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YCAMぐるぐるラジオ Season2
7月29日土曜日、山口情報芸術センター YCAMからお届けしております。
現場にいるのは、YCAM教育普及担当の昆野と、山岡です。よろしくお願いします。
このラジオでは、YCAMのスタッフがナビゲーターとなって、
YCAMに訪れるさまざまなクリエイターをゲストに迎え、
一緒にテクノロジーのこと、アートのこと、生活のことについて、
さまざまな問いを立てたり、悩みを相談したり、
そんな頭をぐるぐる動かしている様子を発信しております。
ぐるぐる動かしているんですよ。
7月29日ということで、夏も本番、夏休みも始まって。
めっちゃ暑くない?
暑い。
暑いよね。
ちなみに山口は、7月入ってからすぐはずっと天気が崩れていたりして、
全然暑くないな、雨だな、雨だな、雨だな、どん!みたいな感じで。
雨だなのさ、大雨だよね。
そうなんですよね。細雨とかじゃなくて、わー!みたいな。
あれやめてほしいよな。
あれちょっとびっくりしますね。
そういう極端な天気の中で、なんとか頑張っております。
今日もよろしくお願いします。
元気にね。
元気に、はい。
シーズン2からはYouTubeでも配信、公開収録の様子を配信しています。
見えてますかね?
YouTubeの配信は、YCAMのウェブサイトからアクセスしてもご覧いただくことができるので、
もしこの今放送を物理的に聞いているよ、YCAMで聞いているよ、
でもちょっと移動したいな、みたいな人がいたら。
これから車で帰るぞ、みたいな。
そういう場合は、YCAMのウェブサイトの方をチャチャっとチェックしてもらって。
はい、聞いていただくこともできます。
ちょっとコメントもね、我々が気づけるかっていうのはかなりあるんですが、
もしコメントいただけたら、気づけ次第反応していこうと思うので、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
また今日の内容なんですが、デジタル配信サービスSpotifyで、
ポッドキャストの形式で順次公開予定です。
Spotifyの方にはこれまでの回、だから2022年からやっているんですけれども、
その全部の回がSpotifyで無料でいつでも聞いていただくことができます。
暑いからね。
聞いて欲しい?
聞いて欲しいよ。
聞いて欲しいよね。
聞いて欲しいし、もちろん夏のレジャーで海に行ったり、遠出したりってこともあると思うので、
車の音もだったりとか、暑すぎてマジで出られない時は全然家で聞くのにもいいんじゃないかなと思うので。
どういう時に聞いてるんだろうね。
寝る前とかだったらさ、照れるね。
寝る前、自分もラジオ聞くからな。
需要あるんじゃないか。確かに言われてみれば照れますね。
おやすみみたいな。
でもいろんなところで聞けるのがラジオの手軽でいいところだと思うので、ぜひ聞いてみてください。
詳しくはお使いのウェブブラウザで、YCAMぐるぐるラジオと検索してみていただければと思います。
これもちょっと追加情報で、最近Spotifyのみの特別コンテンツということで、放課後ぐるぐるラジオっていうのの公開を始めました。
YCAMぐるぐるラジオ自体結構緩めではあるんだが、さらにその放課後みたいな。
さらに裏話的な感じの話を。
裏の裏ってこと?表じゃなくて。
前の公開収録の回の感想をスタッフだったりとか、放送界の関係している人と一緒に話すみたいな。
聞いてみてどうだった?
みたいなのをタイトルとして放課後ぐるぐるラジオとつけてやっていて、1個もうすでにアップしています。
ちょっと日本語と英語をごちゃっと喋る。
なんかもう訳したりとかせずに、ごちゃごちゃっと2つの言語で喋ってみようっていう回が1個上がってるので、
ちょっとそちらなどもチェックしてみていただいたり。
だから公開収録とかYouTubeで毎回見てるから大丈夫だよって方もいるかもなんですけど、
スポティファイの方もぜひちょっとチェックしてみていただければなと思います。
スポティファイで検索。違う、YCAMぐるぐるラジオで検索だ。
そう、YCAMぐるぐるラジオで検索してみてください。
じゃあ早速今日のお品書きいきたいと思います。
今日もいつも通りゲストインタビュー。
YCAMや山口にまつわる様々な方をゲストにお招きして、
普段の活動やその裏側を教えてもらうコーナーです。
裏側だけじゃなくて、今考えてること。
そういうなかなか聞けない話が聞けるといいなと思ってやってるコーナーなんですけど、
今回はYCAMで今年の2月、だから2023年の2月に行ったイベント。
「私もアートがわからないVol.3」イベント
私もアートがわからないvol.3、わからないの重さを測るというイベント名なんです。
そうなんです、めっちゃ長いんですけど。
私もアートがわからないのvol.3、だから3回目。
はい、3回目。
わからないの重さを測るってタイトルが。
というイベントを行ったんですが、そこで講師を務めていただいた俳優で批評家の渡辺圭一郎さんに、
イベントの後に感じたこととか考えたことなどについてお話いただきました。
さらにこれまでの回、ラジオのゲストの方々から結構いろんなお悩みというか、
これってみんなどうしてるんだろうみたいなのをいただいていたので、
それについてもぐるぐる一緒に考えていただいております。
ゲスト同士でもぐるぐる質問をパスしてる。
そうそう、今回を超えたそういうコミュニケーションが起きてるから、
ちょっとそれも聞いてみていただければなと思うんですが、
ちなみに渡辺さんの出演分は全て事前収録となってきます。
今日はワイコミにいるわけじゃない。
ないんですけど、我々が高槻の方も遊びに行って。
蝉が鳴いてたね。
蝉が鳴いてましたね。あの頃から夏は夏とか。
始まってたよね。公民館で撮ったんだよな。
あとこれまでさ、これからイベントがあるぞっていうゲストが多かったけど、
今回の渡辺圭一郎さんは、さっきも言ったように今年の2月、
もうすでにイベントを行った後なんだよね。
あの時振り返ってどうだったかっていうのを思い出してもらいたい。
そういうのを聞いていけると面白いんじゃないかなという、
最近気づきがありまして、ちょっとそういう意味でも渡辺さんの話を聞いてみたので、
ぜひみんなで一緒に聞いていきましょう。
もう一つのコーナー、ぐるぐる相談室。
YCAMぐるぐるラジオ宛てに届いた疑問・質問・お悩みをみんなでシェアして
一緒に考えてみるコーナーなんですが、募集中です。
みんな?
そう、みんな。お悩み募集中です。
待ってます。
なんでも大丈夫ですよ。
今回はゲストの渡辺さんから、渡辺さんが本当に今活動の中で直面していること、
相談というかちょっと開いてみたいこと、みたいなのをいただいているので、
それを一緒に聞いていきましょう。
聞いてみたいことがあるんだね。
そうなんです。
もちろんこのラジオをお聞きの皆様からの疑問・質問・お悩み、
大々大募集中なので、引き続きそちらもよろしくお願いします。
悩みない可能性あるよ。
だからそれは良いこと。
それは良いことだけど、
例えばこれから出てくる渡辺さんの悩みとかに、
これでいいんじゃないとか、こういうやり方あるんじゃない、
みたいなのもお便りで欲しいなと思っているので。
それいいねだけでもいいの?
それいいねだけでもいいです。
いいね。
嬉しくなるので。
なるほど。
聞いてくれてるって思うんだ。
ぜひよろしくお願いします。
それでは早速最初のコーナーに行きたいと思います。
ゲストインタビュー。
すいません、ここだけいつもアナログでやらせていただいております。
最初にまず簡単に渡辺さんのプロフィールをご紹介させていただきます。
お願いします。
渡辺健一郎さん、俳優・批評家。
1987年生まれ、横浜市出身。
俳優にとって自由とは何かをテーマに、
俳優として試作と実践を重ねられています。
横浜シアター京都リサーチプログラム。
子どもと舞台芸術。
2019年、2020年度リサーチャー。
著書に自由が上演される講談社2022年があります。
得意料理は春巻きだそうです。
得意料理を教えてくれる。
この得意料理とか春巻きの話は、実はこれからの収録文でも話してたりもするので、複選です。
そうなんだ。
プロフィール文に得意料理入れるのいいね。
このプロフィール文は、ちなみに前回ご出演いただいた時から更新された内容もあるので、
ただ更新される前から春巻きへの言及は、鉄板なんだと思います。
今回は私、こんのと山岡さん2人で渡辺さんとお話ししてきました。
さっき言ってた高槻の公民館でお話ししてきました。
その様子をお聞きいただきたいと思います。
これからお聞きいただくのは、グルグル相談室も合わせて4つ収録音源があるんですが、
すべて7月6日に収録されたもので、
やはりちょっと事前収録なので、一部お聞き苦しい箇所などがちょっとございますが、
あらかじめご了承いただければと思います。
アートの分からなさ
お願いします。
まずはじめに渡辺さんの方から簡単な自己紹介と、
そのイベント、さっきも言った長いタイトルなんですが、
私もアートが分からないVol.3、分からないの重さを測るについて、
改めて思うところ、感じるところ、それを起点に分からない、対話って、みたいな。
今も分かってなさそうだな。
すごく壮大な大きい話をいただいてきたので、みんなで一緒に聞いていきましょう。
分かるって何だろうな。
分かるなんて簡単に難しいですよね。
それを一緒にちょっとみんなで聞きながら、頭ぐるぐるしていきましょう。
それでは、どうぞ。
私もアートが分からないVol.3、分からないの重さを測る。
講師を務めていただきました渡辺謙一郎さんです。
よろしくお願いします。
講談社の出版社でやっている群蔵という雑誌で、評論賞みたいなのがあってですね。
それに応募したらたまたま通って、その文章をこのYCAMのメンバーが読んでくれた。
それで面白いぞということで読んでもらった。
でもなんか私は講師みたいな立ち位置ちょっと厳しくて、
私は本当に分からないまま作品を見ているとか、分からないけどどういうことだろうみたいなことをずっと考えている人だったので、
なんかタイトルが良かったんですよね。
私もアートが分からないって言ってくれて、
ああ、私こそ分からないみたいな。
それだったらなんか講師っていう役回りもできるかもしれないと思って、
2つ返事で受けちゃったんですけど。
これもタイトルが、私はアートが分かるだったら受けてない。
そうそう。アートの見方を教えますだったら受けてなかったかなとは思うんですけど。
タイトル良いなと思って。
実際にやらせてもらって、タイトルに甘えたというか、分からなすぎて、
言ったら2時間本当に分かりませんねみたいな雰囲気で常に進行するみたいな。
これがやっぱり、もう少しなんか手がかりくれよとか思った人にとっては、
ちょっと不満というか不安の残るパフォーマンスだったんじゃないかなというのは、
自分でも思うんだけど。
よしよしあるとは思っていて、
もうちょっとやり終わったなとは思ったのは、
ある意味ではちょっと失敗というかしたなと思ったのは、
やっぱりどういう空気なんだろうというか。
このYCAMに来てる人たちがどういう人たちなんだろうとか、
なんかそういうその観客のことをちょっと意識しすぎたみたいなところがあって、
例えばだから私が本当に奥底で悩んでいるマジ分からなさみたいなものを、
マジ分からなさ。
対話と学びについて
それをなんか多分そのまま出してもついてこれないだろうというか、
本当にポカンとしちゃうだろうなみたいなこととか。
あるいはですね、なんか嫌な気分にさせちゃうかなとか。
ちょっとまあ難しいんだけど。
ちょっとだから忖度が働いてですね。
中途半端だったんだよね。
なんか分からなさ、私の本当の分からなさみたいな部分に、
なんかあの時間でアプローチできなくて。
というなんか自分の中でも若干の消化不良みたいなものがあってですね。
なるほど。
今も多分ちょっとこう様々な配慮を、
なんかもしかしたらしちゃってるのかもしれないけど。
物質家に聞こえるだろうなって思っちゃうんですよね。
物質家ね。
でもなんか自分の中ではネガティブな感情があるわけじゃなくて、
ただなんかこうこういうところがなんかもうちょっと改善できるんじゃないかみたいなことって、
すごいポジティブに考えている。
あなたたちダメだよとか、このやり方ダメだよみたいな。
例えばあれだ、演劇の終わった後に感想とか書くじゃないですか。
あれとかも私結構すごい書いちゃうんですよね。
で多分それを読んだ人って、
わあなんか色々言われたみたいな感じで、
嫌な気持ちになるかもしれないんだけど、
なんかもっと考えられるところがあるかもしれない、
一緒に考えていきたいみたいな、
なんかそういう気持ちが多分どっかにあるんですよね。
物質的に聞こえることを言っちゃう時に。
そういうことをなんか今日言っていきたい。
対話っていう言葉への不安があるんですよ。
自分の本でもね、対話、コンセンサスにちょっと会議的な視点を出したんですけど、
最近もちょっとね集団捜索、
演劇なので集団捜索とかをしている中で、
やっぱ対話重要だよねっていうことで色々対話をしていくんだけど、
イメージとしてみんなで話し合いながら物事を進めていくみたいなイメージあります。
それはもちろんその方がいいとは思うんだけど、
しかしその対話ということで前提となっているロジックとか、
対話だったらこれはまず抑えておくべきだよねみたいな空気であるとか、
名言はされてないけれども、
共有されている何事かみたいな、
そういうものが必ずルールが存在して、
このルールにそぐわない意見は、
ちょっとそれはみたいになっちゃう、どうしても。
これはなんか別に悪いことじゃなくて、
本当に何でもかんでも言っていいみたいなことになったら、
本当にめちゃくちゃになっちゃうから、
何らかのルールはどうしたって必要なんですよね。
でもそのルールもどこかではやっぱり考え直さなきゃいけないはずで、
そのルールにのっとっているとこぼれ落ちちゃう意見ってのは多分無数に存在するから、
それをいかに、そこへいかに開くかみたいなことの方がおそらく重要で、
でもなんか対話とかコンセンサスとかっていうことがもてはやされる場合には、
どうしてもそこのルール自体にはあまり言及されないなという感じがしている。
ちょっとそれで思い出したのは、
ちょっと遠いかもしれないんだけど、
ブライアン・ウェイという演劇教育の走りみたいな一人の人がいるんですけど、
ドラマによる表現教育っていう本を書いていて、
それの冒頭にね、
目の見えない人のことを知るためにはどうすればいいか。
それは知識とか云々とかっていうことよりも、
目隠しをして歩いてみたら一発でわかるやないかみたいな、
そういう書き方がされているんですよ。
体験したらわかるでしょっていうことが言われているんだけど、
伊藤阿佐って東高大の先生で、
体のこと、質問のこととかと、
哲学と結構結びつけて書いている人なんですが、
この人が目の見えない人は世界をどう見ているのか。
伊藤阿佐の目の見えない人はどう世界を見ているのかでは、
もう見えないっていうことで、
なんか世界との接し方がまるで違うんですよね。
だから、我々は富士山を思い浮かべてくださいっていうと、
その表面的な、よく…
絵文字みたいな、なんか…
確かに、あとは…
三角形の…
風呂場とかで想像するような、
ああいう平面の富士山とかを想像するけど、
目の見えない人に富士山をイメージしてって言ったら、
確実に立体で表現するみたいな。
そう、表面的な富士山みたいなものの意味がわかんない。
これはもうなんか、当たり前の話というか、
もう体の構造が違うというか、認識の構造が違うというか、
この二人で富士山について話し合ってて言われても、
もちろん、私には富士山はこう感じられるっていう、
すり合わせとかはあるかもしれないけど、
まず、富士山っていう単語からイメージされるものが、
二人でもまるで違うっていう場合に、
しかも、一応ね、私は立体で見えてますとか、
私、表面です。
でも、目が見えてない人には表面みたいなことにもなりかねない。
ちょっとこれはかなり私の要約というか、
言い換えがあるけど。
その場合に、この二人が富士山について何か対話ができるかみたいな。
対話っぽいものはたぶん成立するが、
何か分かり合ってるみたいな状況にはおそらくならない。
でも、そのことがたぶん大事なんですよね。
対話ということで、
分かり合えない何事かみたいなものは分かるみたいな、
なんかそういう仕方で。
ちょっとそれで満足するのも良くないとは思うんだけど。
そうですね。
なんか想像してた富士山って、
遠くから見ている富士山だなと思って。
確かに世界の捉え方がそもそもちょっと違う。
二次元的に。
遠くから見てるんだけど、
絵で描いたりとかできたりする。
その二次元的なものと三次元で捉えてるって、
そもそもその捉え方が大きく違う。
絵が違うっていうのだと、
スタートの時点でちょっとずれちゃう感じがしますね。
ゆえに、だからさっきのブライアン・ウェイの、
目を閉じればそれが体験できるっていうのは、
かなり嘘で。
分かったつもりになれちゃうっていう、
すげえ危うさがある。
ある程度のところまでは分かる、きっと。
だから全くの意味だっていうふうには言わないけど、
しかしそれは、
全部理解できてるってこととは全く違うから、
そのことが意識されないと、
対話とか分かり合うみたいなことは、
相当危ういぞっていうふうにはやっぱり思っちゃう。
なるほど。
ちょっといくつか対話をめぐっての対話になるんですが、
哲学対話っていうのが最近流行りで、
いろいろ払って話しましょうぜっていう。
この時にルールとしてよく設定されてるのは、
哲学用語使うなとか、
哲学者の生山出すなとか、
つまり知識で会話するなみたいなことが、
よく言われるんですよ。
それはよく分かる。
哲学用語で会話をすることが目的になっちゃうっていうことが、
研究者の間とかではよくあって、
確かに用語で応集して、
その解釈違うよとかっていうのが楽しいってこともあるから、
それで盛り上がっちゃうっていうのは分かるけど、
でもやっぱり目的そういうことじゃないから、
哲学用語を一旦なしにするっていうのは大変分かるんだけど、
でも僕なんかは哲学を経由することで見えてきた世界とか、
分かってきたことっていうのも本当にいっぱいあるから、
なんか紹介したいなみたいな気持ちもあるわけです。
そこを封じられると、
じゃあ何が喋れるんだろうみたいな気持ちになっちゃう。
哲学用語じゃなくて自分の体験で喋ってねって言われたりするけど、
本読んだのも私の体験だけど、
みたいな気持ちになっちゃったりもするんですよ。
だから哲学用語で会話することが目的ではなくて、
あくまで手段としてそれが使われるんだったら、
もうちょっと許容されてもいいんじゃないかなとは思うんだけど、
でもたぶん集団内に2人そういうの喋れる人がいたら、
もうそこで盛り上がっちゃうみたいなことにもなりかねないから、
だから苦渋の決断でたぶん、
哲学対話のファシリテーターもいろいろ試してみた結果、
哲学用語を使わないっていうことに落ち着いたんだとは思うんだけど、
哲学対話
でもなんか哲学用語を使わないことを目的にはしない方がいいよなとは思う。
目的はそこじゃないですね。
なんか哲学対話ってテーマを設けて、
例えば愛についてみんなで考えようみたいなことを話し合ったりする場だけど、
確かにその哲学者がこう言っていたを、
知識を披露するっていうことが目的になっちゃうと、
場の目的とずれちゃうっていうのがあるから、
今もしかしたらそういうルール設定になってるかもしれない。
これが言葉を開くっていう時に、
勘違いされやすいことなのかなと今思って、
言葉を開くって、
みんなが日常的に使ってる語彙を使うっていうこととは違うと思うんだよね。
面白いですね。
もしマニアックな用語とかが出てきたとしても、
これは私たちの業界ではこういう風に使われていてみたいな、
そこで共通了解、何らかの共通了解っぽいものが得られるならば、
前提として喋っちゃってもいいとは思うんだよね。
置いてけぼれにならないならば。
仮にあるいは置いてけぼれになったとしても、
なんかわかんないけど面白そうだったなって思えば、
後で調べたりとかもできるかもしれないし、
相手がこれは伝わらないかもしれないなっていろいろ配慮をすることで、
逆にどんどんみんなが何も喋らなくなるみたいな事態はあり得るから、
確認の罠
オーカリスクながら何かしら新しい気づきがある時って、
何らかの置いてけぼりが発生しているというか、
自分の範疇外みたいなものが見えたから、
新しいなとか調べてみようかなって思うと、
じゃあ特に私とか山岡さんとかが教育普及として、
分かりやすくするとかってなんだっけみたいなのは、
日常的に思うし、それが最初にけんけんさんが言ってくれていた、
観客を意識しすぎちゃう。
観客を意識するっていうのは、
おもねるとか、忖度するとかっていうことでもないっていう。
演劇の上演する時も、演出をする時にも、
これぐらいは説明してあげないとダメなんじゃないかみたいな。
説明説明になって、何も新しい発見がなされないというか。
ああ、なんか全部分かったみたいなことで終わってしまうならば、
あんまり意味ないみたいな。
そういうことは常々思うなという。
特に大人になってからの学習って、
確認で終わっちゃってるときがすごく多い気がして。
確認で終わっちゃってどういうこと?
分からないものに対峙しない状態を安心とするなら、
新しいことを学習してるつもりでも、
自分の中にもともとあったものを確認する作業だけで、
何か勉強したぞっていう気持ちになっちゃってることが。
知ってることを反復する。
反復、そうだね。
確認する。
反復するとも言えると思う。
モチベーションとしては新しいことを知ろうとしているはずなのに、
意外と自分の境界線から飛び出てないところで、
何かし終えたみたいな気持ちになっちゃってるときがあって、
自分はこんなに臆病だったっけなって思ったりする。
はい、お聞きいただきました。
自己紹介&イベントどうだった?&対話と学びについて。
って感じですかね、タイトルをつけるなら。
すごい濃厚な話だったね。
濃厚でした。
ケンケンさんとの出会い
山岡さんが音声の中でもうんって言ってるところで、
こっちで物理的にも全く同期してうんって言ってるシーンがあって、
今同じ感情になってると思ってびっくりしてます。
すごいね、録音されてるのにね。
音源の中で何回かケンケンさんケンケンさんっていう風に、
私も山岡さんも言ってたと思うんですけど、
これは渡辺謙一郎さんのあだ名です。
そうですね。
このケンケンさんとの出会いの話が、
ケンケンさん本人からもかなりざっとはあったんですけど、
かなり面白いというか、興味深いというか、不思議な出会い方だったんですね。
なんかまず、今ここにいないけど、
もともと教育普及のスタッフだった原泉さんっていうスタッフがいて、
今は東京に行った。
今は東京で働いている。
その原さんが受け持つイベントとして、
私も渡辺がわからないっていうのがあると。
そこのゲストにどんな人を呼ぼうかっていう話を、
この教育普及のチームでしてた時に、
自分が読んでいた本で、
群蔵っていう雑誌、批評誌なのかな、本があって、
その中の演劇教育の時代っていう論文が掲載されていて、
それ読んですごく面白かったんだよね。
それ書かれている渡辺健一郎さんという人を呼ぶといいかもっていうので、
原さんにオススメし、
そこに同席していた私が、名前とアーシャを見て、
この人知ってるかもしれないってなって、
ツイッターなので、今はXか。
今はXだね。つい最近Xになりました。
当時ツイッターなどでご連絡を取ったところ、
渡辺健一郎さんは私の高校時代の先輩。
すごいよね。狭くない?
狭かった。
すごいよね。
スモールワールドをものすごく感じたんです。
だからこの私と山岡さんと原ちゃんのトライアングルで囲んで、
ケンケンさん召喚みたいな。
中から。
理解と言葉を開くこと
分けあがって。
そんな風にお呼びにすることになったんですが、
どうだった?印象的だったの?
今もう一回聞いて。
話聞いてて、
収録したのも割と今月の7月6日だから頭の方で、
いまだに大きく考えが変わったところとかはないし、
そうだな、そうだなって思いながら聞いてたんだけど、
思い出した話があって、
YCAMでも上映をしていたんだけど、
ムラブリ族っていう、
もしのないコミュニケーション、言葉を研究されている、
言語学者の伊藤雄馬さんという人がいて、
ノートの記事でね、
理解とは終わりなき接近であるっていう記事を書かれてたんですよ。
なんでこのブログを読んだかっていうと、
Understand、理解するっていう言葉の意味を気になって調べたことがあって、
調べると、理解する、完全にわかるみたいなイメージでいたんだけど、
Understandって、語源をたどると中間に立つみたいな意味があるんだよね。
間に立つ。
だから最初わからなかったポイントから、
わかるところのポイントまで。
当事者、あるいは対象物との距離がちょっと縮まる。
近づくと少し形がくっきり見えたりとか、ちょっとわかったりするじゃない。
そういうところから言葉の意味があって、
ただ、それをググると、伊藤雄馬さんのその記事があったの。
理解とは終わりなき接近であるっていうのは、完全には、
間にずっと立ち続けるから、完全に重なることってないんだよね。
ずっと中央というか真ん中に立っているっていう意味なんだよね。
だから、対象物とか当事者に触れ合うとかではないんだよね。
完全にエヴァンゲリオンの人類補完計画じゃないけど、
本当に一体になることはできなくて、
ただ、近づいて分かろうとすることはできるっていう話をブログに書いていて、
そうなんだなっていうふうなことを読んだなっていうのを思い出しながら聞いていた。
哲学対話の話とかもね、
専門用語を使わないことを目的にしない方が良さそうって話があったけど。
これはかなり我々の仕事にもフィードバックが大きめの。
言葉を開くっていうのは結局どういうことか。
専門用語を使われるときにうってなるのは、
もうこれ以上この人と近づけないかもとか、
間に立てないかもみたいな。
なぜなら分からないからみたいな。
それがもしかしたら、
これ以上近づけないなって思っちゃわないように、
できるだけ解説をしたりしながら話すっていうことも大事だし、
あるいはさっきも置いてけぼりって話もあって、
あの話も面白かったな。
でも置いてけぼりの前には、
言葉を開く、いわゆる言葉を開くが、
説明をするが、
多分近づけないなっていう感覚を少し下げることに気をすると同時に、
態度。
分かんない言葉を使っていたとしても、
フレンドリーな態度というか、
あり得るのかなっていうことも話し聞きながら思っていて。
昔、自分が子供とかもっと若い時に、
お笑いとかで、
分かんなくても笑っちゃうこととかってあった気がしていて、
それってそういう人たちへの憧れとか、
あとその人たちの楽しそうな雰囲気とか、
態度とかに自分も寄り添いたいって思ってたから、
分かんないことでも笑えたのかなって。
面白いね。
近づきたいって思うっていうのが、
近づくとか間に立つの前には本当にあって。
そう思ってもらえるような状況だったら、
使ってる言葉とか関係なく、
その状況が作れていればいいとかっていうこともあるのかな。
そうだね。
近づきたいと思ってもらえるようなこと。
開けばいいってもんじゃない。
そう、開けばいいってもんじゃない。
開いて、なるほど、分かりましたみたいな。
お疲れ様でした。
じゃあ、先行くんでみたいな。
それはもう壁あるもんね、そいつと。
そうだよね。
じゃなくて置いてけぼりになったとしても、
ついてきたいなとか、
いい予感がするなみたいなね。
そういうのをお互いに共有できたりすると、
分かり合うに近づくことができるのかもしれないなって思いながら。
まさに。