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社長に聞くin WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、株式会社モンスターラボホールディングス代表取締役 社長 稲川宏樹様でいらっしゃいます。
まずは、経歴のほうをご紹介させていただきます。
コンサルティングファーム、テクノロジーベンチャーなどにおいて、2006年にモンスターラボグループを創業。
2023年には、東商グロース市場に上場している上場企業の社長様でいらっしゃいます。
稲川社長様、本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
まず最初のご質問ですが、ご出身はどちらでいらっしゃいますでしょうか。
生まれは広島なんですけれども、4歳の時に島根県の出雲市に家族で引っ越してまして、4歳から18歳まで出雲市におりました。
なるほど。小学校時代はどんな少年でいらっしゃいましたでしょうか。
そうですね、通信簿にはいつも落ち着きがないというふうに書かれてたんですけど、クラスの中で目立つとかっていうタイプではなかったと思うんですけど、
ファミコンを買ってもらえなかったので、親が結構そういう方針だったり、ちょっと目が悪かったので、近くでテレビゲームするとかっていうのはダメだっていうことで、
外で遊ぶとか運動することがやっぱり好きで、友達もなるべくファミコンに行かないように外で関係理するとかですね、野球するとかそういう感じで、
あとは部活はサッカーをやったりとか、高学年になるとしてましたね。
なるほど、じゃあ割とガキ大将的なそんな感じでいらっしゃいました。
いや、そういう感じではなくてですね、どっちかっていうとどうだろうな、大人しいってことはないけど、普通だったんじゃないですかね。そんなに目立つ方ではなかったんじゃないかなと思います。
なるほど、ありがとうございます。中学時代はどんなことをしたのか覚えてございますでしょうか。
首都中学校はですね、部活で野球部に入っていたので、結構地元の田舎で別に名門校とか強い学校ってほどではなかったんですけど、当時の部活って結構死後期みたいなのがあったり、
グランドフォー何週もして水も飲めないとか理不尽なこともあったりして、とにかく部活が中心だったかなっていうふうに思いますね。
割と野球はお上手でいらっしゃったんですか。
身体が小さかったので、2番セカンドみたいな感じでしたけど、好きでしたけど、そんなにすごくむちゃくちゃ突き抜けて上手いみたいなことではなかったですね。
なるほど、ありがとうございます。高校も出雲市の高校でいらっしゃいましたか。
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そうですね、出雲高校という地元の県立高校ですね。
出雲高校時代はどんなことをして過ごしたなんて思いでございますでしょうか。
一応地元の中での進学校で、その中でも11クラスくらいあったんですけど、通科が10クラスで理数科が1クラスあってその理数科だったんですよね。
結構その中では勉強できたほうじゃなかったんですけど、一応地元では進学校で、
普通科って大体男女比一緒ぐらいなんですけど、理数科っていうのだけ40人中男子35人みたいな結構悶々としたクラスで勉強中心ではありましたね。
なかなかその野球とかをやり続けるのも部活でやるのは結構厳しかったので、自分で何式チームを作ってやったりとかそういうのしてましたけど、そんな感じでした。
ただやっぱり進路に迷ってた時期とか、思春期っていうかですね、結構悶々としてたので、あんまりすごく勉強に集中できてたわけでもないし、かといってすごくスポーツとか何か別のことに打ち込んでたわけでもない、やっぱり一番迷ってた時期じゃないかなと思います。
なるほど。迷っているというのは、例えば進路であったりとか将来何になるとかそういうことに迷ってらっしゃる感じでいらっしゃいますでしょうか。
そうですね。その時期とかにありがちかもしれないですけど、そもそも何で生きているのかとかですね、人生は何のためにあるのかとか、そういう悩みから具体的に進路で志望先を描かないといけないとかってなってくると、当然進路にも悩みますし。
親が、両親が医者だったんですけど、海業医ではなくて勤務医だったので、つぐひとかっていうことはなかったんですけど、ただ選択肢があまり田舎なので、やっぱりない選択肢っていうのは、知らない職業っていうのは選択肢に上がらないので、そうすると医者になるかどうかとかですね、
本当にそれが主体になってとかっていうことを結構考えたりはしてましたね。
なるほど。なぜ生きるかなんて考えるのが割と頭のいいお子様でないと、高校生でないと考えないテーマだと思うんですが、お医者さんになろうと思ったことはあられるんですか?
反抗期の頃なんかは将来になりたいものとか書かされたときにですね、医者以外って書いたこともあるんですよ。だから結構、そう言いながらも選択肢もあまりわからないし、
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医者の狭い世界みたいなものとか、あと病院って基本的に好きな場所ではないじゃないですか。で、そのくらい病院でいつも仕事するとか、
あと父親がですね、リビングに一つしかないテレビでですね、よく脳芸会だったんですけど、脳の手術のビデオとか見てて、ちょっといいものがあってですね。
そういう諸々の理由で、なりたくないなって気持ちと、でも選択肢として、もちろんその人の命を救ったりとかそういう仕事でもあるので、っていうところと半々で、結果、現役時のときはですね、
医学部受けたんですけども、落ちまして、で浪人してですね、またちょっと京都に出たんですけども、少し違ったとこから来る寮に入ってたんですけども、人に出会ったり、あと予備校の先生がすごく面白かった影響で、
結局医者、浪人してからは医学部を辞めてですね、教師になろうと思って、であと数学が好きだったので、理学部の数学科に進学して教職をとってっていう選択をしました。
なるほど。ありがとうございます。大学はどちらにお勧めになったんでしょうか。
大学は神戸大学です。
神戸大学は国立大学の頭はよろしいと思うんですが、さらに理系ですが、神戸大学時代はどんなことして過ごしたなと思うでございますでしょうか。
はい。ちなみに神戸大学は経営とか経済が強いので、文系の偏差値の方が高いんですよね。
あ、そうですか。
神戸大学の一般的な偏差値と比べると、理学部数学科はそんなに、神戸大学の中では低い偏差値で入れるところだったと思います。
大学は高校時代にあまりスポーツに打ち込まなかったんですけど、もともとスポーツが好きだったってこともあって、
大学から始める人が多かったんですね、国立大学なので。
強い私立校とかだと北海道とかそういったところからセレクションされた選手が入ったりするんですけど、
北海道とか一部の地域を除くと、高校までアイスホッキーやってる人って少なくて、
大学からやると、例えばアメフトとかラクロスとかそういうスポーツも大学からやる人が多かったと思うんですけど、
そうするとスタートラインが基本的に一緒なので、新たなスタート切れるっていうのもありましたし、
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すごくスピードが速くて、フィジカルのスポーツでもあって、見に行ってすごく面白かったと思ってアイスホッキー部に入り、
結構体育会系だったので、すごくそこに時間を使いましたし、
あと大学のアイスホッキーって練習が深夜にあったりするんですよね。
スケートリンクを借りるんですけども、普通の日中は一般活動の時間があって、その後フィギュアスケートがあったりとかして、
大学のアイスホッキー部っていうのは一番後ろの一番安い悪い時間帯にやるので、
夜11時からとか遅い時は1時からとか、そんな感じで結構アイスホッキーと活バイトもして、
勉強はそこそこみたいな、学校はそこそこみたいな生活でしたね。
私はアイスホッキーを見るのが実は一番好きで、私の時代だと国路とか西武鉄道とか大地製紙とかそういう時代だと思うんですけども、
アイスホッキーってかなり肉体的にもバンバン当たるんで、中にはパックのスピードがすごいスピードで行くので、
歯がなくなっている人結構多かったりとかすると思うんですけど、
そういう恐怖感とかそういうのは運動神経が良かったんであんまりなかったという感じでしょうか。
いや、おっしゃる通りで結構激しいんですけども、
当時の学生ではヘルメットフルフェイスで顎までちゃんとプロテクトされてて、
物をつけないといけないとかっていうのもありましたし、ある程度多少の怪我はあったりはするんですけど、
実際やってみるとそこまでプロリーグとかで見るような流血したりとか歯が取れたりとかってことはなかったですね。
なるほど、ありがとうございます。大学卒業後は一番最初の就職はコンサルティングファームでらっしゃるんですか。
はい、PwCのコンサルに入りました。
何かコンサルに入ろうなんて思ったきっかけなんてのはございましたでしょうか。
まず先ほどお話したようにそもそも教師になろうと思ってたんですね、大学時代は。
そう思った時に思ってたんですけども、いざ就職を考えると、そもそも対して島根とか一部の地域から出たことなくて、
職業も全然知らなくて、世界のことも社会のことも知らない人がいきなり教師になって、
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数学は教えれるかもしれないけど、進路指導とかをする立場になるっていうのはそもそも子ども学生にとってよくないんじゃないかと。
教師っていう仕事はキャリアの後半とか終盤にする仕事であって、まずは自分が世界を見たり社会を見たりすることが大事じゃないかと思ったんですね。
就職活動を始めましたと。とはいえ全然いろんなことを知らなかったんです。コンサルティング業界ってのも最初は知らなかったんです。
最後らへんにコンサル会社っていうのがあるってことが分かって、これは自分に合ってるなと思ったんですね。
というのもいろんな社会とか世界を知れる、PwCみたいなグローバルでのグローバルファーム、こんな会社があるんだっていうことを思ったし、
当時は全然世間知らずで甘かったなと思うんですけど、いろんな会社の経営の根幹的なところに携われるっていうのはものすごく魅力的だなと。
かつ結構ロジカルな世界なので、自分が得意だった数学とかですね、そういう理系能みたいなものが、作能みたいなところが結構活かせる分野でもあるなということで、PwCに入りましたね。
なるほど。ありがとうございます。ちょっとリスナーの皆さん方にご存じない方も多いかもしれませんが、プライス・オルタファース&クーパースは、数学の試験があるぐらいの作能を求める世界的素晴らしいコンサルティングファームで、
1、2を表すコンサルティングファームでですね、そこにご入社されたということでございます。
次のご質問なんですが、そのPwCでどんなことをしたかと思うんでございますでしょうか。
はい。1999年に入ってるんですけど、まずはそれが最初の会社だったので、他と比較するものがなかなかなかったんですけども、すごく最初からフリーアドレスでノートパソコンと、
当時PHSとか持たされて、自分の席もなくてどこに座ってもいいとか、かなり完全にペーパレスになっていたりとか、働く環境としてもすごく斬新でしたし、
研修がアメリカで、プログラミングとかITの研修が3ヶ月あったりとかもしていて、非常にいい会社ではありましたね。
あとプロジェクト単位で仕事をするので、地方のプロジェクトにアサインされて、地方で何ヶ月もプロジェクトが張ったり、
あと最後に入ったプロジェクトは実は、当時ルノーと日産が合併するということで、いろんなシステム統合とかそういったプロジェクトがあって、
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フランスに行かせてもらったり、そういう意味ではすごくダイナミックな仕事をさせてもらえたなとは思っています。
なるほど。PWCで学べたことなんてどんなことがありましたでしょうか。
新卒なので学べたことだらけなんですけども、一番は、いろんな先輩から仕事に対しての姿勢とかロジカルシンキングとか、
仕事で考えるベースとなるような考え方とか、思考力とか、プレゼンテーションというか、そういったところも含めたベースを作ってもらったなという感じはありますね。
なるほど。ありがとうございます。PWCの後はテクノロジーベンチャーということでいらっしゃいますでしょうか。
そうですね。PWC自体はそれだけ良かった会社ではあったんですけど、ただそのときにすごく、結果1年半ぐらいで辞めてるんですよね。2年弱ぐらい。
というのは、1999年というと、いろんなインターネットサービスとかが出始めた頃で、インターネットとかの黎明期だと思うんですよね、日本でいうと。
すごく若かった自分にとっては、やっぱり新しい時代が来るとか、新しいサービスがどんどん生まれてきていくというのを感じていました。
一方でPWCのクライアントみたいなのとかは、やっぱり超大手企業ばかりなんですよね。
その超大手企業は当時、バブル以降のいろんな環境の問題もあったと思うんですけども、オペレーション改善、ダウンサイジング、ディストラー。
そのための大型のシステム導入、こういったことが多かったんですね。
まだインターネットというものに関しては全く注目してなかったというような時代でした。
それに対して、そういった経営のオペレーション改善みたいなことも大事かもしれないけど、
これって本当に社会に価値を生み出しているのかって考えたときに、新しいイノベーションとかテクノロジーが世界を変えていくみたいなことをすごく感じていたので。
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そのためには、自分が深く技術を知って、テクノロジーを知らないとイノベーションに関わっていけないというかですね。
そういうのがあって、思い切ってプログラマー、エンジニアとして働き、学ぼうというふうに考えまして、それで転職したんですね。
当時、EC1という会社に転職しました。
100名ぐらいの国内だけでやっているベンチャー企業だったんですけども、そこでエンジニアとして入って、
割と早くから、例えばシリコンバレーにあった会社が日本に進出するときのジョイントベンチャーを何社か、大手企業とも含めた何社かと立ち上げて、
そこのコアメンバーの一人として参画させてもらったりとかですね。
結構新しいテクノロジーを活用して、いろんな企業のEコマースであったり、新しいシステムを作ったりとか、プロダクトを作ったりとか、
そういうことをやっている会社でした。
なるほど。ありがとうございました。
割とコンサルタントからエンジニアにというのは、今考えれば専権性が高いのが稲川様だと思うんですけども、
そのエンジニアになるときに周りが反対とかそういうのはなかったでしょうか。
そうですね。そんなになかったというか、そもそも例えば親とか周囲もですね、プライスウォーターハウスって言っても何の会社かわかってないし、みたいなところもあったので、
もちろんPwCのときの先輩でいうと止めてくれる先輩とかもいましたけど、そんなになかったですかね。
なるほど。恐怖感もあまりなかったですか。
それはなかったですね。申し訳ないというのは多少ありました。かなり研修とか充実してたりもしたので、
これは自分がPwCに投資してくれたお金を稼げずに転職しているので、返し切れてないというふうに思ったんですけど、
ただやっぱり自分の都合のいい子と言えば、都合よく解釈すれば、自分が成長して貢献するのは社会であって、
企業に育ってくれたPwCとか先輩に感謝をするものの、やっぱり本当に自分が貢献できる人間にならないと社会に貢献できないと思ってたので、
そういうふうに割り切って転職したという感じでしたね。
なるほど。ありがとうございます。EC-1での思い出なんてございますでしょうか。
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EC-1は今だから、時代があったので今だから言えるということで言うと、
月曜日に1週間分の着替えを持って会社に行って、デスクの後ろにキャンプ用の簡易ベッドみたいなのを置いて、
近くの銭湯に行って、本当に起きてる間は仕事してるみたいなぐらい仕事に没頭してた時期でした。
会社がその入社した2000年終わりぐらいに入社したんですけど、それから数年経って上場したりですとかもありましたし、
100人から200人ぐらいの多い時でもそれぐらいの会社の規模だったので、経営者とか経営層ともすごく近い距離だったんですね。
それで、ようなような経営の方向性とか事業についてとか、いろんな話をすることができたり、
あとはですね、ちょっと時期的に先継性があった会社だと思うんですけど、
中国にいち早く開発拠点を作っていて、2000年ぐらいからですね、2001年ぐらいかな。
それでそこのプロジェクトマネージャー、大きなプロジェクトのプロジェクトマネージャーなどをやらせてもらったので、
現地にも行って人材雇用したりとかもしていて、いち早く日本と海外とで仕事をできる機会、そういう仕事環境を体験させてもらったり、
あと本当にまだ未開拓だった中国に行くことができて、仕事をすることができて、そこから中国の発展していく可能性みたいなことを肌で感じれたりとかですね。
そういうのも非常に良かったですね。
なるほど。ありがとうございます。
EC-1の後はモンスターラボさんの創業になられるんですか?
1年間ですね、その後に4,5年EC-1にいた後にモニターグループという、当時アメリカ本社の戦略系のコンサルティング会社がありまして、もう一度コンサルに戻ったんですよね。
コンサルという仕事自体は好きだったと。でもやっぱりテクノロジーとか分かってない人が、イノベーションとかという領域でのコンサルというかですね、触れたかったので、テクノロジーの会社に行ってそういうのを身につけたと。
そうすると技術も身につけたし、いろんな経験を積んだので、より最上流の戦略コンサルをやってみたいなということがあって。
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その前にですね、実はEC-1にいながらオンラインでMBAを受講してたんですね。
これは日本の大前研に伝えられているビジネスブレイクするというところと、オーストラリアのボンド大学というところとのジョイントのプログラムでボンドMBAというのがあって。
そこを受講しながら、もしかしたら企業という道も将来あるかもしれないと思いつつ、やっぱりよりビジネス戦略とかといったところをやりたいというふうに思って。
それでMBAも取って、通信で仕事を辞める必要がなかったので仕事をやりながら続けながらやってたんですけど、それでモニターグループという戦略ファームに行きました。
そこに1年間ぐらい在籍した後にモンスタラボを創業してます。
2005年にモニターグループに入り、2006年の2月にモンスタラボを創業してます。
なるほど。EC1にいらっしゃった時からMBAを取るということは、もう経営者になろうと目指されたのはそのぐらいの時期でらっしゃいますか?
経営者というかですね、まだ29歳だったかな、28くらいだったんですけど、自分の将来を考えたときに3つぐらいの道があるなと思ってました。
一つは企業という道、もう一つは戦略コンサル、コンサル担当してより戦略的なところをやっていく。
もう一つは事業会社とかに入って、事業をやっていくみたいなことも面白いなと思ってたんですけど、いずれにしてもその時の自分にとって足りないスキルとか足りないピースで言うと、
ITの深掘りができたと、例えばファイナンスだとかアカウンティングとかマーケティングとかそういうことに関しては、本とか読んだ知識があったとしても体系だってないとか深掘りできてないっていうのがあって、
それを補うというか学びたいなというのがあって、MBAっていうのを考えたんですけど、アメリカとかのMBA、大学の院に行こうと思うと、例えば受験するだけでも1年とか1年もっと時間かかって、さらに仕事を辞めて海外に行ってってことで、
20代終わりとか30代前半とかの3、4年をそこに使うっていうのはもったいないなっていうのもあったので、通信でっていうので選んだんですよね。
本日も社長に聞くinWizBizをお聞きくださり誠にありがとうございました。この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
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この内容はすべてテキスト化いたしまして、私どもWizBizが運営するウェブサイト、経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、皆様の会社経に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき、経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。本日の社長に聞くinWizBizはここまで。また来週。