1. 伊藤由美子のCozy Space
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2024-02-18 25:06

第177回「ターニングポイントにおいての大切な”縁”」シネマちっく写真家:淺井 走さん(中編2)

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▶️2024年2月マンスリーゲスト

『シネマちっく写真家』淺井 走さん

▶️今回の内容(目次)

01:52  音楽活動をしてきた20代

10:32  愛・地球博での演奏

17:02  人生の谷に居た時期

22:52  起業して感じていること

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✅ 淺井 走(あさい・はしる)さん プロフィール

1980年名古屋市生まれ。幼少期、映画のカメラワークやデザインをデザイナーの父から学ぶ。映画の音楽にも興味を持つ様になり2001年にはイギリス・リヴァプール、Beatles縁の地CAVERN CLUBやGRAPESにてライブを実現。2005年には愛・地球博やチベットを訪れてライブをするなど精力的に音楽活動を行う。同時に2001年フレンチ・イタリアンの修行を経て、名古屋で飲食経営も行っていたものの、2008年、28歳の時、不景気の波を超えられず泣く泣く閉店。大手イベント企画・運営会社に就職し、その後、個人事業主としてイラスト・デザインの仕事を受けるため独立。2017年障害者福祉の会社にスカウトされ、写真/動画・デザインの仕事を中心に担当。そして2021年、株式会社Vothtory(ヴォストリー)を設立し、写真・アート活動をしている。

浅井 走さんホームページ・SNS情報

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◉愛知北FMにて

第1・第3月曜日13:00~13:30(生放送)

『伊藤由美子のCozy Space』

番組YouTubeチャンネル

サマリー

浅井走さんは、20代の頃に音楽活動をしていた経験や、飲食店経営について話しています。彼のお父さんは退職金を使って居酒屋を開業しようと思っていましたが、最終的には息子の走が店を運営することになりました。走は同い年の映画プロデューサーと出会い、バンドを組んで音楽活動をすることになりました。しかし、バンド活動は難しくなり、走は料理から音楽に転向し、イラストや絵本作りに取り組むようになりました。浅井走さんは、アートの会社「ボストリー」を設立し、絵やデザインを提供しています。彼のアートは、障害者の方たちにも提案できる手段であり、絵を描く喜びと役に立つことを感じています。

00:10
こんにちは、番組ナビゲーターの伊藤由美子です。
伊藤由美子のCozy Spaceへようこそ。
Cozy Spaceとは、日本語に訳すと、居心地の良い場という意味になります。
この番組では、居心地の良い場とは何かということをテーマに、あなたらしくいられるちょうど良い場所を見つけるためのラジオ番組です。
毎回素敵な方々にインタビューさせていただき、
ついつい夢中になってしまうことや、個性を生かして自由に生きること、そして日々気持ちよくいられるヒントなどをお伝えしていけたらと思っています。
伊藤由美子のCozy Space第177回
2024年2月のゲストは、シナマチック写真家の浅井 走さんです。
浅井走さんのインタビューは、第175回から第178回の4回に分けてお届けします。
インタビューの3回目は、音楽活動をしてきた20代のことや、起業して感じていることなどについてお話ししていただいています。
では早速、浅井走さんのお話をお聞きください。
音楽活動と飲食店経営
先ほどもイタリアの話とか、音楽の話とかちょこちょこ出てきてますけど、20代、音楽活動もしてて、それ並行して飲食店も経営されてたってことですか?
一番最初は、もともと音楽がずっと好きで、ビートルズが大好きなんですよ。
当時、ミスドカなんか行ったときに、ビートルズが流れてたんですよね。小学校ぐらいのときすごく。
で、すごい響いて、これ誰?ってちょうど時に聞いたら、これがビートルズだよって言ったときに、これがビートルズかってなったんですよ。
小学校の時にね。
その当時、CDなんてなかった時代ですよ。レコードかカセットの時代なので、聞く手段なんてないんですよね。
だから、うちのお父ちゃんにレコードを買ってとかっていうのもないし、小学校の知恵を。
ようやく見つけたのが、それこそうちの近くの声優の電気売り場にある海賊版のビートルズ。
海賊版ね。安いやつね。
1枚1280円とかで売ってる、音はビートルズっていうか、中身はビートルズなんだけど、ジャケットとかがもう違うやつですよね。
ジャケットとかが売ってたんですよ。3枚組かな。
ビートルズとエルビス・プレスリーとベンチャーズが売ってたんですよね。
スーパーとかのラックセールみたいにやってるやつですわ。
それを買ったんですよ。一番最初は。その3枚組は。
年代的には小期中期の曲が入ってる3枚組だったんですけど、それが一番最初に聞いたビートルズのちゃんとした音でしたね。
で、ピアノやってたずっと。
そうなんですか。小さい時から。
小さい時から、空手とピアノはずっと12、13年やってて。
で、ピアノをやってた時に、僕多分、ちょっとやっぱり思考が違うんで、楽譜が読めないんですよ。
ピアノやってたのに?
だからもう楽譜が読めなくて、読もうと思ったら読めたのかもしれないですけど、読もうとしてないからずっと。
聴いて覚えるんですよ。先生が聴いたのを聴いて覚えたのをやるって感じなので。
それはそれですごい能力ですよね。
だから耳コピなんですよ。ピアノをずっとやってたんですけど、最初だからレート1BとかA10とかやったら、だんだんギターが弾きたいってなってくるんですよね。
ビートルズへのめざましい道のり
ピアノだけじゃ物足りなくなってくるってなった時に、ギターが弾きたいってなったんですよ、僕は初めて。
それが中学校1年生ですね。
だからうちのお父ちゃんはまた飽きるかもしれないもんで。
ガットギターがそれこそ正月セールで4000円とかで広告が入ってたの。
これ買えって言って、お年玉で買いに行ったんですよ、一緒に。
買ったら、そのガットギターってそもそもクラシックギターで原稿が高いからコードも抑えれんし、今弾いてもむちゃくちゃ上級なギターですよ。
買って、最初はコードの練習するんですけど、弾けないんですよ、なかなか。
うちのお父ちゃんずっと見てたら、こいつなかなか本気でやろうとしてるんだなと思ったのが、
押入れに行って、エレキギターを出してくれたんですよ。
持ってる人だったの?
持ってるんです。もともとグループサンズの時代なんで、うちのばあちゃんに買ってもらったヤマハのギターを持ってて、
それを弾けと。それこそ寺内竹志さんとかの時代ですがね。
わかるかな?私はわかんないけど。
それを出してきてくれて、あっ、弾きやすいってなったんですよ。
久々に弾いたんだけど、弦が低いんで。
で、おばあちゃんのカラオケボックスがあって、カセットA、B入れるやつですね。
あったね。
2個でっかいスピーカーが下についてるやつに、シールドを挿したら鳴ったんですよ。
うわーって言って。で、うちの父ちゃんが最初に教えてくれたのが、ベンチャーズのパイプラインだったんですよ。
だから一番最初に弾いたギターの音楽はパイプラインでしたね。
ビートルじゃなくて。
ビートルじゃなくてね。
で、そこから練習して、もう毎朝やったんですよ。
そうなんだ。
音楽活動とパスタ料理への情熱
毎朝弾いてたら、中3ぐらいかな。うちの父ちゃんが、もう買ったってなったんですよね。ギター。
新しいやつをね。
で、何が欲しいんだってなった時に、やっぱりビートルズのリッケンバッカーが欲しかった。
リッケンバッカー。
リッケンバッカー売ってるところなんて、もう名古屋やったらパルコの島村楽器しかなくて、島村楽器見に行こうってなった時に、うちの父ちゃんが、
そういえばこの前中古屋さん見つけたんだわ、あつまるって言って。
で、そこ行こうって言ったら、たまたまその日の朝に売りに来た人のギターがあったのが、
それこそ後期にジョン・レノンが使ってたエピフォンカジノっていうのが売りに来たんで、
弾いてみたらしっくり来て、うちの父ちゃんがこれだって言って、それを一番最初に買ってくれたんですね。
そうなんですね。それも出会いですよね。
それも出会いなんですよ。
それを持って、ずっとギターはやってたんですけど、コピーバンドやったりとか。
20代になった時に、成人祝いに金がしたので、お前イギリス行ってこいと。
え?急だね。お父さんが言ったの?
で、イギリス行くって話になった時に、リバプールに行こうってなって、
リバプールのキャバンクラブ、ビートルズがずっとやってたライブハウスで、
ライブができるっていうツアーが組まれたんですよ、JTBから。
え、たまたま?
たまたま。ラジオで聴いたって言って。それ行ってこいってなって。
すごい情報だね、キャッチの仕方がお父さん。
ハードゲースのエプフォンカジノを持って、僕リバプールにそのツアーで行ったんですよ。
で、キャバンクラブでライブさせてもらったりとかして、っていう時でしたね。
その時はバンドとか何か組んでらっしゃったの?
高校の時のバンド、コピーバンドみたいのはやってましたけど、
今みたいにみんな上手ではない時代なので、ただ単にやってる感じですよね。
で、名古屋でヤヤヤっていうビートルズのライブハウス、
コピーバンドのやってるところがあったりとか、
今はアポロシアターがあれですけども、
昔のアポロシアターってそういうアンス・ウィンド・アンド・ワイヤーがコピーやったりとかっていう、
コピーバンドをやってるライブ結構ハウスがあって、
そういうとこに行きながら生音を聴くっていうことが結構連れてってもらってましたね。
お父さんに?
それで勉強っていうか、いろんなミュージシャンの人たちと話したりとかしてたっていう。
そのイギリスはお父さんの一言でツアーで行って演奏したっていうことなんですね。
そういう経験ができたっていうことなんですね。
で、そのあとなんかプロフィールに愛知急泊っていうあの万博とか、
チベットで演奏して、どういうことって思ったんですけど、そのあたりも。
飲食店もやってたんです、僕。
そうですよね、並行してね。
音楽がずっと好きで、僕ロスにおじさんがいたんですよ。
で、ロスのおじさんがイタリアンをロサンゼルスの中でやってて、
僕はもうおじさんのとこに行けば、
いわゆるアメリカに行けば夢が開くんじゃないかっていう、
安易なのでアメリカに行きたいってずっと言ってたんですよ。
それは高校生ぐらいの時に言ってたんですけど、
高校中退は許さんと。高校卒業してから行ってと。
で、高校卒業しますと言って、
で、大学行けるのと行けないのっては違うから、
まずは大学受けてみろと。
でもなんかどんどんどんどんそういうペースに乗っちゃって、
大学を買って結局大学行ったんですよ。
で、その時にバイトをしてたんですよ。
で、僕はもうずっとロスのおじさんのとこで、
イタリアのレストランにお世話になって、
アメリカで生活するっていう夢を描いたんで、
ペペロンチーノ一つでも作れなかったから、
イタリアのバイトをしてたんですよね。
日本で。
日本で。
ただ、パスタって面白いなってなってきて、
で、そのレストランとかで、
いろいろ社員さんとかに教えてもらうと、
ピザとかパスタって面白いなっていうのを学びながら、
うちで作ってたんですよ、父ちゃんとかに。
それが最初のパスタの気に入ってくれたところのそれがあるんですよね。
居酒屋の開業とバンド活動
で、お前料理好きなら、
俺と一緒に居酒屋やるかと思ったんですよ。
すごいパスタね。
お父さんその時サラリーマンじゃないんですか?
サラリーマン。
最初はサラリーマンじゃないです。
百貨店を辞めて、その退職金とかいろんなお金貯金とかで、
飲食業をやりたいっていうのがあったんですよね。
ちょうどそういうタイミングだったね。
だけど自分がやるんじゃなくて、
ライブハウスみたいな居酒屋があったら面白いなって、
ずっと思ってたのに、じゃあ誰がやるんだと。
お前がやると。
全部だから、僕に振るうんですよ。
だけど、いやいやってなるのが普通なんですけど、
僕も面白いなってなっちゃったんですね。
え、どういうこと?って言って。
居酒屋なのにライブできんの?みたいな。
だから何かとこのままでようって。
よくやるかい、ああいう落語とかな。
シャミセンの演奏とか。
それをライブやるんだって。
それ面白いなって言って。
それ作ろうってなって。
で、僕も料理の修行を一生懸命やって、
で、2001年に作ったんですけど、
その2001年に作る前に、
もうこのまま店出しちゃうと、
海外旅行も行けんから、イギリス行ってくる。
そういうことなんですね。
音楽をやりながら居酒屋を経営してたんですね、家族経営で。
その時にたまたま僕が自分で曲を作ってたのを店で流してたんですよ。
そしたら、この曲誰の曲ですか?って言ってきた、
僕の同い年の子がいて、
僕も曲作るんですねってお客さんだったんですね。
よく来てくれるお客さんっすね、みたいな。
どういう曲作るんですか?って言ったら、
その子も今の映画のプロデューサーをやってたりするわけですよ。
すごい音楽、むちゃくちゃいい音楽を作ってたんですよ。
映画のサントラみたいな。
うわー、すげーなーと思って。
2人で作ってみましょうよって言って、
同い年だったんで、2人で会うことになったんですよ。
夜2人で会って、いろんな曲、僕はギター持って行って、
その子はシンセサイザーとかそういうDJみたいなの持って行った時に、
むちゃくちゃフィーリングがあったんですよ。
なんだろう、この面白い科学融合。
バンドやろうぜってのがあったんですよ。
飲食店もやりながらバンドやろうぜでね。
その子と一緒にユニットをやろうってなって、
曲を作り始めたのがアルターホールっていう音楽だったんですよ。
その音楽をやっていく時にコンセプトを決めたり、
その子はフィリピンのスモーキーマウンテンとかにボランティアに行ったりとかしてて、
もっと世界が豊かになるというか、
もっと貧困をなくすためにはどうしたらいいかっていう研究を大学院とかでしてたので、
僕も戦争反対じゃないけど、やっぱりジョン・レノンの魂が響いてたところだから、
そういうのを訴えられる音楽を作ろうぜってなってから、
世界平和だったり、そういうイベントでライブをやるようになったんですよ。
それが愛知球博にもつながるの?
愛知球博で話があったのが、結局そういう世界平和じゃなくて世界が良くなるようにっていう音楽のコンセプトだったので、
料理から音楽への転向
会場でライブやらないかって話になって、
めちゃくちゃ面白いねって僕の相方経緯で話が来て、
それをやるようになったのが愛知球博でライブをやったっていう実績ですね。
そうなんですね。その後その方とはどうなったんですか?
その後、2005年にそれを結成して、数年間はそういうライブをやってたんですけど。
お店やりながらね。
お店やりながら。で、その時にたまたま僕が仲良くなったバンドは、
メジャーにどんどん行っちゃったんですよ。
僕ら中途半端というか、音楽だけに専念できてなかった部分があったので、
全国にライブしに行くとか、やっぱり難しかったんですよね。
そうですよね。お店やりながらとなかなか。
ってなるとやっぱりファン層拡大もできなかったから、
結果的に音楽としてちゃんとやるっていうことが難しくなっちゃったから、
そこは一回やめようってなったのが2008年、9年ですね。
で、自分の店もそこで閉店。
飲酒運転の取り締まり、住金の取り締まりとかっていうのが、
飲酒運転して帰る人がいたわけではないけど、
警察がこうやっていろんなところで検問とかをすると、
やっぱり流れが全部変わってきて、飲食店がすごい、
食べに行こうっていう空気がなくなっちゃった時代になったんですよね。
で、結局そこからどーんとやっぱり経営も難しくなってきて、
一旦閉めたのが僕が28、29の時でしたね。
2008年とか9年とか。
大変だったと思うんですよね、今からお話を伺うと。
お店閉店時点、そのバンドも縮小していったっていう感じなんですよね。
でもそこでまた違う展開ってやっぱり起こるじゃないですか。
その時はすごい大変だとか、人生の山あり谷の時って、
何かの次があるからその部分に入るっていうことってよくあると思うんですけど、
今それ振り返るとどういう時期だったと思います?
断捨離でしょうね。
僕らの中では。
僕がやりたいやりたいばかりなんですよ。
どうにかして世に出る手段ってないのかなっていうのが、
良い意味で言えばハングリーなんですけど、
悪い意味で言えば中途半端なんですよ。
だから飲食、飲食だけやってりゃいいのに飲食から音楽もやるし。
で、僕書もやってたんですよね。
メニュー書いてたら書が面白くなっちゃって、
高山とかのブランドが書書いてくださいとかって言われて書いたりとかのやってたりとかしたら、
書も好きで、イラストも書いてて。
お前何がやりたいの?っていうのが多分その当時の周りの人が思ってた僕だったんですよ。
器用貧乏ってのもあると思うんですけど、
全部やりたくなっちゃうっていうのがやっぱあって、
自分のやりたいことは1個ずつ消していかなあかんなと。
その時に、料理はもうやめよう。音楽はもうやめよう。
で、書とイラストをやる時に、別に僕書道家でもないから、
独自のメニューを書いたやつだけなので、
書を今後主軸にするのもちょっとちゃうなってなった時に、
絵だったんですよね。消去法で。
絵をちゃんと極めよう。絵でちゃんとご飯を食べるなと思った時に、
どんな絵が受けるのかなと思った時に、
僕ロックが格好だったり、ロックが好きだったから、
結局、骸骨とかスカルの絵をずっと書いてたんですよ。
で、それを書いたり、いろんなの書いて、それをポストカードにして、
クリエイターズマーケットとかのそういうマーケットに月に1回出るようにって言って、
12ヶ月、もう12、3箇所をやってたんですよね。
その時に、だんだん売れる傾向のポストカードが分かってきたんですよ。
それが、猫の絵。絵本のテイストだったんですよ。
こういう絵が世間から僕に求められてるんだっていうのが分かった時に、
絵本を書こうと思ったんですよ。
イラストや絵本作りへの取り組み
で、絵本のようなテイストの絵本の絵をずっと書き続けてやってたら、
アサリさんこういう絵を書けますかとかっていう話がどんどん来るようになって、
個人事業主としてそういう絵を書くっていうことがちゃんと、
それだけ稼ぐまではいかなかったですけど、
ちゃんとお金にできるようになってきたんですよね。
アマチュア、アマプロみたいな。
それをずっとやり続けて、イベントをやり始めたんですよ。
それが、僕ビックリマン世代なので。
ビックリマンね。ビックリマンチョコのビックリマン?
ビックリマンのキラキラシールみたいなのを子供に塗ってもらって、
それをキラキラシールに加工してプレゼントするっていうのをキャラ版でやってたんですよ。
で、そういうのをやりながら、
イラストとか絵ってやっぱ俺の中で大事な要素なんだ。
それをやってた時に、また話がずっと飛ぶんですけど、
居酒屋のやってたお客さんが一人介護福祉のお仕事をやって、
6期、7期目で大きくなるから兄ちゃん手伝ってくれって言って、
僕は障害福祉の会社に行くようになったんですね。
で、障害福祉の会社でイラストとかいろんなのを描きながら、
例えば障害児の子たちに、
これはいいんだよ、悪いんだよっていうイラストで示したりとかっていうのをやってた時に、
どんどんどんどんそういった人事採用も僕がやれるようになっちゃったから、
人事採用をやりながらイラストをやって、クリエイターやって、動画作ってとかっていうのをやってたんですよ。
これで一つの節目がまた出てきて、
独立っていうのを考えたのがあったんですね。
それが2021年、3年前ですね。
2021年の時に独立してやってみよう、だけどやっぱり絵が好きだから、
アートの会社「ボストリー」の設立
障害者の方たちに絵を教えるってことだったり、
その障害のことで会社に対して僕が何か貢献できる、絵で貢献できることがあるならやりたいなと思ってて、
今でもそういった業務委託をもらいながらやってるっていうのが今の現状になってきてる。
で、絵をずっと仕事にしてたんですよね。
絵を仕事にしてたんだけど、出てきたのが、僕が絵の会社を作ったんです。
アートの会社、ボストリーっていう。
だからイラストを描きます、デザインを描きますっていうんじゃなくて、
僕の絵を気に入ってくれたところに絵を描く。
僕のアートを気に入ってくれた人にアートを提供するっていうような会社で、
一見日本では難しい、ちょっと曖昧なアートっていうものなんですよ。
でもアート志向っていって、やっぱり普通よりも何か、
みんな、世間一般に響くような考え方だったり、
そういうものを大事にする思想を、例えば理念だったりそういうものにもって、
いろんなトライをしていくような、取り組みをしていくようなものをやりましょうっていうのをコンセプトに会社経営を始めたんですけど、
やっぱり日本ってハードルが結構いろんな部分が高かったので、
なんとかもうちょっとアート、絵よりも、
取っ掛かりやすいものは何なのかって思った時が、写真だったんですね。
っていうところに全部つながっていくっていう感じですね。
2021年にBOSSTORYっていう会社を立ち上げたっていうことで、今2年ちょっとになるんですかね。
3年かな。
あ、3年になるんかな。楽しいです。
楽しいですね。
だから僕今障害の方たちに絵を教えたりっていうのをやりながらしてるんですけど、
それこそ抽象画だったり、僕が今まで描いてきたイラストのこういうふうに描いたら、こういうふうに塗ったらっていうのを提案できたりするので、
その人たちがやっぱり手が動かなかったり、口でしか描けない。
手もやっぱりなかなか自由に動かないっていう方たちがいるんですけど、
その人たちに合った画材だったり、絵のテイストだったりっていうのがあるんですよね。
またその人たちに描きたいものもまたあったりするので、
なんとかして描きたいものを描ける手段でどう表現したらいいのかっていうのをやっぱりトライしていく。
っていうのって発見だったり成長につながるのでむちゃくちゃ面白いんですよ。
何よりも、絵が描きたいって思ってくれることってすごく嬉しくて、
みんながみんなアートだったり絵が好きだったりするわけではないと思うんですけど、
今までできなかった一つの表現をプラスで日常にできるようになるって結構広がるというか、
っていう部分に僕は携われているのはすごく今充実しているっていうのがありますね。
自分が本当に心から楽しいとか、自分が役に立っているっていうところが感じ取られるのがベースにあっての、
そういったことって嬉しいですよね。
そうですね。
それも障害福祉の会社の方から声がかからなかったら今の状況がないってことですもんね。
そう。でも考えるとやっぱりそれぞれのターニングポイントの縁なんですよね。全部。
だから僕が僕でこういう風にしたいと思っているよりも、その流れでこうすべきなんだなっていうのがちゃんと節目節目にあって。
だからね、障害福祉のお仕事のお話だって自分が求めていったわけじゃないじゃないですか。
絵を提供し、障害者の方たちに喜びをもたらす
でも向こうからやってきてその流れになったんで流れに乗ったっていうことですもんね。
なんか必然っていう感じ。
でもそれが別に嫌だったら続かないですし、嘘つけないんで自分の気持ちに。できなくなるんですよ。
でもそれは自分も楽しいとか、周りの人が楽しいと思ってくれてる時点で、それは一つの道なのかなと思うので、それは大事にしたいなと思うんですね。
なんか私の場合だと建築関係が多いんですけど、今までの仕事で。
いろんな会社行ったものの建築とかインテリアコーディネートの仕事をやってきた年数は長いんですよ。
でもなんか別に一個のことをずっとやり続けるのも、それはそれでとっても面白い人生だと思いますけど。
アサイハシルさんにご登場していただきました。
次回も引き続き、アサイハシルさんに仕事の向き合い方や、アサイハシルさんにとっての居心地の良い場についてお話していただきます。
番組をまた聞きたいなと思っていただいた方は、Podcast音声アプリのフォローボタンをポチッとしていただくと、新しく配信されたものがスムーズに聞けますので、番組登録をよろしくお願いします。
この番組は音楽事務所ロイスタープロダクションの提供でお送りしました。
それでは次回もお楽しみに。伊藤恵美子でした。
25:06

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