのは。
あれですよ、だってこれストイックの語源の人たちですよ。だからなんか基本的にはこう、己も立志なさい、自分も立志なさい、それに外れるものは悪みたいな、そういう感じですよね。
そうなの?やだそれ。
もうポリコレコンボでぶん殴ってくるみたいな、ほんとそんな感じなわけですよ。
何コンボ?
ポリコレコンボみたいなね、最近の言い方だと、あんまりいい言い方じゃないと思いますけど。
何それポリコレコンボって。
まあまあ、あとこれあれですよ、違う言い方をすると、自然法則に従えみたいな言い方を、これクリューシェッポスの言葉だったと思うんですけど、
内なる大門とゼウス
一切の行為が、各人の内なる大門と、全宇宙の支配者なるゼウスの意思との調和によってなされるせいこそ、幸福な人の得なのであり、せいの穏やかな流れなのである、みたいなことを言ってるわけです。
なんかこのフレーズだけでだいぶなんか、ああそういう感じねっていう。
やばい人じゃん。
一応だから大門とかも出しつつ、内側の大門と自然法則を一致させる、それは理性に従うっていうことなんだと思うんですけど。
それによって、ストア派もさっき言った通り、せいの穏やかな、魂の平成的な、そういうのをちゃんと目指してるわけです。
そこに至るには、内なる大門と全宇宙のゼウスを一致させるっていうのが大事なんだよってことをここで言ってるっていう感じですね。
言ってることはいいんだけど、それがなんかストイックになって、あれしちゃダメ、これしちゃダメって言ったらやだ。
やだやだ。やなんだけど。
やったの、その人たちが。
やったし、こういうなんかやっぱちょっと、今我々が聞くと神秘主義的にも聞こえるというか、ゼウスとか出してきたよみたいな。
ところがやっぱね、キリスト教信学とかにも活かしやすかったのかなとかってちょっと思いつつ。
当然異教的ではあるんですけど、このキリスト教信学では後にね、このストア派の考え方を用いて、ある意味理論武装していくみたいな流れもあるわけなんで。
アカデミア派とストア派のバトル
金欲的でストイックっていうのも通ずる部分もあったんだと思うんですよね。
だから常年とか感情とかに振り回されることなく、ストイックに金欲的に過ごせということで言っていて、その上で次回かな、アカデミー派とストア派が改めてちょっと具体的にどういうバトルしてたのかっていうのを取り上げたいなと思ってます。
めちゃくちゃ楽しみです。あれ、みそちゃん何読んでたんだろう今。
いやいや、マルクス・アウレリウス・アントニウムスもストア派の人なんだ、へーって思って。
あーそうね、ローマ時代のね。
どっか行っちゃわないでよ、だからもう。人の話聞きなさいよ、ほんとにもう。
でもさ、マルクス・アウレリウスとかさ、やっぱりその辺もう恩恵になってるんですね。
へー。
そんなバキバキに主張してくるみたいな感じはないですね。
そうなんだ、なるほどね。
普通にこうどう生きるべきかみたいなね、実存的な問いみたいなところが出てくる。その辺はもうアカデミー派の論争の後なんで。
そっちがじゃあ、本番ということでね、その柴木愛の本番が次回。
そうですね、そうですね。
楽しみにしましょう。
はい、じゃあ、今日も最後までテツセカをお聞きいただきありがとうございました。
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お聞きのアプリで番組フォローいただくと更新時に通知がきます。
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Twitterはハッシュタグテツセカをつけてつぶやいてください。
一心に拾いに行きます。
いろいろともきさんやみそちゃんの何か聞きたいことがあったら、ご質問もどしどし募集しておりますので、Googleホームなどを使って聞いてみてください。
何でも答えるそうですのでよろしくお願いします。
はい、わかります。
いやしかし本当はあれですね。西洋でもそうだし東洋でもそうだし日本でもそうだしどこでもそうですけども、
みんなこう何とか派とか言って分断して争いたがる趣旨がありますよね人間ってね。
本当ですよね。
なぜ争うのかと思うけどもね、そこを哲学しろよと思わなくもないからね。
くだんねぇなと、すごい身も蓋もないことを言ってしまうんですけどもね。
でもこういうのが争いがあるからこそのちの時代のね発展にも通じてるわけでちょっと難しいことではありますけどもね。
そんな感じのことを思った。
そういうのも今度の雑談会で話せたらいいんじゃないですかどうして人間は対決するのか対立するのか。
確かにね。
深いテーマですね。
深いな。
深いけどまあ考えるにはいいことですね。
わかりました。
ぜひ。
じゃあ問答法同様に楽しみにしてます。
はい。
じゃあそんな感じで終わりましょう。
はい、以上です。
ありがとうございます。
ありがとうございました。
ありがとうございました。