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2024-11-17 05:11

#96 〈悪〉とはなにか?3 サドと悪徳

サマリー

ポッドキャストでは、マルキド・サドの悪徳について論じており、彼の作品が道徳劇とは逆の不道徳劇であることを示しています。また、バタイユとの関連性にも触れ、悪の哲学の重要性が強調されています。

サドと悪徳の理解
ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします。
悪とはなにかのお続きです。
僕はですね、悪という概念を最も捉えているのは、マルキド・サドとジョルジュ・バタイユだと考えています。
本丸はバタイユなんだけど、まずはサドの話からしますね。
マルキド・サドは、1740年に生まれて、1814年まで生きていたフランスの貴族です。
今からざっと2、300年前の人ですけど、サドは異常性の強い本を書く小説家でもありました。
どう異常かというと、サドはサディズムの言葉の由来になっていると言えば伝わりますかね。
サドの書く作品は本当に残虐だから、ぼかしつつ、もうちょっとちゃんと言うと、
サドの代表作には、悪徳の栄っていう本と美徳の不幸っていう本があります。
タイトルの通りなんだけど、悪徳と美徳とがあります。
美徳とは、人として望ましい立派な心の在り方や行いのことです。
一方で悪徳とは、人の道に背く心や行いのこと。
で、普通は正義は勝つじゃないけど、美徳が最後には勝利するもんだよね。
そういうのを道徳劇って言いますけど、道徳的に正しい方が最後には勝利するのが普通です。
でもサドの文学においては、最後に勝利するのは悪徳です。
道徳劇の真逆だから、不道徳劇とでも言いましょうか。
道徳的に間違っている方が、最後に勝利するのがマルキドサドです。
悪徳っていうのは、これもちょっとぼかして言うけど、
殺人とか拷問とか、不倫とか乱行とか、横領とか作死とか、あらゆる悪いことのことを指します。
こうした悪徳に染まった人間が、美徳を備えたまともな人たちをすりつぶしていくって作品を書いています。
サドの世界観を端的に表すセリフを引用しますね。
君は世界が有徳であればよいと願っているが、地上に美徳しかないようになれば、たちまちすべては滅びてしまうということを考えない。
悪徳とはなくてはならないものなのだから、悪徳を罰することは、片目をあざけるのと同じくらいに不正なことだ。
ちょっとわかりづらいですかね。
えっとですね、自分と自分以外の他者とがいます。
で、自分以外のすべての他者を豊かにしてあげることっていうのは美徳と呼ばれる一方で、自分だけが豊かになることっていうのは悪徳と呼ばれます。
こうして、自分以外のすべての他者の利益と自分だけの利益と対峙させてみると、相反するトレード不関係にあることがわかります。
僕の考えでは、これは美徳という概念の脱構築なんですよ。
美徳という概念の構造を組み替えて捉えています。
というのも、いわゆる美徳というのは社会の美徳です。
社会貢献したり、他者を助けてあげたりする社会的な行為イコール美徳なわけだけど、茶道の文学では個人の美徳が実践されます。
自分が社会のために社会貢献するのではなく、逆に社会を自分のために貢献させる。
自分が他者を助けてあげるのではなく、他者に自分を助けさせてあげる。
方向性、ベクトルが逆になっているだけで、両方とも美徳と呼んで差し支えないよね、という理屈なわけです。
このような悪の哲学を茶道は作中人物に喋らせているんだけど、茶道の悪の哲学、悪の文学は割と研究の対象になっています。
そして、悪の哲学者ジョルジュ・バタイユも茶道研究をしている人の一人です。
ド直球で文学と悪というタイトルの本も出しています。
ただ、バタイユの話は次回することにして、一旦ここで切ります。
バタイユと悪の哲学
今回は茶道の話をしたわけだけど、茶道の小説はおすすめはしません。
あまりに描写が残虐で、普通に気分が悪くなるから、読むんだったら結構気合を入れて読んだらいいと思います。
ということで、今回はここまでです。次回に続きます。
05:11

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