ここで、スタートアップNOWを応援いただいている番組スポンサーからのお知らせです。
この番組は、OPSRの提供でお送りします。デザインでビジネスを前進させるなら、
OPSR、UI、UX、コミュニケーションデザイン、どんな依頼でも、
OPSRなら製作実績を基に経験豊富なデザイナーとマッチング。
共同創業者の田子さんとは大学が同じで、諸石さんとはスタートアップNOWのイベントで出会いました。
デザインの力に対する熱い思いに刺激をいただいています。
デザインにお困りのスタートアップは、ぜひOPSRと検索してみてください。
それでは砂川さん、まずはご経歴などを含めた自己紹介を1分程度お願いできますでしょうか。
はい、改めましてスマートラウンド砂川です。よろしくお願いします。
幼少期はずっと父親の仕事で海外を回っていて、その辺を多分後でお話をいただくことになろうかもしれないですけれども、
大学で帰ってきて、慶応で卒業して、最初は三菱商事というところで鉄道を海外に輸出する仕事をしていました。
なのでスタートアップから多分一番遠いところぐらいにビジネスをやっていたものなんですが、
縁あってハーバードビジネススクールという大学院に行かせていただいて、MBAを取って、そのまま会社を辞めまして、
ポンサードで行ってるのに辞めたんで、お金を返せなきゃいけない、大変だったんですけど、
アメリカのベンチャーキャピタルですね、グローブスマンキャピタルパートナーズというところに就職をしまして、
ディレクターとして資金調達、ファンドレイズとか、あるいは投資業務に関わらせていただいて、
帰ってきて最初の起業を行いまして、それがロケーションバリーという会社でございました。
2005年ですかね、に立ち上げて、最終的にはその会社をNTTドコモさんにその当時売却してM&Aで買っていただいて、
できたお金でエンジェル投資家をしながら、どっちが本業かわかんないですけど、
Googleのマップの責任者をやらせていただいて、横にスライドしてAndroid全体の責任者をやらせていただいて、
2018年に今のスマートフォンを立ち上げたという経歴になります。
ありがとうございます。
園川さんのことは当然元々ご存じ上げてはおって、シリアルアントレプレナーである事実は知っていたんですけど、
大変申し訳ないんですけど、具体的な経歴知らなかったんですね。
たぶん珍しいと思うんですけど、僕みたいな人間は。
今回事前に調べさせていただいて、調べれば調べるほどちょっと背筋が凍ってきてですね、緊張が増してくるっていう。
すごいなって思っています。
ちょっとこの辺り聞かせてくださいまた。
はい、ぜひ。
ありがとうございます。
冒頭、要請記の話も少し入れていただいたかなと思っておりまして、まさにそこら辺り気になっておりました。
帰国史上ということで、かなり長らく、国でいけばフィリピン、メキシコ、アメリカでしたっけね。
その辺りが在住されたこともあると。
そうですね。
これは幼い頃からずっと海外だったってことですか、途中からですか。
そうですね。父親が今のジェイビック、昔の湯議員ですね、に勤めていた関係で、2歳。
生まれた時の記憶は全く日本にはなくてですね、僕の記憶があるのはフィリピンからなんですけど、
2歳でフィリピンに行って、6歳で帰ってきて、9歳でメキシコに行って、11歳で帰ってきて、15歳でアメリカに行って、19歳で帰ってきたって感じですね。
その数字が出てくるのもすごいぐらい刻まれてますね。
そうですね。もう何回も言ってるんで、こういう話って。
さすがです。しかも最初もはや、僕は日本語は日本語なんですか?
最初はですね、実は日本語で親から話しかけられて、僕は英語で答えてたって感じだったですね。
インターナショナルスクール、インターナショナルスクールって言ったら幼稚園ですけど、行ってたんで、最初の言葉は英語だったと思います。
なるほど。日本に長い間滞在されたのは、もう大学のタイミングからですか?幼少期は数年単位はあったりもするんですかね?
そうですね。もうなんかざっくりで言うと、3年行って3年帰ってきて、3年行って3年帰ってきて、みたいなそんな感じのスパンでしたね。
じゃあ幼少期の思い出とかも、かなり海外に思ずくものが多いですか?
そうですね。こう言っちゃあれですけど、そういう意味で言うと、長くずっと親友でいた幼少期の友達とかがいなくてですね、いろんなところで分断されている人生でした。
それは今の話を聞くと、ちょっと寂しい気もしますけれども、なんかアイデンティティっていう意味では、やっぱりそこをもどかしいさとかって当時はあったものですか?
ありますね。実は私の妻もコロンビア生まれブラジル育ちで日本に帰ってきて、日本人なんですけど、いう経歴なもんですから、2人でずっとやっぱり寂しさというか、同じような境遇だったので、その結果、やっぱりなんかずっと日本で住むことになっちゃったっていう、あんまり海外行きたくないよね、みたいな話。
だからなんだろう、どっちかっていうと時代に逆行してるかもしれないですけど、子供たちから見たらちょっと不幸なのかもしれないとか思いながらも、僕ら結構あんまりいい思い出がなかったっていうところもあってですね、そんな感じになってますね。
海外を出会ってはそういった形でしたけど、でも日本は安心感っていうのはあられたんですか?
そうですね。木側の話にまたつながっていく話でもあるんですけど、やっぱり先進国に行った時っていうのはまだいいんですけど、発展途上の国に行くとですね、子供であると外は歩けないんですよね。危険すぎて。
なので、もう家の中にずっといなきゃいけないみたいな感じになってくるので、そういう難しさ、子供の頃の時っていうのはそういうのをやっぱり感じてましたね。
なので、すごくやっぱり日本がすごくいいとこだなっていうのは、行って帰って行って帰ってしてたんで、帰ってくるために、料理も美味しいし、すごい最高と思いながら日本大好きってそういう感じでしたね。
ありがとうございます。もともと企業を長らく意識されてたわけでは、おそらくないのかなと思っていて、調べる中でヒットしてきたのは、やっぱりeBayのCEOだったMEGホイットマンさんとの出会いだとか、その辺りからなのかなって感じていたんですけど、この辺りっていかがでしょうか?
おっしゃる通りで、会社スポンサーでMBA行ってたんで、当然帰って鉄道をやるっていうイメージでおりました。なので、MBA行ってる時も実はアントレプレナーシップ取ってなくて、全くせっかく行ってたのにもったいないなって今だと思うんですけど、ファイナンスばっかりやってたんですよ、ファイナンスとかストラテジーばっかりやってたので、本当にもったいなかったなって思ってます。
で、本当にMEGホイットマンが来てくれたのは、本当に偶然で、ちょっといろいろ話をさせていただくことができて、ラッキーなことに。それで、ちょっとものすごいインスパイアされちゃったっていう、そんな感じですね。
具体的にはどんなエピソードと言いますか?何を言っていただいたとか、もうちょっと聞いてもいいですか?
もちろんです。遡ること、大学の時に実は僕、労働経済の先生のゼミに所属していたんですね。なので、人間が持つ労働力という思想を細切れにして理解できないかなってずっと考えてたんですよ、当時。本当30年前の話なんですけど。
めちゃめちゃ先進的ですよね、当時。
ただ、鉄道やってたんで、すっかりその話を忘れてたんですけども。MEGホイットマンさんの話を聞いて、インターネットって面白いツールができるんだなって思いながら、待てよと。
労働力もインターネットで理解できないかなって思い出しちゃったんですね。思い出しちゃったんですけど、例えば僕今3時間暇ですって言っても、行って1時間、働いて1時間、帰って1時間とかだと経済合理性が失われちゃうじゃないですか。
3時間で1時間しか働けないから。難しいな、移動しなきゃいけないから難しいなって思ったんですね、その当時。それがMEGホイットマンさんの話の時の話だったんですが、ちょうどその時、ある事業、ナチュラルモノポリっていう事業のテーマだったんですよ。
そこでですね、日本の携帯電話が当時最新鋭だったので、しかもそのクラスには日本人が僕しかいなかったので、教師からいきなりサニー、明日の授業までに日本の携帯電話システムがいかに素晴らしいかを調べてみんなの前で発表しろっていう、とんでもない無茶ぶりをされて、うえってなって。
僕フェイルするんで、やべーって思って、本当にどうしようと思って、ネットでいっぱい調べて、今どんな状況、全然別に携帯電話なんか全然知らなくて、当時。本当に鉄道を売ってる人だから、自分の携帯電話持ってたけど、みたいなそんな感じだったんですよね。
なんですが、ネット調べていったらたまたま、その数週間前にKDDIさんがCDMA-1っていう企画をですね、出されたんですね。ちょっと昔すぎてみんなびっくりしたかもしれないですけど、そのCDMA-1を入れるとですね、GPSチップが自動的についてくるので、携帯電話にGPSが搭載された初めての時代だったんです。
初めて。だからもう今はiPhoneとか当たり前に載ってますけど、当時携帯電話に15とかついてなかったんで、すごく先進的なことがあったんですね。
で、そのレポートを書いてる最中に、待てよって思って、さっきの話ですけど、近くで働ける場所があれば、1時間行ってっていうところが、行って5分で行って、2時間50分働いて5分で帰ってこれれば、経済合理性が成立するなって思ったんです。
なので、一時応報で人材のマッチングをやるっていうのを思いついたのが、そのタイミングでひらめちゃったんですよね。今でいうタイミングさんと同じようなことがあります。
で、そのレポート自体は、ちょっとお茶を濁して、とりあえず3ページくらいでお茶を濁して、ビジネスモデルをいきなりバーッと書き始めて、夜中の3時ぐらいまで。
完全にスイッチが入ったんですね。
完全にスイッチ入っちゃって、面白いなこれとか思いながらこんな感じかなみたいなんで、一生懸命書いて、その時はですね、これあんまり公にいろんなとこで言ってないですけど、猫の手.comって。
しょうもね、みたいな。猫の手も書きたいからっていう、そういう話なんですけど、このスライドがいまだにどっかにありますけど、猫の手.comっていう、だっさい名前のですね、サーフィスを考えて。
で、嫁さんをですね、夜中の3時に叩き起こして、すっごいこと思いついちゃったんだけど、ちょっと話聞いてくれるって言ったら、うせえ寝ろって言われて、そうですよねみたいな。
そういうのがすごい今残ってますね。で、それでもうナチュラルモンポリンの話はとりあえず置いといて、その後僕がすごく尊敬してたジャン・リフケンっていうですね、今アワードのNBAの多分一番有名なストラテジーの先生になっている人がいるんですけど、
そこ僕もほんと大好きで、その人のとこにアフタークラス行って、こんなの思いついちゃったんだけど聞いてくれるって言って聞いたら、サニーこれ面白いよと。スタートアップやれよって言われて、スタートアップってなんぞやみたいな。何それっていう、そういう感じが僕のスタートアップの一歩ですね。
三菱障子さんからのスポンサードで来てたから、なかなかその場ではできないし、何なら一番最初は三菱障子さんの中でやれないかみたいなことも少し模索されたっていうのも。
よくご存知ですね。そうなんですよ。やってみようと思ったんですが、当然スポンサードだったんで、新規事業開発室っていうとこに持ってったんですけど、何言っちゃってんの、アホじゃねーよって。
そういうリアクションね。あんたは鉄道に帰ってくるんで、セフォンが補正だからわかってんでしょみたいな感じだったんですよ。これはもう相談してもあんま駄目だなって思って、はいっつって。
飛行機代も自分で手弁当で払って日本まで行って相談しに行ったんですけど、全然なんか駄目でしたね。で、帰ってきちゃったみたいな感じです。
帰ってきて、じゃあもう諦めてどうにかして自分で起業するぞってその場ではならずに一旦VCなんですかね。
えっとですね、そう。その時もう本当に何もわかってなかったんで、何をしようと思ったかっていうと、特許を取ろうって思ったんですよ。
すごいなんか論理の飛躍なんですけど、とりあえず特許取ってけば大丈夫でしょうみたいな感じで思ったんですね。
で、川向こうにですね、MITがあって。で、MITに留学をしてきているNTTのエンジニアとかがいっぱいいて。
で、一緒にホッケーとかやってたんですね。スシーズっていうホッケーチームやってたんですけど。
いいですね、ネーミング。
ダッサイですよね。で、その一人が特許何個も書いたことあるよっていうのが出てたんで、
じゃあ書いてよ、ロブスター多いからって言って、まったく不平等の英訳ですね。
ロブスター一匹と特許書くっていう。
持ってないよねみたいな感じの合意形成をして、で、特許のドラフト書いてもらって出したんですね。
で、その当時3年かかるって言われたんで、それ取れるまで何しようかなみたいな感じで思ったときに、
またこれ全然たまたま別の事業だったんですけど、ロブスターの社長さんが、
そのグローブスパンのケースを教えに来てて、で、キャピタリストを募集してんだよねっていう話をしてたんで、
やりたいですって言われて、で、縁あって採用していただいてっていう感じでした。
今さらっと言われましたけど、たぶん現地のVCに日本人が採用されるってビザの問題もありますし、相当難しかったんじゃないかなと思うんですけど。
めっちゃラッキーだったんですよ、これも。
何でかっていうと、そのケースに書いてあるんで全部わかってる話ですけど、
僕がいたグローブスさんキャピタルパートナーズってもともとジャフコアメリカなんですよ。
で、そのパートナー2人が独立してファンドを引き継いだんですが、
LPに日本人がいっぱいいるので、コミュニケーションする人がいなくて、
日本人を採用しないといけないっていう状態だったんですね。
めっちゃラッキーじゃないですか。
これ日本語喋れるって言って、俺やるよって。
で、まさに今ラメさんおっしゃっていただいたように、
アウトビジネススクールの中でもバイサイドに行ける人って、バイサイドと言われるうちベンチャーキャピタルはPEとかですけど、
行ける人ってトップ5%とかいたんですよ。
ライバンクよりもコンサルよりもものすごい狭きもんで、
僕なんかたぶん中の下ぐらいの成績だったんで、行けるはずがないですね、普通だったら。
なんだけど、たまたまそういう事情のあるファンドが、
たまたま独立して、たまたま日本人が必要っていう。
おもしろい。
なんとラッキーな。
そんな感じでした。
それでVCに行ったら修行ができるって思って、
本当にアントレプレッシュ取ってなかったんで、
何にもわかんないから、とりあえず3年あるし、じゃあVC行こうっていう、すっげー短絡的な考えでVCに行きました。
3年経って特許取れるぞってタイミングで企業になったんですか?
そうですね。それもグローブスパンの方々にはご迷惑おかけしたんですが、
日本オフィスを建てるかもしれないみたいな話になりまして、
なぜかというと、その当時のグローブスパンって今の想像ベンチャーさんとちょっと近いんですけど、
アメリカのスタートアップを日本に連れてきて業務提携させるみたいなところのアームが非常に強かったので、
それを僕やってたんですよね。
それをやるためにやっぱり日本のオフィスも必要だよっていうことで立ち上げをしたんですね。
立ち上がったら誰かにあげて、僕が独立していい?って聞きに行って、お前ふざけんなって言われたんですけど、
でももう起業するって決めてたし。
バリーシフマンっていう一番偉い人がいたんですけど、マネジングダイレクターで。
その方も実は非常にいかごがある方で、
本当にVCのパートナーになりたいんだったら一回は起業してからじゃないとダメって言われたんですよ。
なので、じゃあ起業するわって言って。
言ってたじゃん、だってこの前。
今じゃなくていいしみたいな。言ってたよね。
そういう感じで辞めさせていただいて起業したという感じですね。
起業されたときは本当にもともと想定されてらっしゃった事業モデルと、またちょっと別のものも進めてらっしゃったんですよね。
これも非常に難しかったんですけど、実は最初の頃ってC2Cをイメージしてたんですよ。
すなわち労働力の供給といって、例えばベビーシッターとか、
本当に猫の手.comって猫のことなんで、本当にちょっとしたものを手伝ってくれる人みたいな、
いうイメージでやったんですが、
今考えると当たり前ですけど、全然赤の他人で知らない人を家に入れるって怖いですよね。
成立しなくて、Bに振ってBでいきなりバーって広がっていくという感じですね。
その当時やってたサービスはお手伝いネットワークスで最終的には名前になったんですけど、
お手伝いネットワークスはどうやって広がったかというと、具体名を出してしまうと、
高橋カーテンウォールっていう会社の社長さんがMPAの、別の学校だったんですけど同期だったんですね。
彼が日経の取材を受けたときに面白い人いないって言われて、そういえば昨日サニーってやつと飲んでたよっていう話をして、
小川記者っていう日経の記者さんがその当時いて、その人が僕のところに連絡してきて、
高橋さんからご紹介いただいてっていう話で、こんなことやってるんですって言ったら、
まだリリースしてもいないサービスを新聞記事にしてくれたんですよ。
そんなことあるって思うじゃないですか。リリースしてないですよ、全然まだ。こんなサービスを考えてるみたいな。
そしたらそれを見たワールドビジネスサテライトの人が、
このサービスを取れ玉じゃなくて10分の尺で特集したいですって言われて。
まだリリースしてないからね。
まだないのに。
まだ考えられないし、当時でもたぶんすごかったですね。
で、その時に先輩である新波さんのところに連絡をして、ローソンで使ってる。
手で取材を受けてくれみたいな。手でみたいな。だってリリースしてないでしょ、とか言われて。
どうやって使ってるって言えない。
という話になったんですけど、最終的には実証実験してるっていう、そういう立て付けでやっていただいたんですね。
そしたらですね、それを見た各局の人たちが一斉にみんな連絡してきて、
これを僕はメディアの連鎖って呼んでるんですけど、
メディアって、僕も全然分かってなかったんですけど、
やっぱりネタ探しに搬送してる人たちがいっぱいいて、
毎日テレビ番組やんなきゃいけないから、
情報番組とか本当に大変らしくて、
面白そうなものが目渡しそうなものがあると飛びつくっていう傾向があって、
もう一気に来たんですよ。
30番組ぐらいで、こんだけ露出が出ると一気にユーザーが増えていくんだよね。
最終的には40万人ぐらいのワーカーが我々に登録してくれて、
そのときAWSがないから、もうテレビ出るたんびにサーバーがパンクするっていう、
すごいもったいないことをしてたんですけど、
途中からAWSさんにお願いして、
スケーラビリティをその瞬間だけ上げてくれるのどうしたらいいんですか?
って相談したりしてたんですけど、テレビ出まくってた。
そんなんで盛り上がったんですが、
問題は途中で2万ショックが来ちゃったんで、
人ってもう採用しないんですよね。
もう一切2万ショックのとき、覚えてらっしゃる方もいらっしゃるかもしれないですけど、
それは僕ら、瞬間的なアルバイトなんで、
そもそも人を解雇しなきゃいけない人たちがいっぱいの中で、
瞬間的なアルバイトもへったくりもないですよね。
っていうことになって、売上ゼロだったんですよ。
なんですが、たまたま、
ちょっと6ヶ月前ぐらい、僕がお客さんのところに行ったときに、
寺田くん、このサービス本当にいいサービスで助かってんだけど、
アルバイトが来るよりもお客さんが来たほうが嬉しいんだよね、本当は。
アハハって言われたんですよ。
そうですよね、みたいな。
売上、コストよりも売上ですよね、みたいな話になって、
それでちょっと面白いなと思って、
インターンに、お手伝いネットワークスとちょっと違うサービスで、
次元クーポンで一時用法はサービスで、
10分以内に来たら安くなるみたいなのをやろうと思うんだけど、
それをプロジェクトとして走らせてくれるみたいなので、
作り始めてたんですよ。
で、リーマンが来て、やばいってなったんで、
リソースを全振りして、そっち今ならっていうサービスなんですけど、
で、要するにデフレの時、
インフレ経済のサービスがお手伝いネットワークスで、
デフレ経済のサービスが今ならだったんですよね。
一気にそっちにスイッチして、今ならがガーンって来たっていう感じです。
ドコモさんからアイブアンデイですかね、されてると思うんですけど、
それもその今おっしゃっていただいた、
飲食店向けのクーポンの方の事業なんですか?
そうですね、そっちがメインになっていて、
それもいろいろ事情があって、
クーポン、今ならという母艦があるんですけど、
その母艦にクーポンを乗っけてくださいっていう営業を、
いろんな店にやってたんですけど、
いわゆるユニットエコノミクスが成立しなかったんですね。
営業コスト高すぎるんですよ、飲食店一個一個足で回ると。
それで何しようかと思ったかっていうと、
チェーン店だろうって思って、
わたみさんのところに行って、
わたみさん、ここに全部今ならにクーポンを掲載してくださいって言ったら、
じゃあ3店舗だけねって言われて、
テストで回すからって言われて、
ずっこけて帰ってきちゃったんですけど、
でもその帰りの電車の中で、
いや待てよと、
わたみさんのアプリを作ってあげたら、
その時、僕らサービスの、
全てのサービスの機能はサーバー側にあったんですね。
iPhoneのアプリを提供してたんですけど、
iPhoneのアプリは側だけだったんで、
側のデザインを変えて、
サーバーサイドでわたみのデータだけをフラッグ立ててやったら、
今ならのサブセットでわたみアプリが作れるなって思いついちゃったんですね。
今で言うバースってやつなんですけど、
バックエンドアザサービスっていうやつなんですけど、
その時はその言葉がなかったんですが、
思いついて、2週間後に提案しに行って、
もう今なら掲載するのはなくていいですと。
わたみさんアプリ作りません?みたいな。
僕ら作ってあげます。
今ちょうど検討してたんだよね。
いくらくらい?って言われて、
555ですって答えたら、
え?みたいな。
他の会社の100分の1だけど。
100分の1ですか。
100分の1なんですかこれ?みたいな。
僕らマーケットプライスを知らないから。
だって側だけじゃないですか、僕らからすると。
側のデザインだけなので。
で、いいですよって言ってリリースしたら、
ものすごい生活アプリのトップにダウンロードするようになって。
それで他の会社もみんな一気にアプリを導入していただけて、
そのアプリに出てるクーポンは今ならにも集約されるっていう形になってたので、
両方ハッピーみたいになって、
そしたらそのお客さんのところでアプリを作ってますよっていっぱいやってたら、
ドコモの営業がそれを聞きつけて、
我々のサービスにものすごい興味を持っていただいて、
最終的に買収されるようになったんですね。
そういうことだったんですね。
で、その後ロックアップを経て転職をされて、
その先がGoogleだったというところなんですけども、
これも一つの動機として、
次の企業に向けて優秀なエンジニアどこにいるんだっていうセンサーが働いたみたいな話も。
そうなんですよ。
稲荷さんよくご存知ですね。
全部勉強していただいてありがとうございます。
そうなんです。
ロケーションバイル時代に一番苦労したのが、
すごく優秀なエンジニアに出会うことで、
ずっと実はGoogleからは誘われてたんですね。
なぜかというとGoogleの、
GoogleマップのAPIを一番最初に使ったサービスの一つだったんですよ、僕ら。
なのでGoogleとは結構仲良くて、
で、誘われてて、
で、その2つが一気にくっついたんですね。
エンジニア採用するんだったらGoogle行けばいいじゃんって。
すごい短絡的な考え方なんですけど、
いっぱい優秀なエンジニアいそうだしみたいな。
それで行ったっていう感じですね。
で、Google自体は何年くらいいらっしゃったんですか?
Googleは3年と3ヶ月くらいいらっしゃったんです。
そこは気が熟してスマートランサーを創業する、
その3年間にはどういう意味があったんですか?
いやもう入るときにスタートアップやるつもりで、
エンジニアを採用するために入ったので、
3年で辞めるって初日に言ってたんですよ。
2年か3年で辞めるって言ってて、
多分それなんか、
すごいいろんな人がいる前で講演をさせていただいたんですよ。
その場でもお話をしてて、
Googleの人事部に苦笑いされてたんですけど、
Googleのエンジニアを採用して辞めます。
残念でーっていう話をしてました。
予定通りですね。
予定通りで、
もう起業された瞬間には、
この今の事業モデルっていうのは構築されてたんですか?
それとも別のアイディアとかも結構あったりしたんですか?
全く別のアイディアで起業する予定だったんです。
それは何かっていうと、プランAだったんですけど、
その当時はGoogleアシスタントとか、
Alexaとか、
ボイスアシスティブサービスがすごく流行ってた時期だったんで、
ただ、コンテンツプロバイバルだとするとですね、
それぞれのAPIを繋ぎにいかないと、
それぞれのサービスに提供できなかった。
例えば、天気予報を出そうとすると、
Alexaの方のAPIを繋がなきゃいけないし、
Googleアシスタントの方のAPIを繋がなきゃいけないっていう話だったんで、
ミドルウェア作ればいいじゃんって思って、
一つ繋いでいただければ、
どことでも話せるようにするっていうことを考えたんですが、
なんと市場予測が出てきてですね、
驚愕したのは、
ボイスアシスティブサービスは多分今後使われませんみたいな。
実際そうだったんでよかったなと思ったんですが、
だって使ってないでしょ、みんな誰も。
今、どこ行っちゃったのあれみたいな感じじゃないですか。
あれにかけてたら大変なことになってたなと思ったんですけど、
それで市場予測見て、
これでやめとこうって思って、
やることなくなっちゃってどうしようか。
でも会社は辞めちゃってたし、
どうしようかなって思ってたときに、
エンジェル投資家仲間2人とご飯食べに行って、
そういえばサニー、
エンジェル投資先の管理って大変じゃないみたいな話になって、
知らない間に会社の名前とか変わってて、
何の会社かわかんないよこれみたいになって、
いう話になって、
そういえばサニー何もやってないじゃん、
サニーそのツール作ったらみたいなのが始まりなんですよ。
だから僕のアイディアですらないんです。
そのときどっちだったか忘れちゃったけど、
その2人のうちの1人が今のDNXのグラバイスさんです。
すごい。ありがとうございます。
じゃあ一旦無事に創業までたどり着いたので、
ここまでにさせていただいて、
後編でより重いの部分もちょっと触れながら、
今ぐらいどんなにされているのか、
今後の展望とかもお伺いしたいなというふうに思っております。